第三十二話 王都からの使者
翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。
昨晩もまた雨が降ったらしい。厚い霧に包まれた森はどこか薄暗く、窓からの採光も弱い。
決して眠れなかったわけではない。
むしろ、昨夜はいつの間にか眠っていた。
ただ、眠る直前に心の中で自分が呟いた言葉を思い出し、寝台の上でしばらく動けなくなった。
――明日は、来るのかしら。
そう。
思ってしまった。
誰も聞いていない。声に出したわけでもない。
……けれど、自分で自覚してしまった。
私は布団の中で、額に手を当てた。
「……寝ぼけていたのよ。」
そういうことにした。
昨夜は疲れていた。
布飾りも売れたし、茶布も進めたし、畑のことも考えた。
それに、一昨日にはローレンスの店で妙なことがあった。だから少し心が乱れていた。
そう。
全部、疲れのせいだ。
私はそう結論づけて、寝台から起き上がった。
ゆっくりと窓を開ける。
細かな霧にかぶる森。葉の匂い。土の匂い。少し冷たい風。
庭では、鳥除けの鈴がいつも通り鳴っている。
昨日の夜は、その音の隙間に、聞こえない蹄の音を探してしまった。
今日は探さない。
探す必要などない。
来ても来なくても、私の暮らしは進む。
私は顔を洗い、火を起こし、湯を沸かした。
パンを温め、残りのスープを薄める。
食事をしながら、机の上に置いた布飾りと茶布を眺めた。
今日はローレンスの店へ追加分を持っていく。
それから、赤い糸を買うかどうか考える。
来月の小さな市に向けて、本当に布飾りを増やすなら、今から少しずつ準備しなければならない。
やることは多い。
頭の中で予定を組み立てると、少し落ち着いた。
食事を終え、私は畑へ向かった。
細い雨を受けた畑は、また昨日より少し緑が濃く見えた。
私はしゃがみ込む。そして、ようやく気づいた。
もう、芽ではない。
最初に土から顔を出した、頼りない双葉ではない。
双葉のあいだから、小さな本葉が伸びている。
薄くて柔らかい。けれど、形はしっかりしていた。
隣の株も、その隣も。
小さかった緑たちは、もう「出たばかりの芽」ではなくなっていた。
「……若葉ね。」
私はそっと呟いた。
若葉。
そう呼ぶだけで、胸の奥が少し温かくなる。
最初は、あんなに頼りなかった。
風が吹けば折れてしまいそうで、雨が降れば流れてしまいそうで、鳥に見つかれば一口で消えてしまいそうだった。
それが今は、土に根を張り、葉を広げている。
まだ小さい。
収穫にはもう少しかかるだろう。
けれど、マーサが言っていた。
もう少ししたら、間引いた分をスープに入れられる、と。
この畑の葉を。
私がまいた種から育った葉を。
自分の食卓に乗せる日が来る。
そのことを想像しただけで、胸が弾んだ。
私は指先で、葉のそばの土に触れた。
葉そのものには触れない。まだ柔らかいから。
「育っているのね。」
畑に言った。
そして、少し遅れて思う。
――私の暮らしも、そうだろうか。
この家へ来たばかりの頃、私は本当に何もなかった。
名誉も、身分も、婚約者も、王宮で積み上げてきたものも、全部奪われたと思っていた。
古い家で火を起こせず、井戸水に苦戦し、埃にむせ、床を磨きながら怒っていた。
惨めで。
悔しくて。
怖くて。
それでも、折れたくなかった。
あの頃の私は、土から顔を出したばかりの芽のようだったのかもしれない。
頼りなくて、意地っ張りで、それでも、上を向くしかなかった。
今も、強いとは言えない。
昨日のように、来ない人の蹄の音を探してしまう日もある。
器を二つ出してしまいそうになることもある。
自分の心が自分で分からなくなることもある。
けれど、少なくとも。
私はまだ、ここにいる。
畑も、ここにある。
若葉も、ここにある。
それだけは確かだった。
「水は、少しだけでいいわね。」
私は井戸から水を汲み、土の様子を見ながらほんの少しだけやった。
多すぎてもいけない。少なすぎてもいけない。
加減が難しい。
水も。
仕事も。
人との距離も。
全部、加減を間違えると根を傷めるのかもしれない。
そこまで考えて、私は首を振った。
朝から考えすぎだ。
畑の世話を終え、私は家に戻った。
布飾りを六つ。茶布を一枚。それから、注文分の双葉の茶布を途中まで。
籠に入れると、少しだけ重みがあった。
売り物の重み。
仕事の重み。
私はその重みを確かめるように籠を持ち、町へ向かった。
ローレンスの店に着くと、店内はいつもより少し静かだった。
ローレンスは帳簿を閉じ、私を見ると片眉を上げた。
「眠れたかい。」
「昨日よりは、眠れました。」
「そりゃよかった。」
「布飾りの追加です。あと、茶布も一枚。」
「見せてごらん。」
私は籠から商品を出した。
ローレンスは一つずつ確認し、頷く。
「いいね。形が揃ってきた。」
「揃いすぎないようにしたつもりです。」
「そこが分かってきたなら上等だ。」
「上等。」
「手作り品は、揃っていないからいい時もある。雑なのと味があるのは違うけどね。」
「……難しいですね。」
「だから面白い。」
ローレンスは棚に布飾りを並べた。
昨日より少し数が増え、棚の一角がまた賑やかになる。
薄黄色。青。くすんだ赤。茶色。薄緑。灰色。
私はそれを見て、少しだけ満足した。
店に、自分の仕事の場所がある。
その事実は、まだ慣れないけれど、嬉しい。
「畑はどうだい。」
ローレンスが聞いた。
「もう芽ではなくなっていました。若葉という感じです。本葉も出ています。」
「そりゃいい。葉物なら、もう少ししたら食べられるな。」
「マーサさんにも言われました。」
「最初の収穫は嬉しいぞ。」
「はい。楽しみです。」
素直にそう言うと、ローレンスは少し笑った。
「そういう顔をしてる。」
「そんなに分かりやすいでしょうか。」
「殿下さん関係よりは、ずっと分かりやすい。」
突然出た名前にどくりと心臓が脈打つ。
「……なぜそこで殿下さんが出るのですか。」
「出しただけだよ。」
「出さないでください。」
ローレンスは笑って肩をすくめた。
それから、少しだけ声を落とす。
「今日はまだ来てないよ。」
「……聞いていません。」
「言っただけだ。」
「来ても来なくても、私には関係ありません。」
「そうかい。」
ローレンスはそれ以上、何も言わなかった。
ありがたい。
追及されると、こちらも意地になって余計なことを言ってしまいそうだった。
その時、店の扉が開いた。
入ってきたのは、パン屋の娘だった。
彼女は棚の布飾りを見ると、すぐに表情を明るくした。
「増えてる。」
「今日、持ってきました。」
「この茶色、いいですね。母が好きそう。」
「大人向けにと思って作りました。」
「じゃあ、これをください。」
また一つ売れた。
目の前で。
茶色の布飾りが、ローレンスの手で包まれる。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
若葉も育つ。
布飾りも売れる。
私の暮らしは、昨日より少しだけ前に進んでいる。
パン屋の娘が帰った後、ローレンスは代金の一部を私に渡した。
硬貨が手のひらに乗る。
からり。
その音を聞きながら、私はふと思った。
もう少ししたら、畑の若葉もスープに入る。
今は硬貨の音。
次は、鍋の中で葉が広がる音。
そうやって、少しずつ私の暮らしは増えていくのかもしれない。
店を出る頃には、朝真っ白だった空は薄い灰色へと色を変えていた。
すぐには雨にはならなさそうだが、風が変わっている。
私は籠を抱え、森の道へ向かった。
途中、遠くで馬の蹄の音が聞こえた気がした。
足を止める。
耳を澄ませる。
風。
荷車。
誰かの話し声。
蹄ではない。
私は少しだけ息を吐いた。
ほっとしたのか。
残念だったのか。
自分でも分からなかった。
家に戻ると、畑の若葉が夕方の光の中で揺れていた。
私はしゃがみ込み、葉を見つめる。
「もう少しね。」
若葉に言った。
そして、自分にも言っているような気がした。
もう少し。
もう少しだけ、この暮らしを育てる。
誰が来ても。
誰が来なくても。
私は私の手を動かす。
そう思いながら、家へ入った。
赤い夕焼けの光が、宵の帳へ向かって静かに沈んでいく。
いつも静かな館内に、その日ばかりは焦りを感じさせるような足音がいくつも響いていた。
エルヴァルト公爵領館には、王都からの使者が到着していた。
灰色の石造りの領館の前に、王家の紋を付けた馬車が止まる。
降り立ったのは、王都で長く宮廷儀礼を担ってきた文官だった。
年は五十前後。
細身で、隙のない衣服をまとい、口元には礼儀正しい微笑を浮かべている。
だが、その目には明らかな圧があった。
領館の執務室で、ヴィルヘルムはその使者と向き合っていた。
窓の外には、西部の森が広がっている。
机の上には、領地の報告書、税収の一覧、国境および隣国情勢に関する調査書、王都からの書簡。
そして、まだ封を切っていない別の書状が三通。
現エルヴァルト公爵クラウスは、窓辺に近い椅子に腰を下ろし、沈黙していた。
銀灰色の髪。鋭い灰色の目。
老齢ながら背筋は伸び、ただ座っているだけで部屋の空気を引き締める男だった。
使者は深く一礼し、静かに口を開いた。
「ヴィルヘルム殿下。王都より、正式なご帰還の要請をお持ちいたしました。」
ヴィルヘルムは表情を変えなかった。
「先日も、同じ内容の書簡を受け取りました。」
「はい。ですが、今回は書簡ではなく、口頭で重ねてお伝えするよう命じられております。」
「父上からですか。」
「陛下、および貴族院より。」
貴族院。
その言葉に、クラウス公爵の目がわずかに細くなった。
ヴィルヘルムは静かに問う。
「帰還式典の件ですか。」
「それだけではございません。」
使者は一呼吸置いた。
「まず、殿下の十年にわたる質子期間は、すでに正式に満了しております。本来であれば、終戦記念日の式典に合わせ、王都にて帰還式典を行うべきところでした。」
「公爵領の引き継ぎがありました。」
「承知しております。」
「ならば。」
「ですが、王都側としては、これ以上の延期は難しいとの判断でございます。」
使者の声は丁寧だった。
だが、言葉の端には、明確な命令が滲んでいる。
ヴィルヘルムは黙っていた。
使者はさらに続ける。
「加えて、王太子選定に関する会議が開かれます。殿下には、必ずご出席いただく必要がございます。」
執務室の空気が、少し重くなった。
アインシュヴァルド王国は、長子がそのまま王太子になる国ではない。
王族の血筋は重んじられる。だが、それだけでは足りない。
能力。
実績。
外交感覚。
政務処理能力。
王族会議と有力貴族たちの承認。
そして、国を背負うだけの器。
それらを総合して、王太子は選ばれる。
現在、王太子候補筆頭と見なされているのは、第一王子アルフォンスだった。
穏やかで調整力があり、王都での支持も厚い。
ヴィルヘルムが質子としてエルセリアにいた十年の間、兄は王都で着実に基盤を固めていた。
だからこそヴィルヘルムは、先の決定に従い、帰還後エルヴァルト公爵家に入るのだと思っていた。
跡継ぎのいないこの公爵家を継ぐ。
西部の領地を整える。
そして、レベッカを。
そこまで考えて、思考を止めた。
使者が言う。
「殿下の名が、会議の正式議題に上がっております。」
「私の名が?」
思わず眉間に力が入る。
「はい。」
「私は王都を十年離れていました。」
「だからこそ、と見る方々もおります。」
使者は丁寧に言った。
「十年にわたり、敵国に近い王宮で質子として過ごし、なお冷静に祖国へ情報を送り、情勢を見極め、帰還後は短期間で公爵領の引き継ぎにも着手された。外交的忍耐、政務能力、危機対応力。そのすべてを評価する声がございます。」
「過大評価です。」
「そうお考えになる方ばかりではございません。」
ヴィルヘルムは黙った。
「さらに、こちらは会議にて仔細討議されるものと思われますが。殿下もご承知のとおり、現在、隣国情勢は不穏さを増す一方です。国境の治安悪化も見過ごせるものではございません。エルセリア王宮の内情と各派閥の動向に詳しい殿下の主導で、エルセリア国との再開戦を望む声も――」
クラウス公爵が、そこで初めて口を開いた。
「今ここで話すべき内容ではありませんな。使者殿。つまり王都は、ヴィルヘルム殿下を王太子候補として本格的に扱うつもりですかな。」
「王族会議の決定前に、私の口から断定はできません。」
「便利な答えだ。」
クラウスの声は低く、乾いていた。
使者は微笑を崩さない。
「ただ、殿下が不在のまま会議が進むことは、陛下も望んでおられません。」
ヴィルヘルムは机の上の書類へ視線を落とした。
そこには各所からの報告書、調査書、書状に交じり、開封された書面が一通置かれていた。
ローレンスからの森の家に関する報告書。
鈴の鳴る森の家。
手綱袋に結ばれた、小さな布。
薄緑の布飾り。
レベッカが作ったもの。
彼女の暮らしの印。
それを思い出した瞬間、王都の白い石壁が、ひどく遠く感じられた。
「私は、エルヴァルト公爵家の後継者としてこちらに来ています。」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「その件も、王都で改めて協議されることになるでしょう。」
「協議。」
「殿下の立場が変われば、養子入りの扱いも変わります。」
使者の言葉に、クラウス公爵が短く笑った。
「国は、人の人生を帳簿の項目のように動かしますな。」
「公爵閣下。」
「失礼。年寄りの独り言です。」
まったく失礼と思っていない声だった。
使者はきつく口を結び、少しだけ目を伏せた。
「ご出立は、遅くとも十日以内に。」
ヴィルヘルムの指が、机の上でわずかに止まった。
「十日。」
「遅くとも二週間以内には、王都へお戻りいただきたいとのことです。」
「滞在期間は。」
「会議と式典、諸調整を含め、少なくとも三ヶ月。」
三ヶ月。
その言葉だけが、部屋の中で妙に重く響いた。
ヴィルヘルムは目を伏せた。
三ヶ月。
森の家へ行けなくなる。
畑の若葉を見ることも。
屋根の状態を確認することも。
布飾りが売れたか聞くことも。
彼女が無理をしていないか確かめることも。
玄関先で、あの硬い声に追い返されることも。
できなくなる。
昨日は、森の家へは行けなかった。
公爵領館の業務が詰まっていたのは本当だ。
王都からの書簡。領地内の報告。税収の確認。隣国の内情整理。国境付近の対策。現公爵との協議。
行けなかった理由なら、いくらでも並べられる。
それに、レベッカは何度も言っていた。
忙しいなら来なくていい。
無理をしてまで来る必要はない。
仕事を夜に回すな。
その言葉は、正しかった。
正しかったはずだ。
けれど、最後に彼の足を鈍らせたのは、業務の量ではなかった。
一昨日、ローレンスの店で見た彼女の硬い表情。
ついて来ないでください、と告げた時の、わずかに震えた声。
あの声が、耳から離れなかった。
追えば、また傷つける。
近づけば、また何かを背負わせる。
そう思ったから、行かなかった。
約束を守ったのだと、自分に言い聞かせた。
しかし、一日が終わっても、胸の中は少しも静かにならなかった。
それなのに、三ヶ月。
そんなことを考えている自分に、ヴィルヘルムは内心で苦く息を吐いた。
王都からの使者の前で考えることではない。
それでも、頭に浮かぶのは森の家だった。
短い髪を耳にかけるレベッカ。
布飾りを包む指。
泣かせたことがあります、と言った時の、彼女の固まった横顔。
――ついて来ないでください。
あの声。
一昨日は、追わなかった。
昨日も、行けなかった。
そして今、三ヶ月という時間を突きつけられている。
「殿下。」
使者の声で、ヴィルヘルムは視線を戻した。
「ご返答を。」
「即答はできません。」
「ですが。」
「公爵領の引き継ぎがあります。現公爵と協議します。」
使者は少しだけ不満そうに見えたが、すぐに礼儀正しい表情へ戻った。
「承知いたしました。ですが、王都は長い猶予を認めないかと。」
「分かっています。」
使者が下がった後、執務室には沈黙が残った。
扉が閉じる音がしても、ヴィルヘルムはしばらく動かなかった。
クラウス公爵が、椅子に座ったまま口を開く。
「逃げ続けることはできません。」
ヴィルヘルムは目を伏せた。
「逃げているつもりはありません。」
「では、何をしているおつもりで?」
「引き継ぎを。」
「殿下。」
クラウスの声が少し低くなった。
「私にまで、その便利な言葉を使う必要はありません。」
ヴィルヘルムは黙った。
便利な言葉。
レベッカにも言われた。
確認。
生活基盤。
危険回避。
監視。
どれも、便利な言葉だった。
――自分の感情に名前をつけないための。
クラウスは静かに続けた。
「殿下は、王都から逃げている。王族として戻ることからも、ご自身が何を望んでいるのかを認めることからも。」
「……。」
「そして、あの娘のもとへ通うことで、それらを先送りにしている。」
ヴィルヘルムは、ようやく口を開いた。
「彼女は、まだ不安定です。」
「でしょうな。」
「古い家も、畑も、生活も、まだ整いきっていません。」
「でしょうな。」
「ですので。」
「殿下が毎日通う必要があるとでも。」
クラウスの言葉は厳しかった。
ヴィルヘルムは答えられなかった。
クラウスは窓の外へ視線を向けた。
「殿下。あの娘を守りたいのですか。それとも、手元に置きたいのですか。」
鋭い問いだった。
胸の奥を、直接突かれたようだった。
ヴィルヘルムは、すぐには答えられなかった。
守りたい。
それは本当だ。
レベッカが傷つくことを避けたい。無茶を止めたい。寒い家で震えないようにしたい。雨漏りの夜に一人で座り込まないようにしたい。
だが、それだけか。
それだけなら、なぜ自分で行く必要がある。
職人を手配すればいい。金を渡せばいい。見張りを置けばいい。町の者に任せればいい。
それでも自分が行くのは。
彼女の声を聞きたいから。
彼女が今日も立っていることを、自分の目で見たいから。
そして。
――彼女が自分のいない場所で、自分なしに生きていくことが怖いから。
ヴィルヘルムは拳を握った。
「……分かりません。」
ようやく出た言葉は、それだった。
クラウスは深く息を吐いた。
「分からないまま近づけば、また傷つけます。」
また。
その一言が重かった。
――すでに、泣かせたことがあります。
一昨日の自分の言葉が返ってくる。
「殿下。責任の名で囲い込むことと、愛することは違います。」
ヴィルヘルムは目を伏せた。
「……愛などと。」
「違うと?」
「私は。」
言葉が続かなかった。
クラウスは立ち上がり、机の上に置かれた王都からの書簡を見た。
「王都へは戻るべきです。」
「公爵。」
「これは命令ではありません。後見人としての忠告です。」
クラウスはヴィルヘルムを見た。
「戻らなければ、王都は殿下が何かを隠していると疑うでしょう。そうなれば、あの娘にも目が向く。」
ヴィルヘルムの表情が、わずかに変わった。
「レベッカ嬢に?」
「殿下が王都帰還を拒み続ける理由。毎日通っている森の家。国外追放された元公爵令嬢。それも、情勢不安著しい旧敵国の。噂になれば、面白がる者はいくらでもいる。」
ヴィルヘルムは黙った。
それは避けなければならない。
レベッカを守るために通っていたはずが、その行動自体が彼女に火の粉を向けるかもしれない。
愚かだ。
本当に。
自分はいつも、彼女を守るつもりで傷つける。
「王都へ戻りなさい。」
クラウスは言った。
「ただし、戻るなら準備をしなさい。あの娘を置いていく準備ではない。あの娘に、余計な不安を与えない準備です。」
「……何を、伝えればよいのでしょう。」
「それを私に聞く時点で、まだ足りませんな。」
クラウスの声は厳しい。
だが、突き放すだけの冷たさではなかった。
「殿下。言葉にしなければ、相手には伝わりません。特に、あの娘は一度すべてを奪われている。曖昧な沈黙を、都合よく受け取ることはないでしょう。」
ヴィルヘルムは、レベッカの顔を思い出した。
強がる声。
怒った目。
少し震えた唇。
そして、泣きそうなのに泣かない横顔。
「……はい。」
ヴィルヘルムは低く答えた。
クラウスは少しだけ目を細めた。
「まずは、明日ですな。」
「明日?」
「森の家へ行くのでしょう。」
ヴィルヘルムは一瞬、答えに詰まった。
「……行くべきか迷っています。」
「行かなければ、余計に拗れます。」
「しかし、一昨日は。」
「一昨日追わなかったのは正しい。あの娘が、ついて来ないでほしいと言ったのならな。この二日も業務上やむを得なかったと理解されるでしょう。」
クラウスは静かに言った。
「だが、黙って距離を置き続けるのは別の問題です。」
ヴィルヘルムは深く息を吐いた。
「明日、行きます。」
「何を言うつもりで?」
「……謝罪を。」
「それだけでは足りません。」
「では。」
「少なくとも、王都から使者が来たことは伝えなさい。」
ヴィルヘルムは顔を上げた。
「彼女に?」
「いずれ分かることです。町の噂で知るより、殿下の口から聞く方がまだましです。」
まだまし。
確かにその通りだった。
何も言わずに、ある日突然来なくなる。
それは彼女に要らぬ憶測と不安を与えるだろう。想像に難くない。
ヴィルヘルムは、ようやくはっきり頷いた。
「分かりました。」
クラウスは机の上の書簡を一通取り、ヴィルヘルムの前に置いた。
「殿下。王都は待ちません。あの娘の暮らしも、殿下の都合では止まりません。」
「はい。」
「ならば、逃げずに選びなさい。」
ヴィルヘルムは書簡を見た。
王都。
帰還式典。
王太子選定会議。
三ヶ月。
その言葉の向こうに、森の家の若葉が見えた気がした。
彼女は今日何をしたのだろう。
町へ行ったのだろうか。
畑を見たのだろうか。
怪我をしていないだろうか。
泣いていないだろうか。
本当はすぐにでも彼女のもとへ向かいたかった。
しかし、その向かった先に、伝えなければならないことがある。
ヴィルヘルムは、机の上の書簡を静かに握った。




