第七十三話 届かなかった春
アインシュヴァルドの王宮は、重苦しい緊張に包まれていた。
隣国の不穏な状況を受けて、国境付近では緊迫した状況が続いている。
王都への出入りも、検閲が厳しくなり、街を行きかう兵は増やされた。
国に漂う重い空気に、国民も気付き始めているだろう。
それでも新しい季節に向けて、人々の生活は変わり始めていた。
大通りには、春を祝う祈りの文字と共に、近く予定された立太子の式典に向けた飾りが少しずつ増えている。
白い布。
金の飾り紐。
花商人が運ぶ早咲きの花。
広場では職人たちが仮設の柱を立て、貴族街の門には新しい紋章旗が掛けられ始めていた。
ヴィルヘルムは、それらを眺めることもなく、王宮の一室で書類に目を通していた。
王都に着いてから、ほとんど休んでいない。
国境で起きた大きな衝突への対応。
王都近郊の警備配置。
式典に合わせて起こる可能性のある工作への備え。
反王族派と接触した商人たちの名簿。
貴族院への根回し。
エルセリア側の不穏な資金の流れ。
一つ処理すれば、次の書類が積まれる。
また一つ片づければ、別の伝令が来る。
やることは山ほどあった。
しかし、盤上はほぼ完成している。
あとは、駒を進めるだけだ。
机の隅には、小さな紙片が置かれていた。
そこには、自身の手で短く書かれた予定があった。
王都での会議。
貴族院の面会。
国境報告の確認。
そして、その隙間に小さく書かれた文字。
帰還予定。
森の家へ戻る日。
ヴィルヘルムにとって、それは、ただの予定ではなかった。
――最優先で、成し遂げるべき未来であり、約束。
戻る日を想うだけで、ヴィルヘルムの思考には温度が戻る。
レベッカが待っている。
森の家で。
炉の火のそばで。
春の種を買っているかもしれない。
畑に何を植えるか考えているかもしれない。
手仕事を始めているかもしれない。
彼女は言った。
待っています、と。
甘く、優しい声で。
「殿下。」
すっと意識が引き戻される。
扉の外から声がした。
どこか焦りを帯びた声。
王宮付きの侍従ではない。
ヴィルヘルムは書類から目を上げた。
「入りなさい。」
扉が開く。
入ってきたのは、公爵家の伝令の一人だった。
旅装のままだ。
外套には泥が跳ね、靴は濡れている。
相当急いだのだろう。
息は整えているが、顔色が悪い。
ヴィルヘルムは、その一瞬で何かを感じ取った。
「国境ですか。」
「いいえ。」
伝令は一礼した。
「森の家の件でございます。」
音が、細くなった。
部屋の中にあるはずの音が、遠ざかる。
紙の擦れる音も。
暖炉の火の音も。
廊下の足音も。
すべて、水の向こうに沈むようだった。
ヴィルヘルムは、表情を変えなかった。
「何がありましたか。」
声は静かだった。
伝令は唇を結んだ。
一瞬だけ、言葉を選ぶように視線を伏せる。
その躊躇が、ヴィルヘルムの胸の奥に冷たい針を刺した。
「レベッカ様が、姿を消されました。」
一瞬、言葉が理解できなかった。
音としては聞こえた。
けれど、脳内で意味を結ばなかった。
姿を、消した。
誰が。
どこから。
なぜ。
ありえない。
「もう一度言ってください。」
ヴィルヘルムは言った。
伝令は喉を動かした。
「レベッカ様が、町で護衛の視界から外れ、その後、確認できなくなりました。森の家にも戻っておられません。」
「いつ。」
「三日前です。」
三日前。
明後日、町へ行くと言っていた日。
マーサと一緒に。
ローレンスの店へ。
春の種を買いに。
仕事を再開するために。
ヴィルヘルムの指先が、机の上で静かに止まった。
「マーサは。」
「ご一緒ではありませんでした。」
短い答え。
こんな時でも妙に冷静な頭のどこかが、勝手に点と点を結び始める。
何かが静かに崩れ始める音がした。
「ローレンスは。」
「当日、店には来られておりません。前日までにも、そのような約束は確認できていないとのことです。」
伝令は続ける。
「護衛は、宿屋と食堂を兼ねた店に入られるところまで確認しております。知人とのご用事かと待機しておりましたが、一定時間を過ぎても出てこられず。確認したところ、裏口から出られた可能性が高いと。」
「可能性ではなく、事実だな。」
ヴィルヘルムの声は低かった。
温度の無い声に、伝令の背中が震えたのが分かった。
「はい。」
「その後は。」
「市場端の乗合馬車に乗られたと見られています。隣町へ向かう便です。この時期は往来も多く途中下車の記録が曖昧で、現在捜索を広げています。」
「曖昧、だと。」
ヴィルヘルムは、その言葉を繰り返した。
「つまり、見失ったのか。」
伝令は頭を下げた。
「申し訳ございません。」
沈黙が落ちる。
違う。
何かの手違いだ。
彼女が一人で出ていくはずがない。
待っていますと言った。
春の種を買うと言った。
一緒に考えましょうと言った。
それに、彼女は。
彼女は。
自分を愛していると言った。
「家の中は確認したか。」
ヴィルヘルムは尋ねた。
「はい。」
「荒らされた形跡は。」
「ございません。」
「争った跡は。」
「ございません。」
「無理に連れ去られた可能性は。」
伝令は、答える前に一瞬だけ沈黙した。
その沈黙が答えだった。
「ございません。」
ヴィルヘルムは目を閉じなかった。
瞬きもしなかった。
ヴィルヘルムの脳裏に、森の家の光景が浮かぶ。
炉。
椅子。
茶器。
灰青の布。
木の櫛。
彼女の笑顔。
――お帰りなさい。
それらが一つずつ、冷たい水の底へ沈んでいく。
「殿下。」
伝令が、布に包まれた小さな箱を差し出した。
「机の上に、これが。」
ヴィルヘルムの視線が、その箱に落ちた。
息が止まる。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
装飾具を入れた箱。
彼が彼女のために、まず取り戻したものだ。
彼女へ返したはずの過去の一部。
「置いてありました。」
伝令の声が遠い。
「中に、手紙が。」
ヴィルヘルムは、ゆっくりと箱を受け取った。
軽い。
いや、重い。
分からない。
指先が冷える。
すべての感覚が曖昧だった。
「下がりなさい。」
「殿下。」
「下がりなさい。」
声は荒くなかった。
伝令は身を縮め、深く頭を下げ、部屋を辞した。
扉が閉まる。
部屋に一人になる。
ヴィルヘルムは、しばらく箱を見つめていた。
開けなければならない。
でも開けたくない。
開ければ、決定的になる。
まだ、手違いかもしれない。
彼女は何かの事情で。
何かを避けるために。
誰かに追われて。
可能性を消したくない。
違う。
違う。
違う。
きっと。
ヴィルヘルムは箱の蓋に手をかけた。
小さな音を立てて、蓋が開く。
銀の細工が光っていた。
その上に、白く、折り畳まれた手紙。
紙を取り、ゆっくりと開く。
文字が見える。
読みたくない。
しかし、読まなければならないことはよく分かっていた。
これが彼女が最後に残した唯一のものなら。
自分は読まなければならない。
――自分の罪を認めるために。
『ヴィルヘルムへ。
私は、この家を出ます。』
そこで、一度、視界が止まった。
――この家を、出る。
やはり、彼女は自分の意志で出て行ったのだ。
ヴィルヘルムを置いて。
『あなたが私のために用意してくださった場所も、取り戻そうとしてくださった名誉も、私には受け取れません。
私は、誰かに守られるために生き延びたのではありません。
作られた居場所ではなく、自分の足で立てる場所を、自分で探します。
あなたの隣で笑う未来は、私には見えませんでした。』
手が震える。
手紙を持つ指に力が入る。
紙がわずかに歪んだ。
未来が見えない?
違う。
何度も見た筈だ。
森の家で笑う彼女。
こちらに手を伸ばす彼女。
自分の名を呼ぶ彼女。
春の種を一緒に考えると言った彼女。
自分を想っていると言った彼女。
あれは。
何だった。
自分は何を見させられていた。
『どうか、私を探さないでください。
あなたには、この国の未来があります。
良い王になってください。』
「良い王に。」
その一文で、ヴィルヘルムの中の何かが凍った。
彼女は知っていた。
なぜ。
知らないはずだった。
まだ、言っていない。
言えなかった。
彼女が知るのは、すべてを整えてからだと思っていた。
傷つけない形で。
彼女が不安にならない形で。
必ず未来を約束できる状態にしてから。
なのに。
彼女は知っていた。
いつから。
どこで。
誰から。
頭の中で駒が動く。
ローレンス。
公爵領の配下。
町。
王子の生誕祭。
婚礼。
監視業務の終わり。
あの夜。
寝台の上で、彼女は尋ねた。
――私の監視業務は、まだ続いているのですか。
第一王子と侯爵令嬢の結婚式が開かれるまでの一年間。
――予定通りなのですか。
王子の生誕祭。
その言葉を、彼は自分で口にした。
彼女は笑っていた。
軽く。
戯れるように。
彼の口を塞ぐように口づけた。
それで、彼は何も考えられなくなった。
いや。
考えなかった。
彼女が知っている可能性を。
彼女が期限を数えている可能性を。
彼女が自分を求めながら、同時に別れを準備している可能性を。
考えなかった。
彼女の愛に溺れて。
彼女が自分を必要としていることが嬉しくて。
彼女が自分を待っていると信じたくて。
「嘘、だったのですか。」
もう一度、あるはずのない言葉たちを探して、手紙を見つめた。
文字は短い。
愛の言葉も、痛みの痕跡もなく。
ただ、整っていた。
彼女らしい。
いや、彼女らしくない。
ここには、彼女が彼に読ませようと決めたものだけがあった。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと手紙を机に置いた。
違う。
違う。
これは違う。
彼女は、自分の隣で笑う未来が見えないと書いた。
ならば、見せればいい。
今からでも。
彼女がどこにいるのか探し出し、連れ戻して、すべて説明すればいい。
王太子のこと。
隣国の内政のこと。
裁判のこと。
彼女のすべてを取り戻すために進めていたこと。
聡い彼女だ。きっと全て説明すれば分かってくれる。
言えなかった理由。
約束できなかった理由。
全部。
全部話せば。
「……それでも。あなたは。」
――きっと戻らない。
その答えだけが、冷静すぎるほど冷静に浮かんだ。
彼女は、自分で選んで行った。
そう見えるように、すべて整えて行った。
家を整え、箱を置き、手紙を書き、護衛を撒き、町を出た。
決して衝動でも、無垢なものでもない。
シナリオを描き、最後まで演じ切って、自分の足で舞台を降りたのだ。
眩暈の気配を感じて、ヴィルヘルムは息を吸おうとした。
胸が動かない。
息が入らない。
彼は机に手をついた。
指先が震えている。
彼はその震えを止めようとした。
止まらなかった。
手紙が、机の上でわずかに揺れている。
「……レベッカ。」
声が出た。
ひどく小さい声だった。
部屋の中に落ちて、すぐ消えた。
「私を、置いていったのですか。」
返事はない。
当然だ。
彼女はいない。
森の家にも。
この王都にも。
自分が描いた盤上にも。
もう、いない。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと椅子に座った。
いや、崩れるように腰を落とした。
視線の先には、地図がある。
王都。
国境。
港。
街道。
駒。
銀の針。
すべてが並んでいる。
昨日まで、それは道だった。
勝利へ向かう盤面だった。
今は、ただの紙に見えた。
どれほど駒を動かしても。
どれほど道を読んでも。
彼女は、その先にいない。
――殿下。これは、オペラでもチェスでもありません。
いつかの公爵の声が、記憶の奥で響いた。
――決まった結末も、絶対的な勝利も存在しないのです。
――人の心は、盤上の駒のようには動きません。
――彼女にも、あなたの知らない彼女がいるのです。
あの時の公爵の目には一体何が見えていたのだろう。
――殿下。あなたは、それを理解していない。
ああ。
その通りだ。
理解していなかった。
いや、理解しようともしていなかった。
その事実が、遅すぎる刃のように胸へ入った。
もう一度、字を追う。
彼女らしい、美しく整った文字。
『探さないでください。』
ヴィルヘルムは、その一文を見た。
そして、静かに目を細めた。
それは、彼女の願いだ。
命令の形をした願い。
追わせないための言葉。
自分が国を捨てないように。
望まれた未来を壊さないように。
彼女が選んだ、最後の拒絶。
一年前のあの仕組まれた断罪劇から、幕は閉じられていなかったのだ。
彼女はきっと踊り続けていた。
演者として。
犠牲者として。
罪深い観客たちのために。
「これが、私への罰だとしても。」
感情が削られるように消えていくのが分かる。
慣れた感覚だった。
あまりにも静かに。
あまりにも滑らかに。
ヴィルヘルムは立ち上がった。
揺れていた指先は、もう止まっていた。
手紙を丁寧に折り直し、箱の中へ戻し、ゆっくりと蓋を閉めた。
「勝手に降りることは許されない。」
机の上の地図に目を細める。
それだけで、頭が勝手に盤上を築き始める。
王都。
街道。
隣町。
馬車の経路。
宿場町。
国境。
港。
逃げるなら、どこへ向かう。
女一人。
金銭は多くない。
身分を隠す。
追手を避ける。
アインシュヴァルド国内には長く留まれない。
ならば。
ヴィルヘルムの頭が動き始める。
冷たく。
速く。
正確に。
崩れた盤上を整えていく。
周到な彼女のことだ。捕捉は恐らく至難の業だろう。
それでも自分ならできるはずだ。
いや、できなければならない。
たとえ、どれほど時間がかかろうとも。
ヴィルヘルムは扉へ向かった。
「誰か。」
声は静かだった。
すぐに侍従が入る。
「はい、殿下。」
「公爵へ伝令を。王都周辺、南西街道、港へ通じる乗合馬車の全経路を確認。隣町から先の宿場、乗り継ぎ便、商団の流れをまとめて全て報告するように。」
「は、はい。」
「港湾管理局に連絡し、各港からの出港便の行き先、航路、旅費、所要日数をまとめてください。」
「承知いたしました。」
「法務部には、予定通り進めるように。止める必要はありません。」
「殿下、しかし、レベッカ様は」
「二度は言わせるな。」
侍従は息を呑み、頭を下げ、部屋を出ていく。
扉が閉まった後、ヴィルヘルムは一度だけ目を閉じた。
レベッカ。
あなたは、良い王になれと言った。
私を探すなと言った。
自分の足で立つと言った。
あなたの言葉を尊重すべきだと、誰もが言うだろう。
それがあなたの意思なのだと。
あなたの選択なのだと。
――けれど。
冷たく冷えた思考の奥で、暗い炎がゆらりと立ち上がる。
――どれだけ長い月日がかかろうとも。
――必ず。
「レベッカ。」
私があなたを理解しきれなかったように。
あなたもまた、私を理解していない。
「再演だ。」
アンコールで再び緞帳は上げられる。
――第二章の開幕は、主演の不在から始まった。




