第八十一話 海を越える
船の上で過ごす時間は、私の想像よりもずっと容赦がなかった。
まず、足元が揺れる。
床が揺れる。
壁が揺れる。
空まで揺れる。
私は船の隅で、荷の邪魔にならないように丸くなりながら、これまで自分が知っていた「地面」というもののありがたさを、痛いほど思い知らされていた。
大地は偉大だ。
踏めば、そこにある。
昨日と同じ場所にある。
基本的に、裏切らない。
けれど、海は違う。
海は、絶えず動く。
船も動く。
体も動かされる。
自分の意思とは関係なく、右へ傾き、左へ戻り、また上がり、落ちる。
世界全体が、大きな獣の背中の上にあるようだった。
「……努力でどうにかなるものではないわね。」
私は小さく呟いた。
バルトの言葉は正しかった。
船酔いは、努力でどうにかなるものではなかった。
出航して間もなく、私は完全に負けた。
港で買った薄いパンを少しだけ食べていたが、それもすぐに後悔した。
胸の奥がうねり、喉が熱くなり、私は船べり近くの桶にすがった。
吐く。
何も出ないのに、吐く。
胃が空なのに、体だけが必死に何かを追い出そうとする。
涙が滲む。
鼻も痛い。
喉も痛い。
顔を上げると、海風が容赦なく頬を叩いた。
寒い。
気持ちが悪い。
情けない。
私は桶を抱えたまま、船の板に額をつけたくなった。
「だから言っただろう。」
頭上から声がした。
バルトだった。
灰色の髭を風に揺らしながら、腕を組んでこちらを見下ろしている。
「酔う、と。」
「……ど、努力、しています。」
「努力の方向が違う。」
「……では、どちらへ努力すれば。」
「今は口を閉じていろ。余計に吐く。」
正論だった。
私は黙った。
バルトはため息をつき、足元に何かを置いた。
小さな水袋と、硬い乾パンのようなものだった。
「水は少しずつだ。一気に飲むな。そいつは口に含むだけでいい。腹に入れようとするな。」
「……ありがとうございます。」
「礼を言う元気があるなら、まだ死なん。」
そう言って、バルトは行ってしまった。
言葉は乱暴だ。
けれど、水を置いていった。
私は水袋を手に取り、少しだけ口に含む。
冷たい。
喉が少し楽になる。
飲み込みたい。
けれど、急に飲むとまた戻すと言われている。
ミランダにも、エレノアにも、同じようなことを言われた。
少しずつ。
少しずつ。
私は水を舌の上で転がし、ゆっくり飲み込んだ。
けれど、船が大きく揺れるたび、私はまったく大丈夫ではなくなる。
その日は、ほとんど何もできなかった。
帳面仕事どころではない。
私は船の隅で丸くなり、吐き気と眠気と寒さの間を行ったり来たりした。
船員たちは忙しそうに動いている。
縄を引く音。
帆が風を受ける音。
水が船体を叩く音。
誰かが短く叫ぶ声。
樽が軋む音。
私はそれらを遠くに聞きながら、時々意識を沈めた。
眠ったのか、気絶していたのか、もう自分でも分からない。
目を開けるたび、空と海の色が少しずつ変わっていた。
灰色。
薄い青。
鈍い銀。
夕暮れの紫。
夜の黒。
船は戻らない。
私はその言葉を何度も思い出した。
バルトが言った言葉。
――泣いても船は戻らん。
そう。
船は戻らない。
戻れないものに乗っている。
強制的に運ばれる。
翌朝になっても、私はまだ青ざめていた。
けれど、昨日よりは少しだけましだった。
体が揺れに慣れたのか。
それとも、吐くものがもう何もないからか。
どちらかは分からない。
船員の一人が、私に薄いスープのようなものを渡してくれた。
魚の匂いが強くて一瞬怯んだが、冷めていたせいか、少しだけ飲めた。
塩気が体に染みる。
私はゆっくり息を吐いた。
生きている。
今日も、どうにか、生きている。
バルトが紙束を持って現れたのは、その少し後だった。
「動けるか。」
「少しなら。」
「字は読めるな。」
「……少しなら。」
バルトは片眉を上げた。
「そっちの少しは嘘と分かってる。」
「嘘で問題はありますか。」
「問題があるかないかは今から確かめる。」
彼は私の前に、荷の帳面と木板、それから古びた羽根ペンを置いた。
船の中で文字を書くという行為は、思っていた以上に難しかった。
板は揺れる。
手も揺れる。
インク壺も揺れる。
私は最初の一行で、盛大に線を曲げた。
バルトが低く笑った。
「王都の書記でも、最初はそうなる。」
「王都の書記をご存じなのですか。」
「一度乗せた。あいつは三日吐いた。」
「私は何日吐くでしょう……。」
「賭けるか?」
「やめておきます。」
バルトはまた少しだけ笑った。
私は帳面に視線を戻した。
荷は複雑だった。
毛皮だけでも種類が多い。
北鹿。
白狐。
灰狼。
山兎。
角。
骨細工用の小さな骨。
染料に使う苔。
乾燥薬草。
いくつもの港を経由し、荷主も送り先も異なる。
略号は荒く、字も癖が強い。
けれど、読めないほどではない。
一つずつ確認し、同じ表記にまとめ、古い地名と現在の通称を並べて書いた。
途中で、胃が揺れる。
目も回る。
それでも、文字を追っている間だけ、吐き気が少し遠のいた。
不思議だ。
体はまだ船に負けているのに、頭だけは動く。
紙に並んだ情報を見ると、自然と整理したくなる。
乱れたものを整えたい。
意味を見つけたい。
線を結びたい。
その感覚は、久しぶりだった。
王宮で書類を読んでいた時。
ヴィルヘルムの横で、古書を広げて議論していた時。
彼が私の言葉を聞き、少しだけ目元を緩めた時。
――さすがです。
その声を思い出しそうになり、私は慌ててペン先を紙に落とした。
……インクが少し滲んだ。
私は腹に手を当て、それから帳面に戻った。
「ここ。」
私は紙の一部を指差した。
「この荷は、送り先の港名が古いままですね。今は別の名で呼ばれています。南方の商館に出すなら、こちらの名に直した方がよいと思います。」
バルトが覗き込む。
「なぜ分かる。」
「古い交易記録で見ました。」
「どこの女がそんなもんを読む。」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「…暇な女だったもんで。」
バルトは私を見た。
それから、鼻で笑った。
「暇な女は交易記録なんぞ読まん。」
「では、変わった女、ですね。」
「それなら分かるな。」
「……納得されるのも複雑です。」
「冗談言う元気があるなら、次を読んでくれ。」
私は堪えきれず、笑ってしまった。
船酔いで顔色は最悪で、髪は乱れ、服は潮風で湿っている。
――でも、楽しい。
そう思った。
少し前にはただただ必死だったのに。
――生きていれば、楽しいこともある。
そんな当然で単純なことを、忘れていたと思った。
笑いの震えが頭に響き、またうっと吐き気に体を折った私を、バルトは呆れたように見た。
それから、帳面を指で軽く叩く。
「笑うのも、吐くのもいいが、とにかく続けてくれ。」
「…はい。」
それから数日、私は船の隅で帳面を直し続けた。
船酔いは消えなかった。
朝は特につらい。
帆に風が強く入ると、揺れも大きくなり、私は何度も桶を抱えた。
それでも、少しずつ船の音に慣れていった。
縄の鳴り方で、風の強さが少し分かる。
船員たちの声の調子で、忙しいのか、余裕があるのかが分かる。
船体が軋む音も、最初は恐怖でしかなかったが、いつも鳴る音と、少し違う音があることが分かってきた。
海の上にも、生活がある。
なんだか、不思議だった。
船員たちは無骨だったが、私に余計なことは聞かなかった。
身の上も。
夫の有無も。
腹のことも。
私が食べられそうなものを探していると、誰かが黙って干し果物を少し分けてくれる。
風の強い夜には、古い毛布が一枚増えている。
誰が置いたのか聞いても、誰も知らない顔をする。
荒っぽい人たちだ。
声も大きい。
笑い方も乱暴だ。
けれど、海の上で生きる人々は、弱っている者をただ放ってはおかない。
動けないものは邪魔になるからだ。
必要だから助ける。
役に立つから、使えるようにしておく。
合理的で、当たり前の助け。
それはつまり、私はここで、確かに誰かの役に立っているということだ。
そう思えるだけで、少し呼吸が楽になった。
ある夕方、海が少し穏やかになった。
波はまだある。
けれど、昼間より船の揺れは小さい。
私は船べりに出て、夕暮れの海を見た。
灰色だった海は、夕日の端を受けて、少しだけ淡い金色を帯びていた。
空は広い。
陸はもう見えない。
どちらを向いても、海ばかり。
少し、心細い、と思う。
けれど、息が詰まるほどではなかった。
「立てるようになったか。」
バルトが隣に来た。
「少しだけ。」
「顔色はまだ悪い。」
「自覚しています。」
「だろうな。」
彼は海を見たまま言った。
「帳面、助かった。」
私は驚いて横を見た。
バルトは相変わらず海を見ている。
礼を言うような顔ではなかった。
けれど、確かにそう言った。
「……お役に立てたなら、よかったです。」
「次の港で降りる気か。」
「はい。そこからニモア行きの便を探します。」
「次の港は人が多い。南へ下る船も多いが、変な連中も多い。」
「気をつけます。」
「気をつけます、で済むなら苦労はない。」
それはそうだ。
私は黙った。
バルトは懐から、折りたたまれた古い紙を出した。
「地図だ。大したもんじゃないが、港の並びは分かる。必要なところだけ写せ。」
「いいのですか。」
「持っていかれたら困る。写すだけだ。」
「ありがとうございます。」
「礼はいい。帳面の礼だ。」
私は紙を受け取った。
少しだけ手が震えた。
地図。
また、一つ道が増える。
私はそれを広げ、海風に飛ばされないよう押さえた。
港の名。
岬。
湾。
小さな島。
南方へ続く航路。
粗い線なのに、そこには確かに世界があった。
私の知らない世界。
けれど、これから向かう世界。
「字が読めるなら、港では掲示を見ろ。」
バルトが言った。
「船乗りの口約束より、掲示の方がましなこともある。」
「はい。」
「ただし、全部を信じるな。」
「はい。」
「安すぎる船には乗るな。」
「はい。」
「女一人だと分からせるな。」
「……はい。」
「それから。」
バルトは一瞬、言葉を切った。
「腹を冷やすな。」
心臓が止まりそうになった。
私は息を詰めた。
バルトはこちらを見ない。
ただ、海を見ている。
「船乗りは、勘がよくないとやっていけないからな。」
彼はそう言ってにやりと笑った。
私は腹に手を当てかけて、途中で止めた。
隠していたつもりだった。
誰にも分からないと思っていた。
「……ご迷惑を。」
「かけられてはいない。」
「でも。」
「乗せたのは俺だ。」
バルトは短く言った。
「途中で死なれたら寝覚めが悪い。」
それは優しさなのか、実用なのか。
たぶん、両方なのだろう。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「変な女は貴重だしな。」
「…お礼を言うべきですか。」
「誉め言葉じゃない。おまえ、本当に変わった女だな。」
バルトはまた呆れたように笑って、船尾の方へ戻っていった。
私は海を見つめた。
「もしかして今、鼻で笑われたのかしら。」
まさか才女と称えられ、社交界の完璧な華とまで言われた私が。
……生きていると、つくづく思いがけないことが起こるものだ。
次の日の朝、空気が変わった。
匂いが違う。
風が少し柔らかい。
北の海の硬い冷たさが、少しだけ薄れている。
船員たちの動きも慌ただしくなった。
バルトが短く指示を飛ばす。
私は船員の邪魔にならないよう隅にいた。
それでも堪えきれず、船べりから身を乗り出してしまう。
低い丘。
港の塔。
白っぽい建物。
岸に並ぶ船。
陸だ。
初めて降り立つ地。
胸が高鳴る。
ここには何があるんだろう。
何が見れるんだろう。
完全な目的地ではない。
まだ途中だ。
けれど、初めて自分の力で降り立つ、新しい地。
「見えたか。」
バルトが言った。
「はい。」
「まだ南方じゃない。浮かれるな。」
「はい。」
「……だが、まあ。」
彼は少しだけ間を置いた。
「最初の海は越えたな。」
私は小さく頷いた。
港が近づく。
人の声が聞こえ始める。
知らない言葉が混じる。
船が桟橋に近づき、縄が投げられた。
船体が大きく軋み、やがて動きが止まる。
私は籠を抱え、杖を手に取った。
バルトが紙片を一枚差し出してきた。
「次の船を探すなら、この荷受け場へ行け。南へ下る商人が多い。」
「ありがとうございます。」
「礼は聞き飽きた。」
「では、帳面のお仕事をありがとうございました。」
「それはこっちの台詞だ。」
バルトは少しだけ口元を歪めた。
「もう行け。おまえが自分で選んだ道を信じろ。」
私は静かに頭を下げた。
船を降りる。
足元の桟橋は、まだ揺れているように感じた。
けれど、それは私の体に残っていた揺れだったらしい。
顔を上げる。
知らない港。
知らない人々。
知らない空気。
――でも、私なら。信じて進める。
海の揺れを体の奥に残したまま、私は次の港の雑踏へ足を踏み出した。




