第七十七話 最初の海
目を覚ますと、知らない天井があった。
低い木の天井。
梁は少し黒ずみ、ところどころに年季の入った傷がある。
窓の外では、鳥の声がした。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
森の家ではない。
宿屋でもない。
王宮でも、公爵家でもない。
私は瞬きをした。
体が重い。
頭も少しぼんやりしている。
けれど、昨日のような、今にも意識が遠のきそうな寒さはなかった。
部屋は暖かい。
炉の火の熱が、家全体を柔らかく包んでいるのだろう。
毛布もかけられている。
枕元には、水の入った杯が置かれていた。
私はゆっくりと手を伸ばした。
その時、自分の手が腹の上にあることに気づいた。
昨日の記憶が、一気に戻る。
森の道。
倒れた木。
ゲルト。
エレノア。
ミランダ。
診察。
そして。
――身ごもっています。
私は息を止めた。
手の下には、何の膨らみもない。
薄い腹。
昨日までと何一つ変わらない体。
けれど、そこに命がある。
私の中に。
彼との子がいる。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
ひどく頼りない。
風が吹けば消えてしまいそうな火。
それでも、確かに温かい。
私は腹に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
扉が控えめに叩かれた。
「起きていらっしゃる?」
エレノアの声だった。
「はい。」
返事をすると、扉がそっと開いた。
エレノアは盆を持って入ってきた。
白い湯気の立つ器。
薄く切ったパン。
小さな匙。
彼女は私の顔を見ると、安心したように微笑んだ。
「おはようございます。気分はいかが?」
「……少し、楽です。」
「それはよかった。ミランダ先生が、今日はとにかく水分と、食べられるものを少しずつ、とおっしゃっていました。」
盆が机に置かれる。
湯気の匂いがふわりと広がった。
麦粥だろうか。
優しい匂いのはずだった。
けれど、私はその匂いを吸った瞬間、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。
反射的に口元を押さえる。
エレノアはすぐに器を少し遠ざけた。
「無理をなさらないで。匂いがつらいのですね。」
「……すみません。」
「謝ることではありませんよ。」
彼女は窓を少し開けた。
冷たい空気が部屋に入る。
粥の匂いが少し薄くなった。
それだけで、少し息がしやすくなる。
「食べられそうなら、一口だけ。無理なら、まずお水から。」
「でも、食べないと。」
「そうですね。」
エレノアは静かに頷いた。
「でも、焦らなくて大丈夫。体が驚いているのです。少しずつ、納得させてあげればいいのですよ。」
体を納得させる。
不思議な言い方だった。
けれど、今の私には少し分かる気がした。
心も体も、昨日まで終わる準備をしていた。
そこへ突然、生きろと言われたのだ。
驚いて当然なのかもしれない。
私は水を一口飲んだ。
喉が痛いほど乾いていたことに、飲んでから気づいた。
もう一口。
ゆっくり。
エレノアは何も言わずに見守っていた。
急かさない。
叱らない。
ただ、そこにいる。
私は匙を手に取った。
粥をほんの少しすくう。
口に入れる。
温かい。
柔らかい。
けれど、飲み込んだ瞬間、また吐き気がこみ上げる。
私は慌てて口元を押さえた。
エレノアが桶を差し出す。
吐くほどではなかった。
ただ、目に涙がにじむ。
「……すみません。」
「よく一口食べられました。」
エレノアはそう言った。
あまりにも自然に。
褒められるようなことではない。
そう思ったのに、その言葉が胸に染みた。
「一口でも、赤ちゃんには届きますか。」
気づけば、私は尋ねていた。
エレノアは少しだけ目を細めた。
「ええ。きっと。」
「きっと?」
「私は医師ではありませんから、難しいことはミランダ先生にお任せします。でも、母親が生きようとして口にしたものは、きっと赤ちゃんに届きます。」
――母親。
その言葉に、まだ慣れない。
私が。
母親。
私は腹に手を当てた。
昨日まで自分の命すら持て余していた私が、誰かの母になる。
怖い。
怖かった。
けれど、その怖さの中に、昨日までなかった色がある。
私はもう一口だけ粥を食べた。
今度は少し時間をかけて飲み込む。
それだけで、ひどく疲れた。
でも、食べた。
二口。
私は自分で数えた。
エレノアは満足そうに頷き、器を下げた。
「今日はこれで十分です。あとで、また少し。」
「ご迷惑をおかけします。」
「迷惑ではありません。」
彼女は昨日と同じように、静かに言った。
「今、私たちにできることがある。それだけです。」
私はまた言葉を失った。
手を差し伸べられると、胸が痛む。
助けられる理由を、探してしまう。
何かを返さなければ、と思う。
対価なしに受け取ることに、恐れと戸惑いがあった。
私が黙っていると、エレノアはその沈黙を責めず、盆を持って立ち上がった。
「もう少し眠ってください。ミランダ先生は昼過ぎにもう一度来てくださいます。」
「はい。」
「それから、名前を聞いても?」
胸が冷えた。
名前。
私は一瞬だけ迷った。
レベッカ。
その名前は、もう名乗れない。
アンナ。
宿で名乗った偽名。
「アンナです。」
私は言った。
エレノアは頷いた。
「では、アンナさん。何かあれば、壁を叩いてください。すぐ隣におりますから。」
そう言って、部屋を出ていった。
私は寝台に横たわったまま、天井を見つめた。
アンナ。
偽りの名前。
でも、今の私にはどうしても必要な嘘だ。
「…ごめんなさい」
親切に、嘘で返さなければならない。
この先もずっと。
それでも。
腹に手を置いた。
――この子の為に、生きる。
私は覚悟を決めるように宙を仰いだ。
それから数日は、眠って、吐いて、水を飲んで、ほんの少し食べるだけで過ぎていった。
ミランダは毎日ではないが、何度も様子を見に来た。
彼女は多くを聞かなかった。
けれど、必要なことはきちんと伝えた。
「今は無理をしないこと。長く歩いたり、体を冷やしたりしないこと。食べられるものを探しましょう。匂いの強いものは避けて、冷ました粥や果物、薄いスープを少しずつ。」
私は頷いた。
「赤ちゃんは?」
「今のところ、分かることは限られています。でも、あなたが休み、少しずつ食べて、水を飲めば、それが一番です。」
「はい……。」
「怖いですか?」
ミランダは尋ねた。
私は答えられなかった。
怖い。
怖いに決まっている。
でも何が怖いのか、自分でもよく分からなかった。
これから先、体はどうなるのか。
無事に産めるまで命を抱えていけるのか。
一人で迎えることができるのか。
その先は。
ミランダは私の沈黙を待った。
そして、私が答えられないままでも、穏やかに言った。
「怖くてもいいのです。怖がりながらでも、人は母親にはなれます。」
その言葉を聞いた時、私はなぜか泣きそうになった。
震えながらでも。
逃げた女でも。
嘘をついた女でも。
誰にも言えない秘密を抱えた女でも。
母親になれるのだろうか。
私は腹に手を当てた。
答えは、まだ分からなかった。
けれど、知りたいと思った。
その願いだけで、昨日より少し生きられる気がした。
エレノアとゲルトの家は、静かだった。
朝になると、エレノアは火を整え、湯を沸かし、台所で小さく歌う。
歌というほどはっきりしたものではない。
短い旋律を、息に混ぜるように口ずさむだけ。
その声は柔らかく、炉の音に溶けた。
ゲルトは夜明け前に外へ出る。
薪を割り、鶏に餌をやり、畑の端を見回る。
ほとんど話さない。
けれど、私の部屋の前を通る時だけ、必ず足音が少しゆっくりになる。
気にしてくれているのだと、分かった。
照れ屋なのだろう。
目が合うと、いつもすぐ逸らす。
けれど、棚には私が飲みやすいように薄めた果実水が置かれ、窓の隙間には冷たい風が入らないよう布が詰められていた。
言葉の少ない優しさ。
それは、押しつけがましくなく、けれど確かだった。
私は、少しずつその家の音を覚えた。
ゲルトが薪を置く音。
エレノアが糸を巻く音。
鶏が庭をつつく音。
窓を叩く小枝の音。
夜、炉のそばでゲルトが小刀を動かす音。
木を削る、さく、さく、という音。
その横で、エレノアは蚕の繭から糸を取っていた。
湯を張った小さな器に繭を沈め、細い糸を探し、ゆっくりと巻き取っていく。
初めてそれを見た時、私は思わず寝台から体を起こした。
「それは。」
エレノアが顔を上げる。
「糸です。昔から、このあたりでは少しだけ蚕を育てる家があるのですよ。」
「繭から、そんなふうに。」
「ええ。細いでしょう。でも、何本も合わせれば強くなる。」
エレノアは指先で糸をすくい上げた。
細く、淡く光る糸。
頼りなく見えるのに、切れない。
「不思議ですね。」
「本当に。」
彼女は微笑んだ。
「弱いものでも重なると、思いのほか強くなることがあります。」
その言葉が、胸に残った。
弱いまま。
強くならなくても。
重なれば。
私は腹に手を置いた。
今の私は弱い。
どうしようもなく弱い。
――けれど、この子と二人なら。
そんなことを考えた自分に、少し驚いた。
何日目かの夜だった。
食事の匂いで気分が悪くならないよう、エレノアは窓辺に冷ましたスープを置いてくれた。
私はそれを少しずつ飲んだ。
薄い塩味。
小さく刻まれた野菜。
体に染みる。
今日は、いつもより少し食べられた。
エレノアは嬉しそうに目を細めた。
ゲルトは無言だったが、木を削る手がほんの少し止まった。
私は匙を置いた。
「……どうして。」
エレノアがゆっくりとこちらを見る。
言葉を選ぶ。
けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「どうして、ここまでしてくださるのですか。」
エレノアは少しだけ瞬きをした。
ゲルトは小刀を動かす手を止めた。
「私は、見ず知らずの者です。事情も…話せません。お金も、十分に払えるか分からない。それなのに。」
喉が詰まる。
エレノアは困ったように笑った。
その笑みは、責めるものではなかった。
少し懐かしむような、遠いところを見るような笑みだった。
「私もね。」
彼女は、視線を落とし、また糸を巻き始めた。
「この家へ逃げてきた時、お腹に子がいたの。」
私は思わず顔を上げた。
エレノアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
その笑みは、少女のようでもあり、長い年月を越えた女のようでもあった。
「昔は、もう少し大きな町にいたのよ。父は商いをしていて、私は一人娘だった。欲しいものはたいてい与えられたし、読み書きも、帳簿も、礼儀も、いろいろ叩き込まれたわ。」
意外だった。
いや、不思議ではなかった。
彼女の言葉遣いの端々には、確かにどこか品があった。
「でも、私は家に奉公に来ていた人を好きになったの。無口で、不器用で、誰にも頼る人のいない青年だったわ。」
エレノアは、炉のそばで黙って小刀を動かしているゲルトを見た。
ゲルトは視線に気づいたのか、少しだけ耳を赤くした。
それでも何も言わず、木片を削り続けている。
エレノアはその横顔を、ひどく優しい目で見ていた。
「……許されるはずがなかった。だから、子ができたと分かった時、逃げたの。いくつも町を越えて、人目を避けるようにここへ来た。」
「怖くは、なかったのですか。」
「怖かったわ。」
彼女はあっさり頷いた。
「毎日怖かった。お腹の子を守れるかも、明日食べるものがあるかも、この人が後悔しないかも、何も分からなかったもの。」
ゲルトの手の動きが、少しだけ緩慢になる。
エレノアは微笑んだ。
「この人はね、昔から何も言わないの。でも、私が泣いても、怒っても、動けなくなっても、いつもそこにいてくれた。」
ゲルトの耳がさらに赤くなった。
「……余計なことを言うな。」
低い声だった。
エレノアはくすりと笑った。
「本当のことですもの。」
そのやり取りが、あまりにも穏やかで、胸が苦しくなった。
逃げた二人。
許されなかった二人。
――それでも、長い年月を越えて、ここにいる二人。
私は見つめてしまった。
こんな未来もあるのだと。
あったのだと。
「でもね、やっぱり大変だったし、もう諦めようかと思うこともあったわ。」
エレノアは糸を巻きながら言った。
「それでも、私たちはここでたくさんの人に助けられた。食べ物を分けてもらった。仕事を教えてもらった。赤ん坊の抱き方も、熱の下げ方も、冬の越し方も、みんな誰かに教わった。」
彼女は細い糸を、そっと指に巻いた。
「だから、私たちにできることがある時は、できる範囲で返すの。あなたに返しているのではないわ。あの時、私たちを助けてくれた世界に、少しずつ返しているの。」
胸の奥が、静かに揺れた。
――世界に返す。
私にではなく。
過去の誰かに。
過去の自分に。
かつて助けられた日の記憶に。
その言葉は、私の中の固いものを少しだけ解いた。
「私は。」
声が震えた。
「返せるでしょうか。」
「今は、受け取るだけでいいの。」
「でも。」
「アンナさん。」
エレノアは初めて、少しだけ強く私の名を呼んだ。
それでも、その声は柔らかかった。
「人生は長いの。果てない海を航海する船のようなものです。」
――海。
その言葉に、私は息を止めた。
森の道で思い出していた、輪郭のぼやけた海。
エレノアは続けた。
「晴れて穏やかな時もあれば、嵐で沈みそうになる時もある。何も起こらない人なんて、きっといません。」
炉の火が、ぱちりと鳴った。
「そしてね。人は船であると同時に、誰かの波にもなるものだと思うのです。」
「波。」
「ええ。誰かの船を飲み込もうとする波になることもある。けれど、誰かの船をそっと押して、進ませる波になることもある。」
エレノアは、私の腹へ静かに視線を落とした。
「あなたは今、嵐の中にいるのかもしれない。でも、いつかあなたも、誰かの船を押す波になれる日が来ます。」
私は腹に手を置いた。
薄い腹。
まだ何も見えない場所。
けれど、その下には命がある。
「少なくとも、あなたはもうすぐ母になります。」
エレノアの声は、思い出に沈むように静かだった。
「母親の体は、人が最初に浮かぶ海だからね。」
私は自分の腹を見下ろした。
まだ少しの膨らみもない、薄い腹。
その中に、海がある。
小さな命が浮かぶ、最初の海。
私はゆっくりと両手を腹に重ねた。
――私の中に、海がある。
そう思った瞬間、涙が滲んだ。
悲しみだけではなかった。
怖さだけでもなかった。
ただ、あまりにも不思議だった。
こんな私の中に、誰かの始まりがある。
誰かの最初の世界がある。
――私はもうすぐ、母になる。
その言葉は、恐ろしいほど重かった。
けれど、同時に、胸の奥に小さな光を灯した。
「私は。」
声が震えた。
「いい海であれるでしょうか。」
エレノアはすぐには答えなかった。
彼女は糸を巻く手を止め、私を見た。
「完璧な海でなくていいのです。」
静かな声だった。
「荒れる日もあるでしょう。揺れて、暗く静まる日も。でも、あなたが生きようとしているなら、その子はきっと、その海の中であなたの音を聞いています。」
「わたしの、音。」
「心臓の音です。」
私は腹に手を置いたまま、自分の胸の鼓動を聞こうとした。
どくん。
どくん。
頼りない音。
でも、確かに動いている。
少し前まで、止まってもいいとさえ思っていた心臓。
それを今、この子が聞いている。
私は目を閉じた。
この音が、私の中の海に響いているのだろうか。
小さな命は、その音を聞いているのだろうか。
――私は生きている。
――生きていける。
――生きなければならない。
ゆっくりと瞼を開ける。
エレノアは静かに糸を巻き続けていた。
ゲルトは小刀をゆっくりと滑らせている。
木を削る音。
糸を巻く音。
炉の火の音。
私の心臓の音。
それらが混ざり合い、家の中に静かに満ちていく。
私は腹に手を置いたまま、ゆっくり息を吐いた。
私の中に、海がある。
まだ小さく、頼りなく、嵐の残る海。
それでも、その海に浮かぶ命があるのだ。
――生きていこう。
私の音とともに。
私の海とともに。
――この子とともに。




