第八十三話 世界が美しい日
メアリー・リーストンとしての生活は、思っていたほど劇的には始まらなかった。
朝起きる。
水を汲む。
薄いパンを食べる。
仕事の紙束を受け取る。
辞書を開く。
訳す。
疲れる。
横になる。
また訳す。
夕方になったら、窓の外の港を見る。
そうして一日が終わる。
新しい名を得たからといって、突然、人生が輝き出すわけではない。
ただ、昨日より少しだけ、明日の予定がある。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」は、とても大きかった。
私は小さな部屋の机に向かい、紙商組合から渡された専門書の下訳を進めた。
最初の仕事は、南方の薬草に関する薄い本だった。
異国の言葉で書かれた植物名。
乾燥させる時期。
煮出す時間。
使用してはいけない場合。
私は一つずつ辞書を引き、意味を確かめ、アストリア語へ直していく。
机の上には、紙束。
辞書。
安いインク。
固いパン。
水差し。
そして、木彫りのウサギ。
棚に置いていたのに、気づけば机の端にいた。
見張り役である。
いや、ただの木彫りである。
だが、時々こちらを見ている気がする。
「休めと言っているの?」
私はウサギに尋ねた。
ウサギは答えなかった。
当然である。
私はため息をつき、羽根ペンを置いた。
「分かりました。少し休みます。」
誰に言っているのか分からない。
それでも、誰かに止められた気になるのは悪くなかった。
ウィンツバークでの暮らしは、最初から順調だったわけではない。
部屋は清潔だが狭い。
階段は少ないが、港からの坂道は意外と長い。
市場の匂いは楽しいが、日によってはつらい。
焼きたてのパンの匂いで幸せになる朝もあれば、魚の匂いで一日中寝台から起き上がれない日もある。
体の変化の一部なのか、感情の起伏も激しかった。
この子は無事だろうか。
私はちゃんと産めるのだろうか。
お金は足りるだろうか。
この街で本当に生きていけるのだろうか。
そう思って泣きそうになる時もあった。
だがその数時間後には、訳した文章の出来が思ったより良くて、少し得意になる。
そして、その得意げな気持ちのまま立ち上がって、眩暈がしてよろける。
忙しい。
本当に忙しい。
私の心は、毎日揺れに揺れた。
上がる。
下がる。
跳ねる。
時々、勝手に回る。
落ち着きなさい、と思う。
同時に、落ち着けるなら苦労はない、とも思う。
そんな日々の中で、私のお腹は少しずつ大きくなっていった。
最初は、服の下で自分だけが分かる程度だった。
やがて、外套の合わせ目がきつくなる。
椅子から立ち上がる時、机に手をつくようになる。
落としたペンを拾うだけで、一度椅子から降りて膝を着かなければならなくなる。
歩くのも、階段を上るのも、お腹が重いし、張るしで、この間まで何も考えずやってきたことが、今や何一つままならない。
……重力というものは、妊婦にもう少し配慮すべきではないのか。
私は机の下に落ちたペンを見下ろし、真剣にそう思った。
結局、拾うのを諦めて、予備のペンを取る。
合理的な判断である。
床のペンは、後でまとめて拾えばよい。
後で。
いつか。
そうして、机の下にはいつの間にか三本のペンが転がった。
部屋を貸してくれた女主人のマリナは、それを見て腹を抱えて笑った。
「あんた、床に巣でも作ってるのかい。」
「……違います。拾う時機を見極めているだけです。」
「見極めてるうちにまた増えてるよ。」
「……床の方からペンが生えてきている可能性もあります。」
「そりゃすごい。そのうちコップも生えてくるかもね。」
マリナは快活に笑った。
ウィンツバークで出会う女性は、だいたい強い。
強くて、夏の日差しのようにカラリと明るい。
「無理してかがむんじゃないよ。お腹が大きい時は、落ちたものは他人に拾わせる。これはこの街の決まりだ。」
「本当に?」
「今、私がそう決めたのさ。」
「それではありがたく。」
私は拾ってもらったペンを受け取った。
マリナは、私の事情を深く聞かなかった。
ただ、部屋を貸し、時々スープを分けてくれ、一番近い診療所の場所を教えてくれた。
港近くの石造りの診療所にいたのは、まだ若い、細身で、眼鏡をかけた女性だった。
名はリディア。
彼女は私の腹を見て、淡々と言った。
「働きすぎです。」
「……まだ大丈夫です。」
「その返事は大丈夫ではない人の返事です。」
「……最近、そのようなことをよく言われます。」
「言われるだけの理由があるのでしょう。」
反論できなかった。
リディアは厳しい。
だが、冷たくはない。
脈を診て、腹の張りを確かめ、食事の量を聞き、眠れているかを聞く。
そして、必ず最後に言う。
「母親が倒れると、赤ん坊も困ります。」
その言葉には勝てなかった。
私は少しずつ、仕事の量を減らした。
とはいえ、完全に休むのは難しい。
生活にはお金がいる。
赤ちゃんの布もいる。
医師代もいる。
産後しばらく働けなくなる可能性もある。
考え始めると、頭の中の帳簿が勝手に開くのだ。
並んだ数字たち。
足りる。
足りない。
足りるかもしれない。
足りないかもしれない。
数字とは冷たい。
だが、正直だ。
体調と収入を天秤にかけて悩む私を見かねて、紙商組合の担当者が、急ぎではない植物図鑑の下訳を回してくれた。
「納期は長めです。無理しないでください。」
「大丈夫です。」
私が答えると、担当者は無言でこちらを見た。
私は言い直した。
「……大丈夫でいられるよう、精一杯努力をします。」
「その方が信用できます。」
どうやら私は、この街でも言葉に信用がないらしい。
……複雑である。
けれど、なぜか嫌ではなかった。
お腹の子は、よく動くようになった。
最初は、小さな泡が弾けるような感覚だった。
気のせいかと思った。
お腹が鳴ったのかもしれないとも思った。
しかし、それは少しずつはっきりしていった。
ぽこり。
内側から、小さく叩かれる。
私は手を止めた。
「今、動いた?」
誰もいない部屋で、思わず尋ねる。
答えはない。
だが、少し後にまた動いた。
ぽこり。
私は息を呑んだ。
生きている。
ここにいる。
その日、私は仕事が少しも進まなかった。
仕方ない。
重大な発見があった日である。
植物図鑑の一ページくらい、明日に回しても世界は滅びない。
私は椅子にもたれ、腹に手を置き、ただその小さな動きを待った。
「あなたは、足で蹴っているの?」
それとも手かしら。
私は一日中真剣に赤ちゃんの体勢を想像した。
臨月が近づく頃には、体はもう完全に自分だけのものではなくなっていた。
寝返りを打つのに作戦が必要になる。
立ち上がるのに決意が必要になる。
階段を見るだけで、覚悟を決める必要がある。
靴下を履く時は、人生の難問に挑む学者の気分になった。
なぜ足はこんなに遠いのか。
昨日より遠い。
明らかに遠い。
足が長くなったのか。
私は自分の足を見て、疑いの目を向けた。
いや、そんなはずはない。
もし伸びているなら、もう少し優雅に伸びてほしい。
ただ、お腹が大きくなっただけである。
知っている。
知ってはいる。
だが、納得できるかどうかは別問題だった。
マリナは私を見るたびに笑った。
「歩き方が、だんだん威厳のある鳥みたいになってきたね。」
「……鳥。」
「ほら、港にいる大きい白いやつ。」
「……それは褒めていますか。」
「半分。」
「残り半分は。」
マリナはそこで堪えきれず噴き出した。
どう受け止めればよいのか分からない。
私は腹を撫でながら、部屋へ戻った。
予定日は近づいていた。
リディアは、いつ陣痛が来てもおかしくないと言った。
その言葉を聞いてから、私は毎日そわそわした。
少し腹が張るだけで、来たのかと思う。
何も起こらないと、まだなのかと思う。
早く会いたい。
でも怖い。
早く産みたい。
でも怖い。
痛いのは嫌だ。
でも会いたい。
気持ちは忙しく、落ち着いていられる時間の方が少なかった。
ある夜、私は眠れずに窓辺に座っていた。
港の灯りが遠くに見える。
海から風が来る。
私は腹に手を置いた。
お腹の中の子は、静かだった。
臨月になるとお腹の中が窮屈になって、あまり動けなくなるらしい。
早く広い場所に出たいだろうか。
「……私も、あなたに早く会いたいわ。」
その三日後の明け方、腹の痛みで目が覚めた。
最初は、いつもの張りかと思った。
けれど、違った。
波のように痛みが来る。
引く。
また来る。
痛みが来るまでの間隔がだんだん短くなっていく。
私は寝台の上で固まった。
来た。
来たのだ。
頭では理解していた。
だが、体はまったく落ち着かなかった。
まず何をするのだったか。
まとめておいた荷物。棚の上にある。
立ち上がろうとして走った痛みに思わず呟く。
痛い。
想像より痛い。
いや、想像はしていた。
していたが、想像には限界がある。
知識と現実の間には、大きな溝がある。
そして今、私はその溝に落ちている。
「マ、マリナさん!!!」
扉を叩く音がした。
「メアリー? 大丈夫かい?」
扉が開く。
少し焦ったようなマリナが部屋に入ってくる。
「たぶん、大丈夫ではありません。」
「分かった。始まったね。」
マリナは一瞬で顔を変えた。
いつもの豪快な女将から、頼れる大人の顔になる。
「リディアを呼ぶ。あんたは座って、息をして。立って歩き回ろうとするんじゃないよ。」
「立てません。」
「よし、それはいい判断だ。」
褒められた。
まったく嬉しくない状況で。
マリナはすぐに人を走らせ、湯を沸かし、布を用意した。
リディアは思ったより早く来た。
髪をきっちり結び、鞄を持ち、眠そうな顔は一切していない。
「おはようございます。始まりましたね。」
「す、すごく、痛いです。」
「はい。安心してください。もっと痛くなります。」
リディアは淡々と言った。
私は少しだけ笑いそうになり、次の痛みで笑えなくなった。
出産は、長かった。
時間の感覚が途中で壊れた。
朝だったはずなのに、昼になっている。
昼だったはずなのに、まだ終わらない。
痛みが来る。
息をする。
汗をかく。
水を飲む。
また痛みが来る。
リディアの声を聞く。
痛みに呻く私の背を、マリナが何度も何度も強く撫でる。
「ご、ごめいわくを……」
「謝る暇があったら呼吸する。」
マリナが言った。
私は何度も頷き、必死に息を吸う。
私が呼吸しないと、赤ちゃんが苦しくなる。
私が力を抜かないと、赤ちゃんが苦しくなる。
そう思うのに、頭の中が痛みでいっぱいで、叫ぶことしかできない。
痛みは容赦がなかった。
体が二つに割れるのではないかと思った。
もう耐えられない。
もう無理だと思った。
何度も思った。
無理。
できない。
怖い。
痛い。
助けて。
しかし、逃げる場所はない。
出産は、産むまで終わらない。
私は進むしかなかった。
リディアが言う。
「大丈夫。赤ちゃんも頑張っています。もう少しですよ。」
その言葉で、意識が少し戻る。
そうだ。
私だけではない。
この子も、ここへ来ようとしている。
私の中の海から、外の世界へ。
最初の世界から、次の世界へ。
私は泣いた。
痛くて泣いたのか。
怖くて泣いたのか。
分からない。
でも、泣きながら、息をした。
「会いたい。」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
「会いたいです。」
「会えます。」
リディアが言った。
「もう少しです。」
もう少し。
その言葉は、何度も聞いた気がする。
彼女の「もう少し」は、とても長かった。
だが、それでも終わりは来た。
強い痛み。
声にならない声。
マリナの手。
リディアの指示。
必死に息をして、必死に力を込めて。
そして。
小さな泣き声が聞こえた。
最初は、信じられなかった。
細く、頼りなく、けれど確かな声。
世界を切り開くような声。
私は目を開けた。
「生まれましたよ。」
リディアの声が聞こえた。
「男の子です。」
男の子。
私の。
彼の。
赤ちゃん。
その言葉だけで、胸の奥がいっぱいになった。
体は疲れ切っていた。
痛みも残っていた。
手も足も震えていた。
でも、私はその声の方へ顔を向けた。
リディアが、赤ん坊を布に包んで連れてくる。
小さい。
本当に小さい。
赤くて、皺があって、泣いていて、怒っているようにも見える。
私は震える腕を伸ばした。
「抱いても、いいですか。」
「もちろん。」
腕の中に、重みが来た。
軽い。
でも、重い。
この世で一番小さな重さなのに、私の人生すべてより重いような気がした。
赤ん坊は、私の腕の中で小さく泣いていた。
私は何も言えなかった。
ただ、見つめた。
小さな額。
柔らかい頬。
握られた手。
細い指。
信じられない。
私の中にいた命が、今、腕の中にいる。
この子が。
わたしの子。
この子に会うために、私は海を越えたのだ。
森の道を歩き、倒れかけ、名前を変え、船に酔い、知らない街で働き、何度も不安になりながら、それでも生きてきた。
この子に会うために。
赤ん坊が、少しだけ目を開けた。
ほんのわずか。
けれど、その瞳に光が入った。
――青かった。
心臓が止まるかと思った。
澄んだ、深い青。
よく知っている色。
忘れようとしても、忘れられなかった色。
私は息を呑んだ。
――ヴィルヘルム。
そう思った。
けれど、すぐに違うと思った。
この子は、この子だ。
彼の瞳を持っていても。
私の腕の中に生まれてきた、この子自身だ。
涙がこぼれた。
今度は、痛みの涙ではなかった。
「会えた。」
私は小さく言った。
「会えたわ。」
赤ん坊は泣いている。
私は泣きながら笑った。
たぶん、ひどい顔だった。
汗と涙でぐしゃぐしゃで、髪も乱れていて、淑女どころではない。
けれど、どうでもよかった。
この子が腕にいる。
それだけで、世界はもう十分だった。
マリナが鼻をすすった。
「よく頑張ったね。」
リディアも静かに頷いた。
「母子ともに無事です。」
母子。
その言葉が、胸に落ちる。
私は母になった。
――母。
こんな私が。
逃げて、泣いて、何度も迷って、それでもここまで来た私が。
私は赤ん坊を抱きしめすぎないよう、そっと腕に力を込めた。
「ありがとう。」
生まれてきてくれて。
言った瞬間、涙がまたこぼれた。
赤ん坊は泣き疲れたのか、少しだけ声を弱めた。
私はその小さな額に、そっと唇を寄せた。
「ようこそ。」
この世界へ。
私の海から。
私と同じ世界へ。
この広い世界へ。
窓の外では、夕方の光が差し始めていた。
いつの間にか、長い一日が終わろうとしている。
秋が深まるウィンツバークの空は、淡い金色に輝いていた。
港の鐘が遠くで鳴る。
人々の声がする。
馬車の音がする。
いつもと同じ街の音。
けれど、私には、その何もかもが昨日までと違って聞こえた。
赤ん坊は小さく欠伸をする。
小さく、けれども確かな温かさ。
ここまで私が歩んできた道は、辛く、苦しく、決して楽なものではなかった。
それでも、その先にこの子がいた。
私の腕の中で、小さく息をしている命。
これまでのすべての歩みが、この子につながっているのだとしたら。
――私は、もう何も恨めない。
私は笑った。
涙で視界がにじむ。
「ああ。」
声がこぼれた。
――世界は、なんて美しいのだろう。
頼りないほど小さな重みが、私のこれまでのすべてを受け止めるように、腕の中で静かに眠っていた。




