第二十九話 布飾りを買う王子
起きた瞬間から、私は妙に気持ちが落ち着かなかった。
……理由は分かっている。
今日は、ローレンスの店に追加の布飾りを置きに行く日だ。
そして、ヴィルヘルムが、それを一つだけ買うと言っていた。
一つだけ。
店の値段で。
高値禁止。
買い占め禁止。
約束はした。
したけれど、あの人のことだから油断ならない。
必要な保護です、とか、生活基盤の支援です、とか、試作品の市場調査です、とか、また妙な言葉を使って全部買ってしまう可能性がある。
……いや、さすがにそこまではしないだろうか。
するかもしれない。
する気がする。
私は机の上に並べた三つの布飾りを見下ろした。
表には鈴。裏には双葉。
黄色。
薄緑。
それから、昨日の夜に試しで作った赤い糸入りのもの。
赤い糸はまだ買っていないので、古い端切れからほどいた糸を使った。
少し色はくすんでいるが、これはこれで温かみがある。
「……悪くない。」
小さく呟く。
だが、悪くないからこそ、全部買われては困る。
これは町の人に見てもらうための商品だ。
ヴィルヘルムの謎の確認欲を満たすためのものではない。
私は籠に布飾りを入れ、上から布をかけた。
それから畑を見に行く。
芽は今日も無事だった。
鳥除けの鈴が鳴る。
ちりん。
まるで、早く行ってこい、と言っているように。
私は家に鍵をかけ、町へ向かった。
近づく雨季に向け森の草木たちは一層青々と茂っている。
森の道には木漏れ日が足元にまだらに落ちていた。
町に着いて、まずはローレンスの店へ行く。
布飾りを置いて、値段を確認する。
……そしてもし。もしヴィルヘルムが来たら、一つだけ買うところを見届ける。
それだけだ。
それだけ、と心の中で念を押す時点で、少し怪しい。
私は店の前で深呼吸した。
扉を開けると、いつもの鈴が軽く鳴った。
「いらっしゃい。ああ、来たね。」
ローレンスは棚の前で商品を並べ替えていた。
「おはようございます。追加の布飾りを持ってきました。」
「待ってたよ。見せてごらん。」
私は籠から一つずつ取り出した。
ローレンスは手に取って、表と裏を確認する。
「いいね。昨日より少し形が安定してる。」
「本当ですか。」
「うん。こっちの赤いのもいい。子どもが好きそうだ。」
「古い端切れから取った糸なので、少しくすんでいますが。」
「そこがいいんだよ。森の鈴っぽい。」
「森の鈴の布飾り。」
「名前、決まりだね。」
「え。」
「森の鈴の布飾り。分かりやすいだろ?」
森の鈴の布飾り。
私は手の中の小さな布を見た。
少し大げさなような、でも悪くないような。
「……悪くありません。」
「じゃあ決まり。値段はこのくらいでどうだい?」
ローレンスが金額を示す。
私は少し驚いた。
「少し高くないでしょうか。」
「高くないさ。刺繍が表裏にある。紐もついてる。端切れとはいえ手間がかかってる。安くしすぎると、後で困るよ。」
「でも、子ども向けなら。」
「子どもが自分で買うなら安い方がいい。でも、親が買うならこのくらいでも大丈夫。まあ試しに置いてみよう。」
「分かりました。」
「あと、殿下さんが来てもこの値段だよ。」
「はい。それは絶対に。」
力強く頷いた。
ローレンスは笑った。
「買い占め禁止なんだって?」
「はい。」
「高値も禁止?」
「はい。」
「しっかりしてるねえ。」
「しっかりしていないと、何をされるか分かりません。」
「面倒な知り合い殿下だからね。」
「その呼び名、店で言わないでください。」
「もう町で広がってるよ。」
私は頭を抱えたくなった。
遅かった。
非常に遅かった。
ローレンスは店の入口に近い棚に、小さな布を敷き、昨日のものと併せて布飾りを並べた。
小さな布飾りが、ちょこんと並ぶ。
……思ったより、可愛い。
店に置かれると、家で見るのとはまた違って見える。
ちゃんと商品に見える。
それが嬉しくて、同時に少し怖かった。
「売れるでしょうか。」
「一つは売れるんじゃないかい?」
「あの方が買う予定の一つは、売れたうちに入りません。」
「厳しいね。」
「市場調査に影響します。」
「ほら、また難しいことを言う。」
「大事です。」
ローレンスは笑いながら、棚の端に小さな紙を置いた。
森の鈴の布飾り。
手作り。
籠や鞄に結べます。
その字を見た瞬間、胸がまた小さく跳ねた。
本当に店の商品になった。
私が作ったものが。
肩書きも財産も失った私の手から、こんな小さなものが生まれて、値札まで下げてもらっている。
店の扉が開いたのは、その時だった。
入ってきたのは、昨日のパン屋の娘だった。
「あ、並んでる!」
彼女はまっすぐ棚へ来た。
「弟が、昨日からずっと見せびらかしていて。母も自分のが欲しいって言ってました。」
「本当ですか。」
「はい。あ、赤いの可愛い。」
彼女は赤い布飾りを手に取った。
私の胸がどきりと動く。
赤い糸のもの。
試しに作ったものだ。
「これ、いただきます。」
「ありがとうございます。」
私は思わず頭を下げた。
ローレンスが手早く代金を受け取る。
赤い布飾りが売れた。
ヴィルヘルムが来る前に。
つまり、一般のお客さんに。
これは大事だ。非常に大事なことだ。
「弟さんは、昨日の黄色を気に入ってくれましたか。」
「はい。寝る時も枕元に置いてました。」
枕元。
私は何も言えなくなった。
ただの端切れなのに。
小さな鈴の刺繍なのに。
誰かの枕元に置かれた。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
パン屋の娘は布飾りを包んでもらい、嬉しそうに店を出ていった。
扉の鈴が鳴る。
私はしばらく棚を見ていた。
並んでいた布飾りが、一つ減っている。
「売れたね。」
ローレンスが言った。
「はい。」
「殿下さんの前に。」
「はい。」
「よかったじゃないか。」
「はい。」
本当に、よかった。
これで、ヴィルヘルムが一つ買ったとしても、布飾りが売れた理由は彼だけではないと言える。
仕事として。
商売として。
生活基盤として。
ほんの少しでも可能性があるのかもしれない。
そのしばらく後、店には何人か客が入った。
布飾りを手に取る人もいたが、すぐには売れなかった。
私は店の邪魔にならないよう、端でローレンスの帳簿整理を少し手伝った。
王妃教育で学んだ数字の整理が、また妙なところで役立つ。
ローレンスは私の書いた数字を見て、感心したように言った。
「あんた、字も数字も本当にきれいだね。」
「そうでしょうか。」
「そうだよ。値札も書いてもらおうかね。」
「できます。」
「じゃあ今度頼むよ。字がきれいだと、商品までよく見える。」
商品までよく見える。
そんなこともあるのか。
暮らしには、知らないことが本当に多い。
あれほど嫌々覚えた美しい文字が、店先の値札で役に立つ日が来るとは。
昼前になり、私はそろそろ帰ろうとした。
その時、店の外から馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は扉の方を見た。
店の前に止まった馬は黒馬だった。
だが、明るい光の下で見えた姿は、昨日よりわずかだが体格が小さい気がした。
毛並みもよく似ているが、じっと見つめてみると、昨日見た馬と額の星の形が少し違う。
そういえば以前、ヴィルヘルムは時々馬を替えていると言っていた。
毎日同じ馬で往復四時間では可哀想だとマーサに言われた時、日によって替えている、と。
私は今さらそれを思い出した。
確かに、この黒馬は昨日の黒馬とは違う。
しかし美しさは変わらず、黒い毛並みはつややかで、しなやかな首は淡く光を反射していた。
そして、その手綱を引いているのは、やはりヴィルヘルムだった。
店の中が、一瞬で静かになる。
無理もない。
ローレンスの店に、整いすぎた王子が入ってきたのだ。
濃紺の外套。淡い金髪。青い瞳。
背筋はまっすぐで、動きに無駄がない。
町の小さな店の入口に立つには、あまりにも場違いだった。
……そして本人は、その場違いさにまったく気づいていない顔をしている。
「失礼します。」
丁寧に一礼した。
ローレンスが口元を押さえて笑いをこらえている。
「いらっしゃい、殿下さん。」
「本日は買い物に参りました。」
その一言で、私はさらに身構えた。
来た。
本当に買いに来た。
「約束通り、一つだけですよ。」
私は反射的に言った。
店にいた客の視線がこちらに集まる。
しまった。
だが、もう遅い。
ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
「はい。一つだけです。」
ローレンスが完全に面白がっている。
「こちらですよ、森の鈴の布飾り。」
ローレンスが棚を示す。
ヴィルヘルムは棚の前へ行き、布飾りを見た。
真剣に見ている。
かなり真剣に見ている。
長い。
とても長い。
それらは、ただの小さな布飾りである。
王室の外交文書ではない。
しかしヴィルヘルムは、まるで国の行く末でも考えているかのような顔で悩んでいる。
ローレンスが小声で私に言った。
「真剣だねえ。」
「真剣になりすぎです。」
「可愛いじゃないか。」
「可愛くはありません。」
即答した。
だが、少しだけ分かる。
あの端正な顔で、小さな布飾りを真剣に選んでいる姿は、かなり妙だ。
妙で、少しだけおかしい。
断罪の場で無表情に立っていた人が、今は端切れの布飾りを前に、本気で迷っている。
誰がこの光景を信じるだろう。
ヴィルヘルムは、やがて薄緑の布飾りを手に取った。
「こちらを。」
私は少し意外だった。
「黄色ではないのですね。」
「黄色は、パン屋の少年が選んだものに近いと聞きましたので。」
「聞いていたのですか。」
「昨日、あなたが話されていました。」
覚えている。
この人は、本当に細かい。
「では、なぜ薄緑を?」
聞いてしまった。
ヴィルヘルムは布飾りを見て言った。
「双葉の色に近いので。」
胸の奥が、また跳ねた。
守る鈴。
育つ芽。
薄緑。
ヴィルヘルムは、そういうものを選んだ。
「……そうですか。」
私はそれ以上言えなかった。
ローレンスが代金を告げる。
ヴィルヘルムは財布を出した。
私は目を光らせた。
高値禁止。
余計な上乗せ禁止。
ヴィルヘルムは、ローレンスが言った通りの硬貨を出した。
本当に。
ぴったり。
「約束通りです。」
ヴィルヘルムが私を見た。
「なぜ私に言うのですか。」
「確認です。」
「便利な言葉ですね。」
言い返してしまった。
ローレンスが笑いをこらえきれず、肩を揺らしている。
店にいた客の一人、年配の男性がぼそりと言った。
「面倒な知り合いさん、律儀だな。」
私は固まった。
ヴィルヘルムも少し瞬きをした。
ローレンスがとうとう声を出して笑った。
「ほら、広がってる。」
「広げたのは誰ですか。」
「町だね。」
「町。」
町は恐ろしい。
ヴィルヘルムは、年配の男性に向かって丁寧に頭を下げた。
「律儀に努めます。」
「そこで返事をしないでください。」
私は思わず言った。
恥ずかしい。
非常に恥ずかしい。
……このままでは町を歩けなくなる。
ヴィルヘルムは買った布飾りを、外套の内側にしまおうとした。
「待ってください。」
私は止めた。
「何でしょう。」
「そのまま入れると、形が崩れるかもしれません。」
「そうですか?」
「包みます。」
言ってから、またしまったと思った。
なぜ私が包むのか。
ローレンスの店なのだから、ローレンスが包めばいい。
しかしローレンスは、黙ったままこちらを見やるだけだ。
……これは完全に私にやらせる気だろう。
私は諦めてローレンスに一声掛け、包装用の薄い紙を取り、布飾りを包んだ。
小さな包み。
それをヴィルヘルムに渡す。
「潰さないでください。」
「はい。」
「濡らさないでください。」
「はい。」
「馬に食べさせないでください。」
「食べません。」
「……それは分かっています。」
何を言っているのか。
私は自分でも分からなくなってきた。
ヴィルヘルムは包みを受け取り、とても大切そうに持った。
まるで、本当に高価なもののように。
それから、外套の内側へ丁寧にしまった。
胸の近く。
見なければよかった。
見てしまった。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「買い物が終わったなら、お帰りください。」
「はい。」
「公爵領館でのお仕事があるのでしょう。」
「あります。」
「では。」
「その前に、少しだけ店内を見ても?」
「なぜですか。」
「ローレンス殿の店の品揃えを確認したいので。」
「公爵領の確認ですか。」
「はい。」
「……便利な言葉。」
私が呟くと、ローレンスが言った。
「どうぞ、殿下さん。ついでに茶葉も見ていきますか?」
私はぎくりとした。
茶葉。
ローレンスが私を見る。
完全に面白がっている。
「レベッカ、あんたが買う予定の茶葉、あそこにあるよ。」
「今日は買いません。」
「まだ?」
「糸を揃えるのが先です。」
「そうだったね。」
ヴィルヘルムがこちらを見た。
「茶葉は後、でしたね。」
「覚えていなくて結構です。」
「生活の余白ですので。」
「言わないでください。」
私はもう、床に穴を掘って埋まりたい。
なぜこのやり取りを町の方々の前で繰り広げなければならないのか。
分からない。まったくもって分からない。
ヴィルヘルムは茶葉の棚を少し眺めたが、何も買わなかった。
偉い。
いや、普通だ。
勝手に買われても困る。
彼は店を出る前に、ローレンスへ丁寧に礼を言った。
「ありがとうございました。」
「またどうぞ。買い占めはなしでね。」
「はい。」
「面倒な知り合い殿下さん。」
「はい。」
「返事をしないでください。」
私はまた言った。
ヴィルヘルムは少しだけ目元を緩めた。
からかわれている。
確実に。
店を出ると、外には黒馬が待っていた。
今日の馬には、額に細く白い星があった。
ヴィルヘルムはその首を撫でた。
「昨日の馬とはやはり違いますね。」
私は言った。
「はい。数頭を交代で使っています。」
「全部黒馬なのですか?」
「黒馬が多い厩舎なので。」
「黒馬が多い。」
「公爵家の古い好みだそうです。私も黒馬に慣れているので、同じ毛色の馬を借りることが多いです。」
「だから、毎回同じ馬に見えたのですね。」
「額の星や脚の白で見分けられます。」
「なるほど、難しそうです。」
「慣れればすぐに分かります。」
「慣れれば……。」
慣れる予定はないが、私はついつい馬の額の星を見てしまう。
細く白い星。
昨日の馬より、少し小柄。
穏やかな目。
いやいや、覚えてどうするのか。
私は自分に問いかけた。
答えはない。
「名前は?」
つい聞いてしまった。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「この馬ですか。」
「はい。」
「ノクスです。」
「ノクス。」
「夜、という意味です。」
「黒馬だから?」
「おそらく。」
「他の黒馬にも名前が?」
「あります。昨日はアルク。その前はオルフェ。最初によく来ていたのはグラーノです。」
「……そんなに。」
「無理をさせないためです。」
マーサの言葉を思い出す。
――馬が可哀想だね。
――日によって馬を替えています。
彼は本当に替えていた。
それを知って、少しだけ安心した。
しかし一頭の馬にも無理をさせまいとする人が、自分にはあれほど無理を重ねている。
そのことに気づいて、安心はすぐに別の落ち着かなさに変わった。
「馬には優しいのですね。」
「馬には?」
「……馬にも。」
言い直した。
ヴィルヘルムの目元が少しやわらかくなる。
まただ。
私はすぐに視線を外した。
「買い物も終わりましたし、今日は帰ってください。」
「はい。」
「森の家には寄らなくて結構です。」
「今日は、店で確認ができましたので。」
「確認とは。」
「布飾りが商品として並んでいることを。」
「あなたは客です。」
「はい。」
「監視役ではありません。」
「今日は客でした。」
今日は客。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
ヴィルヘルムは、私の商品を買った客。
一つだけ。
店の値段で。
約束通りに。
たったそれだけなのに、なぜかとても奇妙だった。
「では、失礼します。」
ヴィルヘルムはノクスの手綱を引いた。
馬にまたがる前、ふと私を見た。
「布飾り、大切にします。」
「使ってください。商品ですから。」
「はい。」
「大切を理由にしまい込まないでください。」
「……分かりました。」
また少し間があった。
「まさか、しまい込むつもりでしたか。」
「保管場所を考えていました。」
「使ってください。」
「はい。」
「鞄か何かに結んでください。」
「では、手綱袋に。」
「馬具につけるのですか。」
「駄目ですか。」
「……駄目ではありません。」
手綱袋に、森の鈴の布飾り。
黒馬のそばに。
それは少し、似合うかもしれない。
そう思ってしまった自分が、また悔しい。
私の暮らしの印が、彼の馬と一緒に、公爵領を往き来する。
その絵を、思い浮かべてしまった。
「落とさないようにしてください。」
「はい。」
ヴィルヘルムはノクスにまたがった。
町の通りにいた人々が、ちらちらとこちらを見ている。
その視線が以前ほど怖くないのは、私の作った布飾りを彼が持っているからだろうか。
私の手仕事であり、この町とのつながり。
それを今日、彼も買った。
ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、馬を進めた。
黒馬の蹄が、乾き始めた道を静かに叩く。
姿が角を曲がって見えなくなった時、ローレンスが店の中から声をかけた。
「レベッカ。」
「はい。」
「あれは、客ってことでいいのかい?」
「客です。」
「面倒な知り合いじゃなく?」
「今日は客です。」
「なるほど。明日は何になるんだろうねえ。」
「知りません。」
私はきっぱり答えた。
ローレンスは楽しそうに笑った。
私は店の棚を見た。
森の鈴の布飾りは、残り三つ。
赤が売れた。
薄緑はヴィルヘルムが買った。
黄色、青、灰色が残っている。
ちゃんと売れた。
彼だけではなく、町の人にも。
それが嬉しかった。
そして、彼が約束を守って一つだけ買ったことも。
胸の近くへ、私の布飾りを大切にしまったことも。
やはり、少しだけ、嬉しかった。
……かもしれない。
「では、追加を作りますね。」
私は考えを振り切るように、ローレンスに向き直った。
「無理しない程度にね。」
「はい。」
外では、遠くで馬の蹄の音が小さくなっていく。
店の扉の鈴が、風に揺れてかすかに鳴った。




