第三十三話 熱のある朝
朝から、体が重かった。
目を開けた瞬間に分かった。
――これは、よくない。
寝台の上でしばし瞬きをする。
天井が、いつもより少し遠く見えた。
窓の隙間から入る朝の光は柔らかい。雨は降っていないようだ。
鳥除けの鈴も、庭で控えめに鳴っている。
ちりん。
いつもの音。
けれど、その音が今日は妙に頭に響いた。
私はゆっくり起き上がろうとして、すぐに動きを止めた。
体の芯が痺れている。肩が重い。喉の奥が少し乾いている。額のあたりがぼんやりする。
そして、全身が、かなり熱い。
「……一体何度あるのかしら。」
呟いて、少し笑いそうになった。
この世界には体温計などない。
高熱なのか、微熱なのかすら、自分では分からない。
ただ、体がいつもと違うことだけは分かる。
連日の針仕事。
やることが増えて、嬉しくて、少し浮かれていた。
その分、体が先に悲鳴を上げたのかもしれない。
それに。
昨日も一昨日も、頭を使いすぎた。
ローレンスの店でのこと。
ヴィルヘルムが来なかったこと。
森の道から聞こえない蹄の音を、聞こえないと分かっているのに探してしまったこと。
「……今日は、何もしない。」
声に出してみた。
それはとても正しい判断のはずだった。
けれど、すぐに頭の中で別の声がする。
布飾りをあと三つ作る予定だった。
茶布の注文分も進めないと。
若葉の様子も見なければ。水は足りているだろうか。
ローレンスの店に追加を持っていくなら、明日で足りるだろうか。
マーサは今日は用事があると言っていた。
朝早く親戚の家へ行く予定があるから、こちらには来られないと。
つまり、今日は一人だ。
私は寝台の縁に手をつき、何とか体を起こした。
起き上がっただけで、少し息が切れる。
――これは、よくない。
少しでもいいから何か食べなければ。水も飲まなければ。
そう思うのに、台所まで歩くことを考えただけで気が重い。
私は寝台に腰かけたまま、ぼんやりと部屋を見た。
机の上には、縫いかけの茶布。
椅子の背には、昨日干した布。
窓辺には、乾かしている糸。
棚の端には、昨日使った茶器が一つ。
一つだけ。
一つだけでいい。
そのはずなのに。
ふと、森の道のことを考えてしまった。
ヴィルヘルムは、今日も来ないかもしれない。
きっと、王都だか公爵領館だかの仕事が忙しいのだろう。
そもそも、私が言ったのだ。
――来なくていい。
――忙しいなら来る必要はない。
――無理をするな。
――ついて来ないでください。
そう言った。
だから来なくても当然だ。
当然なのに。
――そんなことを考える自分に、心底嫌気がさした。
「……何を考えてるの。」
声に出すと、喉が少し痛かった。
期待なんかじゃない。
確認役が来るかどうか、生活の予定として考えているだけだ。
そう言い訳しようとして、途中でやめた。
今日は、その言い訳をする元気もない。
体が弱ると、すぐに思考が悪い方へ傾く。
それは、自分の欠点の一つだと分かっていた。
体が重い。頭がぼんやりする。
……すると心まで、暗い方へ沈み始める。
「……考えちゃ、だめ。」
体が弱っている時の孤独は、いつもより惨めだった。
まだ、母が亡くなる前だ。
風邪を引いた幼いレベッカの部屋に、母が長く留まることはなかった。
熱があると訴えても、返ってくるのは心配ではなく、叱責だった。
――自己管理ができていないからでしょう。
その一言だけで、扉は閉まった。
父は知らなかったと思う。
ほかの家族も、使用人たちも。
レベッカが何度熱を出し、何度ひとりで苦しい夜を越したかなど、知りもしないだろう。
幼いレベッカは、暗い部屋で布団を握りしめながら、何度も思った。
――気づいて。
――誰でもいいから、気づいて。
――傍にいて。
――怖い。
――このまま死んでしまうかもしれない。
――死んだら、私はどこへ行くのだろう。
声を上げて泣けば、また叱られる。
だから声を押し殺して泣いた。
泣いて、泣いて、いつの間にか眠り、朝になれば何事もなかったように起き上がった。
どうして、こんな時に限って。
足元から、熱の震えと共に、冷たい茨の蔦が忍び寄ってくるようだった。
見えないのに、絡みつかれる感覚だけがある。
私は膝の上で拳を握った。
過去にとらわれないと決めたはずだ。
私はもう、公爵令嬢ではない。
王太子妃候補でもない。
断罪された悪女でもない。
ただのレベッカだ。森の家で暮らしている。
火を起こし、水を汲む。畑を育てる。布飾りを縫う。若葉がもうすぐ食卓に届く。
私は、ここで生きている。
そう言い聞かせる。
けれど、目を閉じると、母の冷たい声が浮かんだ。
――なんでこんなこともできないの。
ごめんなさい。
もっと頑張るから。
いい子になるから。
幼い自分の声が、叫ぶのをやめてくれない。
私は目を強く閉じた。
違う。
あの部屋には戻らない。
もう戻らない。
私は森の家にいる。
冷たい旧棟ではない。
ここには窓がある。
鳥除けの鈴が鳴っている。
畑には若葉がある。
私は自分の膝を両手で押さえ、ただ耐えた。
どれくらい、そうしていただろう。
頭がぼうっとして考えが定まらない。
時間の感覚が少し曖昧になっていた。
朝の光は、少しだけ高くなっているように見えた。
部屋の中は静かだった。
静かすぎた。
その時。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は、はっと顔を上げた。
聞き間違いではない。
森の道。
蹄。
――来た。
――来たんだわ。
なぜか、胸の奥がほどけた。
足元に絡みついていた恐ろしい茨の蔦が、一瞬にして緩んだような気がした。
来た。
今日は来た。
ただそれだけで、体の芯に少しだけ力が戻る。
私は寝台の縁を掴み、立ち上がろうとした。
玄関へ行かなければ。
いつものように、屋根は無事、畑は無事、鳥除けは無事、古い梯子には触っていません、と言えばいい。
それだけだ。
それだけのはずだった。
けれど、足を床につけた瞬間、世界がぐらりと回った。
「……っ。」
視界が傾く。
天井が遠ざかり、床が近づく。
私は慌てて手を伸ばした。
掴んだのは、机代わりにしている小さな椅子だった。
けれど椅子は軽かった。支えにはならない。
椅子ごと、私は床へ倒れ込んだ。
木の脚が床に当たり、乾いた大きな音を立てる。
がたん。
倒れた椅子が、さらに転がる。
机の端に置いていた糸巻きが落ち、床を転がった。
私は床に片手をついたまま、しばらく動けなかった。
息が上がる。
頭が揺れる。
痛い。
どこを打ったのか、よく分からない。
ただ、倒れた衝撃で体がますます重くなった。
外から、馬の足音が止まる音がした。
その直後、玄関の扉が強く叩かれた。
「レベッカ嬢。」
ヴィルヘルムの声。
いつもの静かな声ではない。
彼らしくないほど、焦っていた。
「大丈夫ですか。」
私は返事をしようとした。しかし喉が乾いて、すぐには声が出ない。
「……大丈夫、です。」
やっと出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
扉の向こうで、短い沈黙があった。
「今の音は何ですか。」
「椅子を……倒しただけです。」
「怪我は。」
「していません。」
たぶん。
分からない。
でも、していないと言いたかった。
扉の外の気配が、硬くなる。
「立てますか。」
「立てます。」
嘘だった。
立てるかどうか分からない。
けれど、そう言った。
私は床に手をつき、何とか体を起こそうとした。
しかし腕に力が入らない。
視界がまた揺れる。床の木目が滲んで見える。
「……っ。」
小さく息が漏れた。
扉の向こうから、低い声がした。
「レベッカ嬢。返事をしてください。」
「……大丈夫です。」
「大丈夫ではありません。」
即答だった。
いつもの淡々とした言い方ではない。
抑えているが、明らかに焦っている。
「扉を開けても?」
「駄目です。」
反射的に言った。
家の中へ入らせるわけにはいかない。そこはまだ、私が許していない線だ。
玄関先なら。
台所の入口なら。
でも、寝台のある部屋までは。
駄目だ。
駄目なはずだ。
ヴィルヘルムは沈黙した。
その沈黙の中に、迷いがあった。
私は床に倒れたまま、何とか息を整えようとした。
「マーサさんを……呼んでください。」
ようやく言えた。
「分かりました。ですが、その前に状態を確認します。」
「駄目です。」
「危険がある場合は、許可より安全を優先します。」
「そんな勝手な……。」
「勝手をします。」
その声は低かった。
決めた声だった。
けれど、扉が開くまでに、ほんの一瞬だけ間があった。
きっと彼は、その一瞬で迷ったのだと思う。
私が引いた線を踏み越えること。
それがどれほど私を傷つけるか、知っているから。
それでも、今は踏み越える方を選んだ。
次の瞬間、扉が開いた。
鍵はかけていなかった。
昨晩、ぼんやりしていてかけ忘れていたのだ。
ヴィルヘルムが中へ入ってくる。
濃紺の外套。
淡い金髪。
青い瞳。
いつも柵の外や玄関先で止まる人が、今、私の家の中にいる。
それだけで、頭のどこかが現実味を失った。
彼は一瞬で部屋の中を見た。
倒れた椅子。
床に散らばった糸巻き。
寝台の近くで座り込んでいる私。
そして、すぐに私のそばへ膝をついた。
「どこを打ちましたか。」
「分かりません。」
「頭は?」
「打っていません。たぶん。」
「たぶんでは困ります。」
「困るのは、こちらです。」
言い返したつもりだったが、声に力がなかった。
ヴィルヘルムは手袋を外した。
長い指が、私の額の近くで一瞬止まる。
「触れます。」
「……確認ですか。」
「はい。」
「便利な言葉。」
「今は本当に確認です。」
彼の指が、そっと額に触れた。
冷たい。
いや、私の額が熱いのかもしれない。
彼の指先の冷たさが皮膚に触れた瞬間、頭の熱が少しだけ引くような気がした。
私は思わず目を閉じそうになり、慌ててこらえた。
「熱があります。」
ヴィルヘルムの声が硬くなった。
「高いですか。」
「……高いと思います。」
「手を当てただけで、分かりますか?」
「明らかに、かなり熱いです。」
「そうですか。」
私は少し笑いたくなった。
そんなことまで、この人は分かってしまうのだろうか。
頭が霞がかったように、思考がまとまらない。
ヴィルヘルムは床に散らばったものを避けながら、私の肩のあたりへ手を添えた。
「寝台へ戻れますか。」
「戻れます。」
「一人で?」
「……。」
「支えます。」
「結構です。」
「支えます。」
二度目は、譲らない声だった。
私は反論しようとした。
だが、体に力が入らない。
このまま床に座り続けていても、何もよくならない。
私は小さく頷いた。
「……少しだけです。」
「はい。」
「抱え上げないでください。」
「分かりました。」
「勝手に奥へ入ったことは、後で怒ります。」
「承知しています。」
本当に、返事ばかり。
けれど、その返事が今は少しだけ頼もしかった。
ヴィルヘルムは片腕で私の背を支え、もう片方の手を差し出した。私はその手を掴む。
手袋を外した手。
冷たくて、硬い。
けれど、力の入れ方は慎重だった。
立ち上がろうとした瞬間、また視界が揺れた。
私は思わず彼の腕に掴まった。
ヴィルヘルムの体が、わずかに固まる。
しかしすぐに、しっかりと支え直された。
「無理をしないでください。」
「していません。」
「今しています。」
「……。」
言い返せない。
悔しい。
けれど、彼の支えがなければ、もう一度倒れていた。
私はほとんど彼に支えられる形で、寝台まで戻った。
寝台に腰を下ろすと、全身の力が抜ける。
ヴィルヘルムはすぐに一歩下がった。
入ってしまった距離を、少しでも戻すように。
その律儀さが、今は変に胸にしみた。
「マーサ殿を呼びます。」
「はい。」
「その前に、水を。」
「台所にあります。」
「取っても?」
「……取ってください。」
許可を求める。
こんな時でも。
ヴィルヘルムは台所へ行き、器に水を汲んで戻ってきた。
私は受け取ろうとしたが、手が少し震えた。
それを見て、彼の眉がわずかに寄る。
「持てますか。」
「持てます。」
器を受け取る。
冷たい水。
少しずつ飲む。
喉を通る水が、体の中に落ちていく。
それだけで、少しだけ現実に戻った気がした。
「食事は。」
「まだです。」
「朝から?」
「はい。」
「……。」
ヴィルヘルムが黙った。
その沈黙が怖い。
怒っているのかもしれない。
いや、彼に怒る権利はないはずだ。
「食べようとは思いました。」
私は先に言った。
「思っただけですか。」
「体が動かなかったのです。」
「分かりました。」
「分かった顔ではありませんね。」
「分かろうとしています。」
また、その言い方。
私は器を握りしめた。
「……今日は、来ないかもしれないと思っていました。」
なぜ、そんなことを言ったのか分からない。
熱のせいだ。
きっとそうだ。
ヴィルヘルムの表情が、ほんの少し変わった。
「ここ二日は、来られませんでした。」
「知っています。」
「業務が詰まっていました。」
「忙しいなら、来なくていいと言いました。」
「はい。」
「何度も。」
「はい。」
「だから、来なくても当然です。」
「はい。」
「でも。」
そこで言葉が止まった。
でも。
その先を言ってはいけない。
熱のせいでも、言ってはいけない気がした。
ヴィルヘルムは、静かに待っていた。
聞き出そうとはしない。ただ、そこにいる。
私は目を伏せた。
「……何でもありません。」
「はい。」
ヴィルヘルムはそれだけ答えた。
そして、寝台からさらに一歩離れた。
「マーサ殿を呼んできます。すぐに戻りますが、部屋の中には入りません。玄関先で待ちます。」
「……戻るのですか。」
また言ってしまった。
ヴィルヘルムがこちらを見た。
私は慌てて続けた。
「いえ、マーサさんを呼んでくだされば、それで。」
「戻ります。」
「仕事は。」
「後に回します。」
「駄目です。」
「今日は譲れません。」
声が静かだった。
けれど、強かった。
「あなたの安全が先です。」
「監視ですか。」
「いいえ。」
即答だった。
私は息を止めた。
いいえ。
今、彼はそう言った。
監視ではないと。
では、何なのか。
聞いてはいけない。
聞くのが怖い。
ヴィルヘルムも、それ以上は言わなかった。
「マーサ殿を呼んできます。」
彼は深く頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉じる。
家の中が静かになる。
私は寝台に座ったまま、彼が触れた額に手を当てた。まだ熱い。
でも、その場所だけ少し冷たさを覚えている。
心臓が、変なふうに鳴っていた。
しばらくして、外から馬の蹄が遠ざかる音がした。
マーサを呼びに行ったのだろう。
私は横になった。
天井を見る。
朝とは違って、天井が少し近く見える。
怖い記憶は、完全に消えたわけではない。
それでも。
来た。
今日は来た。
そして、勝手に入った。
後で怒らなければならない。
絶対に。
そう思ったのに、目の奥が少し熱くなった。
私は布団を引き上げた。
「……面倒な知り合い。」
小さく呟く。
声は弱かった。
けれど、さっきより少しだけ呼吸が楽だった。
外では、鳥除けの鈴が鳴っている。
ちりん。
若葉を守る音。
その音を聞きながら、私はようやく目を閉じた。
次に目を開けた時、マーサが寝台の横に立っていた。
「まったく。」
第一声がそれだった。
私は瞬きをする。
「マーサさん。」
「熱を出して倒れて、何が『大丈夫です』だい。」
「……殿下から聞きましたか。」
「聞いたよ。顔色の悪い殿下さんが、うちに飛び込んできたからね。」
「顔色が悪い?」
「あんたの方が悪いけどね。」
マーサは手慣れた様子で私の額に触れた。
「熱いね。今日は何もしない。針も持たない。畑も見ない。」
「畑……。」
「見ない。」
「水は。」
「私が見る。」
「でも。」
「でも、じゃない。」
完全に逆らえない声だった。
私は小さく頷いた。
「はい。」
「何か食べたかい。」
「まだです。」
「だろうね。薄い粥を作る。少しでも食べるんだよ。」
「はい。」
マーサは台所へ向かった。その動きに迷いがない。
私はまたゆっくりと目を閉じた。
家の中に、誰かがいる音がする。
鍋。
水。
火。
それだけで、少し安心した。
しばらくして、玄関の方から低い声が聞こえた。
「マーサ殿。薬草茶は、こちらでよろしいでしょうか。」
ヴィルヘルムの声だった。
私は目を開ける。
彼は部屋には入っていない。
玄関先にいるらしい。
本当に戻ってきた。
そして、本当に中へは入らない。
さっきは勝手に入ったくせに。
今は、線を守っている。
その律儀さが、腹立たしくて、少しだけおかしかった。
マーサの声が返る。
「ああ、それでいい。殿下さん、あんたはそこに座ってな。顔色が悪いのが二人に増えたら面倒だよ。」
「私は問題ありません。」
「問題ある顔をしてるんだよ。」
「……承知しました。」
私は布団の中で、少しだけ笑ってしまった。
笑うと、頭が少し痛かった。
でも、笑えた。
それだけで、朝よりはましだった。
マーサが粥を持って戻ってくる。
「笑ってる場合じゃないよ。」
「すみません。」
「まあ、笑えるなら少しは大丈夫かね。」
粥は薄く、塩もほんの少しだった。私は少しずつ口に運ぶ。
体は重い。
熱もある。
けれど、食べ物が入ると、少しだけ現実に戻る。
玄関先では、ヴィルヘルムが静かに待っている気配がした。
何も言わない。入ってこない。
ただ、そこにいる。
私は匙を握りながら、ぼんやりと思った。
この人が来たから、私は過去の記憶から少し戻れた。
それを認めるのは、かなり悔しい。
とても悔しい。
けれど、今日はたぶん、事実だった。
粥を半分ほど食べると、マーサが満足そうに頷いた。
「よし。今日は寝る。」
「はい。」
「殿下さんにも、もう帰ってもらう。」
玄関先が、ほんの少し静かになった。
私は思わずそちらを見た。
姿は見えない。
でも、いる。
帰るべきだと分かっているのに、まだ帰れずにいる気配がした。
そのことに気づいてしまい、胸の奥が小さく揺れた。
「……マーサさん。」
「何だい。」
「殿下に、ありがとうございました、と。」
「自分で言いな。」
「今ですか。」
「今じゃなくていい。熱が下がってからでいい。」
「……はい。」
マーサは布団を整えた。
私は目を閉じる。
玄関先で、ヴィルヘルムの声が聞こえた。
「明日、また確認に来ます。」
「来なくていいって言われるよ。」
マーサが台所から返す。
「承知しています。」
「それでも来るのかい。」
「はい。」
少しの沈黙。
それから、彼の声が続いた。
「今日は、来てよかったと思っています。」
胸の奥が、静かに揺れた。
私は目を閉じたまま、聞こえなかったふりをした。
熱のせいだ。
全部、熱のせい。
そう思いながら、私は少しずつ眠りへ落ちていった。




