第八十四話 天使を迎えに
白い紙に行儀よく綺麗に並んだ文字の列。
最後の一文字の線を丁寧に書ききって、筆先を上げる。
「よし。」
私は机の上の紙束を、勢いよく揃えた。
ぱん、と乾いた音が部屋に響く。
「終わった。」
思わず声が出た。
終わった。
本当に終わった。
西方の農業機械に関する下訳、六十七ページ。
専門用語の確認。
注釈の整理。
図版の説明文。
全部、終わった。
今日中に終わらないかもしれないと思っていた。
……いや、もう昼の時点では諦めかけて、明日の私に託そうとしていた。
しかしそうすれば明日の私が、今日の私を恨む。
それはよくない。
未来の自分に恨まれる生き方は、なるべく避けたい。
なので、今日の私が勝った。
非常に偉い。
私は自分で自分を褒めながら、インクが乾いた紙を丁寧に紐で綴じた。
窓の外では、ウィンツバークの午後の光が、白い壁と赤茶色の屋根を明るく照らしている。
港の方からは、荷車の音と人々の声が聞こえた。
この街に来て、三年が経った。
メアリー・リーストンとして生き始めて、三年。
最初に借りた小さな部屋から、今は少し離れた路地の奥にある小さな一軒家へ移っている。
広くはない。
けれど、窓が二つある。
小さな台所がある。
寝室があり、仕事部屋があり、リアムのおもちゃ箱がある。
庭と呼ぶにはあまりにも控えめな土の場所もある。
そこには、去年リアムが「おはな」と言って埋めた石が三つ並んでいる。
種ではなく、石。
もちろん芽は出なかった。
しかし彼は毎朝、律儀に石に水をやっていた。
天才的に可愛い。
石に水やる三歳児。
存在が詩である。
私は綴じた紙束を鞄にしまい、壁の時計を見た。
まずい。
教会へ迎えに行く時間だ。
私は慌てて立ち上がった。
出産してからの三年は、まさに怒涛だった。
赤ん坊というものは、小さく、柔らかく、天使のようで、そして容赦がない。
泣く。
眠らない。
飲む。
吐く。
また泣く。
やっと眠ったと思ったら、こちらが眠る直前に起きる。
なぜ。
どうして。
赤ん坊とは、母親の睡眠を観察しているのだろうか。
寝入りばなを見極める特別な能力があるのではないだろうか。
私は何度もそう思った。
最初の一年は、記憶がところどころ霧のように抜けている。
ただ、腕の中の小さな温かさ。
夜中の泣き声。
焦る自分。
マリナの大きな声。
リディアの淡々とした助言。
乳の匂い。
洗っても洗っても増える布。
眠れない朝。
そして、リアムが初めて笑った日の光。
そういうものだけが、鮮やかに残っている。
リアムが一歳になる少し前、私は今後のことを考えて、アンナの紹介でこの家へ移った。
アンナは、職業案内所で知り合った写字係の女性だ。
偶然にも、私が逃亡中に使っていた名と同じだったので、最初は少し動揺した。
彼女は明るく、早口で、よく笑う。
そして、驚くほど顔が広い。
この街には、そういう女性が何人もいる。
働く女性たち。
子どもを育てながら、帳簿をつけ、店を手伝い、写字をし、刺繍をし、料理を作り、荷札を仕分けし、時には船主相手に怒鳴り合う女性たち。
ウィンツバークは、そういう人たちで回っている街だった。
ここは開放的な土地だ。
海外からの移住者も多い。
観光業も印刷業も出版業も伸びていて、とにかく人手が足りない。
古くからの格式や家柄より、今日その仕事ができるかどうかの方が重視される場面も多い。
もちろん、差別も噂も偏見もないわけではない。
だが、少なくともこの街では、女が働くこと自体は珍しくなかった。
教会も、その暮らしを支えていた。
教会は祈りの場であると同時に、子どもたちを預かる場でもあった。
朝、母親たちが子どもを預ける。
昼には簡単な食事が出る。
年長の子どもたちは文字や歌を習う。
小さい子どもたちは、泣いたり、走ったり、積み木を奪い合ったり、時々聖像の前で昼寝をしたりする。
国から教会へ助成金が出ているらしい。
働く親が増え、街に人が流れ込み、子どもを見守る場所が必要になったからだ。
母親たちはできる範囲で寄付をする。
私も、収入に余裕がある時は少しずつ寄付していた。
余裕がない時もある。
その時は、翻訳の合間に教会の古い教材を直したり、子どもたちに文字を教えたりした。
世の中は、思っていたより物々交換でできている。
金銭だけでは回らない。
恩だけでも回らない。
少しずつ持ち寄って、どうにか今日を動かす。
そういう世界だった。
私は鞄を持ち、家の戸締まりを確認した。
木の櫛は、仕事机から見える棚の上に置いてある。
最初は引き出しにしまっていた。
見るのが苦しかったからだ。
けれど、いつからか、そこに置くようになった。
隠しているのに、ずっと心の中で探してしまうくらいなら、見える場所に置いた方がいい。
そう思った。
木彫りのウサギは、今はリアムの寝台の横にいる。
かつて私の見張り役だったウサギは、今ではリアムの大切な友人だ。
時々、床に寝かされている。
時々、布団をかけられている。
時々、木のスプーンで粥を食べさせられている。
ウサギは何も言わない。
しかし、たぶん幸せだ。
私は家を出て、教会へ向かった。
通りには、午後の活気があった。
焼き菓子の匂い。
インクの匂い。
洗濯物の匂い。
港からの潮の匂い。
ウィンツバークの匂い。
最初は知らない街だった。
今は、どこで安い布が買えるか分かる。
どのパン屋が夕方に値引きをするか分かる。
どの道を通ると坂が少ないか分かる。
雨の日にどこの石畳が滑るかも分かる。
これは大事だ。
一度見事に滑って、通りの魚屋に助け起こされた。
あの日、私は魚屋の奥方から「美人は転び方まで派手だね」と言われた。
……美人と言われたのに、なぜか負けた気がした。
教会に近づくと、子どもたちの声が聞こえてきた。
笑い声。
泣き声。
何かを取り合う声。
歌のようなもの。
そして、その中から。
「おかあさま!」
天使が走ってきた。
天使である。
間違いない。
小さな足で、ぱたぱたとこちらへ向かってくる。
柔らかそうな栗色の髪。
光を受けると少し金が混じる。
白い頬。
長いまつ毛。
澄んだ青い瞳。
そして、なぜか右手に木の葉を握っている。
天使だ。
木の葉を持った天使だ。
いや、リアムだ。
でも、天使でもある。
両立する。
何の問題もない。
「リアム。」
私はしゃがんで腕を広げた。
リアムが勢いよく飛び込んでくる。
小さな体が胸に当たる。
ああ。
今日も生きている。
今日も可愛い。
今日も世界は素晴らしい。
「おかあさま、おむかえ、はやい?」
「今日は少しだけ早いです。」
「すごい。」
「そうです。お母様はすごいのです。」
「おしごと、おわった?」
「終わりました。」
「すごい!」
「そうです。お母様はすごいのです。」
私は堂々と頷いた。
親が自分を褒める姿を見せるのも教育である。
たぶん。
近くにいたシスターが笑っていた。
「メアリーさん、今日もお疲れさまです。リアムは今日、年長の子たちの文字札を読もうとしていましたよ。」
「またですか。」
「ええ。まだ三歳なのに、いくつか覚えてしまったようです。」
リアムは私のスカートを握りながら、得意げに言った。
「り、あ、む。」
「自分の名前?」
「うん。りあむ。」
天才。
完全に天才。
私は胸を押さえた。
危ない。
あまりの可愛さと賢さに、心臓が危ない。
「素晴らしいです。」
「すばらしい?」
「とても、すごいという意味です。」
「りあむ、すばらしいの?」
「はい。リアムは素晴らしいです。」
リアムは真剣な顔で頷いた。
「おかあさまも、すばらしい。」
私はしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
何だこれは。
私の子は、私を殺す気なのか。
可愛さで。
合法なのか。
いや、違法である。
こんな可愛さは危険だ。
国で管理すべきだ。
しかし、国に渡す気はない。
私が管理する。
責任を持って管理する。
私はリアムを抱きしめた。
「ありがとうございます。お母様は今、とても幸せです。」
「しあわせ?」
「胸がぽかぽかすることです。」
リアムは少し考えた。
それから、私の胸に小さな手を当てた。
「ぽかぽか?」
私はまた死にかけた。
シスターが横で口元を押さえていた。
分かりますか。
分かりますよね。
この可愛さは、人を狂わせる。
教会から出ると、通りの人々がこちらを見る。
かなりの確率で振り返る。
「あら、今日も可愛いわね。」
「まあ、青い目が綺麗。」
「見て、あの子。お人形みたい。」
ふふふ。
そうだろう、そうだろう。
私は心の中で大きく頷いた。
国宝級の容姿を持つ人の子である。
可愛くないわけがないのだ。
もちろん、私にも似ているところはある。
おそらく。
好奇心が強すぎるところ。
一つのことに夢中になると周りが見えなくなるところ。
興味を持ったものへ突進するところ。
これは、確実に私に似ている。
昨日も、道端の蟻の行列を観察し始めて、しばらく動かなかった。
私は仕事帰りで疲れていた。
夕飯の材料も持っていた。
早く帰りたかった。
しかし、蟻の行列を真剣に見つめるリアムの横顔があまりにも美しく、私は負けた。
二人で蟻を見た。
蟻は働き者だった。
私も働き者である。
つまり、私と蟻は同士である。
そんな結論に至った。
家へ帰る途中、リアムは私の手を握りながら、今日あったことを一生懸命話してくれた。
「シスターがね、うたうたったの。」
「そうですか。」
「それで、エマが、ぱん、とった。」
「まあ。」
「でも、りあむね、はんぶん、あげたんだ。」
「偉いです。」
「でもね、やっぱりあとで、おなか、すいたの。」
「それは大変でしたね。」
「うん、たいへん。」
私は真剣に頷いた。
三歳児の世界は、毎日大事件で満ちている。
パンを半分あげる。
お腹が空く。
木の葉が綺麗。
靴に砂が入る。
隣の子が歌を間違える。
全部、大事件。
その一つ一つを、リアムは全身で受け止めている。
私はその話を聞くのが好きだった。
家に着くと、リアムはまず木彫りのウサギへ今日の報告をした。
「うさぎ、ただいま。」
ウサギは返事をしない。
リアムは気にしない。
「きょうね、りあむはね、すばらしいんだよ。」
私は台所で吹き出した。
そうだ。
君は素晴らしい。
その通りである。
夕食は、豆のスープとパン、それから少しの卵だった。
リアムは卵が好きだ。
でも、日によっては、好きではない。
昨日は好きだった。
けれども今日は嫌いかもしれない。
三歳児の食の好みは、政治情勢より読みにくい。
「たまご、いる?」
「いる。」
今日は好きらしい。
よかった。
夕食後、私はリアムに湯で濡らした布で手と顔を拭かせ、寝支度をさせた。
寝支度と言っても、素直に進むわけではない。
まず、ウサギも寝ると言う。
次に、ウサギには布団が必要だと言う。
その次に、ウサギが寒いと言う。
さらに、ウサギが歌を聞きたいと言う。
……ウサギの要求が多い。
本当にウサギが要求しているのかは不明である。
だが、リアムが真剣なので、私も真剣に対応する。
木彫りのウサギに布をかけ、歌を一つ歌い、ようやくリアムを寝台に入れる。
「おかあさま。」
「はい。」
「きょう、たのしかった。」
「私も楽しかったです。」
「おかあさま、あしたも、おしごと?」
「はい。午前中は翻訳、午後はお嬢さんに礼儀作法を教えに行きます。」
「りあむは、きょうかい?」
「はい。シスターと待っていてください。」
「うん。」
リアムは少し眠そうに目を瞬いた。
長いまつ毛が影を落とす。
青い瞳が、少しずつ閉じていく。
私はそっと髪を撫でた。
よく似ている。
そう思う。
毎日思う。
たぶん、細かいところは違うのだろう。
私が知らないだけで、ヴィルヘルムの幼い頃とは違う部分もたくさんあるのだろう。
けれど、私は彼の幼い頃を知らない。
だから、この青い瞳を見るたび、どうしても思ってしまう。
きっと、彼も幼い頃はこんなだったのだろうか……。
……いや。
こんなに可愛かったら、大変だ。
よく誘拐されずに大人になったものだ。
私が幼少期の彼に出会っていたら、連れて帰らない自信がない。
危ない。
非常に危ない。
幼い頃に出会わなくてよかった。
私は犯罪者になるところだった。
いや、私も幼児だったはずだ。
子どもが子どもを連れて帰るとは何事か。
それでも、自分のことだ。分かる。やるに違いない。
可愛いものには、人の理性を壊す力があるのだ。
私は眠りかけているリアムの頬を、指先でそっと撫でた。
思わず嘆息する。
この世界には、なぜ写真や映像がないのだろう。
残念だ。
残念すぎる。
今のリアムは今しかいないのに。
明日のリアムは、今日より少し大きくなってしまうのに。
それを残せないなんて、世界は美しいけれど、少し残酷だ。
もう少しお金が貯まったら、毎月画家に肖像画を描かせよう。
いや、毎月は高い。
では季節ごとに。
いや、成長は季節を待たない。
月ごとが理想だ。
私は頭の中で計算した。
翻訳の報酬。
家庭教師の報酬。
家賃。
食費。
教会への寄付。
布代。
医師代。
肖像画代。
肖像画代は、生活必需品ではない。
だが、心の必需品ではある。
難しい。
非常に難しい。
私は真剣に悩んだ。
そのうち、リアムは眠ってしまった。
小さな寝息。
柔らかな頬。
木彫りのウサギを片手で握ったまま、少し口を開けて眠っている。
天使だ。
やはり天使だ。
私は寝台のそばにしばらく座っていた。
部屋の中は静かだった。
夜のウィンツバークは、昼より少しだけ穏やかになる。
港から聞こえる音も遠くなる。
机の上には、明日納める翻訳の紙束がある。
棚の上には、木の櫛がある。
私は視線をそちらへ向けた。
木の櫛は、欠けることも色褪せることもなく、静かにそこにあった。
私は時々、その櫛に心の中で話しかける。
――あなたは今、何をしているかしら。
きっと、忙しくしているに違いない。
良き王として。
――無理をしていないかしら。
彼の周りには、もうたくさんの人がいるはずだ。
私が気にかける必要なんてない。
――ちゃんと眠れているかしら。
隣に。
誰か眠っているかしら。
――私を恨んでいるかしら。
それとも。
――もう、忘れてしまったかしら。
私は、調べようとしなかった。
出版社からの仕事もある。
紙商組合には各国の新聞も、政治記事も、交易記録も入ってくる。
望めば、アインシュヴァルドのことを知ることはできた。
ヴィルヘルムのことも。
けれど私は、むしろ避けるように生活していた。
知れば、揺れる。
揺れれば、足元が崩れる。
私は今、崩れるわけにはいかない。
リアムがいる。
この子がいる。
この子のために、私は明日も立たなければならない。
私はそっと立ち上がり、棚の上の木の櫛へ近づいた。
指先で触れる。
なめらかな木の感触。
あの日から、もう四年も経った。
それなのに、触れると胸の奥が少し痛む。
痛む。
けれど、もう息ができないほどではない。
痛みは、私の中に場所を見つけていた。
消えたわけではない。
でも、私を壊すものではなくなっていた。
「私は、元気です。」
声には出さず、心の中で言う。
「リアムも、元気です。」
伝わるはずはない。
伝えてはいけない。
それでも、言わずにはいられなかった。
寝台の方で、リアムが小さく身じろいだ。
私は慌てて振り返った。
起きたかと思ったが、よく眠っている。
木彫りのウサギを抱え、口元に少し笑みのようなものを浮かべている。
私は胸を押さえた。
また可愛い。
眠っていても可愛い。
これはもう、才能である。
私は灯りを少し落とし、机に向かった。
明日の支度をしなければならない。
午前中に翻訳を納め、午後は商家の娘たちの礼儀作法の授業。
一年半ほど前から、私は翻訳の仕事に加えて、家庭教師の仕事も始めていた。
きっかけは、紙商組合の担当者の紹介だった。
商家や裕福な家の娘たちが、礼儀作法や一般教養を学びたがっている。
貴族との取引が増え、海外の客人を迎える機会も増え、必要になってきたのだという。
最初は迷った。
人前に出る仕事だ。
家でできる翻訳とは違う。
だが、報酬はよかった。
とてもよかった。
リアムの服。
教会への寄付。
将来の学費。
それらを考え、私は引き受けた。
教えることは、思っていたより楽しかった。
姿勢。
挨拶。
相手の身分に応じた言葉。
食卓での振る舞い。
会話の糸口になる一般的な教養。
手紙の書き方。
刺繍。
舞踏の基本。
かつて私を縛っていたものが、今は私とリアムの生活を支えている。
人生とは不思議だ。
王妃になるための教育で、私は今、商家の娘たちに椅子の座り方を教えている。
しかも、案外楽しい。
明日の授業では、貴族と会った時の名乗り方を教える予定だった。
私は板書用の紙に、要点を書いていく。
先に名乗るのは誰か。
敬称の使い方。
失礼にならない断り方。
困った時の微笑み方。
最後の項目は、かなり重要である。
困った時、人はとりあえず微笑む。
ただし、微笑みすぎると誤解を招く。
適度な微笑み。
……これが難しい。
私は紙に書きながら、ふと笑ってしまった。
明日もきっと、賑やかになる。
この街での毎日は、静かではない。
仕事に追われる。
子どもに振り回される。
お金の計算に頭を抱える。
台所で焦げた鍋を見つめる。
リアムが謎の石を拾ってくる。
その石に名前をつける。
私は止める。
でも結局、家に石が増える。
大変だ。
とても大変だ。
でも、楽しい。
――私は今、楽しく生きている。
その事実が、時々信じられないほど眩しく感じる。
私は最後の紙を整え、灯りを消す前に、もう一度リアムを見た。
小さな天使は、すやすやと眠っている。
私は静かに微笑んだ。
「おやすみなさい、リアム。」
明日も、きっと忙しい。
明日も、きっと大変だ。
でも、明日もこの子がいる。
それだけで、私は生きていける。
私は木の櫛を一度だけ見て、それから灯りを消した。




