第二十四話 屋根が直る日
箒で掃いたように白く薄く広がる雲の間から、紺碧の空が覗く。
一昨日の夜から降り続けていた雨も、今朝になってようやく上がった。
森の葉から、ぽたり、ぽたりと昨日の名残だけが落ちている。
鳥除けの古布はまだ少し湿っていたが、朝の光を受けると、色褪せた赤も、薄青も、黄色も、昨日より少し鮮やかに見えた。
ちりん。
鈴が鳴る。
歪んだ小さな音。
私は畑の前にしゃがみ、芽の様子を確認した。
「無事ね。」
小さな芽たちは、少し雨に打たれたせいか、昨日より頼りなく見える。
でも、倒れてはいない。土も流れすぎてはいない。鳥除けも、柵も、ちゃんと立っている。
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
全部が完璧でなくても、一つずつ守れている。
畑は無事。柵も無事。鳥除けも無事。
……家の屋根は、まだ分からない。
それでも、昨日より少しだけ前へ進んでいる気がした。
物置部屋へ行くと、桶の中には少しだけ水が溜まっていた。
昨夜ほどではない。台所の隅も、ほとんど落ちていなかった。
昨日の応急処置が効いているのだろう。
私は桶の水を捨て、床を拭き、湿った布を外へ出した。
湿気を逃がすために、物置部屋の扉を少し開ける。
天井の染みは残っている。
そこを見ると、まだ胸が少し重くなった。
だが、今日はガスパルが来る。
朝早く、ローレンスから使いが来た。
晴れているので、昼前には本格修理に入れるという話だった。
費用は痛い。とても痛い。
けれど、屋根が直れば、夜の雨音に怯えなくて済む。
それだけで払う価値はあるのだ。
私は机の前に座り、革袋を取り出した。
家賃用。食費用。日用品費用。屋根の修理費。
一つずつ分けて、硬貨を並べる。
からり。
小さな音が机の上に響いた。
多くはない。
しかし、支払えなくはない。
私はその音を聞きながら、寝所の下奥に押し込めた小箱を思い出した。
ヴィルヘルムが買い戻してきた、あのブレスレットや耳飾り。
売れば、屋根の修理費はいっぺんに楽になるだろう。
少し贅沢な食料品も買える。
冬に向けた毛布も、もう一枚買えるかもしれない。
畑の道具も、少しずつ揃えられる。
けれど、私は小箱に手を伸ばさなかった。
――また売ったら、あの人はまた買い戻す。
絶対に買い戻す。
何も言わずに、当然のような顔をして。
――監視です。
――必要な確認です。
おそらく、そういう言い方をする。
私のものなのに。私が売ったものなのに。私が決めたはずなのに。
売ることすら、あの面倒な知り合いのせいで面倒になっている。
「……本当に、面倒。」
私は小さく呟き、革袋の口をきゅっと結んだ。
足りないなら、働く。
売らないと決めたものに頼らない。
今の暮らしの中で増やしていく。
そう決めたのだ。
ちょうどその時、玄関を叩く音がした。
「レベッカ、いるかい。」
マーサの声だ。
「います。」
扉を開けると、マーサが籠を抱えて立っていた。
今日は布が多い。いつもの繕い物よりも、少しきれいな布が見えた。
「おはようございます。どうされたんですか。」
「仕事だよ。」
「仕事?」
「ローレンスの店で、あんたの針目がきれいだって話したらね。茶布と手巾に、少し飾りを入れられないかって。」
「飾り、ですか。」
私は籠の中を覗いた。
生成りの布。無地の手巾。端を縫う前の茶布。
高級品ではないが、普段使いには悪くない。
「貴族のお嬢様がやるような凝った刺繍じゃなくていい。隅に小さな葉っぱとか、花とか、簡単な模様でいいんだとさ。店に置いてみて、売れそうなら続けて頼むって。」
「売るんですか。」
「そう。街へ来た人や、少し贈り物を探してる人が買うかもしれないって。」
胸が跳ねた。
針仕事。
収入。
自分で作ったものが売れるかもしれない。
それは、単なる繕いとは少し違った。
私が手を入れたものに、誰かが価値をつける。誰かが欲しいと思う。
その可能性が、急に目の前へ差し出された。
「できます。やります。」
私は即答した。
マーサが笑う。
「返事が早いね。」
「やります。ぜひ。」
「ただし、無理はしない。屋根の修理もあるんだから。」
「はい。」
「寝不足の時に細かい刺繍をすると、目も手も狂う。」
「はい。」
「返事だけじゃなくてね。」
「……はい。」
少し返事が小さくなった。
マーサには、何でも見抜かれる。
私は布を受け取り、机の上に広げた。
どんな模様がいいだろう。
野の花。小鳥。小さな葉。
あまり凝りすぎると時間がかかる。けれど、簡素すぎてもつまらない。
私は布の隅を指でなぞった。
「芽の模様にしましょうか。」
「芽?」
「はい。小さな双葉を、隅に一つだけ。糸の色を少し変えれば、控えめですが可愛いと思います。」
「いいじゃないか。」
「茶布には、細い蔓のような模様を端に入れてもいいかもしれません。派手すぎないように。」
「そういうのは、きっとあんたの方が分かるね。」
マーサは満足そうに頷いた。
私は紙を取り、簡単な模様を描いた。
双葉。細い蔓。小さな花。鳥除けの鈴。
鈴は少し子どもっぽいだろうか。
いや、可愛いかもしれない。
でも最初は無難に双葉がいい。
新しい暮らしの始まりにも似ている。
私は小さく笑った。
「何を笑ってるんだい。」
「いえ。芽が仕事にもなるかもしれないと思って。」
「畑の芽も、布の芽も、育つといいね。」
「はい。」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
育つといい。
本当に。
畑も。
仕事も。
――私も。
その時、外から荷車の音が聞こえた。ごとごと、と道を進む音。ガスパルだろう。
私は布を丁寧に畳み、立ち上がった。
「屋根職人さんですね。」
「だろうね。」
外へ出ると、ガスパルが昨日と同じ雨除けの帽子を荷車に乗せ、道具を下ろしていた。
今日は空が晴れているからだろうか、彼の動きもどこか昨日より軽い。
「おはようございます。」
「おう。今日は登れるぞ。」
「よろしくお願いします。」
「梯子はこっちのを使う。あんたは登るなよ。」
「登りません。」
「本当か?」
「本当です。」
先日から何度言われただろう。
そんなに上りそうな顔をしているのだろうか。
確かに私は少し物事に夢中になり過ぎるきらいがあるが、そこに命をかけるほどの無謀者ではない。
……たぶん。
ガスパルは先日と同じくしっかりした梯子を立て、足元に板を敷き、慎重に屋根へ上がった。
その手際を見て、私は改めて思った。
自分で登らなくてよかった。
あの古い梯子で登っていたら、きっと大変なことになっていた。
そう思った瞬間、頭の中に低い声が蘇る。
――梯子には触れないでください。
――約束ですか。
私は少しだけ首を振った。
いや。今は屋根だ。
面倒な知り合いの声を思い出す必要はない。まったくない。
ガスパルは屋根の上から、ずれた瓦を確認し、雨樋の詰まりを丁寧に取り除いていった。
古い葉。泥。折れた小枝。雨水をせき止めていたものが、いくつも出てくる。
「こりゃ流れないわけだ。」
ガスパルが屋根の上から言った。
「ひどいですか。」
「ひどすぎるわけじゃない。長く手入れしてなかったんだな。瓦も二枚割れてる。替えを持ってきてるから、そこは直せる。」
「よかった。」
「ただ、天井板に染みてる分はすぐ乾かない。しばらく換気しろ。」
「はい。」
「床に水が落ちなくなっても、湿気が残るからな。」
「分かりました。」
私は頷きながら、頭の中でやることを並べた。
物置部屋の換気。濡れた布の洗濯。台所の棚の移動。茶布の刺繍。
屋根の修理代の支払い。昼食。畑の確認。
やることは多い。
けれど、昨日の夜のような不安ではなかった。
やることが見えている。順番も分かる。助けてくれる人もいる。
それだけで、心はずいぶん違う。
昼近くになっても、森の道から馬の蹄の音は聞こえなかった。
私は屋根を見上げながら、ふと耳を澄ませている自分に気づいた。
私は一体何をしているのだろう。
別に、来なくていい。むしろ来ない方が普通だ。
往復四時間もかけて毎日来る方がおかしい。仕事があるのだから、今日は来ない方がいい。
私もそのように言った。
だから来ないなら、それでいい。
そう思ったのに、庭の向こうから風が吹くたび、森の道を見てしまう。
馬の蹄の音ではない。
鳥の声。枝が揺れる音。荷車の軋む音。
どれも違う。
違うと思っている自分に、少し腹が立った。
「気になるのかい。」
隣でマーサが言った。
私はびくりと身を震わせた。
「何がですか。」
「何が、ねえ。」
「屋根です。屋根が気になります。」
「森の道を見ながら?」
「……風向きです。」
「便利だね、その風。」
マーサはこの前と同じようなことを言った。
私は黙った。
勝てない。
マーサには本当に勝てない。
その時、屋根の上のガスパルが声を上げた。
「よし、終わるぞ。下りる。」
私は慌てて梯子の方を向いた。
ガスパルは慎重に下りてきた。
屋根は、見た目には大きく変わっていない。
けれど、割れた瓦は替えられ、ずれていた部分は直り、雨樋も通ったらしい。
「これでしばらくは大丈夫だ。次に強い雨が降った時、まだ漏るようなら、天井裏も見る必要がある。」
「ありがとうございます。」
「こっちが本格修理分だ。」
ガスパルが費用を告げた。
私は用意していた革袋から硬貨を出した。
数える。
渡す。
革袋が、さらに軽くなる。
胸がきゅっとした。
でも、屋根は直った。雨の夜に、台所へ水が落ちる不安が少し減った。
それはとても大きい。
「助かりました。」
「古い家は、こまめに見れば長持ちする。放っとくと一気に来るからな。」
「気をつけます。」
「あと、あの古い梯子は捨てるか、短く切って別に使え。屋根用には絶対使うな。」
「はい。」
……また梯子のこと。
最初一瞬でも使ってみようかと考えた罰なのだろうか。
それとも私と梯子の人相書きでも町に出回っているのだろうか……。
内心嘆息した。
ガスパルが荷車をまとめて帰っていくと、庭は急に静かになった。
屋根は直った。
完全ではないかもしれないが、ひとまず直った。
私は家を見上げた。
白い壁。古い屋根。少し不格好な雨樋。
でも、昨日より頼もしく見える。
「……直った。」
小さく呟く。
マーサが隣で頷いた。
「よかったね。」
「はい。」
「これで今夜は眠れるだろう。」
「はい。」
これで家の中に降る雫に怯えることなく眠れるだろう。
たとえ雨が降っても。
これは大変心強い。
私は家の中へ戻り、物置部屋の天井を見上げた。
染みは残っている。
でも、水は落ちていない。
台所の隅も、乾き始めていた。
私は窓を開け、風を通した。
湿った匂いが少しずつ抜けていく。
今回、一人でできたことと、そうでないことがあった。
桶を置いたのは私だ。布を敷いたのも、床を拭いたのも私。
棚を動かした時は、マーサがいてくれた。
職人を手配したのは、ローレンス。
屋根を直したのは、ガスパルだ。
梯子に近づかずに済んだのは、あの約束があったからかもしれない。
それを認めるのは、少しだけ難しい。
――自分の足で立つと決めたのに、人の手を借りている。
でも、考えてみれば、畑だってそうだ。
種屋の老婆に教わった。
マーサに鍬を譲ってもらった。
鳥除けの鈴は、傷物だから安く買えた。
――全部を一人で背負わなくても、私は私の足で立てるのかもしれない。
その考えは、少し怖くて、少し楽だった。
マーサは昼過ぎに帰った。
針仕事の布を置いて、無理をするなと三回言って。
私は三回とも、はい、と答えた。
返事だけではない。
今日は本当に、少しだけ休むつもりだった。
昼食に、豆と野菜の残りスープを温める。パンを少し焼く。
屋根の修理代で革袋は軽くなったが、温かいスープはある。
畑の芽もある。新しい仕事の布もある。
そう思うと、革袋の軽さだけに目を向けずに済んだ。
食後、私は机に向かい、茶布の模様を少し試し縫いした。
双葉。細い茎。小さな葉。
布の隅に一つだけ入れると、思っていたより可愛い。
派手ではない。でも、手に取った時に少し嬉しくなる。そういうものがいい。
私は糸を変え、もう一枚に細い蔓を入れてみた。
これも悪くない。
集中していると、時間が少しずつ過ぎていった。
雨漏りの不安も、王宮のことも、断罪のことも、少しだけ遠くなる。
針を刺す。
糸を引く。
布が変わる。
一針ずつ、何かが形になる。
これは好きだと思った。
誰かに命じられて整える礼儀ではない。
王妃になるための完璧な刺繍でもない。
売れるかもしれない、小さな布。
私の手で、少しだけ価値を足すもの。
その感覚が、嬉しかった。
夕方近くになって、ようやく森の道から馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は針を持つ手を止めた。
やっと来た。
そう思った。
そして、そう思った自分に驚いた。
別に待っていない。
本当に待ってはいない。
……ただ、音で分かっただけだ。
私はゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。
扉を開けると、森の道から黒馬を引いたヴィルヘルムが現れた。
いつもより遅い時間。春のどこか温かな斜陽に包まれて。
その事実に、胸が少しだけ落ち着いたような気がして、私はまた腹が立った。
何に安心しているのか。
来なくていいと言っているのに。
ヴィルヘルムは柵の外で足を止め、黒馬を木陰に繋いだ。
今日の外套は濃い灰色だった。昨日より乾いている。
だが、少しだけ疲れて見えた。
いや、いつもと同じかもしれない。
私が見すぎているだけかもしれない。
「おはようございます、ではありませんね。」
私は先に言った。
ヴィルヘルムが軽く頭を下げる。
「遅くなりました。」
「来なくて結構でした。」
「屋根の本格修理を確認する必要がありましたので。」
「もう終わりました。」
「そのようですね。」
彼は柵の外から屋根を見上げた。
雨樋。瓦。軒先。
一通り確認する目だ。
「修理は問題なさそうです。」
「職人さんがそう言っていました。」
「水は止まりましたか。」
「今のところ。」
「物置は換気を?」
「しています。」
「台所の棚は?」
「まだ少し離しています。」
「古い梯子は?」
「だから使っていません。」
「処分を。」
「ガスパルさんにも言われました。」
「では、早めに。」
「……あなたは本当に細かいですね。」
「確認です。」
「それは外向きには?」
つい口から出てしまった。
ヴィルヘルムは少しだけ考えた。
「面倒な知り合いの見守り、でしょうか。」
私は言葉に詰まった。
自分で言った呼び名なのに、彼の口から出ると、妙に落ち着かない。
「……採用しないでください。」
「すみません。」
少しも悪いと思っていなさそうな声だった。
私は腕を組んだ。
「今日はどうして遅くなったのですか。」
言ってから、またしまったと思った。
別に本当に気にしていたわけではない。
ただ、やはりいつもより遅かったから言っただけだ。
ヴィルヘルムは私を見た。
「午前中に、外せない用件がありました。」
「お仕事ですか。」
「はい。」
「それなら、なおさら来なくていいでしょう。」
「早く終えました。」
「終えたから来たのですか。」
「はい。」
「……本当に合理的ではありませんね。」
「自覚しています。」
この人は、そう言われても怒らない。
怒らないから、こちらが困る。
「疲れていませんか。」
言ってから、さらにしまったと思った。
まずい。今日の私は、口が勝手に動く。
ヴィルヘルムの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……問題ありません。」
「その返事は信用できません。」
「では、少しだけ。」
「少しだけ?」
「昨日よりは。」
「比較対象が悪すぎます。」
思わず言った。
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を瞬いた。そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑った。
たぶん。
私は見てしまった。
まただ。
この人は、時々ほんの少しだけ笑う。
それが困る。
なぜか非常に困る。
「お茶は出しませんよ。」
私は咄嗟に言った。
自分でもなぜその言葉が出たのか分からない。
ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「はい。」
「昨日は雨漏り対応です。」
「承知しています。」
「今日は屋根が直りました。」
「はい。」
「ですから、お茶は不要です。」
「はい。」
返事ばかり。
その素直さが、また落ち着かない。
「ただし。」
私は言ってから、自分で驚いた。
ただし。
何のただし?
ヴィルヘルムもこちらを見る。
「ただし?」
「……水なら。」
「水。」
「井戸水です。馬も喉が渇いているでしょう。」
馬。
そうだ。
馬だ。
馬が大事なのだ。
マーサも言っていた。
馬は大事。
ヴィルヘルムの目元が、少しだけ柔らかくなった。
「ありがとうございます。馬にいただけるなら。」
「あなたにではありません。」
「はい。」
「馬にです。」
「はい。」
「勘違いしないでください。」
「しません。」
本当に。
いや、しないだろう。
この人は、こういうところで変に律儀だ。
私は井戸へ向かい、水を汲んだ。
昨日ほど疲れてはいない。
桶の扱いにも、もうだいぶ慣れてきた。
黒馬は静かに水を飲んだ。
ヴィルヘルムはその首を撫でる。
やはり手つきが柔らかい。
私はそれを見ないようにして、鳥除けの方を見た。
ちりん。
鈴が鳴る。
夕方の光の中で、畑の芽が揺れている。
「仕事が、増えました。」
ふと、口から出た。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「仕事?」
「針仕事です。ローレンスさんの店に置く茶布や手巾に、小さな模様を入れます。売れるかは分かりませんが。」
「それは、良いことですね。」
「分かるのですか。」
「収入源が増える可能性があります。」
「そこですか。」
「はい。それに。」
ヴィルヘルムは少しだけ言葉を切った。
「あなたの手は、細かな作業に向いていると思います。」
私は思わず自分の手を見た。
荒れた指。
軟膏で少し良くなった傷。
針を持つ指。
かつては、白く保つことばかり求められた手。
今は、水を汲み、土を触り、布を縫う手。
「……以前の私の手とは違います。」
「はい。」
「荒れています。」
「働いている手です。」
息が止まった。
また、この人は。
なぜそういう言い方をするのか。
私は思わず顔をそらした。
「……褒め慣れていないのではなかったのですか。」
「今のは、事実です。」
「事実なら何を言ってもよいと思っていませんか。」
「……気をつけます。」
少しだけ困ったような声だった。
私は短い髪を耳にかけ、畑を見るふりをした。
胸の奥が、少し熱い。
働いている手。
誰もそんなふうに言ったことはなかった。
公爵令嬢の手は白く、美しく、傷一つないことが求められた。
王妃になるための手。器を持つ手。扇を広げる手。書類に署名する手。
それが今は、井戸水で荒れ、土で汚れ、針で少し硬くなっている。
惨めだと思う日もある。
でも、働いている手だと言われると。
……それは少しだけ、悪くないもののように思えてしまう。
「売れるといいですね。」
ヴィルヘルムが言った。
「売れます。」
私は顔を上げた。
「売れるように頑張って作ります。」
ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「はい。」
その返事は、いつもの返事より少しだけ信じているように聞こえた。
春の夕暮れ。
ここに来たばかりの頃とは違い、もうこんな時間でも肌寒さは感じない。
どこか柔らかな風が大地を撫でる。
森の木々が揺れ、薄緑の群葉が大きく息をするようにざわりと揺れた。
鳥除けの布が揺れ、鈴が鳴る。
直した屋根の上を、光が滑る。
金糸のような髪がさらりと揺れ、蒼玉のような碧眼が眩しげに細められる。
なぜか息が詰まった。
「……では、今日はもうお帰りください。」
私は動揺を隠すように言った。
丁度黒馬が水を飲み終え、満足したように鼻を鳴らす。
「はい。」
「本当に。」
「はい。」
「仕事を夜に回さないでください。」
「可能な限り。」
「またそれですか。」
ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。
「……早く帰ります。」
「よろしい。」
思わずそう言うと、ヴィルヘルムの目元がまた少しだけ緩んだ。
私は慌てて咳払いした。
「馬のためです。」
「はい。」
「……あなたのためではありません。」
「承知しています。」
彼は黒馬の手綱を解き、馬にまたがった。
夕方の森の中で、濃い灰色の外套が静かに揺れる。
馬上の彼は、相変わらず遠い人に見えた。
けれど、これまでより少しだけ、遠すぎない気もした。
いや。
違う。
これは全部、雨漏り対応と馬のためだ。
私は自分にそう言い聞かせた。
「屋根が直ってよかったですね。」
ヴィルヘルムが言った。
「はい。」
「あなたも、今夜は早めに眠ってください。」
「命令ですか。」
「お願いです。」
お願い。
その言葉に、また胸が少しだけ詰まった。
命令なら撥ねつけられる。
お願いは、撥ねつけ方が分からない。
ヴィルヘルムは静かに続けた。
「無理をしないでください。」
「……善処します。」
「それは、信用できません。」
「あなたに言われたくありません。」
「確かに。」
今度は私が少し笑ってしまった。
ほんの少し。
けれど、笑った。
ヴィルヘルムはそれを見て、何かを言いかけたようだった。
だが、結局言わず、ただ少し眩しそうに碧眼を細める。
――まただ。またあの目。
それから、軽く頭を下げた。
「では、失礼します。」
「……はい。」
黒馬の蹄の音が、森の道へ遠ざかる。
私は見送らないつもりだった。
でも、今日は馬が水を飲んだ後だから、きっと、足取りを確認する必要がある。不自然なことではない。
濃い外套が木々の間に消えるまで見てから、私は家へ戻った。
机の上には、茶布と手巾が並んでいる。
小さな双葉の刺繍。細い蔓の模様。まだ試し縫いだけだ。
でも、悪くない。
私は椅子に座り、針を持った。
外では、鳥除けの鈴が鳴る。
屋根からは、水の音がしない。
それだけで、家の中はずいぶん静かだった。
今夜は、ゆっくり眠れるかもしれない。
私は布の隅に、もう一つ小さな芽を縫い始めた。
一針。
また一針。
昨日より少しだけ軽い心で、糸を引いた。
刺繍仕事が、誰かのところへ届く日が来るかもしれない。
茶布に双葉が縫い取られて、誰かの食卓に。
手巾に蔓が伸びて、誰かのポケットに。
私が作ったものが、誰かの暮らしの中で、ひっそり動いている。
その想像は、思っていたより、胸を温かくした。
ヴィルヘルムとの間には、まだ何もはっきりしていない。
彼が何を考えているのか、私には分からない。
私が何を感じているのかも、まだよく分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
今日、「働いている手です」と言った人が、明日もきっと来る。
来なくていいと言っても、来る。
それが今は、少しだけ腹立たしくない。
そのことに気づいた瞬間、私は少し慌てて、刺繍の針を動かした。
気づいてしまったものは、縫い込んでしまえばいい。
布の隅の芽と一緒に、知らないふりをして。
鳥除けの鈴が、ちりんと鳴った。
まるで、焦る私の様子をからかうように。




