第八十話 小さな港
北へ向かう道は、思っていたよりも寒かった。
春は深まっているはずなのに、山に近づくにつれて、風は少しずつ冷たくなる。
道の両側には、背の低い針葉樹が増えた。
土は湿り、石が多く、馬車の揺れは容赦なかった。
私は腹に布を巻き、その上から外套をしっかり合わせていた。
エレノアが縫ってくれた布。
籠の奥には、木の櫛と、小さなウサギ。
私は少ない荷物をしっかりと抱えながら、乗合馬車の隅に座っていた。
馬車には、商人らしい男が二人。
毛皮を扱うらしい親子。
それから、眠ってばかりいる老女が一人乗っていた。
誰も、私に深く話しかけない。
北へ向かう人間には、それぞれ事情があるのだろう。
南の街道に比べれば、人の数はずっと少ない。
道も悪い。
宿場もまばら。
けれど、それが今の私にはありがたかった。
人が少ない。
視線も少ない。
名前を聞かれる回数も少ない。
私はアンナと名乗り、必要な時だけ微笑み、できるだけ目立たないようにしていた。
体調は、安定してきたとはいえ、完全ではない。
匂いの強いものはまだ駄目だった。
馬車の中に毛皮の匂いがこもると、胸の奥がむかむかする。
けれど、以前のようにすぐ吐いてしまうほどではない。
水を少しずつ飲む。
干した果物を少しかじる。
気分が悪くなる前に目を閉じる。
呼吸を整える。
できることを、ただ一つずつ重ねていく。
それだけで、旅は進んだ。
人は案外、立派な決意ではなく、そういう小さな工夫で前へ進むのかもしれない。
私は揺れる馬車の中で、時々腹に手を置いた。
まだ誰の目にも分からない。
けれど、私には分かる。
ここにいる。
私だけではない。
そう思うたび、背筋が少しだけ伸びた。
国境近くの町に着いたのは、旅を始めて何日目かの夕方だった。
町と呼ぶには小さい。
けれど、旅人や商人が通る場所らしく、宿と荷馬車置き場と小さな役所があった。
北の山脈から吹き下ろす風が、通りを冷やしている。
私は宿を取り、翌朝早く、国境の通行許可を扱う役所へ向かった。
小さな建物だった。
板張りの壁。
煤けた窓。
入口の上には、古びた紋章が掲げられている。
中には暖炉があり、机の向こうに眠そうな役人が座っていた。
「名は。」
「アンナ・リースです。」
用意していた名を口にする。
アンナ。
まだ私のものではない名前。
けれど、前よりは少し舌に馴染んできた。
「行き先は。」
「北の港へ。身内を訪ねます。」
「身内?」
「亡くなった母の遠縁です。毛皮商の手伝いをしていると聞いています。」
嘘は、あらかじめ整えておいた。
細かくしすぎない。
でも、曖昧すぎても怪しまれる。
身内。
遠縁。
母方。
旅人の嘘としては、ありふれている。
役人は退屈そうに帳面へ視線を落とした。
「この時期に北へ行く女は珍しいな。」
「南の街では仕事が見つかりませんでしたので。」
「読み書きは?」
「少し。」
「少しね。」
役人は私を一瞥した。
私は視線を下げた。
読み書きができすぎる女は、場所によっては目立つ。
できないふりをする必要がある。
けれど、完全にできないふりをすると、次の仕事に困る。
私は、少しだけ文字ができる女を演じた。
王妃教育は、今や偽りの身の上を作るための道具になっている。
皮肉だ。
けれど、使えるものは使う。
この子のために。
役人は通行料を告げた。
私は硬貨を出した。
高い。
思っていたより、少し高い。
けれど、払えない額ではない。
革袋が軽くなる音を、心の中で聞いた。
役人は簡素な紙片に印を押し、私へ渡した。
「三日以内に通れ。北側の検問で見せろ。」
「ありがとうございます。」
私は紙片を受け取った。
薄い紙。
粗末な印。
それでも、今の私にとっては、国を越えるための扉だった。
外へ出ると、風が頬を打った。
私は紙片を服の内側にしまい、腹に手を当てた。
「行けるわ。」
小さく呟く。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
私にか。
お腹の子にか。
それとも、ここにはいない誰かにか。
国境越えは、思ったほど劇的ではなかった。
大きな門も、荘厳な城壁もない。
山裾に続く道の途中に、木の柵と小さな詰所があるだけだった。
兵士が二人。
寒さに肩をすくめながら、通行証を確認している。
私は紙片を差し出した。
兵士はそれを見て、私を見て、また紙片を見た。
「一人か。」
「はい。」
「北は寒いぞ。」
「承知しています。」
「身重じゃないだろうな。」
心臓が、強く鳴った。
一瞬、息が止まりそうになる。
けれど、顔には出さない。
私は少しだけ困ったように笑った。
「いいえ。丈夫ではないだけです。」
嘘だった。
でも、半分は本当だった。
兵士は興味を失ったように紙片を返した。
「通れ。」
「ありがとうございます。」
私は頭を下げ、歩き出した。
一歩。
また一歩。
木の柵を越える。
風が変わった気がした。
アインシュヴァルドの土を離れる。
その瞬間を、私はもっと重く感じると思っていた。
泣くかもしれないと思っていた。
振り返るかもしれないと思っていた。
けれど、私は振り返らなかった。
――行かなければならない。
その思いだけが、背中を押していた。
北側の道はさらに荒れていた。
舗装などないに等しい。
詰所の先でまた乗合馬車に乗る。
石が多く、泥が深く、馬車は途中で何度も止まった。
けれど、港へ向かう荷馬車は意外に多かった。
毛皮。
乾燥した肉。
角。
薬草。
山の民が狩猟で得たものを、南へ運ぶための荷。
王宮の書庫で読んだ記述は正しかった。
北の端に、小さな港がある。
そこから南方へ向かう船が出る。
大きな交易港ではない。
王都の貴族が名を知るような場所でもない。
中央の管理を離れた場所。
港へ着いたのは、空が鉛色に曇る日の昼過ぎだった。
最初に匂いが来た。
塩の匂い。
濡れた木の匂い。
魚の匂い。
獣の毛皮と樽と煙の匂い。
それらが混ざり合い、冷たい風に乗って押し寄せてくる。
私は思わず立ち止まった。
胸がむかむかする。
匂いが強い。
吐き気がこみ上げる。
けれど、それ以上に、目の前のものに息を奪われた。
海だった。
灰色の海。
記憶の中の青い海とは違う。
北の空を映したような、冷たく重い色。
波は白く砕け、小さな港の桟橋を濡らしている。
遠くには、薄く霧がかかっていた。
空と海の境目は曖昧で、世界がそのまま溶けていくように見える。
――これが、この世界の海。
波止場に波が打ち寄せる。
波と水と泡の音。
私は腹に手を当てた。
響いているだろうか。
私の中にも。
私はしばらく、その場から動けなかった。
強い海風。
船の縄が軋む。
男たちが声を上げて荷を運んでいた。
初めて来た場所のはずなのに、なぜか懐かしいと感じた。
前世の記憶のせいだろうか。
「乗るのかい。」
その声に私は慌てて振り返った。
毛皮の帽子をかぶった中年の男が立っている。
荷を抱えた商人らしい。
「船を探しているなら、早く聞いた方がいい。南へ行く便は毎日出るわけじゃない。」
「南方の大陸へ向かう船はありますか。」
「あるにはある。貨物船だ。客を乗せるかは船主次第だな。」
「どちらへ行けば。」
男は顎で桟橋の先を示した。
「あの青い帆布をかけた船。船主はバルト。気難しいが、金を払えば話は聞く。」
「ありがとうございます。」
「一人旅か。」
「身内のいる町へ向かいます。」
男はそれ以上聞かなかった。
私は礼を言い、桟橋へ向かった。
足元の板が濡れている。
滑らないように、ゲルトの杖をつく。
風が外套をはためかせる。
寒い。
けれど、歩ける。
私は青い帆布の船の前で足を止めた。
大きな船ではない。
だが、川舟とは比べものにならない。
黒っぽい船体。
太い縄。
積まれた樽。
束ねられた毛皮。
……荷の匂いが強い。
私は口元を押さえそうになるのをこらえた。
船の上にいた男がこちらを見た。
灰色の髭。
鋭い目。
寒さで赤くなった鼻。
「何だ。」
「南方の大陸へ向かう船を探しています。」
「客船じゃない。」
「承知しています。船賃は払います。邪魔にはなりません。」
男は私を上から下まで見た。
「女一人で貨物船に乗る気か。」
「はい。」
「酔うぞ。」
「努力します。」
「努力でどうにかなるもんじゃない。」
「それでも、乗りたいのです。」
男は鼻を鳴らした。
「行き先は。」
「ニモア公国方面へ。途中の港でも構いません。」
男の目が少し変わった。
「アストリア語は読めるか。」
「はい。」
「書けるか。」
「少し。」
「少しね。」
またその言葉。
私は視線を落とした。
男は船の上から革紐で束ねた紙を投げてよこした。
「これを読んでみろ。」
私は受け取った。
荷の目録だった。
粗い字。
略号。
地域名。
毛皮の種類と数量。
いくつかは、この地域の古い呼び名で書かれている。
おそらく、普通の貴族教育だけでは読めなかっただろう。
王妃教育の範囲でも、本来なら必要のない知識だった。
でも、私なら読める。
王宮の書庫で見た地図。
交易記録。
先住民の言語に関する古い覚書。
それらが、頭の奥で線を結ぶ。
久しぶりに知的好奇心を刺激され、心が自然と踊った。
「北鹿の毛皮が二十束。白狐が三束。角が六箱。薬草の束が四つ。南方の染料商へ送る荷ですね。ただ、この印は、おそらく今は使われていない古い部族名です。書き換えるべきかと。」
言ってから、しまったと思った。
男は黙って私を見た。
風が吹く。
波が桟橋を叩く。
私は紙を握ったまま、息を詰めた。
やがて、男は低く笑った。
「少し、ね。」
「……必要なところだけです。」
「嘘が下手だな。」
心臓が跳ねる。
男は続けた。
「だが、役には立ちそうだ。」
「役?」
「書き付けを読める人間が一人降りた。次の港まで、荷の帳面を手伝えるなら乗せてやる。」
私は息を呑んだ。
「本当ですか。」
「船賃は半分でいい。食い物は簡単なものだけだ。船酔いしても知らん。泣いても船は戻らん。」
「泣きません。」
「そういう奴ほど泣く。」
「泣いても戻らないなら、泣く意味がありません。」
男は少しだけ目を細めた。
それから、口の端を上げた。
「名前は。」
「アンナ・リースです。」
「バルトだ。明日の朝に出る。寝る場所は荷の少ない隅だ。文句は言うな。」
「言いません。」
「荷物はそれだけか。」
「はい。」
「なら、明朝、夜明け前に来い。遅れたら置いていく。」
「分かりました。」
私は頭を下げた。
桟橋を戻る時、膝が少し震えていた。
心臓が今更になってどくどくと脈打った。
寒さのせいではない。
乗れる。
船に。
海を渡れる。
私は港の端まで戻り、積まれた樽の陰で立ち止まった。
視界がにじむ。
泣くつもりはなかった。
泣く意味もないと言ったばかりだ。
それなのに、涙が出そうだった。
私は腹に手を当てた。
「行ける。」
小さく言う。
「海を越えられる。」
波の音が答えるように響いた。
その夜、港の安宿で眠った。
部屋は狭く、壁は薄く、魚と煙の匂いがした。
吐き気はあった。
けれど、少しだけパンを食べられた。
水も飲めた。
寝台に横になり、籠の中を確認する。
木の櫛。
木彫りのウサギ。
通行証。
わずかな金銭。
替えの布。
「明日、海に出るわ。」
声は小さかった。
この子に聞こえるはずはない。
それでも、言いたかった。
「怖いけれど、行きましょう。」
目を閉じる。
波の音が遠くに聞こえる。
明日、私はアインシュヴァルドからさらに遠ざかる。
――ヴィルヘルムのいるこの地から。
その事実に少しだけ胸が痛んだ。
けれど、引き返したいとは思わなかった。
翌朝、空はまだ暗かった。
港には冷たい霧が下りている。
船の影が、ぼんやりと浮かんでいた。
私は籠を抱えて桟橋へ向かった。
青い帆布の船では、すでに男たちが荷を確認していた。
バルトが私を見る。
「来たか。」
「はい。」
「酔ったらあそこだ。」
彼は船の隅を指した。
「邪魔にならんところで丸くなっていろ。帳面は沖に出てからだ。」
「分かりました。」
私は船に乗った。
板が揺れる。
足元が不安定になる。
思わず腹に手を当てる。
大丈夫。
大丈夫。
船員が縄を解く。
誰かが声を上げる。
帆が少しずつ上がる。
船体が軋む。
港が、ゆっくり離れていく。
私は船べりに手をかけ、恐る恐る灰色の水面を見た。
波が動いている。
世界が動いている。
私も、その上にいる。
港の小さな家々が遠ざかる。
アインシュヴァルドへ続く陸が、霧の向こうへ薄れていく。
船が波を越えた。
体が大きく揺れる。
吐き気がこみ上げる。
それでも、私は歯を食いしばった。
怖い。
寒い。
気持ちが悪い。
けれど、不思議と、生きている、と強く感じた。
――私は今、生きて、海を渡っている。
その事実だけで、胸の奥に小さな火が灯った。
灰色の海の向こうに、まだ見えない世界がある。
船は戻らない。
私も、もう戻らない。
波の音の中で、私はまた腹に手を重ねた。
「行きましょう。」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「あなたと、私で。」
海は相変わらず灰色だった。
初めて船に乗る私には、目指す場所も、方向も分からない。
――けれど、果て無く、どこまでも広がっていた。




