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第二十三話 監視報告書

 濡れた石畳に、雲の切れ間から差した光が白く映っていた。


 昨日から続いた曇天は、エルヴァルト公爵領館に着いた頃にようやく落ち着いた。

 この様子であれば、明日は雨の心配はなさそうだった。


 ヴィルヘルムは確認するように空を見上げ、また静かに視線を戻した。


 黒馬の蹄が、馬場の土を静かに踏む。

 手綱を引き、馬の首を一度だけ撫でた。


「よく走った。」


 黒馬は小さく鼻を鳴らした。


 今日は雨の中を往復させた。無理はさせていない。途中で歩かせ、休ませ、水も飲ませた。

 それでも、濡れた道を長く進ませたことに変わりはない。


「脚をよく見ておいてくれ。泥を落としたあと、左前脚に熱がないか確認を。」


「承知いたしました、殿下。」


「飼葉は少し控えめに。水は急に飲ませすぎないように。」


「はい。お任せください。」


 馬丁は慣れた様子で頷いた。

 ヴィルヘルムはそれでも、もう一度黒馬の首を撫でてから離れた。


 濡れた外套が重い。

 肩口から染み込んだ冷たさが、背中に残っている。指先は少し鈍い。


 けれど、寒さより先に思い出すのは、玄関先で受け取った器の温度だった。


 欠けかけの陶器の器。

 控えめな茶の香り。

 高価ではないと、彼女が先に言い訳した茶。


 ――今の私が買える範囲で、少しだけ奮発したものです。


 そう言った時の、レベッカの顔。


 警戒しているのに、どこか恥ずかしそうで、突き放しているのに、すでに差し出している。

 その矛盾ごと、あの一杯は温かかった。


 ヴィルヘルムは目を伏せた。


 やめよう。

 今考えるべきことではない。


 領館の玄関へ向かうと、執事のオズワルドが待っていた。

 白髪をきっちり撫でつけ、皺ひとつない黒服を着た年配の男である。

 現公爵に長く仕えてきた、領館の要のような人物だった。


「お戻りなさいませ、殿下。」


「ただいま戻りました。」


 オズワルドの視線が、濡れた外套と髪に向けられる。


「雨に濡れておいでです。」


「途中で止みました。」


「途中までは降っていた、という意味でございますね。」


「はい。」


 オズワルドは表情を変えないまま、控えめに息を吐いた。


「湯浴みの準備はできております。着替えも書斎へ運ばせております。」


「ありがとう。」


「その前に、現公爵閣下がお待ちです。」


「すぐに伺います。」


「湯浴みの後でよろしいかと。」


「先に用件を聞きます。」


「……承知いたしました。」


 その沈黙の中に、言いたいことがいくつも含まれているのが分かった。


 濡れたまま人に会うものではない。

 馬で往復したあとに休まず執務へ入るものではない。

 夜へ回した書類がまだ山ほどある。

 王都からの書簡も届いている。


 分かっている。

 全部、分かっている。

 それでも、足は止まらなかった。


 エルヴァルト公爵領館は、古く、整った屋敷だった。

 広い玄関広間。磨かれた床。重厚な柱。歴代当主の肖像画。

 古くからこの地を守ってきた家の、静かな威厳がある。


 いずれ自分は、この家の養子となり、公爵位を継ぐ。

 兄アルフォンスが王太子として立つことを前提に、第三王子である自分には別の役割が与えられた。


 跡継ぎのない名門へ王家の血を入れ、領地を安定させる。

 理にかなった判断だ。


 ヴィルヘルム自身も、それに異を唱えるつもりはなかった。


 質子として隣国で十年を過ごした。

 王宮へ戻り中央へ入るより、地方の大領を預かる方が政治的にも穏当だ。


 現公爵も悪い人物ではない。

 厳格で、古風で、しかし領民への責任を知っている。


 引き継ぐべき仕事は多い。

 領地の収支。街道の修繕。領内の関税徴収。水路の管理。農地の作付け。備蓄穀類の確認。


 それらに加え、王室から届く書簡、外交関係の記録、国境付近の治安報告。

 エルセリア国内の情勢確認の要請、帰還後の儀礼、質子期間中の報告整理。

 兄からの私的な文、父王からの命令。

 そしてエルセリア王国に残した問題についての形式的な問い合わせ。


 暇なはずがない。


 それは、レベッカに言われるまでもなく分かっていた。


 分かっていながら、今日も森沿いの家へ行った。

 雨漏りの屋根を見上げた。玄関先で湯を飲んだ。そして、茶を受け取った。


 ――ただの雨漏り対応です。

 ――特別な意味はありません。


 彼女は何度もそう言った。

 そのたびに、ヴィルヘルムは頷いた。


 そうしなければ、彼女が差し出したものを受け取る資格すら失いそうだったから。


 現公爵の執務室へ入ると、暖炉のそばに老公爵が座っていた。

 白い髭を蓄え、年齢のわりに背筋はまっすぐ伸びている。


 鋭い灰色の目が、ヴィルヘルムを見た。


 身分で言えば、第三王子であるヴィルヘルムの方が上だ。

 だが現公爵は、いずれ養父となり、領地経営を教える後見人でもある。


 公爵が公の場で礼を欠くことはない。

 しかしこの執務室では、師として、時に厳しく諭すことを許されていた。


「殿下。濡れておいでですな。」


「申し訳ありません。」


「謝罪なさるくらいなら、先に着替えられればよろしい。用件は逃げません。」


「急ぎと聞きましたので。」


「急いでいるのは、いつも殿下ご自身です。」


 静かな叱責だった。

 ヴィルヘルムは頭を下げた。


「以後、気をつけます。」


「そのお言葉も、よく伺いますな。」


「……申し訳ありません。」


 老公爵は椅子にもたれ、少しだけ目を細めた。


「森沿いの家ですか。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 それだけで答えになった。


「雨漏りと聞きました。」


「はい。」


「職人は入ったそうですな。」


「ローレンスが手配しました。今日は応急処置のみです。本格修理は、晴れた日に。」


「殿下の手配ではなく?」


「レベッカ嬢とマーサ殿が、ローレンスへ相談しました。私は外から状態を確認しただけです。」


「外から。」


「はい。」


「家には入られましたか。」


「玄関先までです。」


 老公爵の眉がわずかに動いた。


「ほう。」


「それ以上は許可されていません。」


「殿下は、それを守られた。」


「はい。」


「それは結構。」


 短い言葉だった。

 だが、わずかな安堵が含まれていた。


「人の家の敷居は、領地の境と同じです。許可なく踏み越えれば、信頼を失います。」


「承知しています。」


「ならよろしい。」


 老公爵は机の上の書簡を一通、指先で押した。


「王都からです。」


 ヴィルヘルムの視線が書簡へ落ちる。


 王家の封蝋。

 兄アルフォンスではない。父王の紋章だった。


「帰還を促すものですか。」


「正確には、帰還式典の日取りを決めたいそうです。これで何度目でしょうな。」


「三度目……いえ。」


「五度目です。」


「失礼しました。」


「数える気がおありでないのでしょう。」


 老公爵の声は厳しかった。

 ヴィルヘルムは反論しなかった。


 事実だからだ。


 王宮へ戻る必要はある。

 質子としての役目は終わった。

 八歳でエルセリアへ送られ、十八歳で帰還した。


 本来なら、すぐに王都へ戻るべきだった。

 父王に謁見し、兄王太子と並び、帰還の儀を済ませ、諸侯へ姿を見せる。


 そうするべきだった。


 だが、ヴィルヘルムはまだ王宮へ戻っていない。

 エルヴァルト公爵領館に入り、現公爵から領地経営を引き継ぐという名目で、帰還式を引き延ばしている。


 理由はいくつもあった。

 領地の引き継ぎ。王室政務の整理。エルセリア側との連絡。レベッカ嬢の処遇確認。


 どれも嘘ではない。

 だが、すべてではない。


「殿下。」


「はい。」


「あの娘の監視は、王命ですか。」


「エルセリアの第一王子カイエン殿下からの要請です。」


「この国の王命ではない。」


「はい。」


「殿下はすでに、アインシュヴァルドの第三王子として帰還されている。立場は対等です。逐一報告する義務など、本来はありませんな。」


「はい。」


「ならば、毎日通う必要もない。」


「必要だと判断しました。」


「次期公爵として?」


 ヴィルヘルムは答えなかった。


「第三王子として?」


 答えは出ない。


「それとも、一人の男として?」


 その言葉に、指先がわずかに動いた。


 守るため。

 確認するため。

 危険を避けるため。

 監視のため。


 いくらでも言葉はある。


 けれど、そのどれも、今の問いへの答えにはならなかった。


「……分かりません。」


 ようやく出た声は、低かった。

 老公爵は深く息を吐いた。


「その答えは、ある意味では正直ですな。」


「申し訳ありません。」


「謝罪ではなく、理解が必要です。」


「努力します。」


「努力でどうにかなるものかは存じませんが。」


 老公爵は椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。

 雨上がりの庭に、薄い光が差している。


「殿下は十年、質子としてエルセリアに置かれた。感情を殺して生きることを覚えられたのでしょう。欲しいものを欲しいと言えず、嫌なものを嫌だと言えず、望むことすら危険だった。」


 ヴィルヘルムは黙っていた。


「ですが、ここはもうエルセリアではありません。」


「はい。」


「そして、殿下はもう八歳の質子ではない。」


「……はい。」


「ならば、ご自分の欲も、ご自分の罪も、他人の命令の形に隠してはなりません。」


 その言葉は、静かだった。

 静かだからこそ、逃げ場がなかった。


 ヴィルヘルムは深く頭を下げた。


「肝に銘じます。」


「それで、エルセリアへの報告は。」


「これから作成します。」


「長く書く必要はありません。」


「承知しています。」


「あちらは、本気であの娘を案じているわけではないのでしょう。」


「はい。」


「ならば、興味を薄れさせる程度でよろしい。だが、手出し無用の線だけは残すべきです。」


「そのつもりです。」


「ならばよろしい。着替えてから書かれよ。」


「はい。」


 今度は逆らえなかった。

 ヴィルヘルムは執務室を辞し、自室へ向かった。


 濡れた外套を脱ぎ、湯を使い、着替える。


 体が温まるほど、逆に胸の奥に残った熱がはっきりした。


 あの茶の温度。

 欠けた器を包んだ時の、陶器のざらつき。


 レベッカの指先。

 荒れていた。


 かつて王宮で見た彼女の手とは違う。白く保つことを求められ、茶会で器を持ち、書類に署名し、扇を広げるための手。


 今は、水を汲み、土を触り、床を拭き、針を持つ手になっている。


 その変化を、自分は何と呼べばいいのだろう。


 痛ましいとだけ思うのは、彼女に失礼な気がした。


 働いている手。

 生きている手。


 そう言えば、彼女はきっとまた顔をそらす。


 その顔を見たいと思ってしまう自分がいる。


 ……最低だ。


 ヴィルヘルムは、濡れた髪を拭く手を止めた。


 老公爵の言葉が残っている。


 ――自分の欲も、自分の罪も。

 ――他人の命令の形に隠してはならない。


 書斎へ入ると、机の上には書類が積まれていた。


 領地の収支報告。麦の収穫予測。街道修繕の見積もり。王都からの書簡。エルセリア側へ送る形式的な報告書の用紙。


 オズワルドが用意した茶も置かれていた。


 白磁の器。

 香り高い茶葉。

 王宮で出されるものと同じ水準のものだ。


 ヴィルヘルムはその器を見た。


 上等な茶は、上等な味がする。香りも、色も、余韻も申し分ない。

 だが、手は伸びなかった。


 胸に残っているのは、古い家の玄関先で飲んだ、控えめな香りの茶だった。


 彼女が迷って選び、自分のために買い、自分の手で淹れたもの。

 それを分けてもらった。


 あれは、罰のように苦しく、救いのように温かかった。


 ヴィルヘルムは椅子に座り、筆を取った。


 まず、王都への返信。

 帰還式典の日程について。


 現公爵からの引き継ぎが未了であること。領地西端部にて、エルセリアからの追放者に関する確認事項が継続中であること。


 当面は公爵領館に留まり、政務を進めること。王都帰還は、領地案件の整理後に改めて調整したいこと。


 淡々と書く。

 嘘ではない。


 ただし、すべてではない。


 父王は不満を持つだろう。

 兄アルフォンスは、また苦笑した文を送ってくるかもしれない。


 それでも今は、戻れない。


 戻る必要はある。

 だが、今はまだ。


 次に、エルセリア側への報告書へ移った。


 宛先は、カイエンの側近室。

 形式上の報告である。


 ヴィルヘルムがアインシュヴァルドの第三王子として帰還した今、立場はすでに対等だった。

 そもそも、レベッカについて逐一報告する義務などない。

 それでも何も知らせなければ、エルセリア側が勝手な憶測を抱く可能性がある。


 哀れみ。

 優越感。

 あるいは、念のためという名の干渉。


 どれも不要だった。


 だから、短く書く。

 向こうが興味を失う程度に。

 それでいて、手出し無用だと分かる程度に。


 ヴィルヘルムは筆を下ろした。


 ――レベッカ・イザベル嬢について。


 同嬢は現在、アインシュヴァルド、エルヴァルト公爵領西端にて静養中。

 エルセリア王都および同国関係者への接触、逃亡準備、扇動、復讐行動等は確認されず。

 近隣住民との関係も安定しており、生活上の問題は当方にて管理可能。

 現時点で、追加の処分、召喚、尋問、使者派遣等は不要。

 同嬢の身柄および生活環境については、当方の管理下に置く。


 以上。


 短い。

 あまりにも短い報告書だった。


 だが、それでよかった。


 カイエンが本当に知りたいのは、レベッカが何を食べ、どこで眠り、どんな顔で暮らしているかではない。


 問題は起きていない。

 王都へ戻る意思もない。

 もう関わる必要はない。


 そう思わせれば、それでいい。

 そして、万が一侯爵家が何かを企てた時には、この一文が盾になる。


 ――同嬢の身柄および生活環境については、当方の管理下に置く。


 つまり、手を出すな、ということだ。


 報告書を乾かす間、ヴィルヘルムは筆を置いたまま、しばらく動けなかった。


 管理下。

 彼女が聞けば、怒るだろう。


 勝手に管理されるいわれはありません。

 そう言って、亜麻色の瞳でまっすぐ睨むに違いない。


 その怒りを想像すると、胸が少し痛んだ。


 彼女は、誰かの駒として扱われることを誰より嫌う。

 それを知っていながら、自分は今、彼女を守るためという名目で紙の上に置いている。


 必要なことだ。

 そう思う。


 同時に、それだけでは済まないことも分かっている。


 短く、控えめな文面。

 何事もないような報告。

 だが、その紙の向こうには、レベッカをここへ連れてきた自分の罪がある。


 ――カイエンが彼女との婚約を解消するかもしれない。


 そう気づいた時、ヴィルヘルムは止めなかった。


 止めなかっただけではない。

 心のどこかで、望んでいた。


 カイエンがレベッカを手放すなら。

 彼女が王太子妃にならないなら。


 ――ならば、自分が。


 その考えを、完全には否定できなかった。


 第一王子の命令に従うふりをして、断罪の罪状を整えた。

 処刑や幽閉にはならないようにした。

 彼女の命と身柄だけは守るつもりだった。


 その見返りとして、断罪後のレベッカを自分の管理下に置く権利を得た。


 国外追放。

 ひどい言葉だ。


 だが、エルセリアから見れば国外でも、ここはヴィルヘルムが次期公爵として引き継ぐエルヴァルト公爵領だった。


 自分の領地。

 自分が守れる場所。


 そう思った。

 思ってしまった。


 公爵領へ連れてくれば、生活を整えられる。

 いずれ自分と結婚すれば、公爵夫人として身分も名誉も取り戻せる。


 レベッカなら、きっと分かってくれる。

 傷ついても、すぐに立ち上がれる。


 そう、甘く考えていた。


 愚かだった。


 立ち上がれることと、傷つけていいことは、まったく違う。


 断罪の場で、彼女がどれほど傷ついたか。


 髪を切り、装飾品を売り、古い家で泥にまみれながら、それでも自分の足で立とうとしている姿を見るまで、ヴィルヘルムは本当の意味では分かっていなかった。


 彼女を救ったつもりで、彼女の世界を壊した。

 守るつもりで、傷を深くした。


 監視という名目は、実に都合がよかった。

 近づく理由になる。

 公爵領に留める理由になる。

 カイエンや侯爵家を遠ざける理由になる。


 そして何より、自分が彼女のそばにいるための理由になる。


 最低だ。

 そう思う。


 それでも、離れられなかった。


 ヴィルヘルムは目を閉じた。


 十年前。

 長期にわたった戦争。何も得られぬまま疲弊し、傷だけが残った国土。

 そこに連れて来られた、旧敵国の幼い王子。


 ――地獄のような日々だった。

 奪おうとするもの、付け入ろうとするもの、踏みにじろうとするもの。


 笑うことも、怒ることも、悲しむことも、すべてが危険だった。

 だから感情を押し込めた。

 痛みも、孤独も、苦しみも、絶望もすべて飲み込んだ。


 その中で、彼女だけが、レベッカだけが、ヴィルヘルムの希望であり、光だった。


 彼女と初めて会った日のことは、今でも覚えている。


 エルセリアに連れて来られて三年目の春。

 王宮の薔薇の咲き誇る庭園。


 振り返った彼女の亜麻色の瞳は驚きに見開かれていたが、同時に強い意志と好奇心にきらきらと輝いていた。


 太陽のようだと思った。

 薔薇のようだと思った。


 ただただ、美しいと思った。


 口を開いた彼女に、さらに驚いた。


 レベッカはヴィルヘルムを知っていたが、蔑むでも、腫れ物のように扱うわけでもなく、その手を引いた。


 彼女はいつも凛としていた。よく学び、よく怒り、よく前を見ていた。

 少し傲慢で、少し向こう見ずで、それでも誰よりも懸命に生きていた。


 議論をすれば、遠慮なく言い返してくる。

 間違いを指摘されれば悔しそうに眉を寄せ、それでも次の瞬間には違う一手を差し出してくる。


 誰かに褒められるためだけではなく、常に自分の中の基準に届こうと努力する人だった。


 最初に見た時から、目を奪われた。


 自分でも気づかぬうちに、徐々に深みに嵌っていった。


 そして、祝宴の夜会の裏庭で、涙を堪え震える彼女を見た時、恋情を認めるしかないと悟った。


 けれど、その感情を認めるたびに、息ができなくなった。

 彼女はカイエンの婚約者だった。


 第一王子の隣に立つために育てられていた。


 彼女が髪を整え、装飾品を選び、王妃となるための礼を身につけるたびに、ヴィルヘルムは自分の中の何かが静かに軋むのを感じた。


 望んではいけない。

 欲しがってはいけない。

 彼女は自分のものではない。


 そう言い聞かせるたびに、感情はさらに深く沈んでいった。


 隠した。

 押さえつけた。

 見ないふりをした。


 そうしているうちに、自分が何を感じているのかさえ分からなくなった。


 だから、カイエンが侯爵令嬢と近づいていくのを見た時、最初に胸を満たしたのは怒りだった。


 彼女を侮辱するな。

 彼女の価値を分からないなら、その隣に立つ資格などない。


 そう思った。


 同時に、恐ろしいほど静かな喜びが胸の底に生まれた。


 ――もし、カイエンが手放すなら。

 ――もし、彼女が王太子妃にならないなら。


 その考えを止められなかった。


 止めるべきだった。

 けれど止められなかった。


 ヴィルヘルムはゆっくり息を吐いた。


 今日、彼女は茶を出した。


 何度も言い訳しながら。

 特別な意味はないと、こちらが答える前に逃げ道を作りながら。


 それでも。


 それでも、あの一杯は温かかった。


 王宮の茶ではない。上等な香りでもない。

 彼女がこの町で、自分のために買った、小さな贅沢。


 それを分けてもらった。


 彼女のもとを離れてから、すでに数時間が経つ。


 それなのに、胸の中が熱い。


 あの一杯が、いつまでも冷めない。


 扉が軽く叩かれた。


「殿下。」


 オズワルドの声だった。


「入ってください。」


 執事が入ってくる。


「王都への返信と、エルセリア側への報告書を受け取りに参りました。」


「はい。封をお願いします。」


 オズワルドは文面を確認し、目を通した。眉が少しだけ動く。


「……ずいぶん短い報告でございますね。」


「必要なことは書きました。」


「こちらの管理下に置く、でございますか。」


「はい。」


「手出し無用、という意味でございますね。」


「その通りです。」


「承知いたしました。」


 オズワルドは深く追及しなかった。ただ、静かに書簡を整える。


「現公爵閣下が、夕食は必ず食堂で取るように、と。」


「書類が残っています。」


「必ず、とのことです。」


「……承知しました。」


「それから、王都からの使者が数日内に到着する可能性がございます。」


 ヴィルヘルムの手が止まる。


「使者。」


「はい。帰還式典の日程調整について、直接お話を、とのことです。」


「分かりました。」


「お断りになりますか。」


「内容を聞いてから判断します。」


「承知いたしました。」


 オズワルドは一礼し、書簡を持って部屋を出た。


 扉が閉まる。

 書斎に静けさが戻った。


 王都からの使者。

 帰還式典。

 父王の命令。

 兄の期待。

 公爵領の引き継ぎ。

 エルセリアへの短い報告。


 そして、森沿いの古い家。


 雨漏りの屋根。

 畑の芽。

 鳥除けの鈴。

 玄関先の茶。


 ヴィルヘルムは窓の外を見た。


 雨上がりの庭に、夕方の光が差している。


 明日も、行くだろう。

 屋根の本格修理の日程を確認する必要がある。

 畑が雨で傷んでいないか確認する必要がある。

 彼女が無理をしていないか確認する必要がある。


 理由はある。

 いくらでもある。


 だが、その理由がすべてではないことを、そろそろ認めなければならないのかもしれない。


 守りたいのか。

 手元に置きたいのか。


 老公爵の問いが、胸の奥で沈んでいる。


 どちらも本当だ。


 だからこそ、少なくともこれ以上、自分の欲を監視という言葉だけで覆ってはならない。

 いつか、すべてを話さなければならない日が来る。


 断罪の場で何を考えていたのか。

 この監視という言葉の下に、何を隠していたのか。


 その時、彼女は許さないだろう。

 許されなくて当然だと思う。


 ――それでも、その日まで、せめて嘘を増やさないようにしなければならない。


 ヴィルヘルムは机に向かい直した。


 残っている書類は多い。夜に回した仕事もある。

 けれど、先ほど彼女に言われて、何度も頷いた。


 ならば約束を守るためにも、今夜はできるだけ早く終わらせなければならない。


 ヴィルヘルムは新しい書類を開いた。


 外では、雨雲の切れ間から、細い月が見え始めていた。

 白磁の器の茶は、すっかり冷めていた。


 それでも胸の奥には、欠けかけの器で飲んだ一杯の熱だけが、静かに残っていた。

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