第三十一話 来ない日の鈴
その夜、私はあまり眠れなかった。
雨は夕方に少し降ったが、完全に夜の帳が降りる頃には止んでいた。
屋根から水が落ちる音もしない。物置部屋の桶も、台所の隅も静かだった。
ただ、春終わりの雨は静かに冷たい空気を肌に運んでいた。
眠ろうとすると、ローレンスの店で聞いた声が何度も耳の奥に戻ってくる。
――すでに、泣かせたことがあります。
低く、静かな声だった。
大げさな後悔でも、芝居がかった懺悔でもない。
ただただ事実を述べるような声。
……だから余計に、胸に残った。
私は寝台の上で、何度も寝返りを打った。
「……知っているわ。」
小さく呟く。
そう。
知っている。
あの断罪の夜、私は泣いた。
カイエンに婚約を破棄され、身に覚えのない罪を一方的に突きつけられた。
観客達は私を悪女として見遣った。
父は私を短い言付で切り捨てた。
そしてヴィルヘルムは、その舞台のすべての台本を描いた人間だ。
冷静に。
正確に。
逃げ道を塞ぐように。
彼は私を見た。しかし手を伸ばすことはなかった。
あの時を思うと、今でも胸の奥がすっと冷たくなる。
まるで尖った氷を胸に押し込められるかのように。
なのに。
今の彼は、森の家に毎日やってくる。
畑の芽を見、柵を直し、雨ざらしになりながら待つ。
古い梯子に触るなと止めて、高級でもないお茶を安心する、などと言って飲む。
私の手仕事を褒め、彼には決してそぐわない布飾りを身に着ける。
そして、泣かせたことがあります、と言う。
一体どちらが本当なのだろうか。
あの断罪の夜の、冷酷な第三王子。
森の家へ通う、面倒な知り合い。
その両方が同じ人だと、頭では分かっている。
けれど、心が追いつかない。
「……考えても仕方ないわ。」
私は布団を引き上げ、目を閉じた。
仕方ない。
考えるべきことは他にある。
鈴飾りの追加。双葉の茶布の注文。畑の手入れ。糸の残り。食費。屋根修理で減った分の補填。
ヴィルヘルムのことなど考えている場合ではない。
そう思うほど、意識はそこへ戻る。
――泣かせたことがあります。
ならば、なぜ今も来るのか。
罪悪感。
監視。
見守り。
償い。
それとも。
そこまで考えかけて、私は目を開けた。
「違うわ。」
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ、その先を考えるのが怖かった。
翌朝、起きた時には少し頭が重かった。
眠れなかったわけではない。けれど、深く眠れた感じもしない。
窓を開けると、朝の森と微かな雨の匂いが部屋を満たした。
鳥の声。葉のざわめき。遠くで誰かが薪を割る音。
庭では、鳥除けの鈴が控えめに鳴っている。
いつもの音。
私は深く息を吸った。
「今日は仕事をする。」
声に出す。
そうでもしないと、頭の中が余計なことでいっぱいになりそうだった。
朝食は簡単に済ませた。
パンの残りを温め、薄いスープを飲む。
机に向かい、布を手にとり縫い始めた。
表には鈴。裏には双葉。
布飾りは四つ手元を離れた。
パン屋の弟が黄色い飾り。
パン屋の娘が赤い飾り。
材木屋の青年が青い飾り。
ヴィルヘルムが薄緑の飾り。
最後の一つを思い出した瞬間、針先が少しずれた。
「……。」
私は糸を抜いた。
やり直し。
集中。
仕事。
これは仕事だ。
誰が買ったかを思い出す必要はない。
針を入れる。
一針。
また一針。
小さな鈴を縫う。
紐の部分は少しだけ曲げる。風に揺れているように。
裏返して、双葉を縫う。
昨日より少ししっかりした形にする。
畑の芽も、少しずつ大きくなっている。
それに合わせるように、双葉の刺繍も少し力強く見せたくなった。
気づけば、午前のうちに三つできていた。
やりすぎだろうか。
いや、手はまだ痛くない。
肩は少し重い。でも、少し休めば大丈夫。
私は針を置き、外へ出た。
畑に向かい、芽を見る。
昨日より、ほんの少し葉が開いたような気がする。
毎日見ているから分かる。
いや、本当に分かっているのかは怪しい。
でも、そう思いたい。
私はしゃがみ込んで、土の湿り気を確認した。
まだ水は足りている。雨上がりの名残が残っているのだろう。
鳥除けの布が風に揺れた。
鈴が鳴る。
私は顔を上げ、森の道を見た。
誰もいない。
当たり前だ。
まだ昼前だ。
ヴィルヘルムが来るなら、恐らく夕方近くだ。
――いや、今日は来ないかもしれない。
昨日、私は言った。
――ついて来ないでください。
ヴィルヘルムはそれを承諾した。
なら、今日は恐らく来ない。
来ない方が自然だ。
来ない方がいい。
私は深く頷いた。
「来なくていいわ。」
口に出す。
すると、胸の奥が少し変なふうに沈んだ。
なぜ沈むのか。
来なくていいと言ったのは私だ。
私は家へ戻り、昼食を作った。
豆と野菜のスープ。少し硬くなったパン。
食事をしながら、机の上の鈴飾りを見る。
午後はローレンスの店へ持っていくべきだろうか。
昨日の今日だ。行けば、また何か言われるかもしれない。
ローレンスは何も追及しなかったが、何も気づいていないわけではない。
あの人は、町の噂と人の顔色を見るのが仕事のような男だ。きっと私の動揺にも気づいていた。
行きづらい。
けれど、商品は届けたい。鈴飾りが売れる時期を逃したくない。
私は食器を片づけながら考えた。
そして結局、今日は家で作業を進め、納品は明日にすることにした。
これは逃げではない。
段取りだ。
明日の方が数も揃う。
ローレンスに説明する時も、そう言えばいい。
午後、私は茶布の注文分に取りかかった。
双葉の茶布。商人の奥さんが、贈り物にしたいと言っていたものだ。
いつもより大きい布に、控えめな双葉を一つ。
あまり大きくしすぎない。けれど、贈り物なら少しだけ丁寧に。
葉の輪郭をいつもより細かく縫う。茎の曲がり方も、少しやわらかく。
集中していると、少しずつ心が静まっていく。
針仕事は不思議だ。
一針ずつ進めるしかない。
急ぐと乱れる。乱れたら戻す。直せないところは、次の針で整える。
まるで暮らしそのものだ。
過去を全部ほどくことはできない。
でも、次の一針を選ぶことはできる。
私は布を見つめた。
双葉が、少しずつ形になっていく。
夕方が近づいた。窓の外の光が、少しずつ薄くなる。
私は針を止めた。
耳が、勝手に森の道の方を探る。
馬の蹄の音。
聞こえない。
風の音。鳥の声。遠くの荷車の音。
でも、あの規則正しい音ではない。
私は深く息を吐いた。
「来ないわね。」
言った瞬間、胸が少し痛んだ。
来ない方がいい。
来なくていい。
彼は私の言葉を守っている。約束を守っているのだ。それなら、いいことではないか。
いいことのはずだ。
なのに、どうしてこんなに家の中が静かなのか。
いつもと同じ森の家だ。
いつもと同じ机。同じ椅子。同じ暖炉。同じ鳥除けの鈴。
ただ、夕方に蹄の音がしないだけ。
それだけで、家が少し広く感じる。
私は立ち上がり、台所へ行った。
湯を沸かす。器を一つ出す。
一つだけ。
当たり前だ。
私は一人なのだから。
湯気が立つ。器に湯を注ぐ。
その時、手が一瞬止まった。
なぜかもう一つ、器を出しそうになったことに、気付いた。
「……何をしているの。」
自分に言った。
本当に、何をしているのか。
私は器を戻して棚を閉じた。
湯を一口飲む。
熱い。
ただの湯だ。
茶葉は使わない。新しいものもまだ買っていない。
生活の余白は、もう少し後。
自分のために買うもの。
誰かに出すためではない。
そう決めたのに。
なぜ、もう一つの器を見つめてしまうのか。
私は器を持ったまま、窓の外を見た。
森の道は、薄い影に沈み始めている。
蹄の音はない。
その静けさが、今日は少しだけ腹立たしかった。
何に腹を立てているのか。
――彼が来ないことに?
違う。
来ないようにしたのは私だ。
――彼が約束を守ったことに?
それも違う。
なら。
――自分が、彼が来ないことを気にしている事実に。
そう。それが一番腹立たしいのだ。
「……本当に面倒。」
私は湯を飲み干した。
夜になっても、ヴィルヘルムは来なかった。
当然だ。
そう言い聞かせながら、私は夕食を作った。
スープを温め、パンを少し焼く。
鳥除けの鈴は、夜風で時折鳴った。
ちりん。
ちりん。
いつもの音なのに、今日は妙に大きく聞こえる。
食後、私はもう一度机に向かった。茶布の続きを縫う。
けれど、夕方以降、針目が少し乱れた。
一度ほどく。縫い直す。また乱れる。
私は針を置いた。
「今日は、ここまで。」
自分に言い聞かせる。
無理をしてはいけない。
マーサにも言われた。
ローレンスにも言われた。
ヴィルヘルムにも。
また思い出してしまった。
私は額に手を当てて小さく唸る。
これは重症かもしれない。
いや、違う。
毎日来ていた人が来なければ、誰だって少し気になる。それだけだ。
寂しいとか、物足りないとか、そういう話ではない。
生活の変化に対する違和感。
習慣の乱れ。
確認役の不在。
……そういうことだ。
私は自分に説明した。
かなり苦しい説明だった。
その時、玄関を叩く音がした。
私はびくりとした。
胸が大きく跳ねる。
まさか。
思わず立ち上がる。
けれど、聞こえた声はマーサだった。
「レベッカ、起きてるかい。」
なぜか、胸の奥に浮かんだものが少ししぼんだ。
いや、失礼だ。
マーサが来てくれたのだ。ありがたいことだ。
「起きています。」
扉を開けると、マーサが小さな包みを持って立っていた。
「遅くに悪いね。ローレンスから預かったよ。」
「ローレンスさんから?」
「ああ。今日の売上分だってさ。あんた、明日来るかもしれないけど、渡せる時に渡しといてくれって。」
私は包みを受け取った。
中には硬貨が少し入っていた。
今日、私が帰った後にも、鈴飾りが売れたのだ。
「売れたんですか。」
「二つ売れたらしいよ。」
「二つも。」
「よかったじゃないか。」
「はい。」
嬉しい。
確かに嬉しい。
でも、その嬉しさの横に、別の感情がある。
マーサは私の顔をじっと見た。
「今日は、殿下さん来なかったね。」
直球だった。
私は背筋を伸ばした。
「来なくて結構です。」
「そう言うと思った。」
「昨日、ついて来ないでくださいと私が言いましたので。」
「うん。」
「お仕事もお忙しいでしょうしね。」
「そうだろうね。」
「だから、来ないのは当然です。」
「そうだね。」
「何も問題ありません。」
「そうかい。」
マーサの声は、完全に信じていなかった。
私は少しだけむっとする。
「何ですか。」
「いや。問題ないならいいんだよ。」
「問題ありません。」
マーサは笑わなかった。
ただ、少しだけ優しい目をした。
それが、余計に居心地が悪かった。
「レベッカ。」
「はい。」
「来ない日があって、気になるのは悪いことじゃないよ。」
「気になっていません。」
「そう言うなら、そういうことにしとく。」
「本当に。」
「はいはい。」
完全に信じていない。
けれど、追及もしない。
マーサはそういうところがうまい。
私は包みの硬貨を机に置いた。
からり、と音がする。
今日の売上。
鈴飾り二つ分。
それは、確かに嬉しい音だった。
マーサは帰り際、扉のところで振り返った。
「あの人、今日は来なかったけど、約束は守ったんだろう?」
「そうですね。」
「約束を守る男は、悪くない。」
「……そうでしょうか。」
「少なくとも、守らない男よりはましだよ。」
それだけ言って、マーサは帰っていった。
扉を閉める。
家の中がまた静かになる。
今日、彼は来なかった。
約束を守った。
それだけのこと。
それだけのことなのに。
私はなぜか、少しだけ胸が苦しかった。
寝る前に、私は窓を少し開けた。夜の森の匂いが入ってくる。
鳥除けの鈴が、また小さく鳴った。
いつもなら、ただの鈴の音だ。
けれど今日は、その音の隙間に、聞こえない蹄の音を探してしまう。
私は窓を閉めた。
「……別に来なくてもいいわ。」
そう呟いて、灯りを消す。
けれど、眠る直前。
本当に最後の最後に、頭の中で別の言葉が浮かんだ。
――明日は、来るのかしら。
私はその言葉に気づかなかったふりをして、布団を頭まで引き上げた。




