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第七十九話 海へ向かう日

 私の悪阻は、すぐには治まらなかった。


 春の気配が濃くなっても、匂いに弱い日は続いた。


 それでも、少しずつ食べられるものが増えた。


 酸味のある果物。

 冷ました麦粥。

 薄い野菜のスープ。

 塩を少し振った芋。


 何が食べられるか分かるたび、エレノアはまるで宝物を見つけたように喜んだ。

 私はそのたびに、少しだけ申し訳なくなり、少しだけ嬉しくなった。


 ある朝、私は庭先まで歩けるようになった。

 エレノアに腕を借りて、家の前の陽だまりまで。


 ほんの数歩。


 それだけなのに、息が上がった。


 けれど、外の空気は柔らかかった。

 冬の刺すような冷たさではない。


 土の匂いがする。

 湿った草の匂い。

 遠くで鶏が鳴く。

 木々の枝には、薄い緑が芽吹き始めている。


 春だった。


 私は陽だまりに置かれた椅子に腰を下ろし、腹に手を置いた。


 まだ誰にも分からない。

 けれど、自分では少しだけ変わった気がする。


 体の奥に、重心ができたような。

 何もない場所に、小さな灯りがともっているような。


「暖かいですね。」


 私が言うと、エレノアは頷いた。


「ええ。今年の春は少し早いかもしれません。」


 ――春。


 私はその言葉を、ゆっくり胸の中で転がした。


 森の家では迎えられなかった春。

 ヴィルヘルムのいない春。

 けれど、この子と迎える春。


 その事実は、悲しくて、苦しくて、それでも少しだけ優しかった。


 ミランダは、私の体調が少しずつ落ち着いてくると、今後のことを話すようになった。


「ここにいる間は、できる限り見ます。けれど、出産するなら、できればもう少し設備のある町の方がいいでしょう。」


「はい。」


「身を隠したい事情があるのは分かっています。詳しく聞くつもりはありません。でも、あなたと赤ちゃんの命に関わることです。どうか人の手がある場所へ行くことも、考えてください。」


 私は頷いた。


 分かっている。

 この村でずっと暮らすことはできない。


 エレノアとゲルトは何も聞かずに置いてくれている。

 だからといって、長く居座ってはいけない。


 今後の暮らしのこともある。


 収入を得なければ。

 この子を産むなら、もっと安全な場所で。

 医師がいて、仕事があって、身元を作れて、人の出入りが多くて、異邦人が目立たない場所。


 私は、寝台の中で何度も考えた。


 どこへ行くべきか。


 アインシュヴァルド国内は危うい。

 エルセリアも駄目だ。

 ヴィルヘルムの目が届く。


 彼なら必ず探す。


 そうして、もし見つかってしまえば。

 ふたたび出会ってしまえば。

 私は次こそ抗うことはできないかもしれない。


 ならば、遠くへ行くしかない。

 海の向こうへ。


 まずは北の国境を越える。

 氷と山に近い土地。

 アインシュヴァルドの人間があまり好んで通らない道。


 そこには、先住民が狩猟で得た毛皮や角を買い取り、南方へ運ぶための小さな港がある。


 王宮で学んだ知識だった。

 誰も重要視しない、試験にも出ないような周辺地域の交易路。


 私は、それを覚えていた。


 普通の令嬢ならば興味を持つこともない知識たち。


 ヴィルヘルムに「さすがです」と言わせたいが為に、王宮の書庫を片っ端から読み漁った過去が、今の私を彼から逃す道になっていた。


 春が深まり、体調が少し落ち着いてくる頃、私は旅立つ準備を始めた。


 と言っても、大きな荷物は持てない。


 エレノアが薄い布を何枚か縫ってくれた。

 腹を冷やさないように巻く布。

 替えの下着。

 小さな袋。


 ゲルトは何も言わずに、古いが丈夫な杖を一本削ってくれた。


「道が悪い。」


 渡す時、彼はそれだけ言った。


「ありがとうございます。」


 私が受け取ると、ゲルトは短く頷いた。

 それから、少し迷うように懐を探った。


 取り出したのは、小さな木彫りだった。


 丸い耳。

 短い尻尾。

 手のひらに収まる、小さなウサギ。


 丁寧に磨かれていて、触れると驚くほど滑らかだった。


「子に。」


 ゲルトは言った。

 それだけ。


 私は木彫りのウサギを見つめた。


 胸がいっぱいになって、すぐには言葉が出なかった。


「……ありがとうございます。」


 ようやくそう言うと、ゲルトはまた頷き、すぐに視線を逸らした。

 エレノアはその横で、目を細めて笑っていた。


「この人、ずっと作っていたのですよ。」


「言うな。」


「本当のことですもの。」


 いつものやり取り。

 穏やかな夜。


 私はその光景を胸に刻んだ。

 この家で過ごした日々を、忘れないように。


 旅立ちの朝、私は持っていた金銭の一部を包んで、机の上に置こうとした。


 これから先に必要な最低限は残しておく。

 それでも、大きな金額ではない。

 けれど、何もせずに出ていくことはできなかった。


 包みを置こうとした時、エレノアが静かに首を横に振った。


「それは、お持ちなさい。」


「でも。」


「これから必要になります。」


「お世話になった分には、とても足りませんが。」


「足りる足りないではありません。」


 エレノアは包みを私の手に戻した。


「あなたと赤ちゃんのために使ってください。」


「受け取っていただけないのですか。」


「受け取りません。」


 優しいのに、はっきりした声だった。

 私は包みを握りしめた。


「私は、いただいてばかりです。」


「いつか返せます。」


「どなたに。」


「誰かに。」


 エレノアは微笑んだ。


「あなたが、できる時に。できる形で。」


 私は言葉を失った。


 ゲルトは戸口の近くで、腕を組んで立っていた。


 私は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。」


 それ以上の言葉が見つからなかった。

 エレノアは私に近づき、そっと抱きしめてくれた。


 強くはない。

 けれど、温かい抱擁だった。


「大丈夫。あなたは良い母になるわ。」


 涙が出そうになった。

 けれど、泣かなかった。


 泣けば、出発できなくなりそうだったから。


 ゲルトは私に近づき、少しだけ迷ってから、頭を下げた。


「無事で。」


 それだけだった。


「はい。」


 私は答えた。


「ゲルトさんも、エレノアさんも、どうかお元気で。」


 引き留められはしなかった。

 それが、嬉しかった。


 私なら一人でも歩いていけると、信じてもらえた気がした。


 私は杖を手に、籠を抱え、家を出た。


 春の朝だった。

 空は薄く晴れている。


 いつの間にか、春は深まっていた。


 この家に来たばかりの頃は、芽を覗かせているだけだった枝にも、今は柔らかな若葉が重なっている。

 風を受けるたび、葉の裏の白がちらちらと光った。


 それらも、もうすぐ濃い緑へと姿を変えるのだろう。


 私は腹に手を置く。

 ウサギの木彫りは、籠の奥に入っている。


 彼がくれた櫛の隣に。


 過去と。

 未来と。


 二つを抱えて、私は歩き始めた。


 まずは北へ。

 それから、海へ。

 そして、その先へ。


 私の中の小さな海を守るために。


 ――私は、今度こそ生きる場所を探しに行く。

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