第三十話 泣かせたことがあります
雨季前の春の晴れ間。森には薄い雲の間から朝の光が差し込んでいた。
私はローレンスの店へ追加分を届けるため、小さな籠に布飾りを六つ入れた。
黄色。
青。
灰色。
薄緑。
くすんだ赤。
それから、昨日の夜に試してみた淡い茶色。
茶色の布飾りは少し地味かと思ったが、表に鈴、裏に若葉色の双葉を入れると落ち着いて見えた。
大人が持つなら、これも悪くないかもしれない。
私は布飾りを一つずつ確認した。
縫い目。紐。表の鈴。裏の双葉。
形は少しずつ違う。
同じように作っても、完全には同じにならない。
以前なら、揃っていないことを気にしただろう。
けれど今は、ほんの少しだけ思う。
違っていてもいい。
むしろ、違うから選ぶ楽しみがあるのかもしれない。
それが少しずつ分かってきた。
私は籠に薄布をかけた。
「よし、今日は納品よ。」
誰に言うでもなく呟く。
納品と言うと、なんだか少しだけ仕事らしく聞こえる。
私は外套を羽織り、畑を見に行った。
芽は、昨日より少しだけ背筋を伸ばしているように見えた。
鳥除けの鈴が、ちりんと鳴る。
「行ってくるわ。」
最近、畑へ声をかけることに抵抗がなくなってきた。
一人暮らしでは仕方ないのかもしれない。
誰にも迷惑をかけていないのだから、構わないだろう。
森の道を下り、町へ向かう。
朝の空気は澄んでいて、木漏れ日が道に小さな模様を作っていた。
籠の中には布飾り。革袋には、昨日までに得た硬貨が少し。
軽いはずなのに、足取りは以前よりしっかりしている。
町へ入ると、パン屋の前で一昨日の男の子が手を振った。
「あ、鈴の人!」
私は少しだけ固まった。
鈴の人。
もう正式にその呼び名なのだろうか。
「おはようございます。」
私はできるだけ平静に返した。
男の子の鞄には、一昨日買ってくれた黄色い布飾りが結ばれていた。
小さな布飾りが、歩くたびに揺れる。
もちろん音は鳴らない。
けれど、揺れるたびに本当に鈴が鳴りそうに見えた。
「つけてくれたのですね。」
「うん。見て。落ちない。」
「しっかり結べていますね。」
「姉ちゃんが結んだ。」
パン屋の娘が店先から顔を出す。
「おはようございます、レベッカさん。弟、一昨日からずっと自慢してます。」
「気に入っていただけてよかったです。」
「今日、またローレンスさんのところに置きますか?」
「はい。追加で少し。」
「じゃあ後で見に行きます。」
その言葉に、胸が少し弾む。
見に行く。
誰かが、私の商品を見に行く。
不思議だ。
昨日まで、いや、少し前まで、私は誰かに見られることが怖かった。
今も完全に怖くないわけではない。
けれど、見られるものが私自身ではなく、私の作った布飾りだと思うと、少しだけ前を向ける。
私はパン屋を後にし、ローレンスの店へ向かった。
店の扉を開けると、軽やかな調子で鈴が鳴った。
ローレンスは店のカウンターで帳簿に何かを書き込んでいた。
こちらに気付くと顔を上げ、片手を挙げる。
「おはようございます。」
「おはよう、森の布職人さん。」
「職人と呼ぶには早すぎます。」
「じゃあ、森の布職人見習い?」
「長いです。」
「森の布飾り屋?」
「店を構えた覚えはありません。」
ローレンスは笑った。
「まあ、名前はそのうち決まるさ。追加、持ってきた?」
「はい。六つです。」
私は籠から布飾りを出した。
ローレンスは一つずつ確認し、満足そうに頷く。
「いいね。昨日よりさらに安定してる。茶色も悪くない。」
「大人向けには地味な色もいいかと思って。」
「その通り。子どもだけに売るより、幅が出る。」
「幅。」
「商売は、買ってくれる人の顔をいくつか想像できると強い。子ども、若い娘、旅人、奥さん、贈り物を探す人。全部同じじゃなくていい。」
この町の玄人商人の言葉だ。私は真剣に頷いた。
子ども用、自分用、贈り物用。
どのような柄で、どのような色だと手に取りやすいだろう。
想像は難しい。でも楽しい。
「値段は昨日と同じで?」
「基本は同じ。ただ、少し手間の多いものは少し上げてもいいかもしれない。」
「上げるのですか?」
「そう。手間が違うなら、値段も違っていい。」
「……難しいですね。」
「すぐに慣れるよ。」
ローレンスは棚に布飾りを並べた。
昨日より数が増え、棚の一角が少し賑やかになる。
その横には、双葉の茶布と蔓の手巾。
私の作ったものが、少しずつ店の中に場所を得ている。
小さい。
とても小さい場所。
でも、確かにそこにある。
「昨日の薄緑は販売済みだもんね。」
ローレンスが言った。
「……はい。」
「それを昨日、馬具の袋につけると言っていたじゃないか。見てみたいねえ。」
「見なくて結構です。」
「町のみんな、見たいと思うよ。」
「町のみんなを巻き込まないでください。」
言い終わる前に、店の扉が開いた。
入ってきたのは、材木屋の若い店員だった。
以前、柵用の板を運んでくれた青年だ。
「あ、布飾り、増えてる。」
彼は棚を見て、すぐに声を上げた。
私は少し驚いた。
「ご存じなのですか。」
「パン屋の坊主が見せびらかしてましたよ。」
少し恥ずかしいが、製作元としてはとても嬉しい。
「あと、昨日、殿下さんが真剣に選んでたって聞きました。」
……殿下さん。
ローレンスに続き、青年までヴィルヘルムをそう呼んでいる。
彼の本当の身分を知っているわけではなく、おそらくあだ名のようなものなのだろうが、少し怖い。
こんなに町に溶け込み、勝手にあだ名で呼ばれる王族がいて大丈夫なのだろうか。
いや。しかし、私としてみれば、面倒な知り合いと呼ばれるよりはましなのかもしれない。
……うん。そうだ。そういうことにしよう。
「本当に付けて来られるんですかね?」
「……まさか、そこまで広まっているのですか。」
「町ですから。」
町は怖い。
これは恐ろしいほどの情報拡散力だ。
青年は青い布飾りを手に取った。
「これ、妹に買っていこうかな。」
「妹さんに?」
「ええ。こういう小さいの好きなんで。森の家の布飾りだって言ったら喜びそうです。」
「ありがとうございます。」
ローレンスが代金を受け取る。
青い布飾りが売れた。
また一つ。
私は胸が温かくなるのを感じた。
青年は包みを受け取り、店を出る前にふと振り返った。
「そういえば、殿下さん、今日は町にいらっしゃるんですか?付けてるとこ見たいなあ。」
「……知りません。」
「見たら分かりますよね。」
「見なくていいです。」
青年は笑って出ていった。
扉の鈴が鳴る。
ローレンスがこちらを見た。
「人気だね、殿下さんが買った布飾り。」
「私の、布飾りです。」
「もちろん。」
「殿下さんの布飾り、ではありません。」
「でも、殿下さんがつけたら宣伝になるよ。」
「……それは、そうかもしれませんが。」
認めたくない。
しかし、目立つ人が持てば、目立つ。それは商売としては事実だ。
でも、あの人を宣伝係にするのは、何か違う気がする。
……かなり違う。
「宣伝目的で買わせたわけではありません。」
「分かってるよ。」
「本当に?」
「半分くらいは。」
「ローレンスさん。」
彼は笑って肩をすくめた。
その後も、店にはぽつぽつと客が来た。
私はローレンスの勧めで、帳簿などの仕事を手伝いながら、客層などをちらちらと観察していた。
いわゆる市場調査というものだ。
布飾りを手に取る人。
茶布を見比べる人。
刺繍を見て「細かいね」と言う人。
すぐには売れなくても、見てもらえるだけで胸が少し落ち着かなかった。
見られるたびに不安になる。
けれど、見てもらえなければ売れない。
商売というのは、なかなか心臓に悪い。
昼前、ローレンスが店の裏から茶を持ってきてくれた。
「少し休みな。」
「すみません。店番の邪魔をしていませんか。」
「邪魔じゃないよ。むしろ、作った本人がいると説明が早い。」
「説明。」
「そう。これは何の鈴ですかって聞かれたら、あんたが答えた方がいい。」
「何の鈴、ですか。」
「鈴の刺繍だろう? 鳥除けの鈴から思いついたって話も、聞けば喜ぶ人はいる。」
「……うまく答えられるでしょうか。」
「十分。むしろ、少し不器用なくらいがいい。」
「不器用。」
「売り込みすぎないから、信用される。」
そういうものなのか。
私は茶を受け取り、少し口に含んだ。
ローレンスの店の茶は、私が以前買った茶より少しだけ香りが強い。
でも、王宮の茶とはまったく違う。
気取らず、温かく、店の空気によく合っている。
「茶葉、そろそろ買うかい?」
ローレンスが何気なく聞いた。
私は少しだけ身構えた。
「まだです。」
「糸が先?」
「はい。」
「そう言うと思った。」
「なぜ笑うのですか。」
「殿下さんと同じことを言ってるなと思って。」
「やめてください。」
思わず強めに言った。
ローレンスは楽しそうに笑った。
その時、店の外が少しざわついた。
馬の蹄の音だ。
静かで、規則正しい音。
来た。来てしまった。
私は急に落ち着かない気持ちになった。
店の中にいた客たちが、自然と入口の方を見る。
しばらくして扉が開く。
――濃紺の外套。淡い金髪。端正な顔。
ヴィルヘルムだ。
昼の町の光の中で見ると、その整いようは森の家で見る時よりも、いっそう人目を引いた。
町の素朴な店の中に、一人だけ別の場所から来たように立っている。
そして、店の窓ガラスから、店の前の馬留に止められた黒馬が見えた。
――黒馬の手綱袋には、薄緑の布飾りが結ばれていた。
本当に。
本当に、手綱袋に。
私が作った布飾りが。
黒い革の手綱袋の横で、小さく揺れている。
もちろん揺れたからといって音は鳴らない。
けれど、昼の光の中でも、それは妙に目に入った。
しまい込むこともできたはずだ。
書斎の引き出しにでも。
なのにこの人は、それを馬具に結んで、自分のすぐそばで揺らしている。
――私が使えと言ったから。
その事実が、なぜか胸の奥を落ち着かなくさせた。
店にいた客たちも気づいたらしい。
「あ、本当についてる。」
「これだよね、殿下さんがつけてるやつ。」
小さな声が聞こえた。
本当にどこへ行っても視線をさらう人だ。
町の人たちも、きっとヴィルヘルムがただの旅人ではないことくらいは薄々分かっている。
立ち姿も、言葉遣いも、身につけているものも、どう見ても普通ではない。
高貴な方らしい。
そして、森の家のレベッカさんの面倒な知り合いらしい。
ローレンスが殿下さんと呼ぶから、殿下さんでいいのだろう。
町の人たちにとって、今のヴィルヘルムはそのくらいの認識なのだろう。
まさか、王族で、第三王子で、次期公爵とは、夢にも思っていないはずだ。
……そして、ヴィルヘルム本人は、その扱いを特に訂正する気もないらしい。
つまり私は現状、広告塔にしてはいけない御仁を、使うつもりもないのに、広告塔にしてしまっているということだ。
いや、待て。彼は私の生活基盤が整うことを気にしている。
ならばこれは確認の一つだ。そうに違いない。そういうことにしよう。
確認とは、本当に便利な言葉だ。
私は苦々しく胸中で自分を納得させようとした。
彼は店内の視線を受けながら、いつものように丁寧に一礼した。
「失礼します。」
ローレンスが笑いをこらえながら言った。
「いらっしゃい、殿下さん。今日は森の家ではなく、うちにご用ですか?」
「はい。森の家に伺いましたが、レベッカ嬢が不在でしたので。こちらかと思いまして。」
私は思わず眉を寄せた。
「なぜ、私がこちらにいると分かるのですか。」
「布飾りを納品される日だと伺っていましたので。」
「誰に。」
ヴィルヘルムは少しだけ沈黙した。
ローレンスがそこへ楽しそうに口を挟んだ。
「殿下さん、さっそく布飾りを付けてきたんだねえ。町中で話題になってたよ。」
「町中。」
「少しだけどね。少し。」
「……状況的にまったく少しではありません。」
私は頭を抱えたくなった。
ヴィルヘルムは真面目に続ける。
「それと、屋根、畑、鳥除けの確認も兼ねていました。」
「確認。」
「はい。」
「そこで認めないでください。」
店内の客が私たちのやり取りを面白そうにうかがっているのが分かる。
やめてほしい。これは見世物ではない。けっして。
ローレンスは、もう一度店の外にいる黒馬をちらりと見た。
「布飾り、なかなか似合ってるじゃないか。」
「はい。私もそう思います。」
なぜ私を見るのか。
その青い瞳が、まっすぐにこちらへ向く。
……なんだ。言いつけを守って偉いですねとでも褒めればいいのか。
私は咳払いした。
「……しまい込まれても商品の意味がありませんからね。」
「はい。」
「手綱袋に合っていると思います。」
言ってから、しまったと思った。
いや、商品と馬具の相性を確認しただけだ。商売上の確認だ。
ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけやわらかくなった。
「ありがとうございます。」
「いえ、あなたを褒めたわけではありません。」
「はい。」
「布飾りを褒めました。」
「はい。」
なぜ、少し嬉しそうなのか。
私はますます落ち着かなくなった。
ローレンスが、棚の方へ視線を向ける。
「今日は買い足しかい? 買い占めは禁止らしいがね。」
「本日は買い足しません。」
「なるほど。本日は。」
「約束しましたので。」
店内の客たちが笑いを堪えている気配がする。
これは被害妄想ではない。きっと。
ヴィルヘルムは真面目な顔をしている。
この人は、真面目にしているだけで人を笑わせる時がある。
「……今日はもう確認は終わられましたよね。他に町にご用事が?」
できれば一刻も早く帰っていただきたい。
「これからガスパル殿の下へ、これまでの修理履歴の記録を受け取りに行く予定です。」
「職人さんに?」
「はい。この地域の家屋の修理履歴を、一定程度把握しておく必要があると思いまして。」
領地の災害対策等に必要なのだろうか。この間、私が屋根を修理したせいだとは思いたくない。
「本当に仕事なのですね。」
「はい。」
その時、材木屋の青年が店に戻ってきた。
先ほど買った青い布飾りを手にしている。
交換か、何かあったのだろうか。私は慌てて体を動かしかけた。
「あ、殿下さん。本当についてる。」
青年は黒馬の手綱袋を見て、笑った。
……まさか、それを確認するために戻ってきたのだろうか。
私は一瞬固まる。
「これは妹が喜びそうだ。殿下さんも持ってるって言ったら。」
「……これ以上広めないでください。」
やっと視線を気にせずに歩けるようになったのに。このままでは町に来られなくなりそうだ。
「いや、冗談ですって。」
「半分は本気だろう。」
ローレンスが横から揶揄うように言う。
「半分くらいはね。」
「……皆さん。」
私は頭が痛くなってきた。
ヴィルヘルムは静かに青年を見た。
「妹君への贈り物ですか。」
「ええ。青いのを。」
「良い色です。」
「殿下さんは薄緑でしたよね。」
「はい。」
「なんで薄緑にしたんですか?」
青年は軽い調子で聞いた。
店の中が少し静かになる。
ヴィルヘルムは少しだけ視線を棚へ向け、それから答えた。
「双葉の色に近かったので。」
私は何も言えなくなった。
昨日と同じ答え。
守る鈴と、育つ芽。
青年はへえ、と頷いた。
「もしかして、レベッカさんの畑の芽ですか。」
「はい。」
「なるほど。よく見られてるんですね。」
青年のその言葉は、ただの感想だった。
そうだ、この人は本当によく見ている。
監視としてはあまりにも詳しく。
監視というには、あまりにも柔らかすぎるように。
――そして、もうそれが嫌ではなくなりかけている自分がいることに、私は気づき始めている。
その時、店の外から別の男の声がした。
「お、殿下さんか。」
材木屋の親方だった。
青年の後ろから歩いて来ていたのだろうか、いつの間にか店の前に来ていたらしい。
日に焼けた顔で、工具を抱えている。
彼は青年に二言、三言告げて去ろうとし、そこで何かを思い出したように振り返った。
「おい、殿下さん。あんた、森の家のお嬢さんを泣かせるんじゃないぞ。」
冗談半分の口調だった。
決して真面目なものではなく、町の男が、若い男をからかうような声だった。
店内にも、それを受けて、軽い笑いが起こりかけた。
しかし。
ヴィルヘルムは、真顔で答えた。
「すでに、泣かせたことがあります。」
空気が止まった。
本当に、止まった。
ローレンスの手も、帳簿の上で止まる。
材木屋の青年の笑顔も固まる。
親方も、冗談を続ける顔ではなくなった。
私も。
息が止まった。
ヴィルヘルムは、表情を変えない。
けれど、その青い瞳の奥に、一瞬だけ深い影が落ちた気がした。
冗談ではない。
今の彼の言葉は、冗談ではなかった。
断罪の夜。
あの場。
淡々と罪状を整理したヴィルヘルム。
カイエンの嘲笑。
私を取り囲む視線。
父からの伝言。
国外追放。
切った髪。
売った装飾品。
古い家で泣かなかったふりをした夜。
それらが、一瞬で胸に戻ってくる。
私は唇を開いたが、何も言葉が出なかった。
材木屋の親方が、気まずそうに頭を掻いた。
「……そうかい。」
ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。
「はい。」
「なら、これ以上は泣かせるな。」
今度の声は、冗談ではなかった。
ヴィルヘルムは、さらに深く頭を下げた。
その背が、ほんのわずかに強張っているのが、私には分かった。
「肝に銘じます。」
その言葉が、店の中に重く落ちる。
私は、なぜか逃げ出したくなった。
ここはローレンスの店だ。
私の商品が並んでいる。
町の人たちがいる。
布飾りが売れた。
良い日になるはずだった。
なのに、胸の奥に古い痛みが戻っている。
――ヴィルヘルムのせいだ。
――いや、もとは私の過去のせいだ。
違う。
やはり、あの夜のせいだ。
私は深く息を吸った。
「……ローレンスさん。」
声が少し硬かった。
「追加分は、こちらでお願いします。私はそろそろ戻ります。」
「あ、ああ。分かった。」
ローレンスは何も追及しなかった。
それがありがたかった。
私は籠を持ち、店を出ようとした。
ヴィルヘルムが少し動いた。その手が、わずかに私の方へ伸びかけ、途中で止まった。
「レベッカ嬢。」
「ついて来ないでください。」
自分でも驚くほど、きっぱりした声が出た。
店の中がまた静かになる。
ヴィルヘルムは足を止めた。伸ばしかけた手を、静かに下ろす。
「……はい。」
「今日は、ついて来ないでください。」
「承知、しました。」
その返事が、いつもより少しだけ低かった。
私は振り返らず、店を出た。
最後に一瞬だけ目に入った彼の顔は、いつもの無表情だった。
けれど、その無表情を保つために、何かをこらえているように見えた。
外の空気は、思ったより冷たかった。
町の通りを歩く。
早足になっている。
情けない。
恥ずかしい。
何を動揺しているのか。
――泣かせたことがあります。
そんなことは、もう知っている。
私は泣いた。
泣いていないふりをしただけで。
あの夜も。
髪を切った時も。
古い家で一人、床に座り込んだ時も。
でも、なぜあなたがそんなふうに言うの。
なぜ、あなたがそんな顔をするの。
まるで、自分の罪だとでもいうように。
――まるで、ずっと背負っていたと言わんばかりに。
「……知らないわ。」
私は小さく呟いた。
知りたくない。
知るのが怖い。
あの人が本当に何を考えているのか。
どうして私の前に現れるのか。
どうして毎日往復四時間もかけるのか。
どうしてあんな小さな布飾りを大切そうに買うのか。
どうして、それを馬具に結んでやって来たのか。
どうして。
森の道へ入る頃には、息が少し上がっていた。
私は立ち止まり、籠を握りしめた。
ついて来る音はない。
蹄の音もない。
ヴィルヘルムは約束を守った。
――ついて来ないでください。
そう言ったら、本当について来なかった。
それでいい。
それでいいはずなのに。
胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。
家に戻ると、鳥除けの鈴が鳴った。
ちりん。
いつもの音。
私は畑の前にしゃがみ込んだ。
芽は、何も知らずに揺れている。
「……なぜあなたが言うのよ。」
声が少し震えた。
私はそれ以上何も言わず、しばらく畑を見ていた。
その日、森の家にヴィルヘルムは来なかった。
夕方になっても、蹄の音は聞こえなかった。
私は机に向かい、布飾りの続きを縫おうとした。
けれど、針はなかなか進まなかった。
庭では鳥除けの鈴が、いつも通り軽い音を立てて鳴っている。
いつも通りのはずなのに。
今日は少しだけ胸に痛かった。




