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第三十七話 切れた指と王都の知らせ

 指先に、鋭い痛みが走った。


「あ。」


 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 包丁の刃が果物の皮を滑り、左手の人差し指を浅く切っていた。

 傷は大きくない。大きくないはずだ。

 けれど、荒れかけた指先に、すぐ赤い血がにじんだ。


 私はそれを見て、一瞬だけ固まった。

 ――しまった。


 そう思うより早く、椅子が床をこする音がした。


「レベッカ嬢。」


 ヴィルヘルムの声。

 低く、硬い。

 次の瞬間には、彼がすぐ隣にいた。

 近い。

 あまりにも近い。


 私は慌てて手を引こうとした。


「大丈夫です。少し切っただけで。」


「見せてください。」


「本当に大丈夫です。」


「見せてください。」


 二度目は、譲らない声だった。

 昨日も聞いた声だ。

 支えます、と言った時の声。

 今日は譲れません、と言った時の声。


 私は言い返そうとして、指先にもう一滴血がにじむのを見て、少しだけ言葉を失った。

 ヴィルヘルムは、私の左手に触れる寸前で止まった。


「触れます。」


 まただ。

 こんな時でも、許可を取る。

 さっきまで果物を切るだけで心配しすぎだと思っていたのに、その律儀さに、胸が変なふうに揺れた。


「……確認ですか。」


「はい。」


「便利な言葉、ですね。」


「今は、本当に確認です。」


 前にも聞いた。

 それなのに、今日はその言葉が少し違って響いた。

 私は小さく頷いた。


「少しだけです。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは私の手を取った。

 手袋を外した手だった。

 冷たく、硬く、それでいて力の入れ方は慎重だった。


 私の指を包むように支え、傷口を確かめる。

 近い。


 彼の肩が、すぐ横にある。

 淡い金髪が、夕方の光を受けて薄く光っている。

 伏せられた睫毛。真剣な横顔。長い指。

 その指が、私の指先を支えている。


 それだけのことなのに、心臓がうるさい。

 傷より、そちらの方がよほど問題だった。


「浅いです。」


 ヴィルヘルムが言った。


「でしょう。」


「ですが、汚れが入るとよくありません。」


「水で洗います。」


「はい。」


「自分でできます。」


「分かっています。」


 そう言いながら、彼は手を離さない。

 私は彼を見た。


「分かっている人の動きではありません。」


「すみません。」


「謝ればいいと思っていますね。」


「いいえ。」


「では離してください。」


 ヴィルヘルムは少しだけ間を置いて、私の手を離した。

 ほんの少し。

 本当にほんの少しだけ、名残惜しそうに見えた。


 いや、気のせいだ。

 そんなふうに見える方がおかしい。


 私は急いで水桶の方へ行き、指先を洗った。

 水が傷に触れ、少し痛む。


「……っ。」


 小さく息が漏れた。

 背後でヴィルヘルムが一歩動く気配がした。


「大丈夫です。」


 先に言った。


「まだ何も言っていません。」


「言いそうでした。」


「はい。」


「認めないでください。」


 私は水で血を流し、清潔な布を探した。

 ヴィルヘルムがすぐに懐から小さな包みを出す。見覚えがあった。

 薬草の軟膏。

 以前、指を擦った時に買い取ったものと同じ種類のものだ。


「また持っているのですか。」


「はい。」


「常備しているのですか。」


「最近は。」


「最近は?」


「あなたが怪我をされることがあるので。」


 私は言葉に詰まった。


 それは、私がよく怪我をするという意味なのか。

 それとも、私のために持っているという意味なのか。

 ……どちらにしても、落ち着かない。


「……私だけではないでしょう。」


「はい。」


「他にも使うのでしょう。」


「使うことはあります。」


「ならいいです。」


「はい。」


 何がいいのか、自分でも分からない。

 ヴィルヘルムは布を差し出した。


「これを。」


「ありがとうございます。」


「軟膏を塗っても?」


「自分で塗れます。」


「はい。」


 彼は引いた。

 引いたはずなのに、心配そうにこちらを見ている。

 その視線が痛い。


 私は軟膏の小瓶を受け取り、蓋を開けた。

 薬草の匂いがふわりと広がる。

 少しだけ指先に塗ろうとした。


 だが、右手だけではうまくいかない。

 左手の人差し指。

 そこに、右手で小瓶を持ちながら塗るのは意外と難しかった。


 瓶を置けばいい。

 そう思った瞬間、ヴィルヘルムが静かに言った。


「お手伝いしても?」


 私は黙った。

 駄目だと言うべきだ。

 自分でできると言うべきだ。


 けれど、さっきから手元が少し震えている。

 熱は下がったはずなのに。


 たぶん、疲れている。

 それだけだ。

 ……断じて、彼が近いからではない。


「……少しだけです。」


 またその言葉になった。

 ヴィルヘルムは小さく頷いた。


「はい。」


 彼は軟膏をほんの少し指先に取り、私の傷の周りにそっと塗った。

 触れ方は、驚くほど丁寧だった。

 まるで、薄い布に針を入れる時のように。

 乱暴にすれば傷むと、分かっている手つきだった。


 私は息を止めていた。

 指先に、薬草の冷たさ。

 その上から、彼の指の温度。

 いや、彼の指は冷たい。

 でも、触れられている場所だけ熱を持つ。


 おかしい。

 絶対におかしい。


 私は視線をそらそうとした。

 けれど、そらした先に彼の横顔がある。

 さらに困る。


 ヴィルヘルムの表情は真剣だった。

 ただ手当てをしているだけ。

 それなのに、こちらの心だけが勝手に騒いでいる。


「痛みますか。」


「痛みません。」


「本当に?」


「少しだけです。」


「強く触れましたか。」


「そうではなく。」


「では?」


「……薬がしみるだけです。」


 嘘ではない。

 全部でもないが。


 ヴィルヘルムはそれ以上聞かず、布を細く裂いて指に巻いた。

 巻き方も上手い。

 どうしてこの人は、こういうことが無駄に上手なのか。


「慣れているのですね。」


「あちらにいた時は、細かい怪我を自分で処置することが多かったので。」


 私は息を止めた。

 何気ない言葉だった。


 けれど、そこに十年という時間が垣間見えた気がした。

 王子でありながら、質子だった十年。


 私は聞き返せなかった。

 ヴィルヘルムも、言ってから少しだけ口を閉じた。

 布が巻かれた指先を、彼は最後に軽く確かめた。


「強くありませんか。」


「大丈夫です。」


「動かしにくくは?」


「少し。でも、痛みは減りました。」


「よかった。」


 よかった。

 その短い言葉が、あまりに静かだった。


 私は指を見つめた。

 布で巻かれた指。

 さっきまで痛かった場所。

 ……今は、別の意味で熱い。


「ありがとうございます。」


 私は小さく言った。


「こちらこそ。」


「なぜあなたが礼を言うのですか。」


「手当てをさせていただいたので。」


「意味が通じていません。」


「すみません。」


 いつものやり取り。

 けれど、今日は少し近すぎた。

 指先を通じて、まだ彼の手の感触が残っている。


 食卓の温かさ。

 若葉のスープ。

 あなたの場所になりました、という言葉。


 そして、今の手当て。


 胸の中に育ちかけた温かいものが、ゆっくり広がっていく。


 それが何なのか、私はまだ名前をつけたくなかった。


 ヴィルヘルムは私の指から視線を上げた。

 そして、何かを決めたように息を吐いた。


「レベッカ嬢。」


 声が変わった。

 さっきまでの手当ての声ではない。

 低く、静かで、どこか重い。


 私はすぐに分かった。

 大事な話だ。

 五日後にすると言っていた話。


「何ですか。」


 私の声も、少し硬くなった。

 ヴィルヘルムは、すぐには答えなかった。


 食卓の上には、空になった器が二つ。

 半分残った丸パン。干した果物。切りかけの果物。

 そして、布を巻かれた私の指。


 少し前まで、そこには穏やかな温度があった。

 森の家の小さな食卓。

 彼に認めてもらえた場所。

 温かいものが、確かにそこにあった。


 しかし、ヴィルヘルムの沈黙が、その上に薄い影を落とした。


「本来なら、席に着く前にお話しするべきでした。」


 私は、布を巻かれた指先を見た。

 そうだ。

 看病のお礼だとか、初収穫のスープだとか、そんなことに気を取られて、私はその話を少しだけ遠ざけていた。

 私は椅子の背をそっと握った。


「悪い話ですか。」


 また聞いてしまった。

 ヴィルヘルムは、今度は目を逸らさなかった。


「いえ、あなたにとってはそうではないかもしれません。」


「私にとっては?」


 ――悪い話にしたくはありません。

 そう言っていた。

 でも、不安な話。


 ヴィルヘルムは深く息を吸った。


「しばらく、ここへは来られません。」


 ああ、現実が追いついてくる。


 夢のような、幸せな瞬間に、現実が覆いかぶさってくる。


 この感覚は二度目だった。


「帰還式典への出席を求められています。」


「帰還式典。」


「はい。私の質子期間はすでに満了しています。本来であれば、もっと早く王都へ戻るべきでした。」


 私は彼を見た。

 この家に唯一そぐわない、美しく高貴な青年。


 そうだ。

 ここへ毎日やって来て、布飾りを手綱袋につけて、若葉のスープを飲んでいるけれど。


 本来、彼は王都へ戻る人だ。

 ――第三王子。

 ――アインシュヴァルドの王族。


 ――私とは違う場所の人。


 私はもう、完璧な公爵令嬢と言われた社交界の花ではない。


 罪人として婚約を破棄され、まるで少女のように髪を切り、質素な古着を着ている。

 畑仕事や針仕事で手は荒れ、軟膏を塗らなければすぐにひび割れる。

 小さな、彼から見れば小屋のような古い家で先の暮らしを心配し、お礼に出せるのがわずかな食事だけの、傷ついた女。


「それだけですか。」


 私は聞いた。

 声が少し乾いていた。

 ヴィルヘルムはわずかに眉を寄せた。


「それだけではありません。」


 やはり。


「王太子選定会議への出席も求められています。」


 ――王太子。

 その言葉で、私は呼吸を忘れた。


 王太子。

 ヴィルヘルムが。

 王太子候補として。


 頭では、すぐに理解した。


 アインシュヴァルドは長子だけで王太子が決まる国ではない。

 能力、実績、王族会議の承認。

 そういう仕組みだと、以前聞いた気がする。


 ならば、ヴィルヘルムの名が上がってもおかしくない。

 十年を質子として耐え、帰還後は公爵領の引き継ぎも行っている。


 そして、共に学んだことがあるからこそ分かる。

 ――彼は、とても有能だ。


 それは知っている。

 分かっている。

 分かっているのに、胸の奥が冷たくなった。


「……そうですか。」


 出た声は、驚くほど平坦だった。

 自分の声ではないようだった。


 彼が王太子になれば、もう二度とここに来ることはないだろう。


 こうして、追放された女と食事することも。


 毎日、監視という名目で馬を走らせることも。


 公爵領に来ることすら、ままならなくなるに違いない。


 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「まだ決まったわけではありません。」


「でも、候補なのでしょう。」


「会議に名が上がっただけです。」


「王族会議に?」


「はい。」


「それは、ただの名前ではないでしょう。」


 言ってから、少し強かったと思った。

 しかし、もう取り消せない。


 ヴィルヘルムは静かに答えた。


「……そうかもしれません。」


「いつ、行くのですか。」


「三日後には公爵領を出発せねばなりません。」


 ――三日。

 あまりに近い。



「……本当は、もっと早く告げるつもりでした。」


 私が体調を崩したせいだ。


 いや、もともと帰還式典が二か月も経とうという時期に開かれるのが、本来おかしいのだ。


 きっと、彼がこの地を離れられなかったから。

 私がここを選んで、予定された場所に行くことを固辞したから。


 胸が冷えた。


「これから王都への出立の準備があります。少なくとも、これまでのように毎日ここへ来ることはできません。」


 毎日。

 その言葉が、胸に刺さった。


 いつの間にか、それが当たり前になっていたのだと、今さら気づかされた。

 私がこの生活を選択することで、彼がここまで無茶をしているとは思わなかった。

 自分のことでいっぱいいっぱいで、犠牲になるものの可能性について、考えようともしなかった。


 机の上には、空になった器があった。

 若葉のスープの香り。

 彼がこちらが恥ずかしくなるくらい丁寧に食べた食事の器たち。


 違う。

 犠牲ではない。

 ヴィルヘルムは守ったのだ。


 ――私の選択を。

 ――私の意志を。


 考えたくなかった答え合わせの瞬間。

 結末を、今突きつけられている気がした。


 ――私はずっと守られていたのだ。


 さっきまでそこにあった温かさが、少しずつ指の間から滑り落ちていくようだった。


「どのくらい。」


 思わず声に出してしまった。

 戻ってくる保証もないのに。

 聞いてしまった。


「短くとも三ヶ月ほど。しかし正確には分かりません。」


 誠実だからこそ、断定を避けたのだ。


 その言葉は、台所の床に重く落ちた。

 森の家の壁が、少し遠くなったように感じた。


 秋に向けて、これから畑の若葉は、もっと大きくなっていくだろう。

 針仕事も、きっと新しいものを作るに違いない。

 小さな市では、新しい茶葉を買うことになるかもしれない。

 屋根も、次の雨までにはもう少し直さなければならない。


 その全ての中に、もうヴィルヘルムはいない。


 毎日聞こえていた蹄の音も。

 玄関先の確認も。

 本音が分かりにくい失礼な言葉も。

 返事ばかりの会話も。


 ない。


 たった数日前までは、来なくていいと思っていた。

 来ない方がいいと、何度も言っていた。


 それなのに。


 聞いた瞬間、胸の奥がひどく空いた。


「……お忙しいのですね。」


 私は言った。

 それが精いっぱいだった。

 ヴィルヘルムの表情が、わずかに歪む。


「レベッカ嬢。」


「当然です。あなたは王族ですし、帰還式典も、王太子選定会議も、とても大事なことでしょう。」


「はい。」


「行くべきです。」


「はい。」


「私に話す必要など、ありましたか。」


 言ってしまった。

 自分でも分かった。

 それは、少し意地悪な言葉だった。


 けれど、止められなかった。


「ありました。」


 ヴィルヘルムは即答した。

 その声が、思ったより強くて、私は息を止めた。


「監視のためですか?」


 見上げた先にあった強い眼差しに、茶化そうとした言葉が止まる。


 ――何なの。


 悔しいような、怒りのような、自分でもよく分からない感情が胸にあふれてくる。


「何も言わずに不在にすることは、したくありませんでした。」


「今までだって、あなたの都合で来ていたのでしょう。」


「はい。」


「なら、来なくなるのも、あなたの都合でしょう。」


「そうです。」


「では。」


「それでも、伝えるべきだと思いました。」


 まっすぐだった。

 逃げないと言った声と同じだった。


 私は机の端を握った。

 指の傷が少し痛む。

 布の下で、じんと熱を持つ。


「……そうですか。」


 それ以上、どう返せばいいのか分からなかった。

 ヴィルヘルムは続けた。


「不在の間の手配はします。」


「手配?」


「屋根の確認。畑の柵。薪。ローレンス殿との連絡。マーサ殿への謝礼。必要な場合の医師の手配。」


「待ってください。」


 私は顔を上げた。


「それは、必要ありません。」


「ですが。」


「必要ありません。」


 二度目は強く言った。

 ヴィルヘルムが口を閉じる。


「私は、あなたの監視下にはいますが、管理下にいるわけではありません。」


「……はい。」


「あなたがいなくても、暮らせます。」


 言った瞬間、胸が痛んだ。

 自分で言った言葉なのに。


 ――あなたがいなくても暮らせます。


 正しい。

 正しいはずだ。

 私はここで暮らしている。


 火も起こせる。

 畑も育てている。

 手仕事もある。

 マーサもローレンスもいる。


 ヴィルヘルムがいなくても、暮らせる。


 ――暮らせなければならない。


「分かっています。」


 ヴィルヘルムは静かに言った。


「本当に?」


「はい。」


「なら、手配など。」


「あなたを管理したいわけではありません。」


「では何ですか。」


 ヴィルヘルムは一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙が、さっきよりも痛かった。


「心配なのです。」


 短い言葉。

 何の飾りもない言葉。


 それなのに、胸の奥へまっすぐ刺さった。


 私は視線を落とした。


 心配。


 監視ではなく。

 確認でもなく。

 危険回避でもなく。

 心配。


 そんな言葉を、今この場で出さないでほしかった。


 これから三か月いなくなる人に。

 王都へ戻る人に。

 王太子候補になるかもしれない人に。


 ここへはもう戻ってこないかもしれない人に。


 そんな温かい言葉を置いていかないでほしかった。


「……それは、便利な言葉ではないのですか。」


 私は小さく言った。

 ヴィルヘルムは、少しだけ苦しそうに目を伏せた。


「便利ではありません。」


「そうでしょうか。」


「はい。私にとっては、とても不便です。」


 思わず顔を上げた。


 彼の青い目は、静かだった。

 けれど、どこか痛みを抱えていた。


「心配すると、判断を誤ります。距離も、言葉も、選び損ねます。あなたを守りたいと思いながら、また傷つける。」


 彼の声が低くなる。


「それでも、なくなりません。」


 私は息ができなかった。


 ――なくならない。


 何が。

 聞いてはいけない。

 聞けば、何かが変わってしまう。


 変わってしまうのに、彼は王都へ行く。

 もう戻ってこないかもしれない。


 いなくなる人の言葉に、何を期待すればいいのか。


 私は目を伏せた。


「今日は、もう帰ってください。」


 ようやく言った。

 声は静かだった。

 静かにしようとした。


 ヴィルヘルムはすぐには動かなかった。


「レベッカ嬢。」


「食事は終わりました。手当てもしていただきました。お話も聞きました。」


「はい。」


「ですから、今日は帰ってください。」


「……分かりました。」


 ヴィルヘルムは、ゆっくり立ち上がった。

 椅子の音が、やけに大きく響いた。


 彼は食卓の器を見た。

 片づけたいのだろう。

 けれど約束を守って、手を出さなかった。


 その律儀さが、また胸を締めつける。


「食事を、ありがとうございました。」


「お礼のお礼は不要です。」


「それでも。」


「不要です。」


 少し強く言ってしまった。

 ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。


「とても、温かい食事でした。」


 その言葉で、私は泣きそうになった。


 やめてほしい。


 そういう言葉を残していかないでほしい。

 私は顔を背けた。


 ヴィルヘルムはそれ以上、何も言わなかった。

 台所を出て、玄関へ向かう。


 私は見送るべきか迷ったが、結局立ち上がった。


 指先が少し痛む。

 足元は揺れない。


 それなのに、胸の中だけがひどく不安定だった。


 玄関先で、ヴィルヘルムは振り返った。


「絶対に無茶はしないでください。」


「はい。」


「約束です。」


「はい。」


 私は頷いた。

 それしかできなかった。


 ヴィルヘルムの視線を感じた。

 逡巡しているのも分かった。

 でも私は、顔を上げられなかった。


 結局、彼は深く一礼し、外へ出た。


 ノクスが小さく鼻を鳴らす。

 ヴィルヘルムが手綱を取る。


 薄緑の布飾りが、手綱袋で小さく揺れた。


 私が作った布飾り。

 彼が一つだけ、店の値段で買ったもの。


 それが、王都へ行くのだろうか。

 そんなことを考えた瞬間、胸がまた痛んだ。


 蹄の音が遠ざかる。


 私は扉の内側に立ったまま、しばらく動けなかった。


 台所には、まだ食事の匂いが残っている。


 若葉のスープ。

 豆の皿。

 切りかけの果物。

 布を巻かれた指。


 少し前まで、ここには温かいものがあった。


 私が育てた暮らしを、彼が認めてくれた。


 この家は、私の場所になったと。

 その言葉で、胸の奥に小さな火が灯った。


 けれど今、その火の上に、王都という遠い影が降りている。


 三か月。

 王太子選定会議。

 帰還式典。

 彼が本来戻るべき場所。


 私は扉に背を預けた。

 自分に言い聞かせる。


 ――大丈夫。


 私は一人でも暮らせる。

 この家で。

 この畑で。

 若葉を育てながら。

 布飾りを縫いながら。


 暮らせる。

 暮らせるはずだ。


 けれど、庭の鳥除けの鈴が夜風に鳴った時。


 その音が、なぜかひどく寂しく聞こえた。

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