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第七十六話 人のいない道

 森へ続く道は、思っていたより細かった。


 宿場町を出てすぐの道は、まだ馬車の轍が残っていた。

 けれど、少し進むにつれ、人の気配は少しずつ薄れていった。


 道の両側には、冬の名残を残した木々が並んでいる。

 枝の先には、まだ葉はない。


 けれど、よく見れば、小さな芽の膨らみがある。


 春を待つ枝。

 春を待つ土。

 春を待つ世界。


 私は、その中を一人で歩いていた。


 籠は重くない。

 荷物は少ない。


 それなのに、腕がだるかった。

 足も重い。


 昨日から、まともに食べていない。

 宿でも夕食を断った。

 朝も、胸が気持ち悪くて喉を通らなかった。


 それでも、歩かなければならないと思った。


 立ち止まれば、考えてしまう。

 考えれば、戻りたくなる。


 戻れないのに。

 戻ってはいけないのに。


 だから、歩く。


 一歩。

 また一歩。


 湿った土が、靴底にまとわりつく。


 息が上がる。

 胸の奥が気持ち悪い。


 空腹のせいだろうか。

 寒さのせいだろうか。

 緊張が解けたせいかもしれない。


 どれでもよかった。


 体の不調を理由にできるうちは、心の痛みを見ずに済む。


 私は森の道を進んだ。

 途中で、一度だけ道標があった。


 古い木の板に、村の名らしい文字が刻まれている。

 聞いたことのない名だった。


 その先に何があるのか、私は知らない。

 知らなくてよかった。


 知っている場所には、もう行けない。

 知っている人のいる場所には、もう戻れない。


 私は道標の脇を通り過ぎ、細い獣道に入った。


 風が吹く。

 フードの端が揺れる。

 木々の間を抜ける音が、どこか遠い波のように聞こえた。


 波。

 海。


 この世界で、私はまだ海を見たことがない。


 前の人生では見たことがあったはずだ。

 青くて、広くて、どこまでも続いていて。


 でも、記憶の中の海は、今は薄い。

 夢の中で見た絵のように、輪郭がぼやけている。


 ――死んだら、人はどこへ行くのだろう。


 ふと、そんなことを考えた。


 前の私は、一度死んだ。

 そして、ここに来た。


 レベッカとして。


 なら、もう一度死んだら、またどこかへ行くのだろうか。

 また誰かになるのだろうか。


 また別の名前を与えられ、別の役を押しつけられ、別の舞台に立たされるのだろうか。


「……それは、嫌だな。」


 声に出ていた。

 森の中で、その声は小さく消えた。


 もう次は嫌だ。

 次の物語も、次の役も、もういらない。


 悪女も、公爵令嬢も、恋人も、逃亡者も。

 もう、何にもなりたくなかった。


 ただ、静かに終わりたかった。


 あの一年だけを胸に抱いたまま。

 森の家で彼を待っていた日々だけを、最後の光にして。

 誰にも見つからない場所で、静かに消えてしまえたら。


 そう思った自分に、私は少しも驚かなかった。


 怖くもなかった。

 ただ、疲れていた。


 ひどく。

 ひどく、疲れていた。


 道は少し上り坂になった。


 足がもつれる。

 籠を持つ手に力が入らない。


 喉が渇いている。

 水筒はない。


 いや、宿で水をもらっておけばよかったのだ。

 そんな簡単なことにも、頭が回らなかった。


 私は苦笑した。

 王妃教育は、見知らぬ森道で水をもらう方法までは教えてくれなかったらしい。


 いや。

 教えられても、今の私にはできなかったかもしれない。


 人に何かを求めることが、怖い。

 助けてくださいと言うことが、怖い。

 助けられたら、その手をまた振り払わなければならなくなる。


 ――それなら最初から、一人の方がいい。


 道の端に、倒れた木があった。

 私はその近くまで歩き、そこで足を止めた。


 先ほどの道に戻って歩けば、村があるのかもしれない。

 でも、行きたくなかった。


 人がいる。

 名前を聞かれる。

 事情を聞かれる。

 善意を向けられる。


 そして、私はきっとまた嘘をつく。


 もう嫌だった。

 嘘をつくことも。

 嘘をつける自分も。


 私は道端に膝をついた。

 湿った土が、スカートに染みる。


 冷たい。

 それでも、立ち上がれなかった。


 吐き気がした。

 胸の奥から、苦いものが上がってくる。


 私は口元を押さえ、体を丸めた。

 何も食べていないのに、吐き気だけがある。


 苦しい。

 目の奥が熱い。

 微熱があるのかもしれない。

 寒いのに、額だけがぼんやり熱い。


 私は浅く息をした。


 ――もうすぐ死ぬのかしら。


 そんなことを考えた。


 あまりにも穏やかに。

 まるで、明日の天気を思うように。


 もし、そうなら。


 ――ヴィルヘルムはどうなるのだろう。


 考えかけて、私は目を閉じた。


 違う。

 私に、その先を考える権利はない。


 彼の未来から降りたのは私だ。

 彼の隣から消えると決めたのは私だ。


 私がいなくなった後の彼を案じることさえ、きっと傲慢に違いない。


 ――それでも。

 ――それでも、彼が泣かないといいと思った。


 いつも泣かない人だから。

 泣けない人だから。


 だから、余計に。


 私はそれ以上考えられず、倒れた木に背を預けた。

 視界がぼやける。

 木々の枝が、空に黒い線を描いている。


 その向こうに、薄い光があった。

 春へ向かう光。

 まぶしい。

 まぶしすぎる。


 私は影を探してここまで来たのに。

 世界は、どうしてこんなに明るいのだろう。


 足音が聞こえたのは、その時だった。


 最初は、鹿か何かかと思った。

 重く、ゆっくりした足音。

 枝を踏む音。


 それから、低い声。


「……人か。」


 顔を上げると、道の向こうに老人が立っていた。

 背は高くない。

 だが、体つきはしっかりしている。


 日に焼けた顔。

 白くなりかけた髭。

 肩には薪を背負うための縄。

 手には古びた斧。


 農夫か、木こりだろう。


 老人は私を見つけ、静かに足を止めた。

 その顔には警戒よりも、戸惑いが先に浮かんでいた。


「……具合が、悪いのか。」


「……大丈夫です。」


 声はかすれていた。


 大丈夫。

 私はまた、その言葉を使った。


 何一つ大丈夫ではない時ほど、人は大丈夫と言うのかもしれない。


 老人は困ったように眉を下げた。

 そして、少しの間、どうしたものかと考えるように私を見ていた。


 無口な人なのだろう。

 何かを言おうとして、言葉を探している。


「待っていろ。」


「いえ。」


「妻を呼ぶ。」


「やめてください。」


 老人は首を横に振った。


「……放っておけん。」


 ただ、それだけだった。


 強い言い方ではない。

 責めるようでもない。


 けれど、その短い言葉には、不思議なほど動かしがたいものがあった。


 老人は森の奥へ向かって声を上げた。


「エレノア。」


 その声は大きくはなかった。

 だが、よく通った。


 しばらくして、小柄な老婦人が小道の向こうから姿を現した。

 頭に淡い色の布を巻き、手には小さな籠を持っている。


 農家の女にしては、立ち居振る舞いが少しだけ違った。


 背筋が伸びている。

 指先の動きが静かで、目の配り方が柔らかい。


 裕福な家で育った者の名残のようなものが、古い前掛けと色褪せた衣服の下に、ほんのわずかに残っていた。


 老婦人は私を見ると、驚いた顔をした。

 けれど、声を荒らげなかった。


「あら……大変。」


 そう言って、ゆっくり私のそばに膝をついた。


「触れてもよろしい?」


 私は一瞬、返事に迷った。


 老婦人は急かさなかった。


 ただ、私の返事を待っていた。


「……はい。」


 彼女の手が、そっと額に触れた。

 温かい手だった。


 思わず、体がびくりとした。

 老婦人はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


「少し熱がありますね。顔色もよくありません。」


 声は静かだった。


 お節介な響きではない。

 叱る響きでもない。


 ただ、目の前の事実を丁寧に受け止める声だった。


「立てますか?」


「少しなら。」


「では、少しだけ。あとは、私が支えます。ゲルト、こちらを。」


「ご迷惑を……。」


 エレノアは小さく微笑んだ。


「迷惑ではありません。私たちにできることが、今ここにあるだけです。」


 私はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 ゲルトが黙って私の籠を持つ。

 エレノアは私の腕を取り、急かさず、しかし確かに支えてくれた。


 私は二人に連れられて、細い道を進んだ。

 少し歩くと、小さな家が見えた。


 畑と、薪小屋。

 庭の隅には鶏小屋がある。


 屋根の低い、古い家。

 煙突から細い煙が上がっていた。


 暮らしの匂いがした。


 薪の匂い。

 土の匂い。

 煮込みの匂い。


 それらが鼻に触れた瞬間、また吐き気がこみ上げた。

 私は口元を押さえた。


 エレノアはすぐに気づき、家の外の桶をそっと引き寄せる。


「無理なさらないで。」


 私は身を折った。

 ほとんど何も出なかった。


 苦い胃液だけが喉を焼いた。

 涙がにじむ。


 苦しい。

 恥ずかしい。

 消えてしまいたい。


 エレノアは背中をさすった。

 何も聞かなかった。


 なぜ一人なのか。

 どこから来たのか。

 何に追われているのか。


 何一つ。


 ただ、背中をさすってくれた。


「落ち着いたら、横になりましょう。ここは寒いですから。」


 家の中は暖かかった。

 小さな炉に火が入っている。


 低い天井。

 木の机。

 椅子。

 壁には乾いた薬草が吊るされている。


 奥の部屋に、簡素な寝台があった。

 エレノアはそこへ私を寝かせ、外套を脱がせ、靴を緩めた。


「少しずつ飲んでください。急に飲むと、また苦しくなるかもしれません。」


 私は水が注がれた杯を受け取った。


 手が震える。

 水を口に含む。


 冷たくて、少しだけ甘く感じた。


 ゲルトは戸口に立っていた。

 無言で私とエレノアを見ていたが、やがて小さく頷いた。


「医者を呼ぶ。」


 エレノアも頷く。


「ええ。たしか今日は村にいらっしゃるはずです。」


「行ってくる。」


 ゲルトはすぐに出ていった。

 私は慌てて体を起こしかけた。


「医師なんて。」


「必要です。」


「お金は。」


「あとで考えましょう。」


「でも。」


 エレノアは私の額に濡れ布を置いた。

 その手つきは、とても静かだった。


「今は、眠れるなら眠ってください。考えることは、体が少し楽になってからでもできます。」


 逆らえなかった。

 私は寝台に沈んだ。


 体が重い。


 炉の火が揺れている。


 音がする。

 薪が爆ぜる音。

 外で鶏が鳴く声。

 エレノアが台所で何かを用意する音。


 生活の音。


 私は、それを聞きながら目を閉じた。

 眠ったのか、眠っていないのか分からない時間が過ぎた。


 やがて、扉が開く音がした。

 複数の足音。


 ゲルトの低い声。

 そして、落ち着いた女性の声。


「こちらですか?」


「ああ。」


 部屋に入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。


 栗色の髪を後ろでまとめ、厚手の上着を着ている。

 手には革の鞄。


 医師だと、すぐに分かった。


 彼女は私を見ると、表情を変えずに穏やかに微笑んだ。


「こんにちは。ミランダと申します。この村で医師をしています。」


 医師。

 女性の医師。


 私は少しだけ目を見開いた。


 ミランダは寝台の横に椅子を置き、腰を下ろした。


「具合が悪いと聞きました。少し診てもよろしいですか。」


 私は迷った。

 診てもらう資格などない気がした。


 でも、断る力もなかった。


「……お願いします。」


「ありがとうございます。」


 ミランダは手際よく脈を診た。

 額に触れ、目の下を見て、舌の色を確認する。


 腹を押す時は、先に声をかけた。


「少し触れますね。」


 その丁寧さに、かえって胸が苦しくなった。

 私はもう、そんなふうに扱われる人間ではないと思っていたから。


 診察の間、ミランダは余計なことを聞かなかった。

 ただ、必要なことだけを尋ねた。


「最後に食事を取ったのはいつですか。」


「……一昨日の朝、少し。」


「水は。」


「あまり。」


「吐き気はいつから。」


「昨日から。いえ、その前から少し。」


「熱っぽさは。」


「今日、強く。」


「腹痛はありますか。」


「ありません。」


「出血は。」


 私は一瞬、意味が分からなかった。


「怪我はしていません。」


 ミランダは静かに首を横に振った。


「月のものです。最後にあったのは、いつですか。」


 部屋の音が、ふっと遠ざかった。


 月のもの。

 最後。

 いつ。


 私は考えた。

 考えようとして、何も浮かばなかった。


 森の家。

 雪。

 ヴィルヘルム。

 春の種。

 嘘。

 手紙。

 逃亡。


 日付が、崩れた紙片のように頭の中で散らばっている。


「……分かりません。」


 声がかすれた。


「でも。」


 でも。

 しばらく来ていない。


 その事実に、今さら気づいた。


 なぜ気づかなかったのだろう。


 考えなかったからだ。

 考える余裕がなかったから。


 ミランダは私の顔を見て、すぐに視線を和らげた。


「怖がらなくて大丈夫です。」


「私は。」


「いくつか確認させてください。」


 ミランダは声を低くした。


 エレノアとゲルトは、何も言われなくても部屋の外へ出ていった。

 扉が静かに閉まる。


 ミランダは、ゆっくりと質問を続けた。


「最近、匂いで気分が悪くなることはありますか。」


「……はい。」


「空腹なのに食べられない。」


「はい。」


「眠気やだるさは。」


「あります。」


「胸の張りは。」


 私は息を止めた。


 答えるのが、怖かった。


「……少し。」


「そうですか。」


 ミランダは静かに頷いた。


 彼女の表情は変わらない。


 優しく、慎重で、まるで壊れやすい器に触れるようだった。


「断定にはもう少し確認が必要ですが。」


 彼女は言った。


「あなたは、おそらく身ごもっています。」


 言葉が落ちた。


 ――身ごもっている。


 意味は分かる。

 分かるのに、胸の中で形にならない。


 私はミランダを見つめた。


「……私が?」


「はい。」


「身ごもって。」


「ええ。」


「子を。」


「はい。」


 子。

 お腹に。

 私の中に。

 命が。

 誰の。


 そんな問いは、問いになる前に答えが出ていた。


 彼しかいない。


 ――ヴィルヘルム。


 彼との子。


 私の中に、彼の子がいる。

 彼の子が。


 その瞬間、世界が音を取り戻した。


 炉の火が鳴る。

 外で鶏が鳴く。

 風が窓を揺らす。

 遠くでゲルトが何かを話す声。

 エレノアの小さな咳払い。


 全部が、急にはっきりと聞こえた。


 色が戻る。

 木の壁の茶色。

 布の生成り。

 炉の赤。

 ミランダの瞳の柔らかな緑。


 窓の外の、冬の終わりの光。


 灰色だった世界に、一気に色が差した。


 私は震える手を、自分の腹に置いた。


 薄い。

 まだ何の膨らみもない。

 いつもと同じ腹。


 けれど。

 ここに。


 ここに、いる。


「……本当に。」


 声が震えた。


「本当に、いるのですか。」


「可能性は高いです。無理をしたせいで体が弱っています。まずは休むこと。食べられるものを少しずつ食べること。水を取ること。体を冷やさないこと。」


 ミランダの言葉が聞こえている。

 けれど、意味のすべては追えなかった。


 私は腹に手を置いたまま、ただ息をしていた。


 さっきまで、終わることばかり考えていた。


 消えることばかり。

 静かにいなくなることばかり。


 なのに。

 私は一人ではなかった。


 最初から。

 森の道を歩いていた時も。

 宿で泣いた夜も。

 寒い祠のそばで座り込んだ時も。


 今、この体の中に。


 小さな命が、私と一緒にいた。


「私。」


 声が漏れた。


「死んでは、いけないのですね。」


 ミランダは何も言わなかった。

 ただ、静かに私を見ていた。


 その沈黙が、答えのようだった。


 私は腹を押さえた。


 涙がこぼれた。

 今度は、拭えなかった。


 泣いてはいけないと思わなかった。

 悪女でいなければとも思わなかった。


 ただ、涙が落ちる。


 あとから、あとから。


「ヴィルヘルム。」


 名前がこぼれた。


 言ってはいけない名。

 置いてきたはずの名。


 もう二度と呼ばないつもりだった名。

 けれど、今だけは止められなかった。


「あなたの、子が。」


 言葉にならなかった。

 その先は、嗚咽に消えた。


 ミランダがそっと布を差し出してくれる。

 私はそれを受け取り、顔を覆った。


 私は生きていていいのだ。

 いや、生きなければならない。

 この子を守るために。


 ――私は生きなければならない。

 

 ミランダはしばらく黙っていた。

 やがて、静かに言った。


「まずは、眠りましょう。」


 私は頷いた。


「今は、あなたの体を休めることが、一番大事です。」


「はい。」


「赤ちゃんのためにも。」


 ――赤ちゃん。


 その言葉に、胸が震えた。


 赤ちゃん。

 私の。

 彼の。


 私はもう一度、腹に手を当てた。


 まだ何も分からない。

 何も見えない。

 けれど、確かにそこにいる。


 ――私の中に、未来がある。


 それは、森の家の畝にまいた種よりも小さく、見えないもの。

 でも、確かに芽吹いている。


 私は目を閉じた。

 お腹に手を置いたまま。


 その手の下にいる、小さな命を感じるように。

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