第八十二話 新しい地に向かって
船を降りた瞬間、私は大地のありがたさを噛みしめた。
揺れない。
実にすばらしい。
桟橋は厳密には少し軋んでいたし、足の裏にはまだ海の揺れが残っていた。
だが、それでも船よりはずっといい。
立った場所が、勝手に上下しない。
それだけで、文明の勝利のように思えた。
私は深く息を吸った。
潮の匂い。
魚の匂い。
香辛料の匂い。
焼いた粉物のような匂い。
それが全部混ざって、港の空気を作っている。
船に乗った北の小さな港とは違う。
ずっと大きい。
人が多い。
船も多い。
倉庫も多い。
市場のような通りが港のすぐそばに伸び、布を売る店、干物を積んだ屋台、酒場、荷受け場、簡易宿、書き付け屋の小さな台まである。
私は思わず、目を輝かせそうになった。
いけない、いけない。
これから乗船する船を探すのだ。
ここは最終目的地ではない。あくまで経由地点だ。
「集中、集中…」
珍しい香辛料の産地を推測してはいけない。
荷札の文字を目で追って、航路を頭の中で整理してはいけない。
絶対に、いけない。
私は深くフードをかぶり直した。
しかし、視線が勝手に動くのを止められない。
あの樽の焼き印はたしか南方諸島のもの。
あちらの布、独特な絵柄、昔文献で見た東の織り物だ。
楽しい。
楽しすぎる。
私は小さく咳払いをし、腹に手を当てた。
「落ち着きましょう。」
誰にも聞こえないように呟く。
「まずは掲示板。次に船。最後に宿。」
順番を決める。
順番さえ決めれば、人は大抵のことを少しは冷静に進められる。
私は杖をつき、港湾役人の詰所の横にある掲示板へ向かった。
掲示板には、紙が何枚も貼られている。
出港予定。
荷の募集。
船員募集。
港税の改定。
迷子の山羊。
山羊?
私は二度見した。
迷子の山羊の張り紙には、妙に立派な角を持つ山羊の絵が描かれていた。
――五歳の雄。名前はルーカス。
名まであるのか。
いや、山羊に名をつけてはいけない決まりはない。
むしろ名前があるということは、大切にされているということだ。
良いことだ。
……だが今は、山羊ではない。
南方行きの船である。
私は誰にともなく咳払いをして、出港予定の紙に目を移した。
文字は粗い。
船名も略されている。
行き先は港名だけ。
私は一つずつ読み取った。
東の湾へ行く船。
北へ戻る船。
沿岸を南下する船。
ニモア方面へ行く船は、二つ。
一つは三日後。
もう一つは明日。
明日の船は、荷主の名が大きく書かれている。
聞き覚えがある。
確か、ニモア公国の紙商と繋がりのある商会だったはずだ。
紙。
出版。
ウィンツバーク。
私は心の中で、線を引いた。
――ここだ。
「その船なら、もうほとんど満員だよ。」
横から声がした。
私はびくりとした。
見ると、掲示板の下で小さな台を出している若い男が、羽根ペンを片手にこちらを見ていた。
書き付け屋だろう。
人の手紙や申請書を代筆する仕事だ。
「……そうなのですか?」
「ニモア行きだろう? 最近は紙商の荷が多い。人も乗る。船賃も高い。」
「高い。」
思わず繰り返した。
革袋の重さが、急に気になった。
高い。
困る。
とても困る。
赤ちゃんはお金を食べるわけではないが、赤ちゃんのためにはきっとお金が必要である。
そして私の革袋は大分軽い。
書き付け屋の男は唸る私を見て、少し首を傾げた。
「船を探してるなら、港の仲介所へ行くといい。あっちの青い看板のところ。」
「……ありがとうございます。」
私は視線を逸らし、青い看板の方へ歩き出した。
港の仲介所は、思っていたより混んでいた。
壁には船名と行き先が書かれた札が並び、窓口の向こうでは丸顔の女性が、驚くほど早口で客をさばいている。
商人。
船員。
旅人。
荷運び。
誰も彼も声が大きい。
私は列の端に並びながら、できるだけ小さくなる努力をした。
小さく。
地味に。
控えめに。
港の片隅に溶け込む、一枚の地味な布のように。
そう思っているのに、私の前に並んでいた商人の男が揉め始めた。
「だから、これはニモア行きの荷だと言ってるだろう!」
「この札だと湾岸経由になっているでしょう。直行便とは別料金です。」
「そんなことは聞いてない!」
「紙に書いてあります。」
丸顔の女性は一歩も引かない。
強い。
非常に強い。
商人は顔を真っ赤にして紙を振っていた。
列が止まる。
後ろの人々が苛立ち始める。
関わらない。
絶対に関わらない。
今の私は地味で控えめな旅の女。
揉め事に自ら首を突っ込んではならない。
私は心を無にして、背景として佇む森の中の一本の木になりきる。
――早く旅券を買って、どこかに座りたい。
女性と商人の口論はなかなか終わらない。
頭の中で先ほどの山羊の名前の由来を考え始めた時、怒った商人が振り上げた荷札が私の顔を叩いた。
「ぶふっ」
口から変な音が出た。
商人の男が振り返る。
目立ってはいけない。
耐えろ、耐えるのだ。
「あの、あちらに席を変えて話されてはいかがですか?まだまだ待っている方も多いですし…」
自分でも表情が硬いのは分かっていたが、声だけでも柔らかく提案する。
「ああ?何も知らない女が口を挟むな!」
私は反射的に、男の手から荷札を受け取っていた。
しまった。
受け取ってしまった。
けれど、もう見えている。
見えているものを、見なかったことにはできない。
「ここを見てください。この略号は湾岸経由の荷区分ですが、隣の注記に紙商会向けの印があります。おそらく、記入した方がこちらの略号と混同したのだと思います。正しくは、ニモア方面への混載荷。ただし直行ではなく、二つ目の港で積み替え。ですから、追加料金は必要ですが、直行便料金ではありません。以上です。」
言い切ってから、私は荷札を返した。
丸顔の女性は、紙をじっと見てから、窓口の奥へ向かった。
別の台帳を持って戻ってくる。
照合する。
顔を上げる。
「合ってる。」
商人は機嫌よく支払いを済ませ、私に何度も礼を言って去っていった。
やっと列が進む。
私は本来の目的を果たすため、窓口の前に立った。
……生きていれば、やっぱりいろいろあるものだ。
私は小さく嘆息した。
「さっきはありがとうね、お嬢さん。荷物、ではないわね、旅券でいいかしら。」
「はい。ニモア公国方面へ向かう船を探しています。」
「名前は?」
「アンナ・リースです。」
「行き先は?」
「最終的にはウィンツバークへ。」
女性は手元の書類を開きながら手早く確認する。
「少し高くてもいいなら明日の直行便があと二席だけ空いてるわ。ウィンツバークへは十日ほどね。三日後の便は四つ目の停留港がウィンツバーク。天候次第だけど大体一か月ほどで到着、旅費は前便の半分ね。」
……高くて速いか。安くて遅いか。
私は先ほどまでの海の上の生活を思い出した。
貨物船ではなく、人も乗せるための船だ。きっと昨日までの船旅よりは快適だろう。
けれど、揺れないことは絶対にない。
そしてこれ以上食事が摂れないと、そろそろお腹の子に影響が出てしまうかもしれない。
少し迷った結果、背に腹は代えられないと、私は明日の出航便の旅券を選んだ。
到着したら直ぐに働き口を探そうと決意を固める。
「身分証はある?」
一瞬、指を止めた。
今持っているのは、ここまでの通行証と、簡単な身元書きだけだ。
ニモア公国で働くには、確かに新しい身分証が必要になる。
「入国後に移住管理局へ行く予定です。」
「なら、港で仮札をもらってね。ウィンツバークの管理局は混むわよ。」
「混むのですか?」
「いつも混んでるわ。紙商、印刷工、職人、旅芸人、逃げた弟子、探されてないことにしたい亭主、いろいろ来るのよ。」
「最後の方は、管理局に来てよいのですか……。」
「ほんとにね。」
女性は笑った。
私は少しだけ困った。
世界は思っていたより、いろいろな人でできている。
私は船賃を支払い、乗船札を受け取った。
出港は翌朝。
私は宿を探すことにした。
ただし、安すぎない宿。
清潔で、女将がしっかりしていて、できれば匂いの強くない食事がある宿。
慣れない場所で迷いながらも、私は港通りから一本入ったところにある宿を選んだ。
白い壁。
青い扉。
入口に干した花が吊るされている。
中に入ると、女将は私の顔を見るなり、言った。
「部屋は一つ空いてるよ。食事は薄い豆のスープなら出せる。顔色が悪いから酒場には近づかない方がいい。」
まだ何も言っていないのに。
私は少し驚いた。
「何も言ってません。」
「四十年やってるからね。この土地の生き字引みたいなもんさ。」
そう言って豪快に笑う。
強い。
この宿屋の女将も強い。
この世界には、強い女性が本当に多い。
私は素直に部屋を取り、薄い豆のスープを頼んだ。
スープは本当に薄かった。
けれど、それが逆にありがたい。
久しぶりに揺れの無い場所で食べる食事。
……温かい。
じんわりと染み渡るような温度に、緊張していた体がほどけていくようだった。
お腹に手を当てる。
この子にも届くだろうか。
明日からはまた船の上だ。
その日は完全に陽が落ちない内に寝台に上がった。
明日からのことを考えると、またそわそわと落ち着かない気分になったが、余程疲れていたのか、すぐに意識が微睡むように霞む。
久しぶりにゆっくりと眠った。
夢は見なかった。
翌朝はカラリとした快晴だった。
日差しの下にいると暑いくらいで、宿から港までの道を影を探しながら私は歩いた。
港の管理員たちの案内に従って乗船したのは、大きな赤茶色の帆の船だった。
やはり昨日までの船に比べ、揺れは少ない。
乗客は百に届かない程度だろうか。
観光目的が半分、商い目的が半分といった様子だった。
恵まれた天候もあり、船は順調に南へ向かった。
私も先の船旅で少しは慣らされたのだろう、食事が摂れないほどの酔いはなくなっていた。
人に問われれば、出稼ぎのために遠い親戚を訪ねる予定だと、できるだけ目立たないように過ごした。
日が進むにつれ、空の色が変わっていく。
灰色が薄くなり、青が濃くなる。
風が柔らかくなる。
海の色も、少しずつ明るくなっていく。
特にすることもなく、私は他の大半の乗客たちと同じように、毎日海を仰いだ。
朝の光を受けると、波の先が銀色に光った。
昼には、遠くの海が深い青に見える瞬間もあった。
私の記憶の中にある海に、少しだけ近い色。
数日後、ウィンツバークの港が見えた。
最初に見えたのは、白い塔だった。
港の入口に立つ、高い灯台。
その後ろに、赤茶色の屋根がいくつも並んでいる。
白い壁。
淡い黄色の建物。
広い倉庫。
何本もの帆柱。
丘の上には、教会らしい尖塔。
そのさらに奥に、ひらけた街が広がっていた。
船が桟橋に着く。
私は降りていく他の乗客の邪魔にならないように籠を抱え、足元に気をつけながら降りた。
大きい。
明るい。
人が多い。
そして、活気がある。
港には、船が何艘も泊まっている。
荷を運ぶ声。
馬車の音。
鐘の音。
売り子の声。
アストリア語だけではない、いくつもの言葉。
それらが重なり合い、街全体が巨大な生き物のように息をしている。
――ここが、ウィンツバーク。
私がこれから生活をはじめる街。
新しい命を抱えて生きる街。
けれど今度は、港そのものが私を圧倒した。
まずどこへ行けばいいのか分からない。
仮札が欲しいが、一体誰に聞けばいいのだろう。
移住管理局はそもそもどの辺りにあるのか。
今日中に行けるような近い場所にあるのだろうか。
宿も考えないと。
いや、先に食事か。
やることが多い。
私は腹に手を置いて深呼吸する。
「大丈夫。順番に。」
そう呟き、港の案内板を探した。
案内板は、ありがたいことに大きかった。
文字も分かりやすい。
港湾役所。
荷受け場。
仮滞在札発行所。あった。
宿場通り。
移住管理局。
職業案内所。
私は目を凝らした。
移住管理局。
職業案内所。
その二つが、同じ通りにある。
よかった、上手くいけば今日中に回れるかもしれない。
私はまず、仮滞在札発行所へ向かった。
そこは、人でいっぱいだった。
商人。
職人。
小さな子どもを連れた家族。
大きな荷物を抱えた女。
見習いらしい少年たち。
誰もが紙を持ち、順番を待っている。
私は列に並んだ。
待つ。
待つ。
さらに待つ。
……港の列というものは、船酔いとは別の忍耐を必要とするらしい。
ようやく窓口に辿り着いた時、担当の中年の男は疲れた顔で私を見た。
「名は。」
私は少しだけ息を吸った。
アンナ。
その名でここまで来た。
けれど、何があるか分からない。念のために名前は変えた方がいいだろう。
新しい名前。
レベッカでもない。
アンナでもない。
誰も知らない女。
けれど、この子を守って生きる女の名。
「メアリー。」
私は言った。
「メアリー・リーストンです。」
その名は、前から考えていた。
ありふれていて、目立たない。
けれど、少しだけ響きが柔らかい。
私がこれから名乗るには、ちょうどよい。
担当者は何の感慨もなく書きつけた。
「出身は。」
「北方の小さな町です。」
「職能は。」
職能。
私は迷った。
あまり言いすぎてはいけない。
しかし、言わなすぎると仕事に困る。
「読み書き。簡単な帳簿。翻訳も少しできると思います。」
担当者の羽根ペンが止まった。
「翻訳?」
「はい。専門用語などはさすがに辞書が必要ですが、一般的な内容ならいくつか周辺語を。」
担当者はじっと私の顔を見た。
そして、何かを察したように、目線を手元のリストに下ろした。
「なら、職業案内所へ。今、印刷業と紙商が人手を探している。翻訳ができるなら、すぐに仕事はあるだろう。」
「ありがとうございます。」
「ただし、無理はしないこと。」
突然の言葉に驚いて、男の顔を見やる。
男は疲れたように、溜息交じりに言った。
「ここへ来る人は皆、急ぎすぎる。そしてその結果倒れる。倒れられると、ますますこちらの書類が増える。」
理由は個人的なものだった。
それでも、確かに一理ある。
「気をつけます。」
「それでは、良い新生活を。」
仮滞在札を受け取り、建物を出る。
紙には、私の新しい名前が書かれていた。
メアリー・リーストン。
私はそれを見つめた。
これで、私はメアリーになった。
紙一枚で、人は別人になる。
不思議だ。
怖くもある。
けれど、今はその紙が、夢に向かう切符のようだと思った。
札を胸元にしまう。
次は職業案内所だ。
私は歩き出した。
職業案内所は、移住管理局より少しだけ明るい雰囲気だった。
壁には求人の紙が貼られている。
紙商の倉庫番。
印刷工見習い。
製本補助。
宿の給仕。
写字。
翻訳補助。
これだ。
私はその紙の前で足を止めた。
海外の専門書を、アストリア語へ。
内容は、植物学、医療、航海、機械、農業。
専門知識があれば優遇。
納期厳守。
自宅作業可。
自宅作業可。
その文字を見た瞬間、私は腹に手を置いた。
これだ。
これなら、もしかしたら出産ぎりぎりまで働けるかもしれない。
もちろん、無理はできない。
だが、家でできる仕事は今の身重の私にとっては本当にありがたい。
私は窓口へ向かった。
「この翻訳補助の仕事について伺いたいのですが。」
窓口の青年は紙を受け取った。
「経験は?」
「専門職としてはありません。ただ……」
私は言葉を止めた。
王妃教育で叩き込まれました、とは言えない。
「以前、教育を受けていた時に、外国語の文献を読む機会が多くありました。」
「どの言語?」
私は答えた。
西の二ヶ国、東の一ヵ国、
南方語の基礎。
北方の旧語を少し。
言いながら、言いすぎていないか不安になる。
けれど、仕事を得るためには必要だ。
青年は紙に書きつけた。
「今、紙商組合で翻訳者が足りない。印刷用の下訳だ。正確さも大事だが、まずは読める形にする仕事だよ。」
「納期はどれくらいですか?」
「さあね、専門書が主らしいから、そんなに急ぎのものはないんじゃないかな。」
「報酬は?」
青年が額を言った。
私は内心で計算した。
宿代。
食費。
医師代。
出産費用。
赤ちゃんの布。
この先の住まい。
数字が頭の中で並ぶ。
足りる。
この仕事なら、何とか足りる。
「お願いします。」
「すぐ紹介状を書くよ。あと、住まいは?」
「まだです。」
「そうか。なら職業案内所の裏に、長期滞在者向けの小さな部屋を貸す女主人がいるから行くといい。高級じゃないが、清潔だ。」
青年にお礼を言って、私は案内所を出た。
その日の夕方、私は小さな部屋を借りた。
階段は少ない。
窓が一つ。
寝台。
机。
椅子。
小さな棚。
それだけの部屋。
けれど、清潔だった。
窓からは、遠くに港の帆柱が見えた。
昼間賑わっていた町は、夕方の赤く淡い色に包まれて、少しだけ落ち着いて見える。
私は小さく息を吐くと、籠を机に置いた。
整理するにも、元々荷物は少ない。
布や着替えを棚にしまう。
木彫りのウサギは、棚の上に置いた。
木の櫛は、しばらく迷って棚の引き出しに収めた。
そして、仮滞在札を机の上に広げる。
メアリー・リーストン。
新しい名。
新しい街。
新しい仕事。
まだ何も安定していない。
何も保証されていない。
けれど、一先ず私の居所は決まった。
私が選び、辿り着き、そしてこれから先居てもいい場所。
「着きました。」
小さく言う。
「ここから、始めましょう。」
窓の外では、出航を知らせる港の鐘が鳴っていた。
遠くで人の声がする。
知らない街の音。
ほんの少しだけ丸みを帯び始めた腹を撫でる。
夕焼けから、夜の宵に向かって、空は群青に染まり始めていた。
もうすぐ一日が終わる。
――そして、ここから私の新しい生活が始まる。




