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第二十八話 鈴と双葉の小さな布飾り

 磨かれた窓ガラスから、朝の少し眩しいくらいの光が差し込み、部屋を明るく照らしていた。

 私はその光の下、机の上に小さな布飾りを三つ並べた。


 表には鈴。裏には双葉。

 四角い端切れを二枚合わせ、中に余り布を少しだけ入れた、小さな飾りだ。

 紐を通せば、籠や鞄に結べる。子どもの手にも収まる。

 お守りと呼ぶには少し大げさだけれど、ただの端切れよりは、ほんの少し楽しいものに見えた。


 私は一つを手に取り、指先で軽く押した。

 ふっくらしている。

 刺繍した鈴は、もちろん音など鳴らない。

 けれど、庭の鳥除けの鈴を知っている人なら、風に揺れるあの音を思い出すかもしれない。


 ちりん。

 ちりん。

 森の家の庭で鳴る、小さな音。


 私は窓の外を見た。

 鳥除けは今朝も立っている。

 古布が風に揺れ、傷物の鈴が控えめに鳴った。


「……守る鈴と、育つ芽。」


 思わず呟いてしまう。

 昨日、ヴィルヘルムが言った言葉だ。


 思い出す必要はない。

 だが、あの言葉は不思議と、布飾りの中に入り込んでしまった。

 表の鈴。裏の芽。守るものと、育つもの。

 まるで、この家そのもののようだ。


 私は軽く首を振った。


 いけない。

 朝から妙なことを考えてはいけない。

 面倒な知り合いの一言を、布の中にまで縫い込んだらどうするのだ。


 今日はパン屋の娘に、この試作品を見せる予定だ。

 弟が欲しがるかもしれないと言っていた。

 欲しがる、かもしれない。

 ……それだけで、少し緊張する。


 手巾や茶布とは違う。

 これはまだ、ローレンスの店に置く正式な商品でもない。

 誰かの言葉から生まれた、試しの品だ。


 ――もし喜んでもらえたら。


 そう考えたところで、胸が少し弾んだ。


 私は布飾りを小さな籠に入れた。

 一つは鈴が薄黄色。一つは灰色。一つは淡い青。

 裏の双葉は、どれも少しずつ緑を変えた。


 同じものを作るつもりでも、どうしても少しずつ違う。

 以前の私なら、それを失敗だと思っただろう。

 王宮で求められたことは、完全に整えられ、揃っていることだった。

 乱れがないこと。線がぶれないこと。誰が見ても正しいこと。


 けれど今は、少しだけ思う。


 同じでなくてもいいのではないか。

 完璧な形でなくとも、音は鳴る。

 ……いや、これは音は鳴らないのだけれど。


 私は自分で少し笑ってしまった。


 火を入れ、簡単な朝食を済ませる。

 畑の芽を確認し、鳥除けの紐を少し結び直す。

 それから籠を持って、町へ向かった。


 森の道は、朝の光で明るかった。

 雨上がりから数日経ち、ぬかるみも少しずつ乾いている。

 木々の葉にはまだ瑞々しさが残り、風が吹くたびに、緑の匂いが濃くなる。


 以前は、この道を歩くたびに不安だった。

 誰に見られるのか。何を言われるのか。自分が何者として扱われるのか。

 そればかり気にしていた。


 今も、完全に気にならないわけではない。

 けれど、今日も籠の中には私の作ったものがある。

 誰かに見せるために持っていくもの。

 誰かを喜ばせるかもしれないもの。


 それがあるだけで、足取りが少し違う。

 手の中に作ったものがあると、人は少しだけ背を伸ばせるらしい。


 パン屋の前に着くと、店の中からまた焼きたてのパンの甘い香りが流れてきた。


 毎度のことながら危険だ。

 非常に危険だ。


 今日は布飾りを見せるために来たのであって、パンを買いに来たのではない。

 けれど、もし売れたら少しなら買ってもいいのではないか。


 いや、まだ売れていない。

 売れる前から使い道を考えるのは危険だ。

 皮算用は、鍋にかけなくても焦げる。


 私は心を引き締め、店先へ立った。


「あ、レベッカさん。」


 パン屋の娘が、奥から顔を出した。


「おはようございます。」


「おはようございます。もしかして、作ってくださったんですか?」


「試しにですが。」


 私は籠から小さな布飾りを取り出した。

 娘の目が丸くなる。


「わあ……可愛い。」


 その一言だけで、胸の奥がふわりと温かくなった。


「まだ試作品です。売り物にできるかは分かりませんが。」


「いえ、可愛いです。ちょっと待ってください。弟を呼んできます。」


 娘はぱたぱたと奥へ走っていった。

 私は店先で少し待つ。


 香ばしい小麦の香り。

 見るからにふんわりとした焼きたての丸パンが、棚に並んでいる。

 視線がどうしてもそちらを向いてしまう。


 そこへ、娘が一人の男の子を連れて戻ってきた。

 六歳くらいだろうか。髪は寝癖が残っていて、頬には粉が少しついている。

 男の子は最初、私を見て少し隠れた。


 私は膝を軽く曲げ、目線を少しだけ下げた。


「おはようございます。」


「……おはよう。」


 小さな声。

 娘が笑った。


「ほら、森の家の鈴の人よ。」


 森の家の鈴の人。

 また新しい呼び名だった。


 どう受け止めればいいのか分からない。

 断罪された悪女から、森の家の鈴の人まで。

 ……ずいぶん遠くへ来たものだ。


 男の子は、その呼び名で少しだけ顔を上げた。


「鈴?」


「はい。昨日、お姉さんから聞いて、作ってみました。どれか欲しいものはありますか?」


 私は布飾りを三つ、手のひらに乗せた。

 男の子は目を輝かせた。


「鳥さんの鈴?」


「畑の鳥除けの鈴です。これは音は鳴りませんが、鈴の形を縫ってあります。」


「こっちは?」


「裏は芽です。」


「芽?」


「畑に出た小さな芽です。大きく育つように。」


 男の子は真剣に三つを見比べた。


 薄黄色。

 灰色。

 淡い青。


 子どもというものは、すぐ選ぶのかと思っていた。

 けれど彼は、眉を寄せてかなり悩んでいる。


 その真剣さが、少し嬉しかった。

 誰かが、私の作ったもののために、こんなに真剣に悩んでくれる。


「これ。」


 彼が選んだのは、薄黄色の鈴だった。


「黄色でよろしいですか?」


「うん。鳴りそう。」


 鳴りそう。

 私は思わず笑ってしまった。


「音は鳴りませんよ。」


「でも、鳴りそう。」


「そうですね。鳴りそうに見えるなら、良かったです。」


 男の子は布飾りを両手で持ち、大切そうに眺めた。

 その様子を見て、胸の奥がきゅっとなる。

 誰かが、私の作ったものを大切そうに持っている。


 それは、思っていたよりずっと不思議で、ずっと嬉しい光景だった。


 パン屋の娘が代金を払おうとする。


「いくらですか?」


「まだ試作品ですから。」


「駄目です。教えてください。」


「ですが。」


「母が、手間の分はちゃんと払えって言ってました。ローレンスさんもそう言ってたって。」


 ローレンスの言葉が広がっている。

 手間の分は、値段に入れる。


 私は少しだけ迷い、控えめな金額を言った。

 娘は頷き、硬貨を渡してくれた。

 男の子は、その間も布飾りを握っている。


 私は硬貨を受け取った。


 たった一つ。

 小さな布飾り。


 でも、売れた。


「ありがとうございます。」


 私が言うと、男の子が顔を上げた。


「ありがとう。鈴の人。」


 鈴の人。

 私は少しだけ笑った。


「どういたしまして。」


 店を出ようとすると、パン屋の娘が小さな丸パンを一つ紙に包んでくれた。


「これは、おまけです。」


「いえ、そんな。」


「試作品をすぐ作ってくれたお礼です。あと、弟がすごく喜んだので。」


「でも。」


「余った分なので。受け取ってください。」


 余った分。

 絶対、気を遣わせないための言い方だ。

 私は少しだけ迷い、受け取ることにした。


「ありがとうございます。次は買います。」


「はい。次は買ってください。」


 娘が明るく笑う。

 私は丸パンを籠に入れ、パン屋を後にした。


 店を出てしばらく歩いてから、私は革袋の硬貨と籠の中の丸パンを見た。


 布飾りが一つ売れた。

 丸パンまでもらった。

 これは、かなり良い朝なのではないか。


 そう思った瞬間、胸がむずむずした。


 嬉しい。

 これはたぶん、かなり嬉しい。


 だが、浮かれすぎてはいけない。

 これはほんの小さな始まりにすぎない。


 最初の布飾り。

 最初の子どもの買い手。


 そう考えたところで、私はまたあの人の言い方を思い出した。


 ――最初の一枚、おめでとうございます。


 ……また思い出している。


 自分に小さく嘆息した。


 私はローレンスの店へ向かった。布飾りを二つ、見てもらうためだ。

 ローレンスは店先で帳簿をつけていた。


「おや、今日は早いね。」


「パン屋さんに新しい試作品を見せてきました。」


「売れた?」


「一つ。」


「早いじゃないか。」


 ローレンスは笑った。

 私は残りの二つを見せる。

 彼は手に取り、表と裏を確認した。


「これはいいね。値段も手頃にできるし、端切れも使える。子どもだけじゃなく、若い娘も買うかもしれないな。」


「そうでしょうか。」


「鞄や籠に結べるだろう? ちょっとした印になる。」


「印。」


「森の家の鈴の印。」


 また呼び名が増えそうだ。

 私は少し不安になった。


「変ではないでしょうか。」


「変じゃないよ。覚えやすいってことだ。」


「覚えやすい。」


「商売には大事だよ。」


 そういうものなのか。

 私はまだ商売のことをほとんど知らない。

 でも、ローレンスが言うならそうなのだろう。


「店に置いてみてもいいですか。」


「もちろん。商品が増えるのはありがたいからね。」


「ありがとうございます。」


 ローレンスは布飾りを、手巾の近くに並べた。

 小さな鈴飾りは、棚の上で思ったより目立った。


 大きなものではない。

 豪華でもない。

 でも、目に留まる。


 それが不思議だった。


「次に作るなら、赤っぽい糸もあるといいね。」


「赤ですか。」


「子どもは明るい色が好きだろうし、祭りの時期にも合う。」


「祭り。」


「来月、収穫期の前の小さな市があるんだ。町の通りに少し店が出る。大きな祭りじゃないけど、子ども向けのものは売れるかもしれない。」


 私は目を瞬いた。

 来月。

 祭り。

 店。

 子ども向け。


 頭の中に、急にいくつもの絵が浮かんだ。

 鈴飾り。双葉飾り。小さな花。端切れを使ったしおり。手巾。茶布。


 作れるだろうか。

 いや、作るには時間が必要だ。

 材料も。

 計画も。


 私は思わず背筋を伸ばした。


「準備します。」


「早いねえ。」


「時間が必要ですから。」


「いい返事だ。でも、無理はしない。」


「はい。」


「マーサにも言われるだろうけど、私からも言っておくよ。」


「……はい。」


 どこへ行っても言われる。

 私はそんなに無茶をしそうに見えるのだろうか。


 ……見えるのだろう。


 自覚は、少しある。


 ローレンスの店を出ると、私は新しい赤い糸を買うかどうか迷った。


 今日は買わない。

 まずは手元の糸で作る。

 売れたら、追加で買う。


 そう決めて帰路についた。


 家に戻ると、私はパン屋でもらった丸パンを机に置いた。

 少し大きめで、香ばしい匂いがする。

 昼食に食べるつもりだったが、しばらく眺めてしまう。


 これは、私の布飾りが連れてきたパンだ。

 そう思うと、なぜか食べるのが少し惜しい。


 いや、パンは食べるためのものだ。

 飾っておくものではない。


 私はスープを温め、丸パンを半分に切った。

 外は少し硬く、中はふんわりしている。


 一口食べる。


「……おいしい。」


 思わず声が漏れた。

 いつも食べているパンより、少し香りが良い気がする。

 おまけだから、余計にそう感じるのかもしれない。


 けれど、きっとそれだけではない。


 これは、誰かが私の仕事を喜んでくれた証のようだったから。

 自分の手から出たものが、巡って、自分の食卓に温かいものを連れて帰る。


 暮らしというのは、こんなふうに円を描くのかと、初めて知った。


 昼食の後、私は布飾りを追加で作り始めた。


 黄色。

 灰色。

 青。


 裏の双葉。

 小さな紐。

 端の縫い目。


 手巾より小さいが、細かい分だけ手間がかかる。

 同じ形を作るのは難しい。

 けれど、逆に少しずつ違う方が可愛いかもしれない。


 そう自分に言い聞かせながら、針を進めた。


 夕方近くまでに、三つできた。

 目が少し疲れた。

 肩も重い。


 今日はここまで。


 私は針を置き、伸びをした。

 窓の外を見ると、庭の鳥除けが夕方の風に揺れていた。


 ちりん。

 鈴が鳴る。


 その音に、もう一つ別の音が重なった。


 馬の蹄。

 静かで、規則正しい音。


 私は反射的に顔を上げた。


 今日は、来るだろうと分かっていたわけではない。

 いや、昨日の感じなら今日も来るかもしれないとは思った。


 でも、待っていたわけではない。

 ……ただ、布飾りが売れたことを報告する必要がある。


 生活基盤の変化だから。

 確認事項だから。


 私は自分にそう言い訳し、玄関を開けた。


 森の道から、ヴィルヘルムが黒馬を引いて現れた。

 昨日と同じように手綱を引いて歩いている。

 黒馬は落ち着いている様子だった。


 ヴィルヘルムの外套は濃紺で、夕方の光を受けると少し青く見えた。

 整えられた淡い金髪は、温かい光の中で一部が白銀のように輝いている。


「こんばんは、レベッカ嬢。」


「こんばんは。」


「確認に参りました。」


「でしょうね。」


 私は腕を組んだ。


「本日の確認事項を先に申し上げます。屋根、畑、鳥除けは無事。古い梯子は視界にも入れていません。刺繍は進みました。以上です。」


「ありがとうございます。」


「これでお帰りいただけますね。」


「布飾りは?」


 なぜそこを聞く。

 いや、昨日見せたからだ。

 私が言ったのだ。パン屋の弟に見せると。


「……一つ売れました。」


 言うと、ヴィルヘルムの目元がほんの少しやわらいだ。


「最初の鈴飾りですね。」


 また。

 また、最初。


 私は胸がむずむずした。


「はい。黄色のものを、パン屋さんの弟さんが買ってくれました。」


「良かったですね。」


「はい。」


 素直に答えてしまった。


 するとヴィルヘルムが、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 微笑み、と呼ぶには控えめすぎる。


 ――でも、たぶん笑った。


 私は急いで視線を逸らした。


「それと、ローレンスさんの店にも置いていただくことになりました。」


「では、私も買えますか。」


「一つだけです。」


 即答した。

 ヴィルヘルムは真面目に頷く。


「約束通り、一つだけ買います。」


「本当に一つだけですよ。」


「はい。」


「買い占めは禁止です。」


「はい。」


「高値で買うのも禁止です。」


「……はい。」


 今、少し間があった。


「なぜ間があったのですか。」


「適正価格が分からなかったので。」


「ローレンスさんの店の値段で買ってください。」


「承知しました。」


 危ない。

 この人は本当に、変なところで油断ならない。


 私は家の中から、今日作った布飾りを一つ持ってきた。

 まだ店に出していないものだ。


 黄色の鈴。裏は双葉。

 パン屋の弟が買ったものと似ているが、少しだけ紐の色が違う。


「これは明日、店に持っていく分です。今日売るものではありません。」


「はい。」


「見るだけです。」


「はい。」


 ヴィルヘルムはそれを受け取り、両手で見た。

 昨日と同じく、重要な文書を見るような顔だ。


 小さな布飾りなのに。


「軽いですね。」


「端切れですから。」


「紐は替えたのですか。」


「はい。こちらの方が結びやすいかと。」


「良いと思います。」


「……あなたは本当に何でも良いと言いますね。」


「何でもではありません。」


「では、悪い時は悪いと言うのですか。」


「必要なら。」


「……言ってくださいね。」


「はい。」


「遠慮はいりません。商品ですから。」


「では。」


 ヴィルヘルムは布飾りを見つめたまま言った。


「子ども向けなら、もう少し明るい色があっても良いかもしれません。」


 私は目を瞬いた。


「ローレンスさんにも言われました。赤っぽい糸があると良いと。」


「はい。祭りや市にも合うと思います。」


「来月、小さな市があるそうです。」


「収穫前の市ですね。」


「ご存じなのですか。」


「公爵領内の催しですので。」


「……そうでした。」


 この人は、そういう立場の人だった。

 森の家の玄関先で水を飲み、鈴飾りを真剣に見る面倒な知り合いである前に、公爵領を引き継ぐ人。


 時々、私はそれを忘れそうになる。

 しかし、決して忘れてはいけないのだ。


 私のところへ来るのも、彼の仕事の一部なのだから。


「市に出すなら、数を作る必要がありますね。」


 ヴィルヘルムが言った。


「はい。ただ、無理はしません。」


「はい。」


「本当です。マーサさんにもローレンスさんにも言われましたし。」


「私からもお願いします。」


「あなたに言われると、なぜか腹が立ちます。」


「すみません。」


「謝るところではありません。」


 私は布飾りを受け取った。

 その時、指先が少しだけ彼の手袋に触れた。

 本当に、ほんの少し。


 けれど、私はなぜか布飾りを落としそうになった。


「大丈夫ですか。」


「大丈夫です。」


「指が疲れているのでは?」


「違います。」


「刺繍で。」


「違います。」


「では。」


「違います。」


 何が違うのか、自分でも分からない。

 とにかく違う。

 革の手袋越しだ。

 体温さえ届かない。


 それなのに、なぜ手元が狂うのか。


 私は布飾りを握りしめた。


 ヴィルヘルムはそれ以上追及しなかった。

 こういう時、彼は無理に踏み込まない。それが助かる。


 助かるのに、少しだけ落ち着かない。


「馬に水を?」


 私は言った。


「いただけるなら。」


「馬にです。」


「はい。」


「……あなたにではありません。」


「承知しています。」


 私は井戸へ向かった。

 最近、この流れが自然になっている気がする。


 よくない。

 本当によくない。


 しかし、黒馬は水を飲む。

 そして、馬に罪はない。

 水を出すのは合理的だ。


 私は桶に水を汲み、黒馬の前へ置いた。


 ヴィルヘルムはその首を撫でる。

 その手つきは、いつも静かで丁寧だ。

 馬は安心したように鼻を鳴らした。


 私はその手を見ないように、鳥除けを見た。


 ちりん。

 鈴が鳴る。


「パンをいただきました。」


 ぽつりと言ってしまった。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「パン?」


「布飾りを喜んでくれたお礼に、パン屋さんから丸パンを一つ。おまけだそうです。」


「それは、良かったですね。」


「はい。おいしかったです。」


「仕事が、パンになったのですね。」


 私は言葉に詰まった。

 仕事が、パンになった。


 そう言われると、急に胸にくる。


 布を縫った。

 子どもが喜んだ。

 硬貨をもらった。

 パンももらった。

 それを食べた。


 ――私の仕事が、私の食卓の一部になった。


「……そうですね。」


 私は小さく言った。


「仕事が、パンになりました。」


 ヴィルヘルムは静かに頷いた。


「良い日でしたね。」


 良い日。

 そうだ。

 今日は良い日だった。


 朝から不安もあった。緊張もした。

 けれど、布飾りは売れ、パンをもらい、ローレンスの店にも置いてもらえることになった。


 ――良い日だった。


 そう認めると、少しだけ目の奥が熱くなりそうだった。

 私は慌てて顔をそらした。


「まあ、悪くはありませんでした。」


「はい。」


「良い日とまでは。」


「悪くない日は、良い日では?」


「雑です。」


「すみません。」


 ヴィルヘルムは少しだけ困ったように言った。

 その声が妙に優しくて、私はますます落ち着かなくなる。


「では、今日はもう帰ってください。良い日を壊さないうちに。」


 言ってから、言い方がひどいと思った。

 しかしヴィルヘルムは気を悪くした様子もなく、頷いた。


「はい。」


「仕事を夜に回さないでください。」


「今日はもうほとんど終えています。」


「ほとんど?」


「残りは確認だけです。」


「また確認ですか。」


「はい。」


「便利な言葉ですね。」


「あなたも使われます。」


「使っていません。」


「先ほど、本日の確認事項と。」


「……それはあなたに合わせただけです。」


「そうでしたか。」


 ほんの少しだけ、彼の目元が笑った気がした。

 やはり、からかわれているのかもしれない。


 この人。

 ……非常に問題だ。


 黒馬が水を飲み終えると、ヴィルヘルムは手綱を取った。


「明日、ローレンス殿の店へ寄ります。」


「なぜですか。」


「一つ買う約束をしましたので。」


「明日すぐでなくても。」


「売り切れるかもしれません。」


「そんなにすぐ売れません。」


「分かりません。」


「買い占めは禁止です。」


「一つだけです。」


「高値も禁止です。」


「店の値段で。」


「よろしい。」


 なぜ私が許可を出しているのか。

 ……分からない。


 ヴィルヘルムは黒馬にまたがらず、今日も手綱を引いて歩き出した。


「馬に無理をさせないためですか。」


「はい。」


「あなたも無理をしないでください。」


 言ってから、またしまったと思った。

 ヴィルヘルムが振り返る。


「はい。」


「馬のためです。」


「はい。」


「あなたが倒れると、馬が困ります。」


「承知しています。」


 彼は軽く頭を下げた。

 夕方の森の道へ、黒馬とともに歩いていく。


 今日も、見送らないつもりだった。

 だが、馬が歩いて帰るなら、足取りを確認するのは、決して不自然なことではない。


 本当に。

 言い訳には、事欠かない。


 木々の間に姿が消えるまで見てから、私は家へ戻った。


 机の上には、小さな布飾りが二つ並んでいる。

 明日、ローレンスの店に置く分。


 そのうち一つは、きっとヴィルヘルムが買う。


 一つだけ。

 店の値段で。

 約束通りに。


 私は想像してしまった。

 あの端正な王子が、ローレンスの店で小さな鈴飾りを一つだけ買う姿を。


 どう考えても不自然だ。

 非常に不自然だ。


 でも、少しだけ見てみたい気もした。


「……何を考えているのかしら。」


 私は額に手を当てた。

 自分の心をうまく言い表せる言葉が見つからない。


 私は考えるのをやめて、代わりにそっと布飾りを指でつついた。

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