第七十八話 同じ世界の海
エレノアとゲルトの家で過ごす日々は、静かに積み重なっていった。
最初の頃、私はほとんど何もできなかった。
朝、目を覚ます。
水を飲む。
吐き気に耐える。
エレノアが用意してくれた冷ました粥を、少しだけ食べる。
一口。
二口。
食べられる日もあれば、匂いだけで寝台に戻る日もあった。
食べなければ。
そう思うほど、喉は閉じる。
食べなくてもいいと言われると、少しだけ食べられる。
自分の体なのに、まるで気難しい獣の世話をしているようだった。
ミランダは、何度も様子を見に来てくれた。
冷たい手足を温めること。
水分を取ること。
食べられるものを探すこと。
長く立たないこと。
不安なことがあれば、一人で抱え込まないこと。
彼女は同じことを、根気よく何度も言った。
私はそのたびに頷いた。
けれど、不安なことを口にするのは難しかった。
腹が少し痛むだけで、心臓が縮む。
吐き気が強い日は、赤ちゃんに何かあったのではないかと怖くなる。
少し食べられた日は、その分だけ安堵して、また次の日に食べられないと絶望する。
体は毎日違った。
心も毎日違った。
前日はこれで大丈夫と思えても、次の日にはもう何もできないような気分になることもある。
まるで波に放り出された小舟のようだった。
それでも、私は終わることを考えなくなっていた。
死にたいとは思わなかった。
消えたいとも、思わなかった。
怖い。
苦しい。
どうすればいいのか分からないと思うこともある。
けれども、その先に必ず同じ言葉が浮かぶのだ。
――この子を守るために、生きる。
私の中にある小さな海。
私は毎朝、腹に手を当てて目を覚ます。
まだ何の膨らみもない。
変化はほとんど分からない。
けれど、その手の下に命があると思うだけで、体を起こす理由になった。
エレノアは何も急がせなかった。
私が何か手伝おうとすると、最初は決まって首を横に振った。
「今は、休むのが仕事です。」
そう言われると、私は何も言えなくなった。
眠ること。
横になること。
水を飲むこと。
一口食べること。
赤ちゃんのために、必要な仕事だと言う。
赤ちゃんのため、と言われるたび、私は固まり、頬が染まるのが分かった。
私のためであり、私だけのためではない。
嬉しくて、少しだけ恥ずかしい。
ゲルトは相変わらず無口だった。
朝早くから外へ出て、畑を見回り、薪を割り、罠を確認し、夕方には木片を抱えて戻ってくる。
彼は私にほとんど話しかけない。
けれど、ある日、枕元に小さな木片が置かれていた。
まだ何の形にもなっていない、滑らかに削られた木片。
私はそれを不思議に思い、エレノアに尋ねた。
「これは何でしょう。」
エレノアは笑った。
「手慰みですって。」
「手慰み?」
「あなたが寝ている間、退屈しないようにと。」
「でも、私には小刀が使えません。」
「ええ。だから、触るだけでいいそうですよ。木の温度は落ち着くから、と。」
私は木片を手に取った。
丸く、滑らかで、掌に収まる。
少しだけ薪の匂いがした。
名前のない木片。
ただの丸い形。
けれど、手の中にあると、少しだけ呼吸がしやすい気がした。
ゲルトは私がそれを触っているのを見ても、何も言わなかった。
ただ、次の日には、角がさらに滑らかに削られていた。
私はそれに気づき、何も言えなかった。
言葉のない優しさは、ときどき言葉より深い。
エレノアは、そんなゲルトを見て、いつも少しだけ笑う。
その笑い方が、私は好きだった。
彼女の彼に対する深い気持ちが伝わってくるようだった。
きっと。
許されずに逃げた日も。
お腹の子を抱えて不安だった夜も。
この家でようやく火を起こした朝も。
エレノアは無口なゲルトの横顔を見て、その不器用な優しさを拾い続けてきたのだ。
私の選べなかった未来の欠片が、そこにあるように感じた。
そう思っても、もう胸は痛まなかった。
人が生きる道が海であるならば――
進み方は幾つだってあっていい。
どんな波を渡っても、どんな場所を目指してもいい。
ただ、海はどこまでも続き、始まりも終わりも、決められたゴールもないのだ。
進み、止まり、漂い、ゆっくりでも、速くても、いつのまにか進んでいく。
そして、海には境界はない。
この世界のどこかに、彼の生きる海がある。
私の生きるこの世界に。
――同じ世界に。




