第二十七話 あたらしい試作品
朝、私は糸の残りを確認した。
淡い緑は、思っていたより早く減っている。
双葉の刺繍に使うと、どうしてもこの色ばかり手が伸びるからだ。
薄い黄色も、鈴の刺繍にほんの少し入れると可愛い。
灰色は、紐や影に使える。
青は、まだあまり減っていない。小花に使えばいいかもしれない。
私は糸を机の上に並べ、昨日得た硬貨を横に置いた。
からり。
小さな音。
まだ頼りない音だ。
けれど、最初よりは増えた。
最初の一枚。
二枚目。
その音が、確かにここにある。
追放された日、私の手元に残ったものは、売るか、守るか、迷うものばかりだった。
けれど、今机の上にある硬貨は違う。
私が縫ったものを、誰かが欲しいと思って払ってくれた硬貨だ。
小さい。
でも、軽くはない。
「糸を買いに行くべきね。」
私は小さく呟いた。
まずは糸。
仕事を続けるには、材料がいる。
これは浪費ではない。
投資。
そう考えた瞬間、ヴィルヘルムの声が頭をよぎった。
――糸は、仕事のための投資です。
「……なぜ思い出すの。」
糸の話をしているだけなのに。
……やはり非常に面倒だ。
私は革袋に硬貨を入れ、外套を羽織った。
畑の芽を見に行くと、双葉は少しだけしっかりしてきたように見えた。
もちろん、昨日と今日で大きく変わるはずはない。それでも、毎朝見ると、少しずつ違う気がする。
同じように見える土の上で、ちゃんと生きている。
「今日は糸を買ってくるわ。」
芽に話しかける。
もちろん返事はない。
庭の鳥除けの鈴が、ちりんと鳴った。
今日も行ってこい、と言われた気がした。
いや、鈴は何も言わない。
最近、私は物に意味を持たせすぎている気がする。
けれど、それも悪くない。
きっと豊かな生活は人を詩人にするのだ。
いや、むしろ心のゆとりが、生活の豊かさをつくる、という方が合っているだろうか。
一人で考えを巡らせながら、森の道を下り、町へ向かう。
朝の町は、市場ほど賑やかではないが、人々の生活であふれている。
パン屋から焼けた小麦の甘く香ばしい香りが漂っていた。
この香りは本当に危険だ。
糸を買うのだ。
パンではない。
私は心の中で自分に言い聞かせた。
しかし、パン屋の前を通ると、店先に出ていた娘が私に気づいた。
「あ、森の家のレベッカさん。」
私は足を止めた。
森の家のレベッカさん。
何度聞いても、少し不思議な呼び名だ。
……けれど、悪くはない。
「おはようございます。」
「おはようございます。昨日あれから、母が鈴の手巾を買いました。すごく気に入ってましたよ。」
「それは……ありがとうございます。」
「弟が、あの鈴の刺繍を見て、自分も欲しいって騒いでいて。」
「弟さんが?」
「はい。畑の鳥除けの鈴、通るたびに鳴るかなって見ているので。」
私は少しだけ笑った。
「鳥除けは売り物ではありませんよ。」
「分かってます。でも、鈴の絵がついた小さい布とかあったら、欲しがるかも。お守りみたいなものとか。」
「小さい布。」
「あ、すみません。勝手なことを言って。」
「いえ。」
私は少し考えた。
小さな布。
鈴の刺繍。
お守りのようなもの。
高い布ではなく、端切れで作れるかもしれない。
紐をつければ、鞄や籠に結べる。子ども向けなら、少し可愛くしてもいい。
頭の中で、布の形と針の順番が組み上がっていく。
誰かに命じられた仕事ではない。
誰かの一言から、次の形が自然に生まれていく。
それが少し楽しかった。
「……試してみます。」
「本当ですか?」
「売れるほどのものになるのかどうかは分かりませんが、少し工夫すれば作れそうです。」
「弟、喜ぶと思います。」
パン屋の娘は嬉しそうに笑った。
私はその笑顔に、少し戸惑った。
誰かが、私の作るものを待っている。
まさかそんなことがあるのだろうか。
世界は本当に不思議だ。
「ありがとうございます。こちらこそ良い案をいただきました。」
「いえ。こちらこそ。」
娘は店へ戻りかけ、ふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日の夕方、あの高そうな知り合いの方、また来てましたね。」
私は固まった。
「高そうな知り合い。」
「ほら、金髪の。きれいな方。」
「……面倒な知り合いです。」
「あ、そうでした。面倒な知り合い殿下さん。」
何という呼び名が広がっているのか。
非常によくない。
「同行者だったわけではありません。」
「はい。距離を取る方ですよね。」
「……距離を取る方。」
「市場でもそうだったって聞きました。少し離れてついてくるって。」
私は頭を抱えたくなった。
市場の話がまだ残っている。
町というものは、本当に鍋より早く話が煮える。
マーサの言葉は正しかった。
「その方、今日も来るんですか?」
「知りません。」
「え、毎日来てるんじゃないんですか?」
「毎日ではありません。」
たぶん。
いや、その通りなのだが。
でも毎日と断言されると困る。
「監視……ではなく、確認することがあるそうで。」
自分で言ってから、さらに困った。
なぜ私が説明しているのか。
しかも、彼の言い回しで。
パン屋の娘は、にこにこと笑った。
「町が明るくなるってみんな喜んでましたよ。今日は糸を買いに行くんですか?」
「はい。」
「レベッカさんの手巾、また見に行きますね。」
「ありがとうございます。」
私はパン屋を離れた。
もう深く考えまい。
考えたら考えた分だけ歩みが遅くなる。
今は糸だ。
糸を買うのだ。
私は何度も自分に言い聞かせた。
糸屋は、ローレンスの店から少し先にあった。
小さな店だが、棚には糸や針、布切れ、紐がきれいに並んでいる。
店主は眼鏡をかけた中年の女性で、初めて来た私をじっと見た。
「いらっしゃい。」
「刺繍用の糸を見せていただきたいのですが。」
「色は?」
「淡い緑と、薄い黄色を少し。あと、鈴の影に使えるような灰色を。」
「鈴?」
「刺繍の意匠です。」
「もしかして、ローレンスの店に置いてる手巾を作ってる人かい?」
私はまた固まった。
「……はい。たぶん。」
「たぶんって何だい。あの双葉と鈴の刺繍だろう?」
「はい。」
「見たよ。小さいけど繊細で、使い勝手が良さそうだ。」
「ありがとうございます。」
私は頭を下げた。
ここでも見られている。
自分の知らないところで、布が歩いているような気がした。
不思議で、少し怖くて、でも嬉しい。
店主は棚から糸をいくつか出してくれた。
「この緑はどうだい。少し若葉っぽい。」
「綺麗ですね。」
「こっちは少し落ち着いた色。年配の人向けには、こっちの方がいいかもね。」
「では、両方少しずつ。」
「薄黄色は?」
「鈴に少しだけ入れたいので、明るすぎないものを。」
「ならこれだ。」
店主の手際は早かった。
私は値段を聞き、革袋の中身を思い浮かべる。
全部買うと、少し多い。
しかし、仕事の材料だ。
使う。
売る。
戻ってくる。
たぶん。
いや、戻るように作る。
「緑を二色、黄色を一つ、灰色を一つください。」
「はいよ。」
硬貨を渡す。
革袋はまた軽くなる。
だが、今日は以前ほど怖くなかった。
代わりに、糸が手に入ったからだ。
糸は、これから硬貨へ変わるかもしれない。
私の手を通して。
店主は糸を包みながら言った。
「追加で買いに来るくらい売れるといいね。」
「はい。売れるように作ります。」
「いい返事だ。」
私は小さく笑った。
店を出ると、ローレンスの店にも寄った。
昨日追加した手巾はまだ残っていたが、双葉の茶布が一枚、取り置きになっているという。
「商人の奥さんが、次に来る時に友達へ渡すって。」
「贈り物に?」
「そう。だから、同じものをもう一枚欲しいって。」
同じもの。
注文。
私は一瞬、言葉を失った。
「できますか?」
「できます。少しお時間をいただければ。」
「焦らなくていいよ。三日くらいで。」
「三日。」
三日なら、無理なくできる。
他の手巾も縫える。
私は頭の中で予定を組み立てた。
双葉の茶布を一枚。
小さな鈴飾りの試作。
残りの手巾。
目を休める時間。
マーサに見つかった時に怒られない程度の進み方。
「でき次第持ってきます。」
「じゃあ頼んだよ、森の家の刺繍屋さん。」
「刺繍屋。」
思わず繰り返した。
ローレンスはにやりと笑った。
「嫌かい?」
「……いいえ。」
嫌ではない。
ただ、少しだけ、くすぐったい。
森の家の刺繍屋。
元公爵令嬢でも、罪人でも、国外追放者でもなく、刺繍屋。
まだ、そんな立派なものではない。
でも、ほんの少しだけ、そうなれたらいいと思った。
肩書きを失った時、私は何者でもなくなったと思っていた。
それが今、自分の手で、新しい呼び名を縫い始めている。
とても不思議な感覚だった。
家に戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
私は簡単に食事を済ませ、買ってきた糸を机に並べた。
淡い緑。
若葉の緑。
薄黄色。
灰色。
新しい糸があるだけで、机の上が少し華やぐ。
私は端切れを取り出し、パン屋の娘に言われた小さな鈴のお守りを試作してみることにした。
小さな四角い布を二枚合わせる。
中に少しだけ余り布を入れる。
端を縫い、紐を通せるようにする。
表には鈴の刺繍。
裏には小さな双葉。
これなら、子どもでも持ちやすい。鞄や籠にも結べる。
お守り、と呼ぶには大げさかもしれない。
でも、鳥除けの鈴が畑を守るなら、この小さな鈴も何かを守るように見えるかもしれない。
「……悪くない。」
私は試作品を手のひらに乗せた。
小さい。
軽い。
でも可愛い。
……これは、売れるかもしれない。
いや、まずはパン屋の弟に見せるところからだ。
私は下絵を描き、必要な糸を書き出した。
集中していると、時間はあっという間に過ぎていく。
気づけば、窓の外の光が少し傾いていた。赤い斜陽に目を細める。
もう夕方だ。いつのまに。
私は無意識に耳を澄ませた。
森の道。
蹄の音。
……聞こえない。
私は針を置いた。
「……今日は来なくてもいいと言ったものね。」
言ってから、また固まる。
そう、私が言った。昨日。
確かに言った。
……でも、来ないとは言われていない。
公爵領館の用があるかもしれない。
仕事が長引いたのかもしれない。
王都から使者が来ているのかもしれない。
いや、なぜ私がそこまで考えるのか。
関係ない。
彼の仕事がどうなろうと、私には関係ない。
ただ、夜に仕事を回すなと約束したから。
もしかしたらその確認が必要なだけだ。
確認。
本当に便利な言葉だ。
こんなにも使いやすい。
あの人の使う言葉が、こちらに移ってきている気がする。
それも腹立たしい。
私は立ち上がり、畑を見に行った。
芽は無事。
鳥除けも無事。
屋根も、もちろん無事。
……古い梯子にも触っていない。
つまり、私に確認されるようなことは今のところ特にない。
ないはずだ。
……なのに、森の道を見てしまう。
その時、背後から声がした。
「待っているのかい。」
「待っていません。」
どくりとした心臓そのまま、即答した。
振り返ると、マーサが籠を抱えて立っていた。
「まだ何も言ってないよ。」
「今、言いました。」
「そうだったね。」
マーサは楽しそうに笑った。
「糸は買えたかい?」
「はい。あと、ローレンスさんから注文を受けました。」
「おお。やったじゃないか。」
「双葉の茶布を一枚。三日以内です。」
「なら無理せずできるね。」
「はい。それと、パン屋さんの弟さん向けに、小さな鈴の布飾りを試作しています。」
「へえ。商売が広がってきたじゃないか。」
「まだ試作です。」
「試作でも、広がりは広がりだよ。」
マーサは畑の前まで来て、芽を見た。
「畑も、仕事も、ちょっとずつだね。」
「はい。」
「で、面倒な知り合い殿下さんは?」
「知りません。」
「今日は遅いのかい。」
「知りません。」
「来るとは言ってた?」
「……言っていません。」
「なら、来ないかもしれないね。」
「それでいいのです。仕事を夜に回さないと約束しましたから。」
「約束ねえ。」
マーサの声が面白がっている。
私はついつい顔をそらした。
「……仕事管理の話です。」
「そうかい。」
「馬の負担の話でもあります。」
「そうだねえ。」
「あと、往復四時間は非合理です。」
「そうだねえ。」
完全に信じていない。
私は何も言わず、鳥除けの鈴を見た。
ちりん。
風で小さく鳴る。
マーサは私の隣に立ち、森の道を見た。
「まあ、来ても来なくても、あんたは今日、自分の仕事を進めた。それでいいんじゃないかい。」
私は少しだけ目を伏せた。
「……そうですね。」
来ても来なくても。
私は今日、糸を買った。
注文を受けた。
新しい試作品を考えた。
それは本当だ。
誰かが来るかどうかとは別に、私の暮らしは進んでいる。
そのことを忘れてはいけない。
誰かを待つだけで一日が決まるような女に、二度と戻りたくないのだから。
「ありがとうございます、マーサさん。」
「何がだい。」
「何となくです。」
「便利な礼だねぇ。」
マーサは笑った。
その時だった。
森の道の向こうから、かすかに蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は反射的に顔を上げた。
マーサが横で、にやりとした。
「待ってないんだったね。」
「確認です。」
「何の?」
「……馬の足音の確認です。」
「なんとまあ便利な言葉だ。」
私は黙った。
やっぱり勝てない。
やがて、黒馬を引いたヴィルヘルムが森の道から現れた。
手綱を引いて歩いている。
黒馬の歩調はゆっくりで、ヴィルヘルムもそれに合わせていた。
濃灰の外套。
少し乱れた淡い金髪。
夕方の光に照らされて、青い瞳がこちらを向く。
彼は柵の外で足を止めた。
「こんばんは、レベッカ嬢。マーサ殿。」
「こんばんは、殿下さん。今日もご苦労だね。」
「確認に参りました。」
「だそうだよ、レベッカ。」
「……聞こえています。」
私は腕を組んだ。
「今日は来なくても結構でした。」
「はい。」
「はい、ではありません。」
「公爵領館の用件が長引きましたが、仕事は殆ど終わらせてきました。」
「殆ど?」
「はい。夜に回す分は大分減らしました。」
「……そうですか。」
「約束しましたので。」
――約束。
その言葉に、胸の奥が少し変なふうに動いた。
彼は本当に私との約束を守ろうとしている。
往復四時間に加えて。
来ること自体をやめればいいのに、わざわざ約束を守りながら。
合理的ではない。
非常に合理的ではない。
「なら、なおさら早く帰るべきでは?」
「確認が終われば。」
「屋根は無事です。畑も無事。鳥除けも無事。古い梯子には触っていません。刺繍は進んでいます。以上です。」
「ありがとうございます。」
「これで終わりですね。」
「糸は買えましたか。」
なぜそこを確認するのか。
私は少しだけ睨んだ。
「買えました。」
「良かったです。」
「それも確認事項ですか。」
「生活基盤に関わる事項ですから。」
「本当に便利な言葉ですね。」
ヴィルヘルムは少しだけ考えた。
「便利?」
「何でもそれで済ませています。」
「……そうかもしれません。」
意外にも、彼は認めた。
マーサが隣で面白そうに目を細めている。
「殿下さん、今日は遅かったね。馬を歩かせてきたのかい?」
「はい、途中からは。今日は少し疲れが出ているようでしたので。」
「馬の方が賢いね。無理をしたら歩く。」
「見習います。」
「そうしな。」
マーサは容赦ない。
ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
この二人の会話は、時々妙に合う。
「水を汲みましょうか。馬に。」
言ってから、私はまたしまったと思った。
自然に出た。
自然に。
非常によろしくない。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「いただけるなら。」
「馬にですよ。」
「はい。」
「あなたにではありません。」
「承知しています。」
このやり取りにも慣れてきている自分がいる。
それもまたよろしくない。
私は井戸へ向かった。
桶を下ろし、水を汲む。水の重さにも大分慣れた。
桶を運ぼうとすると、ヴィルヘルムがさりげなく手を伸ばした。
「持ちます。」
「結構です。」
「重いです。」
「持てます。」
「……分かりました。」
彼は引いた。
本当に、無理には奪わない。
……それがなんだか少しだけ悔しい。
手伝うと言いながら、こちらが断ると引く。そのくせ、危ない時は絶対に引かない。
線の引き方が細かい。
……非常に面倒だ。
そして最近、その線を彼が私のために引いているのだと、少し分かってしまう。
それが一番面倒だ。面倒すぎて、とても困る。
黒馬は水を飲み始めた。
その様子を見ながら、マーサが私の籠を覗いた。
「そうだ、レベッカ。殿下さんにも見せたらどうだい。小さい鈴のやつ。作ってみたんだろ?」
「なぜですか。」
「だって生活基盤とかなんかの確認のために来てるんだろう?」
「マーサさん。」
余計なことを。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「小さい鈴?」
「試作品です。まだ売り物ではありません。」
「見ても?」
「……玄関先で。」
「はい。」
なぜこうなるのか。
私は家の中から、小さな布飾りを持ってきた。
鈴の刺繍を入れた小さな四角い布。裏には双葉。
紐はまだ仮のものだ。
「パン屋さんの弟さんが、鳥除けの鈴を気に入っているらしいので。端切れで作れる小さな飾りを考えています。」
ヴィルヘルムは、それを両手で受け取った。
また、重要な書類を見るような顔をする。
「小さいですね。」
「小さい布飾りですから。」
「裏は双葉ですか。」
「はい。」
「表が鈴。裏が芽。」
「そうです。」
「良いと思います。」
「だから、簡単に褒めないでください。」
「簡単ではありません。」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「畑を守る鈴と、育つ芽。よい組み合わせです。」
私は言葉に詰まった。
確かにそんなつもりで作った。
でも、改めて言われると落ち着かない。
守る鈴。
育つ芽。
私がここで得たものばかりだ。
「……子ども向けです。」
「はい。」
「高価なものではありません。」
「はい。」
「端切れです。」
「無駄がなくて良いと思います。」
「なぜそういう言い方をするのですか。」
「事実ですので。」
またそれだ。
私は布飾りを取り返した。
「商品化するかは未定です。」
「売れると思います。」
「見込みで言わないでください。」
「では、私は買います。」
「買わないでください。」
即答した。
ヴィルヘルムが瞬きをする。
マーサが噴き出した。
「早いねえ。」
「この方が買うと、需要が分からなくなります。」
「なるほど。」
「そしてまた何か変な理由をつけて買い占めそうです。」
装飾具の前例がある。
確認、と言って買い占められたら仕事にならない。
「確かにそれは困るねえ。」
ヴィルヘルムは少しだけ困った顔をした。
「買い占めはしません。」
「信用できません。」
「一つだけでも?」
「駄目です。」
「……はい。」
少しだけ残念そうに見えた。
気のせいだ。
きっと。
しかし、なぜこの人は小さな鈴の布飾りなんかを欲しがるのか。
王族だろう。
次期公爵だろう。
王都から呼ばれているような人だろう。
端切れの鈴飾りなど、何に使うのか。
「……欲しいのですか。」
つい聞いてしまった。
ヴィルヘルムは少し黙った。
そして、真面目に答えた。
「はい。」
「なぜ。」
「あなたの暮らしの印なので。」
胸の奥が、大きく跳ねた。
また。
また、この人は。
言葉が少ないくせに、時々こちらの心臓に直接触るようなことを言う。
本人にその自覚がなさそうなのが、さらに悪い。
マーサが、ふっと笑う気配がした。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「……売り物になってから、ローレンスさんの店で買ってください。」
言ってから、しまったと思った。
買うことを許してしまった。
ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけ和らいだ。
「はい。」
「ただし、一つだけです。」
「はい。」
「買い占め禁止です。」
「約束します。」
「約束が増えますね。」
「守ります。」
その声が真面目すぎて、私はどう返せばいいのか分からなくなった。
黒馬が水を飲み終えた。
マーサが伸びをする。
「さて、私は帰るよ。若い人たちは確認でも何でもしてな。」
「マーサさん。」
「何だい。」
「誤解を招く言い方をしないでください。」
「誤解ねえ。」
マーサは笑いながら去っていった。
残されたのは、私とヴィルヘルムと黒馬。
夕方の風。
春のふわりとした滑らかな空気が森の木々を滑るように抜けていく。
木々が騒めき、足元の草木が穏やかなさざ波のように揺れた。
鳥除けに結ばれた錦の旗が細かにたなびいて、結ばれた鈴が笑い声のように軽やかな音を立てる。
美しい黒馬と、夕陽を受けて白銀にも見える金髪に深い海を思わせる両の碧眼。
青い瞳がこちらを見て、また眩しそうに少し細められる。
この目。また、この目だ。
なんなのだろう。
言いたいことがあるなら、いつものように簡潔に言えばいいのに。
私は慌てて目線を下げた。
手の中には先ほど彼が持っていた小さな鈴飾り。
私は咳払いした。
「では、確認は終わりましたね。」
「はい。」
「帰ってください。」
「はい。」
「本当に。馬も疲れているのでしょう。」
「今日は途中まで歩かせて帰ります。」
「それならさらに遅くなるのでは?」
「はい。」
「ではなおさら、早く出た方がいいです。」
「はい。」
返事ばかり。
でも、今日は少しだけその返事が穏やかに聞こえた。
ヴィルヘルムは黒馬の手綱を取った。
そして、ふと私の手元を見る。
「その試作品は、明日ローレンス殿の店へ?」
「まずパン屋さんの方に見せに行こうと思います。弟さんが欲しいと言っていたそうなので。」
「そうですか。」
「何ですか。」
「いえ。最初の買い手が決まりそうですね。」
最初の買い手。
また、その言い方。
この人は、最初という言葉を大事にする。
最初の一枚。
最初の買い手。
私が自分でも見落としそうな小さな始まりを、なぜか拾い上げる。
――まるで、私の暮らしを一つずつ数えているみたいに。
「……売れるかは分かりません。」
「はい。」
「でも、作ります。」
「はい。」
「それだけです。」
「それが良いと思います。」
私は小さく息を吐いた。
この人と話していると、妙に腹が立つ。調子が狂う。
なのに、少しだけ背中を押されたような気になる時がある。
……それが一番やっかいだ。
「では、失礼します。」
ヴィルヘルムは黒馬を引いて歩き出した。
今日は馬に乗らず、森の道をゆっくり進む。
その背中を、私は見送らないつもりだった。
でも、馬が疲れていると言っていたから。歩調を見る必要がある。
……今日はそういうことにした。
森の道の向こうへ、ヴィルヘルムと黒馬の姿がゆっくり消えていく。
その後ろ姿は、いつもより少しだけ近く見えた。
いや、馬に乗っていなかったからだ。だからこれは気のせいだ。
私は家へ戻り、机の上に小さな鈴飾りを置いた。
表は鈴。
裏は双葉。
守るものと、育つもの。
ヴィルヘルムの言葉が、まだ胸の中に残っている。
――あなたの暮らしの印なので。
「……本当に、会話しづらい人。」
私は呟き、針を持った。
外で鳥除けの鈴が、ちりんと鳴った。
まるで、笑っているようだった。




