第七十五話 名もなき旅人
馬車は、日が傾く頃に隣町へ着いた。
どこにでもある、小さな宿場町だった。
石畳はところどころ欠け、道の端には溶けかけた雪が薄く残っている。
馬車を降りる人々は、それぞれの荷を抱え、それぞれの行き先へ散っていった。
老婆は迎えに来たらしい若い男に手を引かれていく。
大きな包みを抱えた男は、荷運び場の方へ歩いていく。
若い夫婦は、笑いながら宿屋の看板を見上げていた。
私は、その流れの端に立っていた。
誰も私を見ていない。
それでいい。
見られてはいけない。
覚えられてはいけない。
私は籠を抱え直し、フードを少し深くした。
「そこのお嬢さん、宿かい。」
御者が声をかけてきた。
私は一瞬だけ息を止めた。
お嬢さん。
ただの呼びかけ。
けれど、自分がまだ誰かの目に入る存在であることに、妙な恐怖を覚えた。
「いえ。」
私は首を横に振った。
「次の町へ向かう馬車はありますか。」
「今日はもうないな。朝なら北へ行く便がある。南へ行くなら昼前だ。」
「そうですか。」
「あんた、どっちへ行くんだい。」
どっちへ。
私は答えられなかった。
北。南。東。西。
どれも、私には意味がなかった。
ただ、アインシュヴァルドから離れられればよかった。
ただ、ヴィルヘルムの手が届かない場所へ行ければよかった。
ただ、誰も私を知らない場所へ。
誰も、レベッカと呼ばない場所へ。
「まだ、決めていません。」
私がそう言うと、御者は不思議そうに眉を上げた。
「旅慣れていないなら、暗くなる前に宿を取った方がいい。祭り前で人の出入りが多い。安い部屋から埋まるぞ。」
「……ありがとうございます。」
私は会釈した。
御者はそれ以上、深くは聞かなかった。
よかった。
この辺りの人々は、旅人の事情をいちいち詮索しないのだろう。
あるいは、私があまりにもありふれた姿をしていたからかもしれない。
籠を抱えた、フードの女。
それだけ。
私は宿場町の通りを歩き始めた。
足が、少し痛い。
馬車に揺られたせいか。
朝から緊張し続けていたせいか。
それとも、歩き始めた時からずっと、体のどこかが小さく震えていたせいか。
分からなかった。
宿を取るべきだ。
そう思う。
けれど、宿の扉をくぐることが怖かった。
名前を聞かれる。
どこから来たのか聞かれる。
どこへ行くのか聞かれる。
答えなければならない。
レベッカではない名前を。
嘘の出身地を。
嘘の目的地を。
私は嘘をつける。
もう、いくらでも。
ヴィルヘルムにだって嘘をついたのだ。
ならば、宿屋の女将に名前を偽るくらい、何でもないはずだった。
それなのに、足が動かない。
私は宿屋の前を通り過ぎた。
中から食事の匂いがする。
肉を焼く匂い。
煮込みの匂い。
人の声。
笑い声。
木の杯がぶつかる音。
温かい場所。
私はそこへ入れなかった。
温かい場所は、思い出してしまう。
炉の火。
彼の茶器。
――お帰りなさい。
――ただいま。
私は通りの端で立ち止まった。
息が苦しい。
こんな所で立ち止まってはいけない。
目立つ。
動かなければ。
私は再び歩いた。
市場を抜け、町外れへ向かう。
家々の灯りが少しずつ少なくなる。
道の脇には、倉庫や馬小屋が増えていく。
遠くで犬が吠えた。
夕暮れの空は、薄い紫色に染まり始めていた。
寒い。
けれど、その寒さがありがたかった。
寒ければ、余計なことを考えずに済む。
体を守ることだけを考えればいい。
私は町外れの小さな祠の横に腰を下ろした。
旅人が休むためなのか、石の腰掛けがある。
風は少し避けられる。
私は籠を膝に置き、外套の前を合わせた。
今日は、ここでいい。
宿を取らずに済む。
誰にも名前を聞かれずに済む。
そう思った。
けれど、夜が落ち始めると、寒さは急に深くなった。
指先が冷える。
足先が冷える。
肩が震える。
眠ってはいけない。
マーサの声が、ふいに胸の奥で響いた。
――寒いところで眠るんじゃないよ。
あの声を思い出した瞬間、喉の奥が詰まった。
マーサ。
私はあなたにも嘘をついた。
あなたが差し出してくれた手を、払いのけた。
ローレンス。
あなたにも嘘をついた。
道に迷わないようにと言ってくれたのに。
――私は今、自分がどこへ向かっているのかも分からない。
寒さよりも、その事実の方が怖かった。
私は立ち上がった。
宿の方へ戻ろう。
名を偽ればいい。
一人ではないふりをして。
どこへ行くか聞かれれば、適当に答えればいい。
宿代を払って、一晩だけ眠る。
そうしなければ、本当に寒い場所で眠ってしまう。
私は町の灯りへ戻った。
足が重い。
何度も、どこかへ逸れたくなった。
人のいない方へ。
暗い方へ。
何も聞かれない方へ。
でも、そのたびにマーサの声が聞こえた。
――寒いところで眠るんじゃないよ。
私は、その声にだけ従った。
結局、町の外れにある小さな宿に入った。
大通りの宿よりも古く、客も少なかった。
受付にいた女将は、私を見ると特に驚きもせず、帳面を開いた。
「一泊かい。」
「はい。」
「名前は。」
来た。
喉が乾く。
私は、考えていた名前を口にした。
「アンナです。」
誰でもない名前。
どこかにいそうで、誰のものでもない名前。
女将は帳面に書きつけた。
「どこから。」
「西の方から。」
「行き先は。」
「明日の馬車で、北へ。」
嘘は、思ったより簡単に出た。
簡単すぎて、胸が冷えた。
「一人かい?」
一拍おいて、少し微笑む。
「いえ、夫が後で来る予定です。」
少しの間なら、これできっとごまかせる。
「なら、二人部屋でいいかね。」
「はい。」
「夕食は?」
「いりません。」
「食べた方がいいよ。顔色が悪い。」
「大丈夫です。」
「そうかい。部屋は二階の奥。湯はもう少ししたら運べる。」
「ありがとうございます。」
私は硬貨を渡し、鍵を受け取った。
階段を上がる。
部屋は小さかった。
二つの寝台と机。
椅子。
小さな窓。
それだけ。
私は籠を机に置いた。
外套を脱ぐ。
そして、そのまま寝台に腰を下ろした。
町のざわめきは遠い。
隣室の床板がわずかに鳴る。
誰かが咳をした。
私は籠を開けた。
底に入れた布をどける。
木の櫛を取り出す。
小さな布に包まれたままのそれを、両手で持った。
開けはしない。
見れば、思い出す。
後悔してしまう。
――春にはもう少し髪が伸びていますね。
あの声。
あの目。
あの指先。
私は布の包みを胸に押し当てた。
息が震えた。
泣かない。
泣いてはいけない。
そう思ったのに、涙は一つだけ落ちた。
布に染みる。
私は慌てて拭った。
「だめ。」
声が漏れた。
「だめよ。」
泣けば、戻りたくなる。
戻れば、全てが終わる。
彼に選ばせないために。
彼に守られるしかない私を、選ばないために。
この道を選んだのだ。
そう言い聞かせる。
何度も。
何度も。
――私は強い。
――傲慢で、計算高く、ずる賢く、しぶとい悪女。
だから、これは違う。
顔を覆った。
目の奥から痛むほどの雫が零れて、灰色の布に染みを増やしていく。
本当はただただ怖かったのだ。
彼の隣で、笑えなくなる日が来ることが。
彼が無理を重ね、傷つき、それでも私を守ろうとする未来が。
自分が、その未来に耐えられなくなることが。
自分のせいで彼が壊れるのを見ることが。
だから逃げたのだ。
彼のためと言いながら。
自分が耐えられないから。
違う。
違わない。
でも、どちらでも同じだ。
――もう、戻れない。
夜が深くなる。
女将が湯を運んできた。
私は礼を言い、扉を閉める。
湯で手を温める。
顔を拭く。
温かいはずなのに、体の奥は冷えたままだった。
寝台に横になる。
外套を重ねても、寒い。
眠ろうとする。
目を閉じる。
疲れと緊張と寒さで思考がぼやける。
馬の蹄の音が聞こえる気がした。
ゆっくりと瞼を閉じて、慣れた感覚を思い出す。
彼が来る。
森の道を走って。
扉を叩いて。
ただいま、と言う。
想像することさえ、きっと今の私には許されない。
それでも、止められない。
夢は見たくなかった。
翌朝、私は北へ向かう馬車には乗らなかった。
女将に礼を言い、宿を出る。
空は曇っていた。
町の人々は、いつもの朝を始めている。
商人が荷を積み、女たちが水を汲み、子どもがパンを抱えて走っていく。
私はその中を歩いた。
北へ向かう馬車の札を見る。
人が集まっている。
私はそこへ行かなかった。
代わりに、町の外へ続く森の道へ向かった。
どこへ行くのか、自分でも分からない。
ただ、人の流れが少ない方へ。
人の声が遠くなる方へ。
名前を聞かれない方へ。
歩く。
歩く。
冬の終わりの土は湿っていて、靴の裏に重くついた。
道の脇には、小さな緑が芽吹いている。
――春が来る。
私はそれを踏まないように歩いた。
踏めなかった。
それが、何かを待っているものに見えたから。
私にはもう、待つものがない。
そう思った瞬間、胸の奥が空っぽになった。
どこへ行けばいいのだろう。
私は本当に、自分の足で立てる場所を探しているのだろうか。
それとも。
ただ、誰も来ない場所を探しているだけなのだろうか。
森へ続く細い道があった。
人の通りは少ない。
奥には、小さな農村があると道標に書かれている。
私は、そちらへ足を向けた。
理由はなかった。
ただ、人の少ない方へ。
ただ、静かな方へ。
どこへ向かっているのかも分からないまま。
春に向けて、陽の光は眩しいくらいに輝いている。
その中で影を探すように、私は歩いた。
――猫は死ぬ時、隠れるようにいなくなっちゃうんだって。
ふと、町の子供が言っていた言葉を思い出した。
――自分の最後を見られたくないのかな。
――なんだか、悲しいね。
足は止まらなかった。




