第三十五話 初めての収穫
ヴィルヘルムが大事な話を五日後にすると告げてから、二日が過ぎた。
熱は、ほとんど下がっていた。
寝台から起き上がっても、もう世界は回らない。
台所まで歩いても息は切れない。
水を汲むのはまだマーサに止められているが、火を起こして湯を沸かすくらいなら許された。
許された、という言い方が正しい。
この数日、私はマーサにかなり厳しく管理されていた。
針は持たない。
畑には行かない。
粥を食べる。
薬草茶を飲む。
眠る。
そしてまた粥を食べる。
そんな生活を繰り返した。
何もしない時間は、最初は落ち着かなかった。
布飾りの数が足りなくなるのではないか。
注文分の茶布が遅れるのではないか。
畑の若葉が水を欲しがっているのではないか。
頭の中で、やるべきことが次々に浮かんだ。
けれど、体は素直だった。
横になれば眠った。
食べれば少し力が戻った。
休めば、熱は下がった。
――倒れれば何もできなくなる。
その言葉を、私はこの数日で嫌というほど実感した。
マーサにも言われた。
ローレンスにも言われた。
ヴィルヘルムにも言われた。
言われるたびに腹立たしかったが、正しいものは正しい。
そこがまた腹立たしい。
この二日、ヴィルヘルムは本当に毎日来た。
玄関先で体調を確認し、薬草茶や干した果物の減り具合をマーサに聞き、長居はせずに帰った。
約束通りだった。
約束通りすぎて、かえって調子が狂った。
その朝、マーサは私の額に触れ、ようやく頷いた。
「うん。今日はもう、少しなら外に出てもいいよ。」
「本当ですか。」
「少しだけだよ。」
「畑を見ても?」
「見るだけ。」
「若葉の様子を。」
「見るだけ。」
「もし水が。」
「水は私がやる。」
「……はい。」
勝てない。
けれど、畑を見てもいい。
それだけで胸が弾んだ。
私は外套を羽織り、庭へ出た。
数日ぶりの庭は、少しだけ世界が変わって見えた。
朝の光が、濡れていない土を明るく照らしている。
鳥除けの古布は風に揺れ、小さな鈴がちりんと鳴る。
若葉を守る音。
私は畑の前にしゃがみ込んだ。
「……大きくなってる。」
思わず声が漏れた。
数日見なかっただけなのに、若葉は明らかに伸びていた。
双葉のあいだから出ていた本葉は少し広がり、緑も濃くなっている。
まだ小さい。
市場に並ぶような立派な野菜ではない。
けれど、もう確かに食べ物に近づいていた。
ただの芽ではない。
守られるだけの頼りない存在ではない。
土から養分を吸い、光を受け、少しずつ自分の形を作っている。
私はそっと息を吸った。
胸の奥がふわりと熱くなる。
風邪の熱が戻ったのではない。
たぶん、これは別の熱だ。
「マーサさん。」
「何だい。」
「本当に、少しなら食べられますか。」
マーサは私の隣にしゃがみ込み、葉を見た。
「ああ。混んでるところを少し間引くなら、ちょうどいいね。」
「間引く。」
「全部育てようとすると、かえって大きくならない。元気な株を残すために、少し抜くんだよ。」
少し抜く。
それは、少し寂しい言葉だった。
せっかく出た葉を、抜く。
けれど、育てるために必要なこと。
残すために、選ぶこと。
マーサは一本を指さした。
「これは抜いていい。隣と近すぎる。」
「これを?」
「根元を持って、そっとね。無理に引っ張ると隣も傷める。」
私は言われた通り、指先で小さな若葉の根元をつまんだ。
土は柔らかい。
少し揺らすと、細い根がするりと抜けた。
手のひらの上に、小さな若葉が乗る。
本当に小さい。
王宮の皿に飾られていた香草より、ずっと素朴で、ずっと頼りない。
でも、それは私がまいた種から育った葉だった。
あの日、泥に手を入れて、うまく畝も作れず、腰を痛めながらまいた種。
鳥に食べられないように鈴をつけた。
雨で流れないか心配した。
熱を出して倒れた数日間、見に行けずに気になっていた。
それが今、私の手のひらにある。
「……育った。」
声が震えた。
マーサが少し笑う。
「育ったね。」
「本当に。」
「ああ。本当に。」
私はもう一本、もう一本と、マーサに教わりながら慎重に間引いた。
全部で小さな一握り。たったそれだけ。
けれど、私には両手いっぱいの宝物のように見えた。
台所へ戻ると、私は若葉を小さな桶の水で丁寧に洗った。
土が落ちると、緑が思ったより鮮やかに光った。
柔らかい葉先。細い茎。小さな根。
それを見ているだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
王宮の料理には、見目麗しい野菜がいくらでもあった。
銀の器に盛られ、香草で飾られ、ソースで艶やかに仕上げられた料理。
けれど、今この手の中にある若葉ほど、私を胸の奥から満たすものはなかった。
「スープに入れるなら、最後だよ。」
マーサが言う。
「煮すぎるとくたくたになる。」
「はい。」
私は鍋に豆と少しの根菜を入れ、ゆっくり煮た。
塩は控えめ。体が戻りきっていないから、重い味にはしない。
最後に、刻んだ若葉をそっと落とす。
鍋の中で、緑がふわりと広がった。
それだけで、台所が少し明るくなった気がした。
「……綺麗。」
思わず呟いた。
マーサが横で頷く。
「初収穫の味だね。」
「はい。」
私は匙で少しすくい、息を吹きかけて口に運んだ。
ほんの少し青い匂いがする。柔らかい。
特別に甘いわけでもない。珍しい味でもない。
ただの若葉だ。
でも、喉を通った瞬間、なぜか目の奥が熱くなった。
「おいしいです。」
「そうかい。」
「すごく、というわけではないのです。高級な味でもないですし。」
「いいんだよ。」
「でも。」
私は鍋を見つめた。
「忘れない味だと思います。」
マーサは何も言わず、少しだけ目を細めた。
昼食のあと、私は少し休むよう言われた。
けれど、心は妙に落ち着かなかった。
初めて自分の畑から食べ物をもらった。
それだけで、何かが一つ変わったような気がした。
森の家。
畑。
鳥除け。
布飾り。
茶布。
そして、若葉のスープ。
ここでの暮らしは、少しずつ形になっている。
最初にこの家を見た時、ヴィルヘルムは言った。
こんなところはすぐに出て、整えられた場所に戻るべきだ、と。
あの時、私はひどく腹が立った。
当然だ。
家は古かった。
床は埃だらけで、屋根は傷み、柵は壊れ、井戸も火起こしもまともに扱えなかった。
たしかに、宿の方が楽だったかもしれない。安全で、清潔で、食事も出る。
でも、私はここを選んだ。
誰かに与えられる部屋ではなく、自分で火を入れ、自分で掃除し、自分で畑を作る場所を選んだ。
そして今日、この畑から初めて食べ物をもらった。
――あの人は、どう思うだろう。
そう考えてしまった瞬間、私は自分で驚いた。
どうして、ヴィルヘルムが出てくるのか。
関係ない。
これは私の畑だ。
私の若葉だ。
私の暮らしだ。
彼に認めてもらうために育てたわけではない。
そう思う。
思うのに。
見てほしい、と少しだけ思ってしまった。
見て、分かってほしい。
あの日、戻るべきだと言ったあなたに。
この家は、もうただの古い家ではないのだと。
私はここで、少しずつ生きているのだと。
私が選んだ場所は、間違いだけではなかったのだと。
――認めてほしい。
そこまで考えて、私は両手で顔を覆った。
「……何を考えているの。」
熱は下がったはずだ。
なのに、まだ余計なことばかり考える。
その日の夕方、ヴィルヘルムはまたやって来た。
長居はしない、という約束を守るためだろうか、馬を連れたまま玄関先で立ち止まる。
今日は黒馬ではなく、少し栗毛の混じった黒に近い馬だった。
いや、これも黒馬の一頭なのかもしれない。
名前は知らない。
知らなくていい。
……少し気になるけれど。
「体調は。」
ヴィルヘルムは開口一番、そう言った。
「昨日より良いです。」
「熱は。」
「下がりました。」
「食事は。」
「食べました。」
「何を。」
「粥と、スープを。」
「スープ。」
彼の目が少しだけ動いた。
私は一瞬迷った。
言うべきか。
言わないべきか。
しかし、口は勝手に動いていた。
「畑の若葉を、少し入れました。」
ヴィルヘルムは静かに私を見た。
「収穫したのですか。」
「間引いただけです。収穫と呼ぶには、まだ小さいです。」
「最初の収穫ですね。」
また。
また、その言い方。
最初の一枚。
最初の布飾り。
最初の収穫。
この人は、私が自分でも見落としそうな小さな始まりを、いつも拾い上げる。
胸の奥が、少し苦しくなった。
「……そうですね。」
私は小さく言った。
「最初の収穫です。」
ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけやわらいだ。
「おめでとうございます。」
おめでとう。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、その言葉で、畑の若葉が本当に私の暮らしの一部になったような気がした。
私は視線を逸らす。
「大げさです。」
「大げさではありません。」
「間引き菜です。」
「それでも、あなたの畑から初めて食卓へ届いたものです。」
言葉に詰まった。
どうして、この人はそういうことを言うのか。
普段は言葉が足りないくせに、肝心なところだけまっすぐ言う。
……だから困る。
「……味は普通でした。」
「そうですか。」
「すごくおいしいというわけではありません。」
「はい。」
「でも、忘れない味でした。」
言ってしまった。
ヴィルヘルムは、少しだけ息を止めたように見えた。
それから、静かに言った。
「良い味だったのですね。」
「そういうことに、なるのかもしれません。」
私は指先を握った。
玄関先の空気が、少しだけ温かくなる。
だが同時に、五日後の大事な話が胸の奥に影を落とした。
――悪い話にしたくはありません。
――逃げません。
その言葉は、まだ消えていない。
五日後の約束までは、あと三日ある。
けれど、その三日が長いのか短いのか、私には分からなかった。
私はそれを振り払うように言った。
「明日も来るのですか。」
「はい。長居はしません。」
「仕事は。」
「終わらせてから来ます。」
「本当ですか。」
「はい。」
「夜に回していませんか。」
「今日は回していません。」
「今日は。」
「……明日も、実行します。」
「よろしい。」
少しだけいつもの調子が戻った。
それが、なんとなく嬉しかった。
嬉しいと思ってしまったことが悔しくて、私はすぐに話を変えた。
「馬の名前は。」
聞いてから、しまったと思った。
ヴィルヘルムが一瞬だけ目を瞬く。
「馬ですか。」
「いえ、何でもありません。」
「今日はヴァルトです。」
「ヴァルト。」
「森、という意味です。」
「森。」
森の家へ、森という名の馬で来る。
少しできすぎている。
私は柵の外にいる馬を見た。
黒に近い毛並みに、光の加減で少し茶色が混じる。落ち着いた目。
ノクスより少し大きい。
覚えた。
また覚えてしまった。
「……馬には、本当に無理をさせないでください。」
「はい。」
「あなたにも。」
言ってから、息が止まった。
あなたにも。
なぜそんな言葉が出たのか。
ヴィルヘルムも、ほんの少し動きを止めた。
私は慌てて続ける。
「あなたが倒れると、馬が困りますから。」
「はい。」
「馬がです。」
「はい。」
ヴィルヘルムの目元が、また少しやわらぐ。
私は顔をそらした。
熱は下がった。
なのに、頬が熱い。
これは、薬草茶のせいだ。
たぶん。
その夜、私は寝台の上で、今日の若葉のスープを思い出していた。
――最初の収穫。
――おめでとうございます。
ヴィルヘルムの声が耳に残っている。
私は寝返りを打った。
そして、ふと思った。
お礼をしなければ。
先日、彼は助けてくれた。
マーサを呼びに行き、玄関先で待っていた。
薬草茶も、干した果物も持ってきた。
勝手に入ったことは、もちろん怒る。
怒った。
でも、助かった。
なら、お礼は必要だ。
問題は、何を返せるかだった。
お金は心もとない。
薬草茶や干した果物に見合うものを買う余裕はない。
手芸品は、もう布飾りを持っている。
茶布を渡すのも、また店の値段で買うと言い出されそうで腹立たしい。
高価なものなど、そもそも何もない。
私にできること。
私の手元にあるもの。
私の暮らしの中から渡せるもの。
それは、食事くらいだった。
私は天井を見つめた。
豆のスープ。少しの若葉。買ったパン。
それから、豆を潰して香草と塩で和えたものなら作れるかもしれない。
干した果物も、少し添えればいい。
豪華ではない。
王宮の食卓とは比べものにならない。
公爵領館の料理にも及ばないだろう。
でも、それは私が作れるものだ。
この森の家で。
私の畑から取れた若葉を使って。
私が火を起こし、鍋を見て、塩を加減して作る食事。
あの日、こんなところはすぐに出るべきだと言った彼に、これを出したら。
――彼は、何と言うだろう。
私はまた顔を覆った。
認めてほしいのだろうか。
私がここまでやったことを。
この家が、もうただの古い家ではないことを。
私が、ただ憐れな追放者として泣いているだけではないことを。
見てほしいのだろうか。
それをお礼という言葉で包もうとしているだけなのか。
そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。
「……お礼よ。」
声に出した。
そう。
お礼だ。
看病のお礼。
助けてもらったことへの礼。
それ以上の意味はない。
ないはずだ。
私は布団を引き上げた。
五日後には、大事な話を聞く。
その前に、食事に招いてもいいだろうか。
いや、食事といっても、玄関先では食べられない。
台所に入れることになる。
食卓を挟むことになる。
それは、少し近すぎるのではないか。
昨日、彼はすでに家の中に入った。緊急時だった。
でも今回は、私が招く。
それはまったく違う。
違うからこそ、怖い。
私は目を閉じた。
鳥除けの鈴が、夜風に揺れて鳴る。
ちりん。
若葉を守る軽やかな鈴の音。
その音を聞きながら、私は心の中で決めた。
体が完全に戻ったら。
初収穫の若葉がもう少し取れたら。
ヴィルヘルムに、食事を出そう。
あの日のお礼として。
それ以上の意味は、ない。
ない。
ないと、何度も言い聞かせながら。
私はなかなか寝つけないまま、森の家の暗い天井を見つめていた。




