第八十五話 常冬の王宮
王宮は、静けさに包まれていた。
外では、春の気配が少しずつ滲み始めている。
庭園の木々は硬い芽を膨らませ、温室では早咲きの花が開き、王都の通りには薄い色の布が飾られ始めていた。
だが、王宮の奥へ進むほど、春は遠ざかっていく。
磨き上げられた白い床。
高い天井。
冷たい石壁。
重い扉。
足音だけが、やけに大きく響く回廊。
まるで、この場所だけが季節から取り残されているようだった。
――春の訪れを拒む、常冬の城。
宰相エーベルハルトは、腕に抱えた書類の重みを感じながら、王の執務室へ向かっていた。
書類が重いのではない。
中身が重いのだ。
貴族院からの要望書。
王族派からの嘆願。
旧エルセリア貴族との融和策に関する提案。
そして、そのどれもが、最後には同じ一点へ集約される。
王妃を。
王に、王妃を。
王座の隣を空席のままにしておくな。
それは、政治的には正しい。
正しすぎるほど正しい。
だからこそ、厄介だった。
四年前、エルセリアでは第一王子と侯爵令嬢の婚姻を祝う式典の裏で、大規模な暴動が起きた。
民衆の不満。
反王族派の扇動。
流れ込んだ火器。
港湾貴族たちの沈黙。
あまりにも多くの火種が、一度に燃え上がった。
王室の権威は失墜した。
第一王子妃の実家である侯爵家は資金繰りに失敗し、王室名義の手形を不当に担保にしていたことまで明らかになった。
貴族派の柱は折れた。
王室は弱り、貴族院は割れ、港は混乱し、地方では小競り合いが続いた。
その混乱の中で、かつて国外追放された公爵令嬢レベッカ・イザベル・フォン・エルヴェシアの名誉裁判が行われた。
彼女の出自に関する嫌疑は、すべて虚偽であると証明された。
公爵家との親子関係も確認された。
他貴族子女への不法行為とされた件も、ほとんどが捏造か、証言の誘導によるものだったことが明らかになった。
彼女の名は、貴族名鑑へ戻された。
だが、本人は戻らなかった。
戻るべき令嬢は、どこにもいなかった。
その後、エルセリア王国は自力での収拾を失った。
港湾権を担保にアインシュヴァルドから融資を受け、統治の一部を同国へ委ね、さらに二年後には港湾の所有権を割譲した。
そして半年前、エルセリア王国は正式にアインシュヴァルドへ併合された。
旧王室は解体。
残された貴族たちは、新体制の下で再編された。
その一連の計画を立案し、進め、実行したのが、当時の王太子ヴィルヘルム・レオンハルト・フォン・アインシュヴァルドだった。
併合後、彼は王座を継いだ。
それは、誰の目にも合理的だった。
彼はエルセリアで長く過ごしていた。
敵国の言葉も、貴族社会も、港湾の利害も、旧王室の弱点も知っていた。
アインシュヴァルド側の軍と貴族院を動かせる血統と権威もあった。
若すぎるという声はあった。
だが、それを黙らせるだけの結果を、彼はすでに出していた。
王は有能だった。
恐ろしいほどに。
法を整え、港を開き、反乱の芽を刈り取り、税制を組み替え、旧エルセリア貴族を分断し、必要な者を取り込み、不要な者を退けた。
誰もが称賛した。
誰もが認めた。
そして、誰もが恐れた。
若き王は、決して怒鳴らない。
声を荒らげない。
感情で人を罰しない。
ただ、見抜く。
切り分ける。
配置する。
必要があれば、迷わず捨てる。
まるで国そのものを、巨大な機械仕掛けの装置として見ているようだった。
そこに血が流れていることを、忘れているかのように。
いや。
エーベルハルトは、心の中で否定した。
――忘れているのではない。
――そもそも彼の中では不要な些事なのだ。
王の執務室の前で、彼は足を止めた。
扉の前に立つ近衛が、無言で一礼する。
エーベルハルトは息を整え、扉を叩いた。
「入れ。」
短い声。
冷たく、澄んだ声。
許可を得て、エーベルハルトは扉を開いた。
執務室の中は、相変わらず整っていた。
大きな机。
分類された書類。
壁一面の地図。
窓際には季節の花が飾られている。
だが、その花だけが、この部屋で浮いていた。
王は机の向こうに座っていた。
淡い金髪。
澄んだ碧眼。
彫刻のように整った顔。
黒を基調とした衣。
王冠も目立つ外套もない。
ただ、そこに座っているだけで、彼は王だった。
そして、人ではないもののようにも見えた。
「陛下。」
エーベルハルトは礼をした。
「貴族院からの要望書は、ご覧になられましたか。」
「確認しました。」
王は視線を上げずに答えた。
「確認、ですか。」
「ええ。確認しました。それで、何か問題でもありますか。」
「問題しかございません。」
エーベルハルトは書類を差し出した。
「陛下。今回の縁談を退ければ、王族派の貴族から大きな反発を招きます。」
「そうですか。」
「そうですか、ではありません。」
王はようやく視線を上げた。
その目は静かだった。
あまりにも静かで、エーベルハルトは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しかし、言わなければならない。それが彼の仕事だった。
「……旧エルセリア貴族との融和のため、あちらの高位貴族の令嬢を王妃に迎えるべきとの声もあります。反対に、現アインシュヴァルド貴族の不安を抑えるため、国内の有力家門から選ぶべきとの声もあります。……いずれにせよ、王妃の席が空であり続けることは、政治的に不安定です。」
「皆さん、人の伴侶にそこまで口を出したいのですか。」
王は静かに言った。
「そんなにお暇なら、相談所でも開けばよろしい。」
「陛下。」
「冗談です。」
冗談に聞こえなかった。
少しも。
「王族とは元来、婚姻も政治の一部です。陛下も、それはよくご存じのはずです。」
「知っています。」
「ならば。」
「知っていることと、従うことは別です。」
エーベルハルトは言葉を止めた。
王は机の上の書類を一枚横へ置いた。
指先の動きに無駄がない。
「私が、何か失策をしましたか。」
「ありません。」
「遅延している政務がありますか。」
「ありません。」
「港湾税、通貨統合、旧エルセリア諸侯の再編、国境警備、各都市の食料価格。いずれかに具体的な懸念がありますか。」
「……ありません。」
「では、何も問題ありませんね。」
「問題はございます。」
エーベルハルトは、どうにか声を保った。
「王妃の席が空席であること自体が問題なのです。」
「問題ではありません。」
王の返答は早かった。
「公爵家を継いだ次兄には、すでに子がいます。長兄も昨年婚姻を結びました。後継の血筋が必要なら、そちらから連れてくればよい。」
「それは、陛下ご自身の後継とは言えません。」
「王位に必要なのは、私の子ではなく、次に最も適切な人材です。」
人材。
自分の血を継ぐ子の話をしているのに、王はそう言った。
エーベルハルトは、胸の奥が重くなるのを感じた。
「そもそも。」
王は淡々と続けた。
「私は王であることに、一切の執着も野望もありません。」
静かな声だった。
「ただ、今のところ、私が最も適切で合理的だから、ここに座っているだけです。」
エーベルハルトは、返す言葉を見つけられなかった。
この王は、自分自身すら国を動かす部品の一つとして扱っている。
そこに誇りはない。
喜びもない。
ただ、機能があるだけだ。
王は椅子の背にもたれず、背筋を伸ばしたまま、こちらを見ていた。
「宰相。」
「はい。」
「私が替えの利く駒であるように、あなたもまた替えの利く駒です。」
部屋の空気が、一段冷えた気がした。
「それを忘れないでください。」
「……陛下。」
「私が不具合の大きい駒と判断すれば、明日にでもあなたは盤上から外れます。」
王はわずかに目を細めた。
「これは脅しではありません。警告です。」
エーベルハルトは、呼吸を忘れていた。
――蛇に睨まれた蛙。
古い言い回しが頭をよぎる。
まさにその通りだった。
目の前の若き王は美しい。
あまりにも美しく、冷たく、そして危険だった。
王は、もう興味を失ったように視線を手元の書類へ戻した。
「貴族院には、旧エルセリア南四港の関税配分についての議題を上げておいてください。」
「関税、ですか。」
「最適解はすでにありますが、皆さんお暇そうなので、投げれば食いつくでしょう。」
王の指が、地図の上をなぞった。
「誰が何を取るか。何を選び、どう踊るか。さぞかし見ものでしょうね。」
その声は、少しも楽しそうではなかった。
見ものと言いながら、王の目には何の色もない。
人の欲も、争いも、駒の動きでしかないのだ。
「退出を。」
王が言った。
だが、エーベルハルトには、どうしても言わなければならないことがあった。
「陛下。来月の建国記念式典には、必ずご出席いただきます。」
王の指が止まった。
わずかな沈黙。
それだけで、エーベルハルトの背中に汗が滲んだ。
「式典には出ます。」
「式典だけではありません。祝宴にもです。」
「不要です。」
「不要ではありません。」
エーベルハルトは、恐怖を押し殺して続けた。
「併合後、初めての大規模式典です。国内外から来賓が集まります。旧アインシュヴァルド、旧エルセリア、両国の全貴族にも招待状が出ています。陛下が祝宴を欠席されれば、余計な憶測を招きます。」
「憶測なら、いつもされています。」
「今回ばかりはお許しください。陛下は即位の祝宴すら政務を理由に退席されました。あれから半年、貴族たちは焦れています。」
「焦れているなら、待つ練習になります。」
「陛下。」
エーベルハルトは、深く頭を下げた。
「お願いいたします。せめて一刻。祝宴にお姿をお見せください。」
長い沈黙が落ちた。
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
窓の外では、庭師が剪定をしている音が微かに聞こえた。
春は近い。
だが、この部屋だけは冬のままだった。
「一刻。」
やがて、王が言った。
「それ以上は不要です。」
「ありがとうございます。」
「礼を言うことではありません。政務の一部です。」
「承知いたしました。」
エーベルハルトは頭を下げた。
退出しようとした時、王の声がした。
「宰相。」
「はい。」
「森の家の管理報告は。」
エーベルハルトは、胸が鈍く痛むのを感じた。
今、この流れで。
縁談の話をしていた直後に。
王は、それを尋ねるのか。
「今朝届いております。」
「異常は。」
「ございません。屋根、井戸、畑、柵、すべて維持されています。月に一度、換気と清掃を。家具もそのままに。」
「鳥除けは。」
王の声は、わずかに低くなった。
「……鈴のない鳥除けも、そのままです。」
「そうですか。」
王はそれだけ言った。
エーベルハルトは、書類を抱え直した。
――あの森の家。
王が、四年間残し続けている場所。
もう帰る者はいない。
少なくとも、皆そう思っている。
だが、王は残す。
家具も。
畑も。
柵も。
鈴のない鳥除けも。
かつて誰かが暮らした形のまま、季節だけが巡る家を。
王は視線を落とし、再び書類へ戻った。
「下がってください。」
「御意。」
エーベルハルトは礼をし、執務室を出た。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、ようやく息が深く入った。
彼はしばらく、その場から動けなかった。
王は有能だ。
国は動いている。
港は開き、税は整い、軍は再編され、旧エルセリアも少しずつ形を変えつつある。
何も止まっていない。
何も壊れていない。
少なくとも、国は。
だが、あの方の中では、何かが四年前から凍りついたままだ。
いや。
凍ったのではない。
凍らせているのだ。
――決して崩れないように。
エーベルハルトは、窓の外を見た。
庭の枝先に、小さな芽がついている。
春が来る。
王宮にも、国にも、街にも。
だが、あの部屋には届かない。
少なくとも、今はまだ。
◇
執務室の中で、ヴィルヘルムは一人、書類の文字を追っていた。
関税。
港湾管理。
旧貴族領の再編。
軍備。
食料価格。
婚姻候補者の名簿。
最後の紙だけを、彼は手に取った。
淡々と眺める。
令嬢たちの名。
家門。
年齢。
持参金。
政治的価値。
どれも整っている。
どれも合理的に使える。
そして、どれも意味がない。
ヴィルヘルムは紙を伏せた。
机の引き出しを開ける。
そこには、小さな箱があった。
彼は箱には触れなかった。
開けもしなかった。
ただ、そこにあることを確認する。
それだけで十分だった。
――どうか、私を探さないでください。
――あなたには、この国の未来があります。
――良い王になってください。
ヴィルヘルムは目を閉じた。
――良い王になってください。
その通りにしている。
彼女が望んだ通りに。
望んだのだろう。
そう書いたのだから。
――ならば、私は良い王でなければならない。
誰よりも正確に。
誰よりも冷静に。
誰よりも間違えずに。
そうでなければ、あの手紙の意味すら失われる。
それだけは、許せなかった。
机の上の書類に、再び視線を落とす。
今日も、仕事は終わらない。
明日も、国は動く。
彼は王であり続ける。
完璧に。
――空席の隣を、誰にも座らせないまま。




