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第七十二話 舞台を降りる日

 翌朝は、よく晴れていた。


 冬の終わりが近いことを知らせるような、淡い光だった。

 朝日を受けて、木々に残った霜が雫に代わり、零れ落ちる寸前に静かに光る。


 これまでと変わらない朝。


 けれど、私にとってはもう、同じ朝ではなかった。


 私は寝台の上で目を開けていた。

 ほとんど眠れなかった。


 けれど、不思議と頭は冴えている。


 体の奥のどこかが空洞になって、その分だけ余計なものが削ぎ落とされたようだった。


 起き上がる。

 床に足を下ろす。


 冷たい。


 私はしばらく、その冷たさを感じていた。


 ――最後の朝だ。


 そう思っても、涙は出なかった。

 泣くのは、昨日までにしておかなければならなかった。


 今日は泣かない。


 ――今日は、舞台を降りる日なのだから。


 私は顔を洗い、髪を整えた。

 櫛は、もう籠の底にある。

 だから、今日は手櫛で済ませた。


 鏡の中の私は、いつもと同じ顔をしていた。


 少し短い髪。

 少し白い頬。

 静かな目。


 悪女というには頼りなく、幸福な恋人というには寒々しい顔。


 私はその顔に微笑みを乗せた。


 大丈夫。

 まだ、演じられる。


 まず、火を入れた。

 今日は長く燃やす必要はない。

 いつも通りに見える程度でいい。


 炉に小さく火をつける。

 薪がぱちりと鳴った。


 湯を沸かす。

 残っていたパンを少し温める。


 果実湯を作る。

 一人分だけ。


 けれど、私は無意識に器を二つ出しかけて、手を止めた。


 ヴィルヘルムの茶器。


 いつもの場所にあるそれを見て、胸が小さく痛んだ。


 手を伸ばす。

 けれど、取らない。


 もう、出してはいけない。

 これは、ここに残すものだ。


 私は自分の器だけを机に置いた。


 朝食はほとんど喉を通らなかった。

 それでも、少しだけ食べた。


 歩かなければならない。

 町へ降り、護衛を撒き、馬車に乗る。

 倒れている暇はない。


 自分にそう言い聞かせる。


 私は器を洗い、拭いて、棚へ戻した。

 鍋も、皿も、きちんと片づける。


 炉の周りを整える。

 椅子の位置を直す。

 机を拭く。

 寝台の布を伸ばす。


 まるで、また夜には彼が来るかのように。


 まるで、私は少し町へ出て、夕方には戻ってくるだけであるかのように。


 家の中は、静かに整っていった。


 ――舞台は、最後まで美しくなければならない。


 机の中央には、小さな箱がある。

 装飾具の入った箱。


 その中には、手紙が入っている。


 私はその箱を見た。

 触れなかった。


 もう、開けてはいけない。


 開ければ、きっと書き直したくなる。

 書き直せば、愛が漏れる。

 謝罪が漏れる。


 私が置いていくべきではないものが、きっと紙の上に落ちてしまう。


 ……だから、触れない。


 私はゆっくりと籠を手に取った。


 軽い。

 軽いはずなのに、腕に重い。


 底には、金銭を入れた小袋。

 替えの布。

 長いフード付きの外套。

 そして、布に包んだ木の櫛。


 それだけ。


 これから長い旅に出る者としては、あまりにも少なかった。


 けれど、これでいい。

 多くを持てば、足が重くなる。


 私は玄関に立った。

 扉に手をかける。


 振り返る。


 小さく、古びた、静かな家。


 ここで、私は少しだけ生きた。


 何も持たない女として、土を触り、火を起こし、鈴を作り、町へ降り、人に名前を呼ばれた。


 ここで、私は彼を愛した。

 ここで、愛された。

 ここが、私の最初の家だった。


 ――そして、最後の舞台だった。


「ありがとう。」


 ここを出ればもう二度と戻ることのない場所。


 私は扉を開けた。

 冷たい空気が入る。


 眩しさに目を細める。


 外は晴れていた。

 雪はところどころに残っているが、道はもう歩ける。


 分厚い外套がなくても、陽のある場所なら寒さに耐えられる。


 春は近い。

 春は近いのに、私はここで春を迎えない。


 私は外へ出て、扉を閉めた。

 鍵をかける。


 手の中で鍵が小さく鳴った。

 それをいつもの場所へ戻す。


 ヴィルヘルムなら分かる場所。

 マーサも、ローレンスも知っている場所。


 ここは、私のものではなくなる。


 私は森の道を歩き始めた。


 一歩。

 また一歩。


 足元の雪が、少しだけ湿った音を立てる。


 鳥の声がした。

 遠くで枝から雫が落ちる音がした。


 いつもの道。


 昨日まで、彼が通ってきた道。

 ヴィルヘルムが戻ってくる道。


 私はその道を、逆へ向かって歩いている。


 町へ近づくにつれ、人の気配が増えていった。


 荷車の音。

 馬の嘶き。

 誰かの笑い声。


 春祭りの準備が近いせいか、通りにはいつもより人が多かった。


 色も戻っている。


 薄緑の布。

 黄色い花飾り。

 新しい酒樽。

 広場に組まれ始めた仮設の屋台。

 冬の終わりを喜ぶ人々の声。


 私は籠を抱え直した。


 予定通り。

 人が多い。

 旅人も多い。

 深いフードの者も、厚い外套の者も、荷を抱えた女も珍しくない。


 誰も私だけを見ていない。


 ――けれど、見られている。


 分かっていた。

 ヴィルヘルムは、必ず護衛をつける。


 彼は疑っていない。

 けれど、守る。


 そういう人だ。


 私は視線を動かさず、通りの端を歩いた。


 振り返らない。

 探さない。

 気づいていると悟られてはいけない。


 乾物屋の前を通る。

 奥さんが客と話している。

 薬草売りのエダが、春用の苗を並べている。

 古道具屋の老人は、今日は店先に出ていなかった。


 この町で過ごした日々が胸に込み上げて、苦しくなる。


 ――そんな資格など、ありもしないのに。


 私は人の流れに紛れ、宿屋と食堂が一体になった店へ向かった。


 昼食には少し早い。

 けれど、店内はすでに混み始めていた。


 春祭りの準備で町に来た商人たち。

 荷運び。

 子どもの手を引いた母親。

 旅人。


 店内には、肉を焼く匂いと湯気と人の声が満ちている。


 私は扉を開けた。

 賑やかな音が一気に耳へ入る。


 誰も私を見ない。

 それでいい。


 私は籠を抱え、少し困った顔を作った。

 近くを通りかかった若い店員に声をかける。


「すみません。」


「はい、いらっしゃいませ。」


「宿の受付は二階ですか。」


 店員は、忙しそうに奥を指した。


「ああ、はい。奥の階段を上がってください。上で帳場の者がいます。」


「ありがとうございます。」


 ちょうど別の客が彼を呼んだ。


「おい、注文いいか。」


「はい、今行きます。」


 店員は私からすぐに目を離した。


 私は奥へ向かう。


 階段がある。

 その横に、裏へ続く通路。


 人が行き来している。


 料理を運ぶ者。

 空の皿を下げる者。

 薪を抱えた少年。


 誰も、私が階段を上がるかどうかなど見ていない。


 私は一段だけ階段に足をかけた。

 そして、すぐに体を横へ滑らせる。


 奥の通路へ。


 心臓が鳴る。

 鳴っている。


 けれど、足は止めない。


 勝手口は半分開いていた。

 外の光が細く差し込んでいる。


 私はそこから外へ出た。


 裏手は、表通りの騒がしさが嘘のように狭かった。


 樽。

 薪束。

 空の木箱。

 濡れた石畳。

 冷たい空気。


 私はすぐに籠を下ろし、長いフード付きの外套を取り出した。


 素早く羽織る。

 髪を隠す。

 顔を隠す。


 まだ冬の名残がある時期だ。

 深いフードの女など、珍しくもない。


 私は籠を抱え直し、裏路地を進んだ。


 一つ目の角は曲がらない。

 二つ目の角を右へ。


 ローレンスの店に向かうなら通らない道。

 でも、市場の端へは出られる道。


 昨日、見た。

 いや、もっと前から知っていた。


 ただ、逃げ道として見たのは昨日が初めてだっただけだ。


 表通りへ戻る。

 人の流れに入る。

 誰かの荷が肩に当たる。


 謝る声。

 笑う声。

 馬の匂い。

 春祭りの飾りを運ぶ子どもたちの声。


 私は歩く。

 歩く。

 市場の端へ。


 乗合馬車の札が見える。

 隣町行き。


 出発まで、まだ少しある。


 御者が馬の具合を見ていた。

 荷台には、もう何人かが座っている。


 老婆。

 大きな包みを抱えた男。

 若い夫婦。

 顔を伏せた旅人。


 私は近づき、声をかけた。


「隣町まで、まだ乗れますか。」


 御者は私をちらりと見た。


 深いフード。

 籠。


 それだけ。


 彼は特に興味もなさそうに頷いた。


「ああ。代金は先だ。」


 私は小袋から硬貨を出した。

 手は震えていない。


 御者はそれを受け取り、親指で荷台を示す。


「奥へ。」


「ありがとうございます。」


 私は荷台へ上がった。


 端の方に座る。

 籠を膝に置く。

 フードを少し深くする。


 心臓が、まだ鳴っている。


 店を出てから、どのくらい経っただろう。

 護衛は気づいただろうか。

 私が裏から出たことに。

 もう追ってきているだろうか。


 分からない。

 考えない。

 考えれば、顔に出る。


 私はただ、膝の上の籠に指を置いた。


 布の下に、木の櫛がある。

 それだけを確かめる。


 やがて、御者が声を上げた。


「出るぞ。」


 馬車が揺れた。

 ゆっくりと動き出す。


 車輪が石畳を越え、町の音が少しずつ遠ざかっていく。


 私は顔を上げなかった。

 振り返らなかった。


 振り返れば、戻りたくなるかもしれない。


 ローレンスの店。

 マーサの家。

 森の道。


 炉の火。

 灰青の布。

 机の上の箱。

 彼の茶器。


 お帰りなさいと言った扉。


 ――すべてが、背後へ流れていく。


 馬車は町の門を抜けた。

 外の道へ出る。


 空は晴れている。

 遠くの山には、まだ雪が白く残っていた。


 けれど、道端の枯れ草の間には、小さな緑が覗いている。


 春が来る。

 この国にも。

 あの森の家にも。

 ヴィルヘルムのもとにも。


 ――私のいない春が。


 喉の奥が痛くなった。


 泣いてはいけない。

 悪女は、こんなところで泣かない。


 私は奥歯を噛み締め、そっと唇を引き結び、籠を強く抱いた。


 馬車は進む。


 一つ目の丘を越える。

 町の屋根が見えなくなる。


 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに切れた。


 私は舞台を降りたのだ。


 客席に、何も知らない彼を残して。


 明かりの灯る森の家を残して。

 終演を告げる言葉もなく。

 ただ、舞台袖から消えるように。


 私は目を閉じた。


 ――ヴィルヘルム。


 名前は、声には出さなかった。

 出せば、きっと泣いてしまう。


 馬車は隣町へ向かって進んでいく。

 冬の終わりの陽射しの中を。

 まるで、どこにでもいる旅人を乗せているだけのように。


 ――そうして私は、アインシュヴァルドの小さな町から姿を消した。

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