第二十五話 芽の刺繍
朝の光は、昨日より少しやわらかく感じた。
屋根が直った家の中は、不思議なくらい静かだ。
物置部屋の桶は、もう鳴っていない。台所の隅にも水は落ちていない。
鳥除けの鈴だけが、庭の方で時々ちりんと鳴る。
その音は、昨日までの不安な音とは違っていた。
雨漏りの桶の音が、胸を急かす音だとしたら、鳥除けの鈴は、ここに暮らしがあると知らせる音だ。
私はしばらく、その静けさの中に座っていた。
何も落ちてこない天井。濡れていない床。
水を受けるためではなく、普通に置かれた桶。
それだけのことが、こんなにありがたい。
屋根は大事だ。
とても大事だ。
家に屋根がある。雨を防いでくれる。
その当然のことが、今の私には十分に贅沢だった。
私は机の上に、マーサから預かった茶布と手巾を並べた。
生成りの茶布が三枚。白い手巾が五枚。
端の始末はまだ粗いが、布自体は悪くない。
ローレンスの店に置くなら、派手すぎず、けれど何もないより少し目を引くものがいい。
私は糸を選んだ。
淡い緑。薄い黄。ほんの少しだけ青みのある灰色。
王宮にいた頃なら、もっと華やかな絹糸を選んだだろう。
金糸や銀糸を使い、花弁を重ね、見た者がため息をつくような飾りを施したかもしれない。
でも、今は違う。
これは王妃教育の課題ではない。
高位貴族の茶会に出す飾り布でもない。
誰かが毎日の暮らしの中で使う茶布であり、手を拭く手巾だ。
派手すぎると使いづらい。汚れを気にしすぎるものでも困る。
けれど、手に取った時に、ほんの少しだけ嬉しくなるものがいい。
私は布の隅に針を入れた。
一針。
また一針。
小さな双葉を描いていく。
土から出たばかりの芽。
まだ頼りなく、けれどまっすぐに開こうとしている葉。
庭の畑に出た、あの小さな芽を思い出しながら縫った。
葉の片方を少しだけ大きくする。
左右が完全に揃っていない方が、自然に見える。茎は細く。
糸は引きすぎない。布がつれないように。
針を持つ手は、もう令嬢の手ではない。
井戸水で少し荒れ、土と洗い物で指先が硬くなり始めている。
それでも、細かな針目を揃える時だけは、王妃教育で叩き込まれた指の正確さが役に立った。
もう今の私にはあの日々のすべてを肯定する気にはなれない。
けれど、私の中に残ったものを、今の暮らしで使ってもいいのだと、そう思えるようになった。
私は息を詰めて、最後の一針を入れた。
「……悪くない。」
小さく呟く。
布の隅に、小さな双葉が一つ咲いていた。
いや、咲いていた、というのはおかしいかもしれない。
芽だから。
でも私には、それが咲いているように見えた。
次に、手巾の隅へ細い蔓を入れる。くるりと小さく曲がる線。その先に小さな葉。
控えめで、けれど少しだけ楽しい。
これなら、普段使いにも邪魔にならない。贈り物にしても、重すぎない。
私は夢中で針を進めた。
気づけば、朝の光は少し高くなっていた。
首が痛い。肩も少しこわばっている。
しかし、嫌な疲れではなかった。
何かを作った後の疲れだ。
床を拭き、桶を動かし、雨漏りと戦った後の疲れともまた違う。
これは、これで少し嬉しい疲れだった。
机の上に布を並べて、少し離れて眺める。
双葉の茶布。蔓の手巾。小さな花の試し模様。
それから、ほんの出来心で入れた鈴の刺繍。
歪んだ丸い鈴と、揺れる短い紐。
これは少し子どもっぽいかもしれない。
でも、私は好きだった。
庭の鳥除けの鈴を思い出す。
傷物でも音は鳴る。不揃いでも役に立つ。
それを布の隅に縫い留めると、なんだか自分の家の印のようにも見えた。
思わず口の端が緩む。
玄関を叩く音がした。
「レベッカ、いるかい。」
マーサだ。ちょうどいいところに来てくれた。
「います。」
扉を開けると、マーサはいつもの籠を抱えて立っていた。
「できたかい?」
「試しに何枚か。」
「早いねえ。見せてごらん。」
私は机へ案内し、布を並べた。
マーサは一枚ずつ手に取り、目を細める。
「へえ。」
その短い声に、私は少し緊張した。
王妃教育の講評を待っている時より、胸が落ち着かない。
あの頃の刺繍は、褒められて当然でなければならなかった。
これは違う。
私が作って、誰かに使ってもらいたいと思っているものだ。
だから、怖い。
「どうでしょう。」
「いいじゃないか。」
「本当ですか?」
「ああ。派手じゃない。でも、手に取った時にちょっと嬉しい。」
私は胸を撫で下ろした。
まさに、それを目指していたから。
「この双葉、いいね。あんたの畑みたいだ。」
「はい。畑の芽を見ながら考えました。」
「こっちの蔓もいい。これは茶布に合うね。」
「では、茶布は双葉か蔓で、手巾は小さな花か鈴で。」
「鈴?」
マーサが、鈴の刺繍を見た。
そして、ふっと笑う。
「あんたらしいね。」
「少し子どもっぽいでしょうか。」
「いや、可愛いよ。森の家の印みたいだ。」
「実は私も、少しそう思いました。」
「じゃあ入れな。全部同じじゃつまらない。」
「でも、売れるかどうか……。」
「売れるかどうかは、店に置いてから考えりゃいい。」
「……確かに。」
マーサは茶布を丁寧に畳んだ。
「今日、ローレンスのところへ持っていくかい?」
「はい。できれば。」
「じゃあ行こう。あんた一人で持っていくと、途中でまた考えすぎるだろ。」
「そんなことは。」
「あるね。」
「……少し。」
私は認めた。
売れなかったらどうしよう。
子どもっぽいと言われたらどうしよう。
元令嬢の暇つぶしだと思われたらどうしよう。
そんな考えは、もう頭の中を何度も回っている。
マーサはそれを見透かしたように、布を籠に入れた。
「さっさと見せちまうんだよ。自分の中で悪く煮込む前にね。」
「悪く煮込む。」
「不安ってのは、鍋にかけると焦げつくんだよ。」
「……なるほど。」
マーサの例えは、いつも生活に根ざしている。
そして妙に納得できる。
王妃教育で習った格言より、この人の台所の比喩の方が、今の私にはよく分かる。
私は外套を羽織り、針道具を片づけた。
畑を確認してから、家を出る。
芽は今日も無事だった。
鳥除けの鈴が森を駆ける一陣の風と共に鳴る。
行ってこい、と言われた気がした。
ローレンスの店へ向かう道は、昨日の雨で少し湿っていた。
森の匂いが濃い。土と葉と、そして遠くの煙突の匂い。
市場ほど人は多くないが、道行く人がこちらにちらりと視線を向ける。
以前なら、その視線の意味ばかり気にしていた。
国外追放された女。元公爵令嬢。断罪された悪女。
そんなはずはないのに、そう思われているのではないかと、背筋が固くなった。
けれど今日は、籠の中に布がある。
私が縫った布。
売れるかどうかはまだ分からないけれど、少なくとも、私がこの町に置くために作ったものがある。
それは小さな盾のようだった。
ローレンスの店に着くと、扉の鈴が軽く鳴った。
「いらっしゃい。ああ、来たね。」
ローレンスは帳簿から顔を上げ、私たちを見るとにやりと笑った。
「できたかい?」
「試作品ですが。」
「見せてごらん。」
私は籠から布を取り出し、一枚ずつ広げた。
双葉の茶布。
蔓の茶布。
小花の手巾。
鈴の手巾。
ローレンスは黙って見た。
黙っている。
長い。
とても長い。
私は思わず背筋を伸ばした。掌に汗が滲む。
また王妃教育の講評を待っている時のような気分になる。
いや、違う。
これは王妃教育ではない。店に置く布だ。
落ち着け。
私は心の中で自分に言った。
ローレンスは最初に双葉の茶布を手に取った。
「これ、いいね。」
私は息を止めた。
「本当ですか。」
「うん。小さいけど目に入る。これくらいなら普段使いできるし、ちょっとした贈り物にもできる。」
次に、蔓の茶布を見る。
「こっちは少し落ち着いてる。年配の奥さんにも売れそうだ。」
小花の手巾。
「これは分かりやすく可愛い。」
そして鈴の手巾。
ローレンスはしばらく見て、ふっと笑った。
「これは、あんたの家の鈴だね。」
「分かりますか。」
「分かるよ。あの鳥除け、けっこう目立ってるからね。」
「目立っていますか。」
「目立ってる。可愛いって言う人もいるよ。」
私は目を瞬いた。
あの鳥除けが。可愛い。
町の人が、そう言っている。
少しだけ胸が温かくなった。
「これ、店の端に置いてみよう。値段は……そうだね、最初だから少し抑える。でも安くしすぎない。」
「安くしすぎない?」
「そう。安すぎると、雑に扱われる。ちゃんと手間がかかってるんだ。手間の分は値段に入れる。」
私はその言葉に驚いた。
手間の分は、値段に入れる。
当たり前のようで、考えたことがなかった。
私は今まで、自分の働きに値段をつけたことがなかった。
公爵令嬢としての価値。婚約者としての価値。王太子妃候補としての価値。
そういうものは、周囲が勝手に決めるものだった。
決められた値札を、自分で外すこともできずに立っていた。
でもこれは違う。
私が針を入れた時間。
糸を選んだ時間。
双葉の形を考えた時間。
それに、値段がつく。
「手間の分……。」
「そうだよ。あんた、自分の仕事を安く見積もりすぎないことだね。」
ローレンスはさらりと言った。
私は返事が少し遅れた。
「……はい。」
マーサが横で満足そうに頷いている。
「ほらね。持ってきてよかっただろ。」
「はい。」
私は素直に頷いた。
ローレンスは店の一角を少し片づけ、茶葉や小さな保存瓶の近くに茶布を置いた。
手巾は、石鹸や香り袋のそばに並べる。
売り物としてそこに置かれると、私の縫った布は急に別の顔になった。
家の机の上で見た時より、少しだけ立派に見える。
いや、立派というほどではない。
でも、売り物に見える。
それが、とても不思議だった。
「しばらく様子を見よう。売れたら追加を頼む。」
「はい。よろしくお願いします。」
私は頭を下げた。
その時、店の扉が開いた。
小柄な女性が入ってくる。
旅装ではないが、町の人より少し上等な服を着ていた。近くの農園主の奥方だろうか。
女性は茶葉を見に来たようだったが、ふと手巾に目を留めた。
「あら、これ、新しいもの?」
ローレンスがすぐに答える。
「ええ。森の家のレベッカさんが刺繍を入れたんですよ。」
森の家のレベッカさん。
その呼び方に、私は少しだけ固まった。
王子の婚約者でも公爵令嬢でもない、森の家のレベッカ。
女性は手巾を一枚手に取った。
小さな鈴の刺繍が入ったものだった。
「可愛いわね。これ、何の鈴?」
私は一瞬迷い、それから答えた。
「畑の鳥除けにつけている鈴を意匠にしました。傷物で少し歪んでいるのですが、音は鳴るので。」
「まあ。」
女性は笑った。
「そういうの、いいわね。完璧じゃないのが可愛いわ。」
胸の奥が、きゅっとなった。
――完璧じゃないのが可愛い。
その言葉が、思っていたより深く刺さった。
私はずっと、自分は完璧でなければ価値がないと思っていた。
完璧でなければ選ばれない。完璧でなければ愛されない。完璧でなければ、捨てられる。
その通りに生きてきて、しかし結局、それでも捨てられた。
なのに今、歪んだ鈴が可愛いと言われている。
不揃いな刺繍が、手に取られている。
「これ、いただくわ。」
「ありがとうございます。」
私は反射的に頭を下げた。
ローレンスが品物を包み、代金を受け取る。
女性は嬉しそうに手巾を見て、店を出ていった。
扉の鈴が鳴る。
私はその音を聞きながら、しばらく動けなかった。
売れた。
私の作ったものが。
本当に。
ローレンスが硬貨を数え、私に差し出した。
「はい。取り分。」
「え、もう?」
「売れたからね。」
「でも、店に置いていただいた分は。」
「それは引いてある。最初だから分かりやすくしておいたよ。」
私の手のひらに、小さな硬貨が乗った。
たった数枚。
公爵令嬢だった頃なら、全く気にすることもないような価格。
けれど今、その硬貨はずしりと重かった。
屋根の修理費には遠い。家賃にも、冬の備えにも足りない。
でも、これは確かに私が作った価値だ。
誰かに哀れまれて渡されたものではない。
誰かの婚約者だから、公爵令嬢であったから与えられたものでもない。
私が縫った布を、誰かが欲しいと思い、代金を払った。
それだけのことが、こんなにも胸を満たすなんて。
「……ありがとうございます。」
声が少し震えた。
ローレンスは何も言わず、ただ頷いた。
マーサも、いつものようにからかわなかった。
それがありがたかった。
帰り道、私は何度も革袋の中の硬貨を確かめた。
金属が掠れる軽い音がする。
自分で得た硬貨の音。
鳥除けの鈴とは違う。雨漏りの桶の音とも違う。
でも、どこか似ている。
これは、私がここで生きている音だ。
「よかったね。」
マーサが隣で言った。
「はい。」
「また縫わないとね。」
「はい。」
「無理はしない。」
「はい。」
「目を休める。」
「はい。」
「返事だけじゃなく。」
「……はい。」
いつものやり取りに、思わず笑ってしまった。
森の家に戻ると、私はまず畑を見た。
小さな芽が、今日も土の上に並んでいる。
私はしゃがみ、そっと声をかけた。
「売れたわ。」
芽は返事をしない。
当然だ。
それでも、言いたかった。
誰かに言いたくて。
けれど、一番に言いたい相手の顔が浮かびかけて、私は慌ててそれを土の中へ押し戻した。
庭の鈴がちりんと鳴る。
私は笑った。
夕方近くまで、私は追加の布の下絵を描いた。
双葉。蔓。鈴。少しだけ花。
売れたからといって、すぐ調子に乗ってはいけない。
でも、少しだけ胸が弾むのは止められなかった。
どんな糸がいいだろう。
次はもう少し濃い緑を買ってもいいかもしれない。
鈴の刺繍には、灰色だけでなく薄い黄色を少し足しても可愛いかもしれない。
考えているだけで、時間が過ぎた。
そして、森の道から馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は手を止めた。
今日は、待っていたわけではない。
……ただ、報告することがあるだけだ。
仕事の報告。
生活基盤の報告。
監視役に必要な情報。
私は自分に言い聞かせ、玄関を開けた。
ヴィルヘルムは柵の外で黒馬を止めていた。
濃い外套は今日はしっかり乾いていて、襟元まできちんと整っている。
馬から降りると、彼はいつものように黒馬の首を一度撫でた。
相変わらず、森の家の柵の外に立つには整いすぎている人だ。
「こんばんは、レベッカ嬢。」
「こんばんは、面倒な知り合い殿下。」
「今日の確認に参りました。」
「でしょうね。」
私は腕を組んだ。
いつもなら、すぐに「確認は不要です」と言うところだ。
だが今日は、少しだけ違った。
「屋根は問題ありません。物置も台所も乾き始めています。畑の芽も無事。鳥除けも倒れていません。古い梯子には触っていません。」
先に一気に言った。
ヴィルヘルムが少しだけ目を瞬く。
「ありがとうございます。」
「これで確認は終わりですね。」
「……かなり終わりました。」
「かなり。」
「他に、何か変わったことは?」
私は待ってましたと言いそうになり、慌てて口を閉じた。
待ってはいない。
ただ、報告事項があるだけだ。
「刺繍入りの手巾が売れました。」
言った瞬間、胸の中で小さな鈴が鳴ったような気がした。
ヴィルヘルムの表情は大きく変わらない。
だが、青い瞳がほんの少しだけやわらかくなる。
「それは、よかったですね。」
静かな声だった。
派手な称賛ではない。大げさな驚きでもない。
でも、その一言はまっすぐだった。
「本当に、分かって言っていますか。」
「はい。」
「たった手巾一枚です。」
「最初の一枚です。」
私は言葉を失った。
最初の一枚。この人はそんな言葉にするのか。
胸の中がふわりと揺れた。
「鈴の刺繍を入れたものでした。」
「鈴。」
「庭の鳥除けの鈴です。」
「良い意匠だと思います。」
「見ていないのに?」
「あなたが作られたものなら、おそらく。」
「おそらくで褒めないでください。」
「では、見せていただけますか。」
私は一瞬固まった。
見せる。
まだ試作品の残りはある。
机の上に。
見せるくらいなら、別に。
監視役に仕事の内容を示すだけだ。
そういうことだ。
「玄関先でです。」
「はい。」
「奥には入らないでください。」
「承知しています。」
私は扉を開けた。
ヴィルヘルムは黒馬を木陰に繋ぎ、柵の門を通って玄関先まで来た。
本当に、そこで止まる。
毎回のことなのに、少しだけおかしい。
そして少しだけ、安心する。
私は机から試作品の手巾を取って、彼に渡した。
双葉。
蔓。
小さな花。
鈴。
ヴィルヘルムはそれらを、まるで重要な書類でも見るように丁寧に見た。
あまりにも真剣なので、私は落ち着かなくなる。
「そこまで見るものではありません。」
「細かいです。」
「刺繍ですから。」
「均一ではないのですね。」
「それは、下手という意味ですか。」
「いいえ。自然です。」
……自然。
私は手巾を見る。
「左右が少し違います。完璧に揃えるより、その方が芽らしいと思って。」
「はい。こちらの方が、生きているように見えます。」
また。
この人は、時々そういうことを言う。
不意打ちのように。
私は手巾を取り返したくなった。
でも、まだ彼の手にある。長い指が、布の端を丁寧に持っている。
その指先を見て、先日の茶の器を思い出しそうになり、私は慌てて視線を外した。
「鈴の刺繍は、少し子どもっぽいでしょうか。」
「いいえ。」
「本当に?」
「はい。」
「……王宮のものと比べないでください。」
「比べていません。」
「高価な刺繍ではありません。」
「はい。」
「ただの手巾です。」
「いいえ。」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「これは、あなたの暮らしの刺繍です。」
胸の奥が、大きく揺れた。
私は何も言えなかった。
あなたの暮らしの刺繍。
畑の芽。鳥除けの鈴。森の家。雨漏りを直した屋根。針仕事の机。
それらが布の隅に小さく縫い込まれている。
そう思うと、急にこの手巾がただの売り物ではなくなってしまう。
「……そういうことを言うから、会話がしづらいのです。」
「すみません。」
「褒め慣れていないのでは、なかったのですか。」
「今のは、感想です。」
「もっと悪いです。」
「悪いのですか。」
「……悪いです。」
私はヴィルヘルムから手巾を受け取り、ゆっくりと畳んだ。
……たいへんぎこちない動きだったかもしれない。
顔が熱い。
夕方だからだ。
きっとそうだ。
暖炉もつけていないし、春の風は涼しいが、夕日がまだある。
夕日は便利だ。
ヴィルヘルムは玄関先に立ったまま、少しだけ視線を下げた。
「売れた分で、何か買うのですか。」
「まだ決めていません。」
「糸でしょうか。」
「……なぜ分かるのですか。」
「先ほど、刺繍の色を見ていたので。」
「見すぎです。」
「確認です。」
「……あなたは本当に面倒な方ですね。」
「はい。」
最近、この人は「面倒」を否定しない。
それがまた面倒だ。
「糸を買うか、茶葉を少しだけ買うか、迷っています。」
つい言ってしまった。
言う必要はなかった。
しかしヴィルヘルムは、真面目に考えた。
「糸は、仕事のための投資です。」
「そうですね。」
「茶葉は、生活の余白です。」
「生活の余白。」
「はい。」
「では、どちらが正しいですか。」
「どちらも必要です。」
私は少し笑ってしまった。
「ずるい答えですね。」
「すみません。」
「でも、悪くありません。」
糸。
茶葉。
仕事と余白。
どちらも必要。
その言葉は、少しだけ胸に残った。
以前の私は、仕事も余白も何も選べなかった。
今は違う。
少ない硬貨を見て、何を買うか迷う。
それは不安でもある。
でも、選べるということでもある。
「では、少しだけ糸を買います。茶葉は、もう少し売れてから。」
「はい。」
「あなたに出すためではありませんよ。」
「承知しています。」
「自分のためです。」
「はい。」
ヴィルヘルムは少しだけ目元をやわらげた。
「それが良いと思います。」
私は返事をしなかった。
返事をすると、何かを認めてしまいそうだったから。
黒馬が小さく鼻を鳴らした。
ヴィルヘルムが振り返る。
「そろそろ帰ります。」
「早いですね。」
言葉が考えるよりも前に口からこぼれていた。
まただ。
最近の私は、なぜか口が勝手に動いてしまう。
ヴィルヘルムはこちらを見た。少しだけ、驚いたように。
「……仕事を夜に回さないように、と言われましたので。」
「それはそうです。」
「はい。」
「では、早く帰ってください。」
「はい。」
「馬にも無理をさせないでください。」
「はい。」
「明日は来なくても結構です。」
「明日は、午前に公爵領館で用があります。」
「……そうですか。」
「夕方には確認に来られるかと。」
「確認は不要です。」
「刺繍の進捗確認もあります。」
「ありません。」
「……ないのですか。」
「ありません。」
即答したのに、ヴィルヘルムは顎に手を当て少しだけ考え込むような顔をした。
またなぜそこで考えるのか。
「では、やはり畑と屋根の確認で。」
「結局来るのですね。」
「はい。」
私はため息をついた。
でも、強く追い返す言葉が出なかった。
ヴィルヘルムは黒馬の手綱を解き、馬にまたがった。
夕方の光の中、濃い外套が静かに揺れる。
彼は出発する前、一度だけこちらを見た。
「レベッカ嬢。」
「何ですか。」
「最初の一枚、おめでとうございます。」
胸が詰まった。
私はすぐに言葉を返せなかった。
おめでとう。
そんな言葉をもらうほどのことではない。
手巾が一枚売れただけだ。たった数枚の硬貨だ。
それでも。
私には、確かに最初の一枚だった。
「……ありがとうございます。」
ようやく言えた。
ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、黒馬を進めた。
蹄の音が森の道へ遠ざかる。
私は見送らないつもりだった。
でも、今日は仕方がない。
最初の一枚を祝ってもらった後だから。
木々の間に彼の姿が消えるまで見送ってから、私は家へ戻った。
机の上には、まだ縫いかけの茶布がある。
私は椅子に座り、針を持った。
双葉の続きを縫う。
一針。
また一針。
からり、と革袋の中で硬貨が鳴った。
ちりん、と庭で鳥除けの鈴が鳴った。
その二つの音を聞きながら、私は少しだけ笑った。
私の暮らしは、まだ小さい。
けれど、確かに育ち始めている。
布の隅の芽のように。
まだ頼りないけれど、確かに上を向いて。




