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第三十六話 森の家の食卓

 五日後の約束の日、私はいつもより早く目を覚ました。


 熱も体の重さももう感じない。

 もちろん寝台から起き上がっても、世界は回らない。


 私は両手を握ったり開いたりして、少しだけ息を吐いた。


「……大丈夫。」


 声に出して確認する。


 大丈夫。

 今日は動ける。

 ただし、引き続き無理はしない。


 何度も言われた。

 マーサにも、ローレンスにも、ヴィルヘルムにも。

 倒れれば何もできなくなる。

 腹立たしいほど正しい言葉だ。


 だから今日も、倒れない範囲で動く。


 私は顔を洗い、湯を沸かし、薄いパン粥を少し食べた。

 食欲は戻っている。喉も痛くない。

 薬草茶の苦味にも、少しだけ慣れてきた。


 窓の外では、鳥除けの鈴が鳴っている。

 若葉を守る音。


 今日は、あの若葉をもう少しだけ摘む。

 そして、スープに入れる。


 ――誰かに出すために。


 そこまで考えて、私は手を止めた。


 誰か。

 誰かではない。

 ヴィルヘルムだ。


 私は、ヴィルヘルムに食事を出そうとしている。


 あの日のお礼として。

 助けてもらった礼として。

 薬草茶と干した果物の礼として。


 それ以上の意味はない。

 ない。

 ないはずだ。


 私はそう何度も自分に言い聞かせながら、台所の棚を開けた。


 豆。

 根菜。

 塩。

 少しの香草。

 干した果物。

 昨日買っておいた丸パン。


 パン屋の娘が「今日は少し良い焼き上がりですよ」と言っていたものだ。


 少し良い焼き上がり。

 それを聞いて、思わず二つ買ってしまった。


 高いものではない。けれど、今の私には十分な贅沢品だった。


 食事の内容は決めている。

 豆と根菜のスープに、畑の若葉を少し。

 柔らかく煮た豆を潰し、香草と塩で和えたもの。

 丸パン。

 それから、最後に干した果物を少し。

 もし足りなければ、買っておいた小さな果物も切る。


 豪華ではない。

 王宮の食卓とは比べものにならない。

 公爵領館の料理にも、きっと及ばない。


 けれど、これは私が用意できる食事だ。


 この森の家で。

 自分の畑から取れた若葉を使って。

 私が火を起こし、私が鍋を混ぜた食事。


 私は深く息を吸った。


「お礼よ。」


 声に出す。

 それから、少し遅れて付け足した。


「それ以上の意味は、ない。」


 もちろん誰も聞いていない。

 ……でも、言っておかなければならない気がした。


 準備を始める前に、寝台の下に手をやった。


 小箱。

 ヴィルヘルムが買い戻してきた、ブレスレットと耳飾りが入っている。

 本来は、私が売ったものだ。


 生活のために手放したものを、ある日当然のように戻されて、私はひどく腹を立てた。


 その後も、売ろうかと何度か迷った。

 屋根の修理費が足りない時。

 糸を買う余裕がない時。

 でも、売れなかった。


 また買い戻されると思うと、どうしても手が止まった。

 それが腹立たしくて。


 でも、今日は違う理由で小箱を引き出した。

 蓋を、少しだけ持ち上げる。


 銀のブレスレット。

 細い耳飾り。

 藍色の宝石がついた首飾り。


 昔の私がつけていた装飾品。


 今の私には、もうすでに少し遠い世界のものに見える。


 でも、それはずっとここにあった。

 どこへも行かなかった。


 私は静かに蓋を閉じた。

 そして、寝台の下へ戻した。

 今日は、別に売ることを考えていない。


 ただ、確かめたかっただけだ。

 まだここにあるということを。


 なぜそれを確かめたかったのか、自分でもよく分からなかった。


 朝のうちに、マーサが様子を見に来た。

 私はちょうど畑の前で、若葉を摘むところだった。


「おや、今日は顔色がいいね。」


「熱は下がりました。」


「それでも無理はしない。」


「分かっています。」


「本当に?」


「本当に。」


 マーサは私の顔をしばらく見て、それから畑に視線を落とした。


「今日は少し摘むのかい。」


「はい。混んでいるところだけ、少し。」


「スープに?」


「はい。」


「誰かに出すのかい。」


 私は手を止めた。

 ……なぜ分かるのか。


 マーサは、にやりと笑うでもなく、ただ普通の顔でこちらを見ている。

 その普通さが、かえって怖い。


「……果物と薬草茶のお礼です。」


「殿下さんに?」


「はい。」


「そうかい。」


「お金は心もとないですし、手芸品はもう持っておられますし、高価なものは返せません。だから、食事くらいしか。」


「食事くらい、ね。」


「何ですか。」


「いや。いいと思うよ。」


 マーサは畑の前にしゃがんだ。


「自分の畑で取れたものを出すのは、立派なお礼だ。」


「立派でしょうか。」


「立派だよ。金で買ったものより、よほど手がかかってる。」


 その言葉に、胸が少し温かくなった。

 マーサは、間引く葉をいくつか指さしてくれた。


「これと、これ。こっちはまだ残す。こっちは混みすぎてるから抜いていい。」


「はい。」


「無理に引っ張らない。」


「はい。」


「葉を洗う時は、根元の土をよく落とす。」


「はい。」


「鍋に入れるのは最後。」


「昨日も教わりました。」


「大事なことは何度でも言う。」


 確かに、マーサは大事なことだと何度でも言う。

 私は少し笑ってしまった。


 若葉を摘む手は、昨日より少し慣れていた。

 細い根を傷めないように抜き、小さな籠に入れる。

 籠の底に、緑が少しずつ増えていく。

 たったそれだけなのに、胸が満ちる。


 マーサはその様子を見て、少し目を細めた。


「無理はするんじゃないよ。」


「分かっています。」


「食事を出したら、すぐ片づけようとしない。」


「片づけはします。」


「あとで。」


「でも。」


「殿下さんにやらせてもいい。」


「それは駄目です。」


「何でだい。」


「殿下に皿洗いをさせるわけには。」


「町では半分あだ名の殿下さんだろ。」


「そういう問題ではありません。」


 私は即答した。

 マーサは肩を揺らして笑った。


「まあ、気が済むようにやりな。ただし倒れるな。」


「はい。」


 マーサは昼前に帰っていった。

 私は台所へ戻り、準備を始めた。


 まず若葉を洗う。

 小さな桶に水を張り、根元の土を丁寧に落とす。

 水を替える。もう一度洗う。


 葉を広げると、朝の光に透けて柔らかく輝いた。


 こんなに小さな葉を、人に出そうとしている。

 そのことが急に不安になる。


 貧相ではないだろうか。

 物足りないのではないか。


 公爵領館なら、もっと立派な食事が出るだろう。

 王宮なら、なおさらだ。

 こんな小さな葉が浮いたスープを、ヴィルヘルムはどう思うだろう。


 私は首を振った。


 違う。

 これは比べるものではない。


 私は王宮の料理を出すのではない。

 公爵領館の料理を真似するのでもない。

 森の家の食事を出すのだ。


 私の食事。

 私の暮らし。


 それでいい。

 それでいいはずだ。


 豆を鍋に入れる。根菜を小さく切る。火を調整する。

 煮立ちすぎないように、灰を少し動かす。


 以前なら、火加減だけで怖かった。

 強すぎる火。

 消えそうな火。

 煙。

 焦げた匂い。


 今も上手とは言えないが、少しは分かるようになってきた。


 鍋の音。

 湯気の立ち方。

 木べらに伝わる重さ。

 暮らしの中で覚えたものだ。


 スープが煮える間に、豆を別の器で潰す。

 少し塩を入れ、香草を刻む。


 香草は市場で安く買えたものだ。

 少ししおれていたから値引きされていた。

 でも、刻めば香りは十分立つ。


 豆に混ぜると、素朴な匂いが広がった。

 丸パンを布に包み直す。

 少し温めたいが、焦がさないように注意しなければならない。


 私は台所を何度も見回した。

 机は拭いた。

 椅子も拭いた。


 お皿は二組。

 茶器も二つ。

 匙も二つ。

 二つ。


 その数を見るたびに、胸が少し変なふうに鳴る。


 私は額に手を当てた。


「お礼よ。」


 また言う。

 もう何度目か分からない。


 お礼。

 看病のお礼。

 それ以上ではない。


 夕方が近づく頃、蹄の音が聞こえた。

 私は鍋の前で固まった。


 来た。

 今日は、来ると分かっていた。

 毎日確認に来ると言っていた。

 長居はしないとも言っていた。


 けれど、今日は私が引き止めるつもりだ。


 食事を。

 中で。

 食べていくように。


 そう言う。

 言えるだろうか。


 蹄の音が家の前で止まる。

 鳥除けの鈴が、風に揺れて鳴った。

 まるで背中を押すような音だった。


「レベッカ嬢。」


 ヴィルヘルムの声。

 私は深く息を吸い、扉へ向かった。


 開けると、ヴィルヘルムは今日も敷居の外に立っていた。


 濃紺の外套。

 淡い金髪。

 青い瞳。

 相変わらず、整いすぎていて腹立たしい。


 馬の額には細い白い星。今日の馬は、ノクスだった。


「こんばんは。」


「こんばんは。」


「体調は。」


「良くなりました。」


「熱は。」


「ありません。」


「食事は。」


「取れています。」


「畑は。」


「見ました。」


「無理は――」


「していません。」


「……。」


「何ですか。」


「すべて先に答えられました。」


「毎日聞かれるので。」


 ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しやわらいだ。

 いつもの確認。

 いつもの玄関先。


 このままなら、彼は少し話して帰る。

 私はそれを、変えなければならない。

 胸がどきどきした。


 おかしい。

 ただ食事に誘うだけだ。

 お礼だ。

 それ以上ではない。


「あの。」


 声が少し硬くなった。

 ヴィルヘルムがすぐに表情を引き締める。


「はい。」


「今日は、確認だけではなく。」


「何かありましたか。」


「いえ。そうではなく。」


 言葉が喉で詰まる。

 マーサなら、さっさと言えと言うだろう。

 ローレンスなら、商売の交渉より顔が赤いと言うかもしれない。


 私は手を握った。


「あの日のお礼を、したいのです。」


 言えた。

 ヴィルヘルムは一瞬、動きを止めた。


「お礼ですか。」


「はい。」


「すでに礼はいただきました。」


「言葉だけでは足りません。」


「十分です。」


「私が十分ではありません。」


 言い切った。

 自分でも少し驚いた。


 ヴィルヘルムは黙る。

 私は続けた。


「お金は心もとないですし、高価なものは返せません。布飾りはもう持っていますし、茶布を渡してもあなたは店の値段で買うと言い出すでしょう。」


「……言うと思います。」


「でしょうね。」


「はい。」


「ですので、食事を用意しました。」


 言った。

 言ってしまった。

 玄関先の空気が、ぴたりと止まる。

 ヴィルヘルムの青い瞳が、わずかに揺れた。


「食事を。」


「はい。」


「私に?」


「他に誰がいるのですか。」


「……よろしいのですか。」


 その声が、いつもより少し低かった。

 私は胸の奥が震えるのを感じた。


 ――よろしいのですか。


 それは、ただ食事を食べていいかという意味ではないのだろう。

 この家の中へ入っていいのか。


 私が引いた線を、今度は私自身が開けるのか。

 そういう意味も含んでいる。


 私は敷居を見た。

 先日、彼は緊急時にこの線を越えた。


 今日は違う。

 今日は、私が招く。

 自分で決める。


 私は顔を上げた。


「今日は、私が招きます。」


 ヴィルヘルムの喉が、わずかに動いた。


「……ありがとうございます。」


「ただし。」


「はい。」


「お礼の食事です。それ以上の意味はありません。」


「はい。」


「玄関先では食べられないので、台所までです。」


「はい。」


「寝台のある部屋には入らないでください。」


「はい。」


「勝手に何かを片づけたり、手伝ったりしないでください。」


「……はい。」


 今、少し間があった。


「手伝おうとしましたね。」


「必要であれば。」


「必要ありません。」


「承知しました。」


 私は扉を少し大きく開けた。


「どうぞ。」


 その一言を言うだけで、ひどく緊張した。

 ヴィルヘルムは、敷居の前で一度止まった。


 そして、静かに頭を下げてから中へ入った。

 先日のように焦って踏み込むのではない。

 一歩ずつ、確かめるように。

 私が許した線を越えるように。


 その仕草に、胸の奥が妙に熱くなった。


 台所へ案内すると、ヴィルヘルムは部屋の中央で少し立ち止まった。


 古い台所。

 磨いた床。

 壁際の棚。

 小さな机。

 二脚の椅子。

 鍋から立つ湯気。

 干した布の匂い。

 薬草茶の残り香。


 王宮の食堂とは比べものにならない。

 公爵領館の食堂にも、もちろん遠く及ばない。

 狭くて、古くて、少し傾いた森の家の台所。


 でも、私はこの場所を磨いた。

 何度も水を替え、手を荒らし、埃を落とし、火を入れた。

 ここで粥を食べた。

 ここで泣きそうになりながらスープを作った。

 ここで初めて、若葉を鍋に落とした。


 私は少しだけ背筋を伸ばした。


「簡単なものです。」


 先に言った。


「豪華ではありません。」


「はい。」


「王宮の食事とは比べないでください。」


「比べません。」


「公爵領館とも。」


「比べません。」


「本当に?」


「はい。」


 ヴィルヘルムは台所を見回した。

 そして、静かに言った。


「温かい場所ですね。」


 私は言葉に詰まった。


 温かい場所。

 それは、鍋の火のせいだろうか。

 夕方の光のせいだろうか。


 それとも。

 私は慌てて鍋の方を向いた。


「火を使っていますから。」


「はい。」


「感想がそのままですね。」


「……それだけではないつもりでした。」


 ……聞こえないふりをした。


 私は器にスープをよそった。

 豆と根菜のスープ。

 最後に畑の若葉を少し。

 緑が湯気の中でふわりと揺れる。


 もう一つの皿には、香草を混ぜた豆。

 丸パンを二つ。

 干した果物を少し。


 質素な食卓。

 でも、私に用意できる精いっぱいだった。


「どうぞ。」


 私は椅子を示した。

 ヴィルヘルムは一瞬だけ迷い、それから椅子に座った。

 背筋が伸びている。椅子が少し小さく見える。

 王子が森の家の台所に座っている。

 やはり、不思議な光景だった。


 私は向かいに座る。

 机を挟んだ距離。

 玄関先より近い。

 でも、近すぎない。

 食卓が間にある。


 それだけで、少し安心した。


「いただいても?」


「はい。」


「ありがとうございます。」


 ヴィルヘルムは匙を手に取った。

 その動きは丁寧だった。まるで、王宮の晩餐と同じように。

 いや、それ以上に慎重に見える。


 彼はスープを一口飲んだ。

 私は思わず息を止めた。


 どうだろう。

 薄すぎるだろうか。

 塩が足りなかっただろうか。

 若葉は青臭すぎないだろうか。


 ヴィルヘルムはゆっくり匙を下ろした。


「おいしいです。」


 短い言葉だった。

 けれど、声はとても静かだった。

 私は少しだけ肩の力が抜けた。


「無理に褒めなくていいです。」


「無理ではありません。」


「普通のスープです。」


「はい。」


「豆と根菜と、少しの若葉です。」


「はい。」


「王宮なら前菜にもならないでしょう。」


「これは、王宮の料理ではありません。」


 ヴィルヘルムは私を見た。


「あなたの食事です。」


 胸の奥が、強く跳ねた。


 ――あなたの食事。

 そう言われると、急に逃げ場がなくなる。


 これは私が作った。

 私の手で。

 私の畑の若葉で。

 この森の家で。


「……そうです。」


 私は小さく答えた。


「私の食事です。」


 ヴィルヘルムはもう一口、スープを飲んだ。


「若葉は、これですか。」


「はい。昨日より少し多く間引きました。」


「柔らかいですね。」


「煮すぎるとくたくたになるそうです。マーサさんに教わりました。」


「マーサ殿は頼もしい方です。」


「はい。勝てません。」


「私も勝てる気がしません。」


 思わず笑ってしまった。

 ヴィルヘルムも、ほんの少し目元をやわらげた。

 食卓の空気が、少しだけ緩む。

 それから、豆の皿をすすめる。


「これは、潰した豆に香草を混ぜただけです。」


「いただきます。」


「パンにつけると、たぶん食べやすいです。」


「たぶん。」


「試作なので。」


「では、試します。」


 ヴィルヘルムは言われた通り、パンに豆を少し乗せて口に運んだ。

 食べる姿まで無駄に品がある。

 何をしても絵になる人は、こういう時に不公平だ。

 森の家の丸パンと豆なのに、彼が食べると妙に上品に見える。


「これも、おいしいです。」


「本当ですか。」


「はい。香草が合っています。」


「市場でしおれて安くなっていたものです。」


「良い買い物ですね。」


「そうでしょうか。」


「はい。」


 胸が少し弾む。

 良い買い物。

 そう言われるのは、思ったより嬉しい。


 王宮では、私が食材を選ぶことなどなかった。

 料理は出されるものだった。

 値段を気にするものではなかった。


 でも今は違う。

 安い香草を見つけ、傷みすぎていないか確認し、使い道を考えて買う。

 それを褒められる。

 生活を褒められているようで、少しむずがゆかった。


「この家に来た時のことを、覚えていますか。」


 私は気づけば、そう聞いていた。

 ヴィルヘルムの手が止まる。


「覚えています。」


「あなたは、こんなところはすぐに出て、宿に戻るべきだと言いました。」


「……はい。」


「私、とても腹が立ちました。」


「はい。」


「今でも少し腹が立ちます。」


「当然です。」


 彼は目を伏せた。

 私は匙を握った。


「でも、あの時のこの家は、たしかにひどかったです。」


 床は埃だらけ。窓は曇り。柵は壊れ。屋根は傷み。台所もまともに使えなかった。


「宿に戻る方が、楽だったのかもしれません。」


「……はい。」


「でも、私はここを選びました。」


「はい。」


「掃除しました。火を起こしました。水を汲みました。畑を作りました。鳥除けも立てました。屋根はまだ完全ではありませんが、直しました。布飾りも売れました。」


 言いながら、胸が少し熱くなる。

 何を並べているのだろう。


 自慢か。

 言い訳か。

 報告か。


 分からない。

 でも、止まらなかった。


「そして今日、この畑の若葉をスープに入れました。」


 私は鍋の方を見た。


「だから、もうここは、ただの古い家ではありません。」


 言ってしまった。

 ヴィルヘルムは、じっと私を見ていた。

 その視線から逃げたくなったが、逃げなかった。


 見てほしいと思ったのは私だ。

 認めてほしいと思ってしまったのも、たぶん私だ。

 なら、逃げてはいけない。


 ヴィルヘルムは静かに匙を置いた。


「はい。」


 短い返事。

 けれど、いつもの返事とは違った。

 重さがあった。


「この家は、あなたの場所になりました。」


 私は息を止めた。


「あなたが、そうしたのですね。」


 胸の奥が、熱くなった。


 ――認められた。

 そう思った。

 思ってしまった。


 あの日、ここを出るべきだと言った人に。

 この場所を否定した人に。


 今、ここが私の場所だと言われた。


 私は視線を落とした。


「……まだ、途中です。」


「はい。」


「直すところもありますし、畑も小さいです。収穫も、まだ少しだけです。」


「はい。」


「暮らしも、仕事も、何もかも途中です。」


「それでも。」


 ヴィルヘルムの声が静かに続く。


「ここには、あなたが積み重ねたものがあります。」


 私は、うまく息ができなかった。

 言葉が出ない。

 かわりに、スープの湯気が二人の間をゆっくり上っていく。


 鳥除けの鈴が、外で小さく鳴った。

 ちりん。

 若葉を守る音。


 私はようやく、小さく言った。


「……ありがとうございます。」


「私が言うべき言葉です。」


「なぜですか。」


「招いていただいたので。」


「助けていただいたお礼です。」


「はい。」


「それ以上の意味はありません。」


「はい。」


 また返事ばかり。

 けれど、今日はその返事が少し優しかった。


 食事は、静かに進んだ。

 会話は多くない。

 でも、沈黙が嫌ではなかった。


 ヴィルヘルムはスープを最後まで食べ、豆の皿もきれいに空けた。

 丸パンも半分ずつ食べた。

 干した果物は、マーサが選んでくれた皿に少しだけ置いた。


 質素な食卓。

 でも、空になっていく器を見るたびに、私は少しずつ胸が満たされていった。


 食後、私は立ち上がろうとした。


「片づけます。」


 ヴィルヘルムも同時に立とうとする。


「手伝います。」


「手伝わないでください。」


「しかし。」


「約束しました。」


「……はい。」


 彼はおとなしく座り直した。

 少しだけ不満そうに見えた。

 それが妙におかしくて、私は笑いそうになる。


 皿をまとめ、鍋を脇へ置く。

 体はまだ本調子ではないが、無理はしていない。

 食事を出せた。

 彼は食べてくれた。


 それだけで、今日は十分だ。

 十分のはずだった。


 けれど、棚の上に置いていた小さな果物が目に入った。

 昨日、パンと一緒に買ったものだ。

 少し傷があるから安かった。けれど、切れば十分食べられる。

 デザートに出そうと思っていた。

 干した果物だけでもいい。

 でも、せっかくだから。


 私は果物を手に取った。


「少しだけ、果物を切ります。」


 ヴィルヘルムがすぐにこちらを見た。


「無理は。」


「しません。」


「手伝いは。」


「不要です。」


「……はい。」


「返事が不満そうです。」


「不満ではありません。」


「では?」


「心配です。」


 まっすぐ言われて、私は少しだけ手を止めた。


「果物を切るだけです。」


「はい。」


「そんな顔をしないでください。」


「どんな顔でしょうか。」


「今にも包丁を取り上げそうな顔です。」


「……。」


「本当に考えましたね。」


「少しだけ。」


「やめてください。」


 私は包丁を取った。

 小さな果物をまな板に置く。

 皮に少し傷がある。

 そこを避けて切ればいい。

 たいした作業ではない。


 ヴィルヘルムは椅子に座ったまま、じっとこちらを見ている。

 見られていると、かえってやりづらい。


「見すぎです。」


「確認です。」


「便利な言葉。」


「はい。」


「認めないでください。」


 言いながら、私は果物に刃を入れた。

 皮が少し硬い。

 思ったより力がいる。


 もう少し角度を変えて。

 私は包丁を持ち直した。


 その時、外で鳥除けの鈴が強く鳴った。

 ちりん。

 風が吹いたのだろう。


 ほんの一瞬、視線が窓の方へ流れた。

 刃先が、果物の皮から滑った。


「あ。」


 小さな声が漏れた。


 次の瞬間、指先に鋭い痛みが走った。

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