第二十六話 森の家の小さな評判
翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。
理由は分かっている。
布だ。
机の上に並んだ茶布と手巾が、こちらを見ているような気がしたからだ。
もちろん、布は見ない。布に目はない。
だが、昨日一枚売れたと思うと、残りの布たちまで急に「次は私の番です」と言っているように見えてしまう。
まさか寝起きから布に急かされる人生になるとは、公爵令嬢だった頃には想像もしなかった。
私は寝台から起き上がり、髪を耳にかけた。
短く切った髪は、ほんの少しだけ伸びてきた。
それでも、王宮にいた頃とはまったく比べものにならないほど短い。
櫛を入れるたびに、まだ少し胸が痛む。
けれど最近は、その痛みにも少しだけ慣れてきた。
いや、慣れたというより、痛いまま暮らせるようになってきた、という方が近い。
私は顔を洗い、台所へ向かった。
屋根が直ってから、朝の空気が変わった気がする。
私が暮らすために手を入れた家。
雨が降ったとしても、もう雨漏りの桶を確認しなくてもいい、台所の隅に水滴が落ちてもいない家。
それだけで、家が少し信頼できる相手になったようだった。
火を入れ、湯を沸かす。
残っていたパンを温め、昨日のスープを少し薄める。
食事をしながら、机の上の布をちらりと見た。
双葉。蔓。小花。鈴。
昨日売れたのは、鈴の手巾と双葉の茶布だった。
あの女性は、完璧じゃないのが可愛いと言った。
その言葉が、まだ胸に残っている。
――完璧でなくても、可愛い。
――完璧でなくても、欲しいと思ってもらえる。
それは、私にとって不思議な言葉だった。
公爵令嬢だった頃の私は、いつも完璧を求められていた。
髪も、礼も、微笑みも、返事も、姿勢も、答えも、一つでも乱れれば、それは欠点になった。
欠点は、いつか誰かに失望される種になる。そう思っていた。
けれど今、私が縫った少し歪んだ鈴は、売れた。誰かに選ばれた。
歪んでいたからこそ、手に取られたのかもしれない。
その事実が、長いこと張り詰めていた何かを、ほんの少しだけ緩めた。
私は器を置き、布を手に取った。
今日は追加分を縫う。
ただし、無理はしない。
マーサに三回言われた。返事だけではないと、四回目は目で言われた。
だから、午前に二枚。午後に一枚。
それ以上は、目と手の様子を見て決める。
私は自分で予定を立てた。
これは仕事だ。仕事には、勢いだけでなく、続けるための加減が必要だ。
王妃教育で学んだ政務管理が、まさか茶布の枚数管理に役立つとは思わなかった。
人生は、どこで何が役に立つか分からない。
あれほど嫌々覚えた収支表の考え方だって、たしかに革袋と糸代の計算に使えている。
私は針を持った。
一針。
また一針。
双葉の形は、昨日より少しだけ整った。
でも、整いすぎないようにする。
左右を完全に揃えない。
少しだけ風に揺れているように。
土から出たばかりの芽が、空を探しているように。
糸を引き、針を返す。
集中していると、庭の鈴の音が遠くなる。
いや、消えるわけではない。
ちりん。
ちりん。
その音が、手元の針の動きと重なる。
布に小さな芽が増えていく。
午前の二枚が終わる頃、玄関を叩く音がした。
「レベッカ、いるかい。」
マーサだ。
「います。」
扉を開けると、マーサは籠を持って立っていた。
中には野菜と、布の切れ端が少し入っている。
「ちゃんと休んでるかい。」
「休んでいます。」
「何枚縫った?」
「二枚です。」
「朝から?」
「……二枚です。」
「答えになってないね。」
マーサは私の顔を見て、目を細めた。
「目は?」
「痛くありません。」
「肩は?」
「少し。」
「ほら。」
「でも少しです。」
「少しのうちに休むんだよ。」
「……はい。」
私は大人しく頷いた。
反論しても勝てない。
この人の前では、王宮で鍛えた弁舌など、湿った薪ほどの役にも立たない。
マーサは台所に入り、籠から野菜を出した。
「ローレンスが言ってたよ。昨日の手巾を買った奥さんが、さっそく人に見せたらしい。」
「え。」
私は思わず針を置いた。
「見せた?」
「そう。『森の家のレベッカさんが縫ったんですって』ってね。」
森の家のレベッカさん。
また、その呼び方。
なんだか胸の奥が少しむずむずした。
断罪された女でも、国外追放された令嬢でもなく、森の家のレベッカだ。
その呼び方は、まだ少し落ち着かない。
けれど、嫌ではなかった。
「それで?」
「それで、別の人が今度見に行くってさ。」
「本当ですか。」
「本当。だから、追加は急がなくてもいいけど、少しはあった方がいいね。」
「では、もっと縫わないと。」
「急がなくていいって言ったばかりだよ。」
「でも。」
「でも、じゃない。」
マーサはぴしゃりと言った。
「仕事ってのは、続けてなんぼだ。一日で倒れるほどやって、次の日から寝込んだら意味がない。」
「はい。」
「それに、品薄くらいの方がありがたがられることもある。」
「そうなのですか。」
「たぶんね。」
「たぶん。」
「商売人じゃないから、そこはローレンスに聞きな。」
マーサは笑った。
私は机の上の茶布を見る。
売れるかもしれない。
また誰かが手に取ってくれるかもしれない。
そう思うと、胸が弾む。
同時に、不安もある。
昨日の一枚は偶然だったのではないか。
次は見向きもされないのではないか。
やっぱり、元令嬢の気まぐれだと思われるのではないか。
その不安は、もう鍋にかけると焦げつく種類のものだ。
私は深呼吸した。
「午後に一枚だけ縫います。」
「よろしい。」
「その後、ローレンスさんの店へ様子を見に行っても?」
「様子見という名のそわそわだね。」
「……はい。」
認めた。
マーサは笑った。
「行っておいで。自分の仕事が店に並んでるところを見るのも、仕事のうちだよ。」
その言葉に、少し救われた。
午後、私は宣言通り一枚だけ手巾を縫った。
鈴の刺繍だ。
昨日より少し小さめにし、紐の部分を細くして、揺れている感じを出す。
糸の端を始末して、布を畳む。
もっと縫いたい。
でも、今日はここまで。
自分で決めたことを守るのも、自立の一つだ。
自分で立てた予定に、自分で従う。
誰にも命じられず、誰にも急かされず。
それは思っていたより難しくて、少し誇らしい。
私は外套を羽織り、追加の手巾を籠に入れて家を出た。
畑の芽に声をかける。
「少し行ってくるわ。」
芽は返事をしない。
鳥除けの鈴が代わりに鳴った。
ちりん。
森の道を下り、町へ向かう。
今日は一人だった。マーサは別の用があると言っていた。
一人で店へ行くことに、以前ほど緊張しない自分がいた。
もちろん、視線は気になる。
誰かが私をどう見ているのか、まったく気にしないというわけではない。
けれど、籠の中に手巾がある。
昨日と同じだ。
作ったものがあると、背筋が少し伸びる。
ローレンスの店に入ると、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃい。ああ、来たね。」
ローレンスは棚の整理をしていた。
「追加かい?」
「三枚だけですが。」
「十分。無理してない証拠だね。」
「マーサさんに見張られていますので。」
「なるほど。いい見張りだ。」
ローレンスは手巾を受け取り、刺繍を見た。
「昨日より少し小さい鈴だね。」
「はい。普段使いなら、このくらいの方が邪魔にならないかと。」
「いい判断だと思うよ。」
その一言に、私はほっとした。
「他のものは……売れましたか?」
聞かないつもりだったのに、聞いてしまった。
ローレンスはにやりと笑う。
「気になるねえ。」
「……仕事の状況確認です。」
「殿下さんみたいな言い方になってるよ。」
「やめてください。」
思わず即答した。
あの人の口調が伝染しているなど、考えたくもない。
ローレンスは声を出して笑った。
「茶布が一枚売れたよ。蔓の方。」
「本当ですか。」
「本当。さっき、商人の奥さんが買っていった。落ち着いていていいってさ。」
また売れた。
今度は蔓の茶布。
私は胸の中で何かが跳ねるのを感じた。
「そうですか……。」
「はい、取り分。」
ローレンスは小さな硬貨を渡してくれた。
昨日より少し多い。
私は両手で受け取った。
手のひらに、冷たい硬貨の重みが乗る。
昨日ほど驚きはしない。けれど、昨日より少し現実味があった。
一枚売れた。
そして、また一枚売れた。
もしかして偶然ではないのかもしれない。
いや、まだ分からない。
でも、続けてもいいかもしれない可能性は出てきた。
「ありがとうございます。」
「礼を言うのはこっちだよ。店に置くものが増えるのは助かるからね。」
「本当に、売り物になっていますか。」
「なってる。あんた、そこを疑いすぎだね。」
「すみません。」
「謝るところじゃない。ただ、自分の仕事に値段がつくことに慣れてないんだろ。」
私は何も言えなかった。
その通りだったからだ。
「慣れればいい。売れたら嬉しい。売れなかったら考える。それだけだよ。」
「……はい。」
ローレンスは、私の追加の手巾を棚に並べた。
手巾たちは、石鹸の横に少し得意げに置かれているように見えた。
その時、店の奥にいた若い娘がこちらを見た。
パン屋の娘だろうか。市場で何度か見た気がする。
「あの、これ、あなたが縫ってるんですか?」
「はい。」
「可愛いですね。母が昨日、鈴の手巾を見て欲しがってました。」
「……そうですか。」
私はどう返せばいいのか少し迷った。
「ありがとうございます。」
結局、礼を言う。
娘は笑った。
「森の家の鳥除け、うちの弟が好きなんです。通るたびに鳴るかなって見てます。」
「鳥除けを?」
「はい。あれ、なんか楽しいって。」
私は驚いた。
あの鳥除けが、子どもの楽しみになっている。
畑を守るために作った、不揃いな古布と傷物の鈴。
それを誰かが可愛いと思い、楽しいと思う。
……世界は、思ったより不思議だ。
「うるさくないでしょうか。」
「全然。風が吹くとちょっと鳴るくらいで。森っぽくていいですよ。」
森っぽい。
そんな評価があるのか。
私は思わず笑った。
「ありがとうございます。近所迷惑になっていないなら、安心しました。」
「また新しいのができたら見に来ます。」
娘はそう言って笑って、店を出ていった。
私はしばらく扉を見ていた。
ローレンスが横で言う。
「ほらね。」
「何がですか。」
「あんたの暮らし、少しずつ町に混ざってきてる。」
「私の暮らしが。」
「そう。鳥除けも、刺繍も、森の家も。悪くないだろ。」
私は胸に手を当てた。
悪くない。
そう思った。
本当に、少しだけ。
追放された時、私はこの地に根を下ろすつもりなどなかった。
ただ、生き延びるだけのつもりだった。
それがいつの間にか、町の片隅に小さな根を伸ばしている。
帰り道、革袋の中で硬貨が軽い音を立てて鳴る。
昨日より少しだけ音が増えた。
私はその音を聞きながら、何を買うか考えた。
糸。
まずは糸だ。
淡い緑がもう少し欲しい。鈴の刺繍に合う薄黄色も。
茶葉はもう少し後。
生活の余白。
ヴィルヘルムが言った言葉を思い出す。
私は慌てて首を振った。
なぜ今思い出すのか。
糸について考えているだけだ。茶葉は関係ない。面倒な知り合いも関係ない。
……関係ない、と何度も言わなければならない時点で、もう少し怪しいのかもしれない。
私は心の中で口を噤んだ。それ以上は考えないことにした。
森の家へ戻ると、私は畑を確認した。
芽は無事。
鳥除けも無事。
家に入り、硬貨を机の上に置く。
昨日の分と今日の分。
合わせても小さな額だ。
それでも、並べると少しだけ心強い。
私は小さな紙に、使い道を書いた。
糸代。
食費。
屋根修理で減った分の補填。
茶葉。
最後の茶葉の文字を書いてから、しばらく眺める。
そして、横に小さく「後で」と書き足した。
今は糸が先。
でも、いつか買う。
自分のために。
決して誰かに出すためではない。
夕方になった。
この時間になっても、森の道から蹄の音は聞こえなかった。
私は針を持ったまま、ふと顔を上げる。
静かだ。
風の音。鳥の声。遠くの荷車の音。
馬の蹄ではない。
「……今日は公爵領館で用があると言っていたわね。」
口に出してから、私は固まった。
なぜ覚えているのか。
いや、覚えていて当然だ。昨日、本人が言った。夕方には確認に来られるかもしれない、と。
来られるかもしれない。
来るとは言っていない。
だから、来なくてもいい。むしろ来ない方がいい。
仕事があるのだから。夜に回すなと言ったのは私だ。
ではその私が、なぜ耳を澄ませているのか。
私は針を布に刺した。
少し曲がった。
「……。」
糸を抜く。
やり直す。
針を持つ。
また耳が森の道の方を向く。
よくない。
非常によくない。
私は立ち上がり、台所へ行った。
湯を沸かす。
自分のために。
自分のための湯。
茶葉は使わない。今日は湯で十分だ。
湯気が立つ。
私は器を一つだけ出した。
――一つだけ。
当たり前だ。
私は一人なのだから。
器に湯を注ぎ、机へ戻る。
その時、遠くで馬の蹄の音がした。
静かで、規則正しい音。
私は器を置いた。
少しだけ。
本当に少しだけ、胸が軽くなった。
そして、軽くなったことに腹が立った。
玄関を開けると、森の道から黒馬を引いたヴィルヘルムが現れた。
昨日より遅い。
夕方というより、もう夜に近い薄青の光が庭を包んでいる。
ヴィルヘルムの外套は濃紺で、肩にわずかに土埃がついていた。
淡い金髪も、いつもより少し乱れている。
急いできたのだろう。
そして、かなり疲れている。
たぶん。
本人は否定するだろうけれど。
彼は柵の外で足を止めた。
「遅くなりました。」
「来なくて結構でした。」
「はい。」
「はい、ではありません。」
「公爵領館の用件が長引きました。」
「それなら、なおさら来なくてよいでしょう。」
「確認が残っていましたので。」
「刺繍の進捗確認はありませんよ。」
「屋根と畑の確認です。」
「屋根は朝から急に壊れません。」
「畑は?」
「無事です。」
「鳥除けは?」
「無事です。」
「古い梯子は?」
「触っていません。当たり前です。」
「では、確認はかなり終わりました。」
「それでは帰ってください。」
言ってから、少しきついかと思った。
いや、きつくていい。
彼は疲れている。帰った方がいい。
「はい。」
ヴィルヘルムは素直に頷いた。
しかし、その場から動かない。
「何ですか。」
「今日、店へ行かれましたか。」
私は少しだけ黙った。
「……行きました。」
「売れましたか。」
なぜ分かるのか。
いや、昨日話したのだから、聞くのは自然かもしれない。
「茶布が一枚売れました。」
言うと、ヴィルヘルムの目元がほんの少しやわらかくなった。
「二枚目ですね。」
「はい。」
「おめでとうございます。」
また、その言葉。
おめでとう。
胸の奥がじんわり温かくなる。
「ありがとうございます。」
昨日より、少しだけ素直に言えた。
「何を買うか決めましたか。」
「糸を買います。」
「良いと思います。」
「茶葉は後です。」
「はい。」
「あなたに出すためではありません。」
「承知しています。」
「自分のためです。」
「それが良いと思います。」
昨日と似たやり取り。
でも、今日は少しだけ違う。
私は玄関先から、ヴィルヘルムの顔を見た。
やはり、少し疲れている。
目元がいつもより静かすぎる。外套の襟元も、わずかに乱れていた。
「……仕事は終わったのですか。」
「一部は。」
「一部?」
「残りは戻ってから行います。」
「また夜に回すのですか。」
「少しだけ。」
「信用できません。」
「では、少なくします。」
「同じです。」
私は眉を寄せた。
ヴィルヘルムは真面目にこちらを見ている。
この人は、こちらがどれだけ言っても、来る理由を見つけてくる。
屋根。畑。鳥除け。古い梯子。刺繍の進捗。生活基盤。
いくらでも。
けれど、今日は本当に疲れているように見えた。
私はため息をついた。
「水を飲みますか。馬が。」
「馬が。」
「そうです。馬です。」
「いただけるなら。」
「あなたにではありません。」
「はい。」
なぜ少し嬉しそうなのか。
こんなふうに扱われて嬉しそうにする王子が、この世にいるとは思わなかった。
私は井戸へ向かい、水を汲んだ。
黒馬は静かに水を飲んだ。
ヴィルヘルムはその首を撫でる。
その手つきだけは、どれだけ疲れていても、少しも乱れない。
私はその横顔を見る。
夕方の薄青い光の中で、彼の輪郭は少しだけ遠く見えた。
王族。
第三王子。
次期公爵。
王都から呼ばれている人。
往復四時間かけて来る、面倒な知り合い。
すべて同じ人のはずなのに、時々私が見ている彼がどれなのか分からなくなる。
「殿下。」
「はい。」
「無理をしてまで来る必要はありません。」
「……。」
「本当に。」
ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。
黒馬が水を飲む音だけが聞こえる。
やがて、彼は静かに言った。
「来られる日は、来ます。」
「だから、それが無理なのでは。」
「無理ではありません。」
「信用できません。」
「……では、来られない日は来ません。」
「当たり前です。」
「はい。」
「当たり前のことを、約束のように言わないでください。」
「すみません。」
言いながら、彼は少しだけ目を伏せた。
その横顔が、なぜか寂しそうに見えた。
気のせいだ。
きっと疲れているだけだ。
「来ない日があっても、屋根は急に壊れませんし、畑も一日では消えません。」
「はい。」
「私も、倒れません。」
「それは信用できません。」
「なぜですか。」
「前例があります。」
「濡れた床に座り込んだことは、報告していないはずですが。」
言った瞬間、しまったと思った。
ヴィルヘルムの目がこちらを向く。
静かに、しかし鋭く。
「座り込んだのですか。」
「……比喩です。」
「比喩ではない声でした。」
「見すぎです。」
「今のは聞きすぎ、です。」
「そういう問題ではありません。」
自分でも少し混乱した。
ヴィルヘルムは黒馬から手を離し、柵の外で姿勢を正した。
「怪我は。」
「していません。」
「本当に?」
「本当に。」
「床で滑ったのですか。」
「……少し。」
「どこを打ちましたか。」
「手をついただけです。」
「痛みは。」
「もうありません。」
「なぜ言わなかったのですか。」
「言う必要がありません。」
「あります。」
声が少し低くなった。
私は反射的に言い返した。
「ありません。私は子どもではありません。むしろあなたより年上です。」
「分かっています。」
「分かっていません。」
「分かっています。」
「では、そんな顔をしないでください。」
「どんな顔でしょう。」
「まるで……。」
まるで、心臓を掴まれたような顔。
そう言いかけて、やめた。
言ってはいけない気がした。
その顔の意味を、私はまだ知らないことにしておきたかった。
「とにかく、怪我はしていません。床も拭きました。桶も戻しました。今は屋根も直っています。問題はありません。」
「……はい。」
ヴィルヘルムはようやく頷いた。
しかし、まだ少し表情が硬い。
私はなぜか胸がちくりとした。
言わなければよかった。
いや、勝手に聞き出したのは彼だ。
私のせいではない。
「ほら、早く帰ってください。仕事が残っているのでしょう。」
「はい。」
「本当に。」
「はい。」
「夜に回す仕事を少なくするのですよ。」
「努力します。」
「だから、その言葉は信用できません。」
「では、約束します。」
約束。
その言葉に、雨漏りの夜を思い出した。
梯子には触れない。
――約束。
この人は、約束という言葉を、義務の人間にしては大事に使いすぎる。
私は少しだけ黙った。
「……では、約束です。」
「はい。」
「破ったら、明日は来なくて結構です。」
「それは困ります。」
「困るのですか。」
言ってから、自分で驚いた。
ヴィルヘルムも、ほんの一瞬止まる。
沈黙。
黒馬が小さく鼻を鳴らした。
ヴィルヘルムは視線を少しだけそらし、静かに答えた。
「確認が、できませんので。」
「……でしょうね。」
私はすぐに言った。
少し早口だったかもしれない。
胸が変に跳ねたからだ。
その「確認」という言葉の下に、別の言葉が隠れていることに、もう私は気づきかけている。
気づきかけて、見ないふりをしている。
「では、確認に支障が出ないよう、早くお帰りください。」
「はい。」
ヴィルヘルムは馬にまたがった。
もう空は薄暗い。森の道には、夕方の影が落ちている。
「レベッカ嬢。」
「何ですか。」
「二枚目も、おめでとうございます。」
私は息を詰めた。
「……ありがとうございます。」
「無理をしない範囲で、続けてください。」
「あなたもです。」
「はい。」
「はい、ではなく、約束ですよ。」
思わず言っていた。
ヴィルヘルムは馬上で、ほんの少し目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「約束します。」
その声は、なぜかとても真面目だった。
たかが「無理をしない」という約束に、この人は、なぜこんな声を出すのだろう。
彼は軽く頭を下げ、黒馬を進めた。
蹄の音が、夜に近い森の道へ消えていく。
私は見送らないつもりだった。
でも、今日は遅い時間だ。
道が暗い。
だから、足取りを確認する必要がある。
そういうことにした。
姿が見えなくなってから、私は家へ戻った。
机の上には、縫いかけの茶布。横には、今日得た硬貨。
私は椅子に座り、針を持った。
けれど、すぐには縫い始めなかった。
耳の奥に、まだ蹄の音が残っている。
――約束します。
その声も。
心臓を掴まれたような、あの顔も。
「……仕事の確認が面倒なだけよ。」
誰に言うでもなく呟く。
完全に夜の帳が落ちた森で、風が木々を揺らす音だけが微かに響いていた。
静かすぎるせいで落ち着かないのだと、私は自分に言い聞かせていた。




