第七十一話 悪女の手紙
ヴィルヘルムが去った翌朝、森の家は静かだった。
雪は降っていない。
空は薄く白み、屋根の端に残った霜が、朝の光の中で少しずつ溶けていた。
いつもの朝だった。
ふと、ヴィルヘルムの気配を探してしまう自分に気付き、苦笑する。
彼が使った茶器は、昨夜のまま机に置いてあった。
片づけなければと思う。
けれど、手が伸びなかった。
ほんの少しだけ残った果実湯。
彼が口をつけた縁。
それだけで、まだ彼がここにいた時間が残っているような気がした。
私は炉の前に座り、何もしないまま長い時間を過ごした。
火は入れていない。
灰の中に、昨日の火の名残がある。
黒く崩れた薪。
白くなった灰。
もう燃えないもの。
私はそれを、ぼんやりと見つめていた。
――手紙を書かなければならない。
そう思った。
何度も。
何度も。
けれど、机に向かうことができなかった。
手紙を書くということは、本当に終わらせるということだ。
言葉にして残すということだ。
彼がそれを読む。
あの青い目で。
あのまっすぐすぎる目で。
私の選んだ言葉を、何度も読む。
怒るだろうか。
傷つくだろうか。
私を憎むだろうか。
――憎んでくれればいい。
そう思う。
それなのに、胸のどこかで、憎まれたくないと泣いている私もいる。
なんて勝手なのだろう。
なんて浅ましいのだろう。
彼に嘘をついた。
あんなに嘘を吐くことを恐れていた彼に。
春の種を買うと言った。
一緒に畑に何を植えるか考えましょう、と言った。
待っています、と言った。
全部、彼を安心させるための嘘だった。
それなのに、憎まれたくないなどと、どうして願えるのだろう。
「しっかりしなさい。」
私は声に出した。
家の中に、自分の声だけが落ちる。
「あなたは悪女なのよ。」
――悪女。
懐かしいほど、よく似合う言葉だった。
断罪された女。
婚約者に捨てられた女。
嘘で塗り固められた、卑しい女。
幸福な物語から追い出された女。
ならば最後くらい、悪女らしく去ればいい。
――泣きながら縋る女ではなく。
――悲劇の犠牲者でもなく。
――誰かに助けを求める娘でもなく。
傲慢で、自分勝手で、明るく、強く、前だけを見て進む女として。
そうすれば、ヴィルヘルムはいつか思えるかもしれない。
あの人は、自分で選んで行ったのだと。
守られることを拒んだのだと。
自分の手を振り払ったのだと。
ならば、追う必要はないのだと。
そう思ってくれるかもしれない。
そう思ってくれなければ困る。
そうでなければ、あの人は必ず私を探す。
国も、立場も、責務も、何もかも置いてでも。
あの人は、そういう人だ。
だから、私は悪女にならなければならない。
――最後まで。
私は立ち上がった。
机に向かう。
紙を出す。
インク壺を開ける。
ペンを手に取る。
指が震えていた。
――情けない。
私は深く息を吸った。
まず、書いた。
ヴィルヘルムへ。
それだけで、涙が落ちそうになった。
私は慌てて顔を上げた。
泣いてはいけない。
私に泣く権利などない。
私はペンを握り直した。
次の言葉を考える。
――愛しています。
最初に浮かんだのは、それだった。
だめ。
私はその言葉を、心の中で黒く塗りつぶした。
――あなたと過ごした日々は、私の人生で一番幸せでした。
だめ。
――忘れないでください。
だめ。
――私を探さないでください。
これは書く。
けれど、縋るように書いてはいけない。
お願いではなく、命令にしなければならない。
――あなたのために。
だめだ。
そんな言葉を入れれば、彼は気づく。
これは私が彼を想って書いた手紙なのだと。
気づいてしまう。
そうなれば終わりだ。
私は何枚も紙を無駄にした。
一枚目には、あまりにも優しい言葉が混じった。
二枚目には、謝罪が多すぎた。
三枚目には、愛が滲みすぎていた。
四枚目には、私の弱さが見えた。
どれも破った。
暖炉に入れる。
火はつけていない。
破れた紙は黒い灰の上に雪のように落ちた。
後で燃やさなければ。
どこか冷静な自分が考える。
戸惑いの痕跡も、別離のための努力も、後悔も、何一つここに残してはいけない。
私は五枚目の紙を出した。
今度こそ。
公爵令嬢として。
悪女として。
最後の舞台を降りる者として。
私はペンを置いた。
ヴィルヘルムへ
私は、この家を出ます。
あなたが私のために用意してくださった場所も、取り戻そうとしてくださった名誉も、私には受け取れません。
私は、誰かに守られるために生き延びたのではありません。
作られた居場所ではなく、自分の足で立てる場所を、自分で探します。
あなたの隣で笑う未来は、私には見えませんでした。
どうか、私を探さないでください。
あなたには、この国の未来があります。
良い王になってください。
レベッカ
短い。
冷たい。
傲慢。
それでよかった。
それでなければならなかった。
私は何度も読み返した。
愛しているとは書いていない。
幸せだったとも書いていない。
ごめんなさいとも書いていない。
あなたのためだとも書いていない。
私を忘れてとも書いていない。
それでも、彼は読むだろう。
読む。
何度も。
あの人なら、きっと行間まで読もうとする。
私の癖を探す。
嘘を探す。
隠された本心を探す。
だから、もう、これ以上は書けない。
これ以上何かを足せば、必ず漏れる。
私の愛が。
私の後悔が。
私の未練が。
彼に気づかれてしまう。
私は手紙を折った。
丁寧に。
震える指で。
折り目が少し歪んだ。
もう一度、直す。
いけない。
最後まで整えなければ。
これは、元公爵令嬢としての最後の仕事だ。
私は立ち上がり、寝台の下から小さな箱を取り出した。
彼が私に返した装飾具の箱。
蓋を開ける。
銀細工が、静かに光っていた。
戻ってきた過去。
彼が取り戻そうとしてくれた、私の欠片。
けれど私は、もうそれを身につけていた私には戻れない。
この箱は、彼のもとへ残す。
彼が取り戻そうとしたものを、私は置いていく。
それが、どれほど残酷な意味を持つのか分かっている。
分かっていて、そこへ手紙を入れる。
私は折った手紙を、ブレスレットの上に置いた。
銀の鎖の上に、白い紙。
まるで、棺に白い布をかけるようだった。
蓋を閉める。
かちり、と小さな音がした。
それで何かが終わった。
私は箱を両手で抱えたまま、しばらく動けなかった。
涙が落ちそうになる。
だめ。
だめだ。
泣いてはいけない。
「悪女。そうでなければならない。」
もう一度、私は呟いた。
「最後まで。」
けれど、声は震えていた。
私は箱を机の中央に置いた。
ヴィルヘルムが来れば、必ず気づく場所。
彼の茶器がいつも置かれていたところ。
灰青の布がかかった椅子の正面。
この家の舞台の中心に。
彼が取り戻した過去と、私が選んだ別れを置く。
残すものは、それだけでいい。
持っていくものは、少なかった。
籠。
その底に、少しの金銭。
替えの布。
長いフード付きの外套。
そして、木の櫛。
櫛を入れる時だけ、手が止まった。
これは持っていく。
どうしても。
彼のくれた未来を拒むのに。
彼のくれた未来の道具だけを持っていく。
矛盾している。
身勝手だ。
残酷だ。
でも、置いていけなかった。
私は布に包んだ櫛を籠の底へ入れた。
その上に布を重ねる。
見えないように。
誰にも見つからないように。
けれど、確かにそこにあるように。
その後は、家の中を整えた。
まるで明日も、明後日も、ここで暮らす人間のように。
椅子を戻す。
鍋を洗う。
棚を拭く。
寝台を直す。
失敗した言葉、言えない言葉たちを火にくべ、炉の灰をならす。
彼の茶器を洗う。
洗って、拭いて、いつもの場所に置く。
そうしてから、私は気づいた。
――彼の器は、もう使われないかもしれない。
その瞬間、胸が潰れそうになった。
私は棚に手をついた。
息がうまく吸えない。
だめだ。
考えてはいけない。
明日のことだけを考える。
町へ行く。
混み合う店内。
裏口へ続く扉。
小道へ出る。
市場の端。
隣町へ向かう馬車。
手順だけを考える。
感情は要らない。
私は机の上の箱を見た。
手紙はそこにある。
もう、書き直さない。
書き直せば、きっと愛が漏れる。
後悔が漏れる。
謝罪が漏れる。
――そんなものを、彼に残してはいけない。
夕方になり、火のない家に寒さが少しずつ入り込んでくる。
けれど、不思議と気にならなかった。
この家は、彼がいなければ温まらない。
炉に火を入れても、きっと同じだ。
私は外套を肩にかけ、椅子に座った。
机の上の箱。
灰青の布。
彼の茶器。
全部が、静かに私を見ているようだった。
夜が来る。
彼は今王都へ向かっている。
冷たい風の中、馬を走らせ。
きっと眠る間も惜しんで。
早く私のところへ戻るために。
私は目を閉じた。
――あなたを想っています。
その言葉だけは、本当だった。
嘘に塗り固められた台本の中、その言葉だけが真実だった。
ゆっくりと瞼を開ける。
夜の森は静かだった。
終演前の舞台裏のように。
役者はもう衣装を脱ぎかけている。
客席には、まだ何も知らない観客が一人。
――そして、幕は明日、静かに下りる。




