表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/65

第三十四話 玄関先の謝罪

 翌朝、熱は少し下がっていた。


 完全に治ったわけではない。

 体はまだ重いし、頭の奥にもぼんやりした熱が残っている。

 しかし、昨日のように天井が遠く見えることはなかった。


 寝台の上で瞬きをして、私はゆっくり息を吐いた。


 生きている。

 まず、そう思った。


 大げさかもしれない。

 ただの熱だ。


 けれど、幼い頃の私は、熱を出すたびに本気で怖かった。


 このまま朝が来なかったらどうしよう。

 誰にも気づかれないまま死んでしまったらどうしよう。

 そんなことを暗い部屋の中で考えていた。


 昨日、その記憶に足を取られかけた。

 過去の冷たい茨に、また絡め取られそうになった。


 でも、蹄の音がした。

 扉を叩く声がした。


 勝手に入ってきた面倒な知り合いが、私を寝台まで戻した。


 そこまで思い出して、私は布団の中で眉を寄せた。


「……でも、勝手に入ったのよね。」


 そう。

 そこは忘れてはいけない。


 たとえ助かったとしても。

 たとえ、少し安心したとしても。

 たとえ、来てくれてよかったと思ってしまったとしても。


 勝手に入った。

 私が駄目だと言ったのに。


 そこは怒るべきところだ。

 私は怒る。

 ちゃんと怒る。


 熱が下がったら、きちんと抗議する。

 そう決めて、私は体を起こそうとした。


「起きるんじゃないよ。」


 台所の方から、マーサの声が飛んできた。

 私はぴたりと止まる。


 昨日、マーサはそのまま泊まり込んでくれた。

 正確には、寝台の横に椅子を置いて時々私の様子を見ながら、台所の椅子でうとうとしていたらしい。

 申し訳なさすぎて何度も謝ったが、そのたびに「寝な」と言われた。


「少し起き上がるだけです。」


「少しが一番信用ならない。」


「水を。」


「持っていく。」


「自分で。」


「熱を出した人間が、自分でやるんじゃないよ。」


 完全に負けた。

 マーサが器に水を入れて持ってきてくれる。

 私は寝台に座ったまま受け取った。


「ありがとうございます。」


「どういたしまして。頭は?」


「昨日よりはましです。」


「食欲は?」


「少しなら。」


「よし。薄い粥を温める。今日はまだ針は持たない。」


「少しだけなら。」


「持たない。」


「畑は。」


「見ない。」


「若葉が。」


「若葉は一日くらい待てる。」


 私は黙った。

 マーサには勝てない。

 昨日から何度目か分からないが、またそう思った。


 粥を少し食べ、薬草茶を飲み、私はもう一度寝台へ戻された。

 戻された、という表現が正しい。

 自分で横になったのではない。

 マーサの目に負けて、横にならされた。


 窓の外では、鳥除けの鈴が鳴っている。

 ちりん。

 若葉を守る涼しげな音。


 畑を見に行けないのが、少しもどかしい。

 でも、昨日ほど不安ではなかった。

 マーサが見てくれる。

 それだけで、畑のことも、台所のことも、少しだけ手放せた。


 昼前になると、体は少し楽になってきた。

 熱はまだあるが、頭ははっきりしている。


 だからこそ、昨日のことが鮮明に思い出される。


 倒れた椅子。床に散らばった糸巻き。

 扉の向こうの焦った声。

 勝手をします、と言った声。

 額に触れた冷たい指。

 寝台へ戻る時に掴んだ、手袋を外した硬くて冷たい手。


 私は布団を少し引き上げた。

 ……なぜそこまで思い出すのか。


 熱のせいだ。

 昨日は熱があった。今も少しある。

 だから、余計なことまで覚えている。


 そういうことにした。


 昼過ぎ、マーサが台所で鍋を片づけていると、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。

 私は無意識に顔を上げた。


 マーサが台所からこちらを見る。


「来たね。」


「誰がですか。」


「その返しは無理があるよ。」


「……。」


 私は布団の中で少しだけ姿勢を正した。


 蹄の音は、家の前で止まった。

 しばらくして、玄関が叩かれる。

 昨日よりずっと控えめな音だった。


「レベッカ嬢。マーサ殿。」


 ヴィルヘルムの声。

 今日は、いつもの落ち着いた声に戻っている。けれど、ほんの少し硬い。

 マーサが玄関へ向かった。


「はいよ。殿下さん、今日は扉を壊さないくらいの叩き方だね。」


「昨日は失礼しました。」


「家の扉が壊れちまうかとひやひやしたよ。」


 昨日、マーサを呼びに行った時に何かあったのだろう。

 何があったのかは怖くて聞けないが、心の中でマーサには深く詫びを入れた。


「様子を見に来たんだろ。もう起きてるから、玄関先で顔くらい見せてやるよ。」


 私は寝台の上で背筋を伸ばした。


 怒る。

 怒ると決めたのだ。

 人知れず気合を入れる。


 マーサが部屋の入口から顔を出した。


「レベッカ、玄関先までなら話せるかい。」


「はい。」


「無理なら追い返すよ。」


「話します。」


「起き上がれる?」


「起き上がれます。」


「歩くのは?」


「玄関までなら。」


「支えようか?」


「大丈夫です。」


「……手伝うよ。」


 マーサまで二度目は譲らない声だった。

 私は観念した。


 寝台から立ち上がると、少しふらついたが、昨日ほどではない。

 マーサに軽く支えられながら玄関へ向かう。


 扉は開いている。

 ヴィルヘルムは、玄関の外に立っていた。


 今日は本当に中へ入っていない。敷居の手前で、きっちり止まっている。


 濃紺の外套。淡い金髪。青い瞳。

 昨日より顔色はましだが、それでも少し疲れているように見えた。

 黒馬は柵の外に繋がれている。


「昨日は、大変失礼いたしました。」


 ヴィルヘルムは、私を見るなり深く頭を下げた。

 いきなりだった。

 私は少し面食らう。


「……何のことですか。」


「許可なく家に入りました。」


「分かっているなら、なぜ入りましたか。」


「危険だと判断したためです。」


「私が駄目だと言いました。」


「はい。」


「駄目だと言ったのに入りました。」


「はい。」


「そこは、反省していますか。」


「しています。」


 返事が早い。

 真面目。

 真面目すぎる。


 怒るつもりだったのに、調子が狂う。

 私は腕を組もうとして、少し力が入らず、やめた。


「では、今後は勝手に入らないでください。」


「はい。」


「緊急時でも、できる限り私の許可を取ってください。」


「はい。」


「ただし。」


 私は一度言葉を切った。

 言っていいのか迷った。だが、言わなければ伝わらない。


「本当に命に関わる時は、例外です。」


 ヴィルヘルムが顔を上げた。

 青い目が、わずかに揺れる。


「よろしいのですか。」


「よろしいわけではありません。」


「はい。」


「非常に腹立たしいです。」


「はい。」


「ですが、昨日の私は立てませんでした。あのまま床に座っていても、たぶん何もできませんでした。」


「……はい。」


「だから、昨日のことだけは、怒りますが、助かりました。」


 言えた。

 言ってしまった。


 助かった。

 本当のことだった。


 ヴィルヘルムは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます。」


「なぜあなたが礼を言うのですか。」


「言葉をいただけたので。」


「会話がしづらいです。」


「すみません。」


 また、それ。

 私はため息をついた。

 すると、マーサが横から言った。


「まあ、よかったじゃないか。怒られたけど許されたよ、殿下さん。」


「許してはいません。」


「じゃあ、怒られたけど生かされた。」


「マーサさん。」


 ヴィルヘルムが真面目に頷きそうになったので、私は慌てて睨んだ。


「そこで頷かないでください。」


「……はい。」


 玄関先に、少しだけ妙な空気が流れた。

 昨日の緊張が、ほんの少し緩む。

 それだけで、私は少し疲れた。まだ体力が戻っていないのだ。


 ヴィルヘルムがそれに気づいたように、表情を引き締めた。


「立っているのは負担では。」


「大丈夫です。」


「大丈夫という言葉の信用が、昨日から下がっています。」


「失礼ですね。」


「事実です。」


「さらに失礼です。」


 言い返したが、少し息が上がっているのは事実だった。

 マーサが私の背に手を添える。


「ほら、そろそろ座りな。」


「まだ話が。」


「話は玄関先からでもできる。あんたは座る。」


 私は反論しようとして、やめた。

 勝てない。


 玄関脇の椅子に座らされる。

 ヴィルヘルムは敷居の外に立ったまま、動かない。

 その線を守る姿勢が、昨日より少しだけ胸に痛かった。


 昨日、彼はその線を越えた。

 でも、今日は越えない。

 私が許さない限り。


「マーサ殿、薬草茶をお持ちしました。」


 ヴィルヘルムはそう言って、小さな包みを差し出した。

 マーサが受け取る。


「また高そうなものを。」


「薬草商で通常価格のものです。」


「殿下さんの通常は信用ならないね。」


「ローレンス殿に確認していただきました。」


「ならまあ、いいか。」


 ローレンスの名が出ると、妙に安心感がある。

 町の商人として、あの人はこういう時に便利だ。


 ヴィルヘルムはさらに小さな袋を差し出した。


「それと、干した果物を少し。食欲がない時でも口にしやすいと聞きました。」


「誰に聞いたのですか。」


「家の者に。」


 ということは、公爵家の誰かだ。

 私は額を押さえた。

 そんなことを聞かれた公爵家の人間は、いったい何を思ったのだろう。

 想像すると、申し訳ないような、逃げ出したいような気持ちになった。


「わざわざ?」


「はい。」


「……。」


 どう返せばいいのか分からなくなる。

 干した果物。

 薬草茶。

 仕事は。


 いや、昨日も後に回したと言っていた。そして今朝も来た。

 この人は、本当に加減を知らない。


「ありがとうございます。」


 私は小さく言った。

 言ってから、少しだけ悔しくなる。


 だが、礼は必要だ。

 昨日も今日も、助けられている。

 それは認めなければならない。


 ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。


「お役に立てば。」


「立つよ。たぶん。」


 マーサが袋を覗きながら言った。


「これは粥の後に少し出そうかね。」


「はい。」


 私は頷いた。

 そこで、ふと気づく。

 ヴィルヘルムはまだ、何かを言いたそうにしている。


 謝罪は済んだ。薬草茶も渡した。干した果物も渡した。


 なら、帰ればいい。

 けれど、彼は敷居の外で立ったまま、ほんの少し迷っている。


「何か、まだありますか。」


 私が聞くと、ヴィルヘルムの目がわずかに揺れた。


「あります。」


 胸の奥が、妙な音を立てた。


「何でしょう。」


 ヴィルヘルムは、すぐには答えなかった。

 視線が一瞬、私の顔色を確かめるように動く。

 それだけで、なぜか嫌な予感がした。


「大事な話です。」


「今、聞けます。」


「いいえ。」


「なぜですか。」


「あなたはまだ熱があります。」


「だから何ですか。」


「体調が戻ってから話します。」


 私は眉を寄せた。


「今言えないような話なのですか。」


「今、言うべきではない話です。」


「それは、悪い話ですか。」


 聞いてから、少し後悔した。

 声が思ったより硬かった。


 ヴィルヘルムは一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙が答えのようで、胸が少し冷える。


「悪い話にしたくはありません。」


 彼は静かに言った。


 悪い話にしたくはない。

 それは、良い話ではないということではないのか。


 私は椅子の端を握った。


「そういう曖昧な言い方は、嫌いです。」


「すみません。」


「また謝る。」


「はい。」


「はい、ではありません。」


 少し声が強くなった。

 頭が熱い。

 体もまだ重い。

 それなのに、胸の中だけが冷えていく。


 大事な話。

 今言うべきではない話。

 悪い話にしたくはない話。

 

 何だろう。

 王都。公爵領館。仕事。彼が昨日来られなかった理由。


 すべてが、ぼんやりとつながりそうで、つながらない。


 マーサが横から静かに言った。


「レベッカ、今日はそこまでにしときな。」


「でも。」


「熱がある時に聞いた話は、悪い方へ煮詰まるよ。」


 不安は鍋にかけると焦げつく。

 以前マーサが言った言葉を思い出した。


 確かに、今の私は冷静ではない。

 体が弱ると、思考が暗い方へ傾く。

 それは自分でも分かっている。


 私は唇を噛み、何とか頷いた。


「……分かりました。体調が戻ってから聞きます。」


「ありがとうございます。」


「感謝されることではありません。」


「いえ。」


 ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。


「待っていただくことになりますので。」


 待つ。

 その言葉が、胸にひっかかった。


 待つのは、あまり得意ではない。

 来るか来ないか分からない蹄の音を待つだけでも、ここ数日の私はあんなに落ち着かなかった。


 それなのに。


「いつ話すのですか。」


「あなたの熱が下がり、食事が取れるようになってから。」


「では、数日中には。」


「無理はしないでください。」


「予定を立てているだけです。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは少しだけ考えた。


「五日後に、改めてお話しします。」


「五日後。」


「はい。」


「それまでは?」


「毎日、確認には来ます。ただし、長居はしません。」


「確認。」


「体調の確認です。」


「便利な言葉ですね。」


「はい。」


 認めた。


 私は少しだけ笑いそうになった。しかし笑うと、まだ頭が痛むのでこらえる。


「五日後ですね。」


「はい。」


「その時に、大事な話を聞きます。」


「はい。」


「……逃げないでください。」


 言ってから、はっとした。

 なぜそんな言葉が出たのか。


 ヴィルヘルムの表情が、ほんのわずかに変わった。


 ――逃げないで。

 それは、私が言うような言葉ではない。

 彼が何から逃げているのか、私は知らない。知らないはずだ。


 なのに、言ってしまった。


 ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。


「逃げません。」


 その声は低く、真面目だった。

 約束の声だった。

 私はそれ以上、何も言えなくなった。


 マーサが軽く手を叩いた。


「はい、今日はここまで。殿下さん、帰りな。レベッカは寝る。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは一歩下がった。

 それから、私を見た。


「明日も来ます。」


「来なくても。」


 言いかけて、止まった。


 ――来なくても結構です。

 いつもの言葉が出なかった。

 代わりに、別の言葉が口をついた。


「……長居はしないでください。」


 ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけやわらいだ。


「はい。」


「仕事を夜に回さないでください。」


「はい。」


「馬にも無理をさせないでください。」


「はい。」


「返事ばかりですね。」


「はい。」


「そこも返事をしない。」


「……承知しました。」


 マーサが横で笑った。

 私は少しだけ頬が熱くなる。

 これは熱のせいだ。

 たぶん。


 ヴィルヘルムは深く一礼し、玄関先から離れた。

 黒馬のもとへ向かう背中を、私は椅子に座ったまま見てしまった。


 今日はノクスではない。

 額に丸い白斑のある、別の黒馬だった。

 名前は知らない。

 知らなくていい。

 ……でも、次に聞いたら覚えてしまうかもしれない。

 そんなことを考えて、私は自分で少し呆れた。


 蹄の音が遠ざかる。

 胸はもう痛まなかった。

 けれど、大事な話という言葉が、玄関先に薄い影のように残っていた。


 マーサが扉を閉める。


「さて、寝るよ。」


「はい。」


「考え込まない。」


「無理です。」


「正直でよろしい。」


「よろしいのですか?」


「考え込むなと言って考え込まない人間なら、昨日熱を出して倒れてないよ。」


「ひどい。」


「本当のことだよ。」


 私は笑うマーサに支えられて寝台へ戻った。

 横になると、体はやはりまだ重い。でも、昨日より息がしやすい。


 薬草茶の香りが台所から漂ってくる。

 干した果物は、小さな皿に乗せられて棚の上に置かれていた。

 ヴィルヘルムが持ってきたもの。


 私はそれを見ないように目を閉じた。


 ――五日後。

 ――大事な話。

 ――悪い話にしたくはない。

 ――逃げません。


 言葉だけが、頭の中で静かに回る。

 それでも、眠気は少しずつやってきた。

 体が休みたがっている。

 考えるのは、熱が下がってからでいい。

 

 庭では、鳥除けの鈴が鳴った。

 その音に紛れるように、私は小さく呟いた。


「……五日後。」


 自分の声を聞いたかどうか分からないうちに、私はまた眠りへ落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ