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第七十四話 空の舞台

 森の家へ続く道は、春の手前の匂いがした。


 雪はまだ残っている。

 木の根元や、陽の当たりにくい斜面には、白い塊がところどころに沈んでいた。


 けれど、道の中央はすでに湿った土が見えている。

 踏めば柔らかく沈む。


 冬の間、固く凍っていた地面が、ゆっくりと解け始めていた。


 マーサは木籠を腕にかけたまま、森の道を歩いていた。


 中身は空だった。

 何かを持ってきたわけではない。

 何かを届けに来たわけでもない。


 ただ、どうしても見に来ずにはいられなかった。

 確認せずにはいられなかった。


 彼女が行方をくらませたと聞いた時、マーサは驚かなかった。


 ただ。


 ああ、やはり。

 と。


 そう思った自分に、ひどく腹が立った。


 なぜあの時彼女の手を掴まなかったのか。 

 なぜもっと言葉を重ねられなかったのか。

 なぜ、彼女の感情の剥がれ落ちた表情に怯んでしまったのか。


 問いは、いくつも浮かんだ。

 けれども答えは、一つしかなかった。


 彼女は、全て分かっていた。

 分かっていて決意したのだと、その姿が告げていた。


 森の家が見えてくる。


 小さく、古びた、静かな家。

 煙突から煙は上がっていない。

 窓は閉まっている。


 畑は、やはり荒れたままだった。

 畝の形は崩れ、雪解け水が浅く溜まっている。

 春に立てた柵は、雪の重みで曲がり、一部が折れていた。


 鳥除けの鈴は、もうどこにもない。

 風がどれだけ吹いても、ここに音は戻らない。


 春を待たずにしまわれたものたち。


 マーサは足を止めた。


「あんた、本当に春を待つ気なんてなかったんだね。」


 呟いた声は、森に吸い込まれた。


 扉の近くに、人影があった。

 ローレンスだった。


 いつもの柔らかな外套ではなく、少し厚手の旅装に近い服を着ている。

 帽子を目深に被り、腕を組んで家を見ていた。


「やはり、あんたは来ると思っていたよ。」


 ローレンスが言った。

 マーサは小さく息を吐いた。


「そっちこそ。」


「僕は仕事だ。」


「嘘をお言い。」


 ローレンスは少しだけ笑った。

 けれど、その笑みには力がなかった。


「……半分はね。」


「もう中は見たのかい。」


「公爵家の者が一度確認している。僕も、少しだけ。」


「そうかい。」


 マーサは扉の前へ進んだ。


 鍵は、いつもの場所にあった。

 彼女はそれを見つけて、しばらく指先を止めた。


 いつもの場所。

 レベッカが、誰かが入れるように残した場所。

 戻るつもりのない人間が、最後に残した小さな秩序。


 マーサは鍵を取り、扉を開けた。

 冷たい空気が、内側から流れ出た。


 家の中は静かだった。

 あまりにも静かだった。


 炉には火がない。

 灰はきれいにならされている。


 机は拭かれている。

 椅子は二つ。

 片方の椅子の背には、灰青の布が掛けられていた。


 茶器も二つ。

 棚のいつもの場所に揃えられている。


 寝台は整えられ、布に皺はほとんどない。

 棚も乱れていない。


 マーサは、炉の前で立ち止まった。


「……綺麗すぎるね。」


 ローレンスが後ろから入ってくる。


「ああ。」


「レベッカは。」


 口に出そうとして、躊躇する。


「あの子は本当にここで暮らしていたんだろうか。」


 声に狼狽が漏れた。

 ローレンスは何も言わない。


 マーサは椅子を見た。

 几帳面に整えられた、二つの椅子。


 誰のためのものか、言わずとも理解できた。


「机の上に、箱があったそうだよ。」


 ローレンスが言った。


「殿下が買い戻した装身具の箱だ。中に手紙が入っていた。」


 マーサは目を閉じた。


「そうかい。」


「もう王都へ運ばれた。」


「そうかい。」


 それ以上言わずに、口を噤む。


 手紙に何が書かれていたかは聞かない。

 きっとそこに彼女の心は一つも書かれていない。

 ならば聞く意味はない。


 マーサは、灰青の布へ目を向けた。

 綺麗な布だった。

 この家には少し上等すぎる。


 誰が誰に贈ったものか、考えなくとも分かってしまう。


「持っていかなかったんだね。」


「…持っていけなかったのかもしれないな。」


 ローレンスの声は低かった。


「レベッカが持っていったものは少ない。金銭、外套。おそらく、細かな私物を少し。大きな荷はない。」


「調べたのかい。」


「調べるのが仕事だからね。」


「嫌な仕事だ。」


「……そうだね。」


 ローレンスは否定しなかった。

 彼もまた、疲れた顔をしていた。


 マーサは家の中を見回した。


 台所。

 洗われた鍋。

 空になった棚の一角。

 閉じられた針箱。


 針箱のそばには、布や鈴をまとめた箱が置かれている。


 本当に。


「馬鹿だねぇ。」


 マーサは呟いた。

 声が震えた。


「こんなにきちんと片づけて。こんなに綺麗にして。そんな暇があったなら、泣けばよかったんだよ。怒ればよかったんだよ。あたしのところへ来て、どうしたらいいか分からないって言えばよかったんだ。」


 返事はない。


 当然だ。

 レベッカはいない。


「なんで、最後まで一人でやるんだい。」


 マーサは椅子の背に手を置いた。

 そこに体重を預ける。

 膝に力が入りにくかった。


「まだ、二十だろうに。」


 ローレンスは何も言わなかった。

 その沈黙が、かえって苦しい。


 マーサは袖で目元を拭いた。


「止められたと思うかい。」


 自分でも、誰に聞いたのか分からなかった。

 ローレンスはしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「いいや。」


 短い答えだった。


「僕は数日前に会った。棚を引き上げて、家賃を春まで払って、茶葉を買っていった。とても自然だったよ。自然すぎるくらいに。」


「そうかい。」


「あの時、レベッカがどこかへ行くつもりなのは分かった。けれど、どこまでかは分からなかった。」


「止めようとは思わなかったのかい。」


「思ったよ。」


「なら。」


「彼女は、もう全部分かっている顔をしていたからね。」


 ローレンスは苦く笑った。


「僕が何を言うか。どこまで踏み込もうとしているか。全部、先に読まれていた。」


「……あの子らしいね。」


「うん。」


「嫌になるくらい。」


「うん。」


 マーサは目を伏せた。


 レベッカは逃げたのではない。

 追い詰められて、連れて来られた一年前とは違う。


 考えて、考えて、考え抜いて。


 そうして、最後に、出ていくと決めた。


「可哀想に。」


 マーサは言った。

 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 レベッカにか。

 ヴィルヘルムにか。


 それとも、何もできなかった自分たちにか。


「…殿下は、どうなるだろうね。」


「分からないのかい。」


「分かりたくない、という方が近い。」


 マーサはローレンスを見た。


「殿下は、あの子を探すだろう。」


「探すだろうね。」


「見つかるかい。」


 ローレンスはすぐには答えなかった。

 それが答えのようだった。


 マーサは静かに嘆息した。


「レベッカも、殿下も、まだ大人というには早すぎる。」


「そうだね。」


「それなのに、どうしてこんなに難しいことばかり選ぶんだろうねぇ。」


 ローレンスは答えなかった。

 答えなど、なかった。


「ここは、このままにしておくのかい。」


 マーサが聞いた。


「しばらくは。」


 ローレンスが答えた。


「殿下の許可なく、物を動かすわけにはいかない。」


「そうかい。」


「それに、多分。」


「多分?」


「……殿下は、ここをそのまま残す。」


 マーサは振り返った。


「なんで分かるんだい。」


「分かるさ。」


 ローレンスは苦く笑った。

 マーサは何も言えなかった。


 レベッカがいない家。

 レベッカが戻らない家。


 それでも整えられ、残される家。


 殿下が、帰ってくるはずのない人のために、この舞台を残し続けるのなら。


 それは、あまりにも。

 あまりにも、残酷だ。


 外で風が吹いた。

 窓の向こうの畑に残る雪が、光を受けてゆるみ始めている。


 春が来る。


 この家にも。

 畑にも。

 町にも。


 レベッカがいないまま。

 ヴィルヘルムが戻れないまま。


「…帰ろうか。」


「ああ。」


 二人は家を出た。

 扉を閉め、鍵をいつもの場所へ戻す。


 マーサはもう一度、家を見た。


 小さく、古びた、静かな家。

 空っぽの舞台。


 幕は下りた。

 けれど、片づけられることなく残される舞台。


 ――誰かが、再演を信じているかぎり。


 ――ここはきっと、終わることも許されない。


 マーサは深く息を吐いた。

 ローレンスが静かに帽子を被り直す。


「行こう。」


 二人は森の道を下り始めた。

 背後で、家は黙っていた。


 風が畑を撫でる。

 もう鳴る鈴はない。


 ただ、曲がった柵だけが、春へ向かう光の中で、かすかに影を落としていた。

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