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第二十二話 冷めないお茶

 昼を過ぎても、雨はわずかに降り続けていた。


 昨日から降り続いた雨は、森の葉を重たく濡らし、畑の鳥除けの布をしんなりと垂らしている。

 それでも、鈴は時々鳴る。


 ちりん。

 ちりん。


 小さく歪んだ音が、濡れた庭に響く。


 物置部屋の桶は、まだぽつりぽつりと水を受けていた。

 台所の隅に置いた器にも、時々水が落ちる。

 ただ、朝ほどの勢いはない。


 棚も移動した。床には布を敷いた。濡れた布は外へ出した。

 できることは、ひとまずやった。


 そして、玄関先にはヴィルヘルムがいた。


 濡れた外套を少しだけ払ったあと、彼は私の言いつけ通り、玄関から奥へは入らずに立っている。

 ただの湯を入れた器を両手で持ち、静かに飲んでいた。

 まるで、それが高価な茶であるかのように。


 私は台所で濡れた布を絞りながら、横目でその姿を見てしまう。


 いや、見てはいけない。

 なぜなら、見てしまうと気になるからだ。


 濡れた金髪。冷えた指先。器を包む長い手。玄関先で一歩も奥へ入らない律儀さ。

 そして、ただの湯を「安心します」などと言って飲む、妙な慎重さ。


 どうしてただの湯でそんな顔をするのか。


 分からない。

 分からないことが、最近増えすぎている。


「レベッカ。」


 マーサの声で、私ははっと我に返った。


「はい。」


「布、絞りすぎ。破れるよ。」


「あ。」


 手元を見ると、古布がかなり歪んでいた。私は慌てて力を緩める。


「すみません。」


「ぼんやりしてるね。」


「寝不足です。」


「便利な言い訳だ。」


「本当に寝不足です。」


「それもそうだね。」


 マーサは笑いながら、台所の隅の器を確認した。

 水は少しだけだったようだ。まだ大丈夫。


「職人が来るまでは、このままでいいよ。あんたは少し座りな。」


「でも。」


「でも、じゃない。座る。」


「……はい。」


 私は椅子に腰を下ろした。


 座った瞬間、足に重さが戻ってくる。

 昨夜の疲れが、まだ残っていた。


 雨の音。雷。濡れた床。倒れた水受け。旧棟の記憶。母の声。

 胸の奥に沈んだものは、まだ完全には消えていない。


 けれど、今はひとりではない。

 台所にはマーサがいる。玄関先には、面倒な知り合いがいる。


 その事実が、少しだけ奇妙だった。

 昨日の夜、あれほど一人だった家に、今日は人の気配がある。


 雨漏りは困る。修理代も不安だ。

 でも、家の空気は昨夜ほど冷たくない。


 それが、少し悔しい。

 認めたくない。


 私は湯の入った自分の器に口をつけた。


 ……ぬるい。

 いつの間にか冷めていた。


 玄関先のヴィルヘルムを見ると、彼はまだ器を持っている。


「殿下。」


「はい。」


「冷めていませんか。」


 言ってから、しまったと思った。

 なぜ気にしたのか。


 ヴィルヘルムは器を見た。


「少し。」


「熱くないなら飲めますね。」


「はい。」


「冷めた湯を持ち続ける意味はありません。」


「はい。」


「飲み終えたら器を返してください。」


「……はい。」


 返事ばかり。

 私は少しだけ苛立つ。

 けれど、彼が器を両手で持っている姿は、なぜか雑に扱えなかった。


 その時、外から荷車の音が聞こえた。

 ごとごと、と泥道を進む音。


 マーサが顔を上げる。


「来たね。」


「職人さんですか。」


「たぶんね。」


 私は立ち上がった。


 玄関先のヴィルヘルムも、すぐに器を台の上へ置いた。動きが早い。

 だが、彼はやはり玄関から奥へは入らない。


 雨は小雨だ。


 庭先へ向かうと、荷車を引いた男が一人、家の前で止まった。

 四十代くらいだろうか。日に焼けた顔。しっかりした腕。腰には道具袋。雨除けの帽子を被っている。


「ローレンスさんから聞いて来た。屋根の雨漏りだって?」


「はい。レベッカです。よろしくお願いします。」


「屋根職人のガスパルだ。雨が止みきってないから、今日は上へは登らん。外から見て、できる応急だけだな。」


「それで十分です。助かります。」


 私は頭を下げた。

 ガスパルは家の屋根を見上げ、それからヴィルヘルムを見た。一瞬だけ目を細める。


 当然だ。


 古い家の雨漏り修理に来たら、玄関先に濡れた王子のような男が立っているのだ。

 いや、もうその通りなのだが、不自然でしかない。


 私は先に言った。


「隣国での、少し事情のある知り合いです。」


「知り合い。」


 ガスパルはヴィルヘルムを見た。


「ずいぶん高そうな知り合いだな。」


「高そう……。」


 思わず繰り返した。

 マーサが後ろで笑っている。

 ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。


「ヴィルヘルムと申します。」


「そりゃまた丁寧にどうも。」


 ガスパルは軽く頷き、すぐに屋根へ視線を戻した。

 さすが職人である。

 高そうな知り合いより、雨漏りの方が大事らしい。


「どこから落ちてる?」


「物置部屋と、台所の隅です。」


「中を見たいが。」


 私は少し身構えた。

 職人を入れなければならない。それは分かっている。けれど、一瞬だけ、胸の奥がざわついた。


 家の中。

 私の場所。


 しかし雨漏りを直すためには、見てもらう必要がある。


 大丈夫。相手は職人だ。マーサもいる。

 私は頷いた。


「お願いします。物置部屋と台所だけで。」


「十分だ。」


 ガスパルは靴の泥を丁寧に落とし、家に入った。マーサが案内する。

 ヴィルヘルムは玄関の外で止まった。


 私はそれに気づき、少しだけ眉を寄せた。


「あなたは?」


「私は許可されていません。」


「職人さんは入っています。」


「職人ですので。」


「……見たいのでは?」


「見たいかどうかではなく、必要があるかどうかです。」


「必要は?」


「ガスパル殿が確認されます。」


 正しい。

 正しいが、また少し調子が狂う。


 この人は、入りたいと言わない。勝手に入らない。私が線を引けば、律儀に守る。

 そのくせ、毎日往復四時間かけて来る。


 何なのだろう。

 私はため息をついた。


「では、玄関先で待っていてください。」


「はい。」


「……そこは濡れますよ。」


「軒があります。」


「完全には防げません。」


「問題ありません。」


「問題あります。」


 また言ってしまった。

 ヴィルヘルムの目が、ほんの少しだけこちらを見る。私は顔をそらした。


「……見守りに支障が出るので。」


「はい。」


 なぜか彼の声が柔らかい。

 私はますます落ち着かなくなった。


 ガスパルは物置部屋と台所を見たあと、外へ出て屋根を見上げた。

 雨樋の歪み。軒先の瓦。壁を伝う水の跡。

 彼はそれらを確認し、腕を組んだ。


「雨樋が詰まってるのと、瓦が何枚かずれてるな。大穴じゃない。だが、このまま放っとくと内側の板がやられる。」


「修理はできますか。」


「できる。ただし、本格的にやるなら晴れた日に屋根へ上がる必要がある。今日は詰まりを外から取れる分だけ取り、軒先に応急の板を当てるくらいだ。」


「費用は。」


 私は緊張しながら聞いた。

 ガスパルはざっくりと金額を言った。

 思っていたよりは、少しだけましだった。

 だが、安くはない。


 私は革袋の中身を頭の中で思い出す。

 家賃用。食費用。針仕事の収入。


 まだ払える。

 ただし、余裕は減る。


 でも放っておけば、もっとかかる事態になるのは間違いない。


「お願いします。」


 私は言った。


「早い方がいいです。本格修理も、晴れ次第お願いしたいです。」


「分かった。ローレンスに話を通しておく。応急分だけ、今日もらうよ。」


「はい。」


 私は家の中へ戻り、革袋から応急修理分の硬貨を出した。

 痛い出費だ。

 本当に痛い。


 けれど、必要な出費だ。


 必要なものにお金を使う。

 不要なものを避ける。

 市場で傷物の鈴を値切った時と同じだ。


 ――堅実。


 ヴィルヘルムが言った言葉を思い出す。

 いや。なぜ今思い出すのか。


 私は硬貨を握りしめ、外へ戻った。


 ガスパルは道具を取り出し、雨樋の詰まりを外から取れる範囲で取り除いた。

 完全ではないが、水の流れは少しましになったらしい。

 軒先には簡単な板を当て、雨水が壁の内側へ入りにくいようにしてくれた。


 作業中、ヴィルヘルムは少し離れて見ていた。


 口を出さない。

 ただ、職人の動きを目で追う。


 ガスパルが梯子を立てる時だけ、少しだけ目が鋭くなった。

 しかしガスパルの梯子はしっかりしており、地面には板を敷いて足場を安定させている。昨日の古い梯子とは違う。


 私はそれを見て、やはり自分で登らなくてよかったと思った。


 ヴィルヘルムがこちらを見た。


「やはり梯子に触れなくて正解でした。」


「分かっています。」


「はい。」


「そんな目で見ないでください。」


「どのような目でしょう。」


「約束を守ってよかったですね、という目です。」


「その通りです。」


「隠してください。」


「すみません。」


 謝るのに、少しも悪いと思っていなさそうだ。

 失礼な。


 応急処置が終わる頃には、雨はほとんど止んでいた。

 ガスパルは屋根を見上げ、頷いた。


「これで次の雨までは少しましだ。ただ、本格修理は必ずやるんだぞ。応急は応急だ。」


「はい。お願いします。」


「晴れが続きそうな日に来る。ローレンス経由で知らせる。」


 私は代金を渡した。

 革袋が軽くなる。

 胸も少し重くなる。


 けれど、家の不安は少し軽くなった。


 ガスパルが帰ったあと、私は庭先で屋根を見上げた。

 雨樋の一部が少し直され、軒先に応急の板が当てられている。

 見た目は不格好だ。だが、水の流れはよくなったらしい。


 古い家が、少しだけ息をついたように見えた。


「……よかった。」


 小さく呟く。

 ヴィルヘルムが、少し離れた場所で言った。


「早めに職人を呼べてよかったと思います。」


「ええ。」


「費用はかかりますが、放置した場合より少なく済むはずです。」


「分かっています。」


「必要な支出です。」


「分かっています。」


「……余計なことを言いました。」


「少し。」


 私は正直に言った。

 ヴィルヘルムは静かに頷いた。


「すみません。」


 それだけで黙る。

 私は少しだけ、彼を見た。


 濡れた外套。少し乱れた金髪。

 雨の中に立ち続けていたせいで、指先が冷えているように見えた。


 さっきの湯は、もう飲み終えている。器は玄関先に置かれていた。


 ただの湯。

 それで安心しますと言った人。


 往復四時間かけて来て、夜に仕事を回して、雨の中で屋根を見ていた人。

 面倒な知り合い。監視役。第三王子。次期公爵。人質期間を終えても王宮へ戻っていない人。


 どれも彼を示す言葉だ。


 けれど、私にはまだ、どれが本当の彼なのか分からない。


「殿下。」


「はい。」


「……お茶を飲みますか。」


 言ってから、心臓が大きく跳ねた。

 なぜ言った。

 なぜ湯ではなく、お茶と言った。


 マーサが台所の奥からこちらを見た気配がした。

 ……絶対に聞いている。


 ヴィルヘルムは動きを止めた。


 先ほど湯を勧めた時よりも、もっと静かに。

 雨上がりの庭で、彼の青い目が私を見る。


「お茶、ですか。」


「はい。」


「いただいても?」


「出すと言っているのですから。」


「……ありがとうございます。」


 その声が、あまりにも静かだった。

 私はすぐに言い訳を重ねた。


「職人さんも帰りましたし、応急処置も終わりましたし、あなたも濡れていますし、往復四時間の合理的ではない監視をされる方が、万が一倒れられると困りますから。」


「合理的ではない監視。」


「ご自覚があるのでしょう。」


「はい。」


「なら、温かいものくらい飲んでから帰ってください。」


「はい。」


「ただし、玄関先です。」


「承知しています。」


 彼は本当に、玄関先で待った。

 一歩も奥へ入らない。


 私は台所へ戻り、棚の奥から小さな茶葉の包みを取り出した。

 王都から持ってきたものではない。そんなものは、もう何もない。


 この茶葉は、この町へ来てから買ったものだ。

 市場の茶葉屋で、何度も値段を見比べ、財布の中身を思い浮かべ、それでも最後に買った。

 今の私が、自分のために買える精一杯の贅沢品だった。


 もちろん高級品ではない。

 王宮で出されていた茶に比べれば、香りも薄く、葉も細かく、きっと貧相なものだ。


 ヴィルヘルムのように王室で育ち、王宮の上等な茶を知っている人から見れば、何の価値もないものに違いない。


 それでも、今の私にとっては価値があった。


 これは、誰かに与えられたものではない。王子の婚約者として用意されたものでもない。公爵令嬢として当然のように出されたものでもない。


 私が働き、考え、迷って、自分のために買ったものだ。


 だからこそ、少しだけ特別だった。


 私は包みを開けた。

 ふわりと、控えめな茶の香りが立つ。王宮の茶室を満たしていた華やかな香りとは違う。

 けれど、雨漏りのする古い家の台所には、このくらいの香りがちょうどよかった。


 王宮。学院。礼儀作法の授業。午後の茶会。カイエンの隣で、完璧な所作を求められた日々。

 そして、少し離れた場所に座っていたヴィルヘルム。

 静かに本を読み、時々こちらを見ていた青い瞳。


 私は茶葉の包みを持つ手を止めた。


 やめようか。

 ただの湯でいいのではないか。

 これは少し、近すぎるのではないか。


 そう思った時、マーサが横から言った。


「入れるって言ったんだろう。」


「……はい。」


「じゃあ入れな。」


「はい。」


 逃げ道を塞がれた。


 私は湯を沸かし直し、茶葉を少しだけ入れた。

 高価な器などない。少し欠けた陶器の器。使い込んだ小鍋。


 それでも、香りは立った。

 湯気と一緒に、控えめな茶の匂いが台所に広がる。


 私は器に茶を注いだ。

 一つは自分用。一つはマーサ用。そしてもう一つは、ヴィルヘルム用。


 持っていく前に、少しだけ躊躇する。


 これはただのお茶だ。

 雨漏り対応のお茶。

 冷えた人間に出す、合理的なお茶。


 特別な意味はない。


 私は自分に何度も言い聞かせ、玄関へ向かった。


 ヴィルヘルムは、やはり玄関先で待っていた。

 背筋を伸ばし、濡れた外套のまま、外と内の境目に立っている。


 私は器を差し出した。


「熱いです。」


「はい。」


「今度は湯ではなく、お茶です。」


「はい。」


「……だからといって、特別な意味はありません。」


「はい。」


「返事。」


「いただきます。」


 ヴィルヘルムは器を両手で受け取った。

 手袋は外している。冷えた指先が、温かい器を包む。


 彼はしばらく、茶の香りを確かめるように動きを止めた。

 私は思わず言った。


「先に言っておきますが、高価な茶葉ではありません。」


 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「そうなのですか。」


「分かっているでしょう。王宮で出されるような茶ではありません。今の私が買える範囲で、少しだけ奮発したものです。」


「では、貴重なものですね。」


 私は言葉に詰まった。

 そう返されるとは思わなかった。


「……貴重というほどではありません。」


「あなたが迷って買ったものなら、貴重です。」


「なぜ、そういう言い方をするのですか。」


「事実ですので。」


 真顔だった。

 私は咄嗟に顔をそらした。


「……とにかく、味に期待しないでください。」


「はい。」


「はい、ではなく。」


「いただきます。」


 ヴィルヘルムは器に口をつけた。

 ただの湯の時と同じように、いや、それ以上に丁寧に。


 一口飲む。


 雨上がりの静けさの中、彼はしばらく黙っていた。


 私は少しだけ不安になる。


 やはり薄いのだろうか。香りが物足りないのだろうか。

 王宮の茶とは比べものにならないと、思っているのだろうか。


 すると、ヴィルヘルムは器を少し下げ、静かに言った。


「おいしいです。」


「……無理に褒めなくて結構です。」


「無理ではありません。」


「王宮の茶とは違うでしょう。」


「違います。」


「ほら。」


「……ですが、こちらの方が落ち着きます。」


 私は言葉を失った。


 落ち着く。


 この古い家の玄関先で。

 雨漏りの桶が鳴る中で。

 欠けた器に入れた、私が市場で迷って買った茶が。


 王宮の茶よりも。


 その言葉は、まるで今の私の暮らしを、ほんの少しだけ肯定されたように聞こえた。


 王宮にあったものではなく。公爵家から与えられたものでもなく。

 私が選んで、私が買って、私が淹れたもの。


 それを、こちらの方が落ち着く、と。


 そんなふうに言われるとは思わなかった。


「……あなたは、本当に変わった方ですね。」


「よく言われます。」


「誰にですか。」


「あなたに。」


 私は睨もうとして、うまくいかなかった。

 胸の奥が、温かいような、苦しいような、変な感じだった。


「多めに買っていたので、早く飲み切らないと悪くなるかもしれませんから。」


「はい。」


「だから、特別な意味は。」


「ありません。」


 先に言われた。

 私は少しだけ睨んだ。


 ヴィルヘルムは器を持ったまま、静かに言った。


「承知しています。」


「本当に?」


「はい。」


 信じられない。

 しかし、彼の顔は真面目だった。


 私は自分の器に口をつけた。

 温かい。

 香りが胸に入る。


 昨夜の雨と、床の冷たさと、古い旧棟の記憶が、ほんの少し遠ざかる。


 お茶は、ただの飲み物ではなかったのだと、今さら思った。


 湯よりも、少しだけ過去に近い。

 でも今は、その過去が私を縛るだけではない。


 この古い家の玄関先で、私は自分の意思で茶を入れている。


 誰かのために。


 いや、違う。


 雨漏り対応の一環として。

 冷えた人間が倒れないために。

 合理的に。


 私は心の中で何度も言い訳した。


 マーサが奥で小さく笑った気配がした。聞こえなかったことにした。


「殿下。」


「はい。」


「王宮へは、本当に戻らなくてよいのですか。」


 聞くつもりはなかった。

 けれど、お茶の香りが、どうしても過去を連れてきてしまった。


 ヴィルヘルムは器を見下ろした。


「戻る必要は、あります。」


「では。」


「今は、まだ。」


「それは、私の監視があるからですか。」


 ヴィルヘルムは答えなかった。

 雨上がりの静けさの中、鳥除けの鈴が遠くで鳴る。


 ちりん。


 彼はようやく口を開いた。


「理由の一つではあります。」


「一つ。」


「はい。」


「他にも?」


「あります。」


「聞いても?」


「……今は、うまく説明できません。」


 また、それだ。

 分からない。うまく説明できない。


 この人は、自分の中にある大事なものほど、言葉にするのが下手なのかもしれない。


 私は器を両手で包んだ。


「やはり会話しづらいです。」


「そうですね。最近よく言われるので反省しています。」


「……誰にですか。」


「あなたに。」


 またこの返し。

 私は言葉に詰まった。

 確かに、何度も言っている。


 ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 からかわれたのだろうか。

 この人が。

 まさか。


 私は顔が熱くなるのを感じ、茶を飲んだ。


「お茶を飲み終えたら、帰ってください。」


「はい。」


「本当に。仕事があるのでしょう。」


「あります。」


「夜に回さないでください。」


「可能な限り。」


「可能な限り、ではなく。」


「努力します。」


「それも信用なりません。」


「では、調整します。」


「すべて同義です。」


 ヴィルヘルムは少しだけ考えた。


「……早く帰ります。」


「はい。それでいいです。」


 私は頷いた。

 ようやく少し満足する。


 ヴィルヘルムは器を両手で持ち、もう一口茶を飲んだ。

 その姿は、やはり丁寧だった。


 ただの玄関先。

 欠けかけの器。


 高級品ではないけれど、今の私が少しだけ背伸びをして買った茶葉。


 彼はそれをいかにも大切そうに飲む。

 公爵領で出るお茶の方がよほど美味しいだろうに。


 私はその理由を考えたくなくて、庭を見た。


 雨は止んでいた。

 鳥除けの布から、ぽたりと水が落ちる。

 柵は立っている。畑の芽は、まだ小さい。


 雨漏りは応急処置だけ。

 本格修理はこれから。


 何も解決しきっていない。


 それでも、昨日より少しだけ、家の中は温かかった。


 ヴィルヘルムが茶を飲み終えると、私は器を受け取った。


「ありがとうございます。温まりました。」


「よかったです。」


 自然に口から出た言葉に、自分で少し驚いた。

 ヴィルヘルムも一瞬だけ目を瞬く。

 その表情が、少しだけいつもより近く感じて、私は急いで器を台所へ持っていった。


 これ以上見てはいけない。


 台所で器を洗っていると、玄関の外で黒馬が小さく鼻を鳴らした。

 ヴィルヘルムが外へ出る気配がする。


 私は手を拭き、玄関へ戻った。

 彼はもう外套を整え、黒馬の手綱を解いていた。


「帰ります。」


「はい。」


「職人の本格修理の日程が決まったら、また教えてください。」


「もう確認いただかなくて結構です。」


「屋根の状態把握は必要です。」


「面倒な知り合いですね。」


「はい。」


 最近、この言葉を否定しなくなった。

 ……それもまた困る。


 ヴィルヘルムは馬にまたがった。

 雨上がりの森の中、黒馬と濃い外套が静かに動き出す。


 出発する前、彼は一度だけこちらを見た。


「お茶を、ありがとうございました。」


「ただの雨漏り対応です。」


「はい。」


「特別な意味はありません。」


「はい。」


 彼は軽く頭を下げた。

 その目元が、少しだけ穏やかだった。


「それでも、嬉しかったです。」


 言い終えると、彼は黒馬を進めた。


 私は返事ができなかった。


 雨上がりの森の道へ、蹄の音が遠ざかっていく。


 ちりん。


 鳥除けの鈴が鳴る。


 私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。


 ――嬉しかった。


 たったそれだけの言葉が、胸の中でいつまでも冷めなかった。


 マーサが背後から、静かに言った。


「冷めないうちに、あんたもお茶を飲みな。」


「……もう飲みました。」


「そうじゃないよ。」


「分かりません。」


「だろうねえ。」


 マーサは笑った。

 私は振り返らず、森の道を見ていた。


 雨を含んだ春先の風は冷たく、私は小さくくしゃみをした。


 それでも。

 さきほど飲んだお茶のせいだろうか。


 しばらく胸の奥は温かかった。

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