第七十話 別れの前奏
その夜のヴィルヘルムは、いつもより少し遅かった。
雪は降っていない。
けれど、夜の森にはまだ冬の冷えが残っている。
私は炉の火を見つめながら、湯の沸く音を聞いていた。
鍋には、鶏肉と根菜の煮込みがある。
温めたパン。
蜂蜜を塗った焼き林檎。
香草を散らしたふかし芋。
いつもより少しだけ、多めに用意していた。
彼が来る日だから。
そして、もうそう何度も用意できないかもしれないから。
外で蹄の音がした。
胸が跳ねる。
私はすぐに立ち上がり、扉へ向かった。
開ける前に、深く息を吸う。
笑う。
いつものように。
何も知らない女のように。
扉を開けると、ヴィルヘルムが立っていた。
外套には夜露がついている。
髪も少し乱れていた。
頬は寒さで赤い。
けれど、いつものように私を見ると表情を緩めた。
「ただいま、レベッカ。」
「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」
そう言った瞬間、私は胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。
――お帰りなさい。
いつから、この言葉を当たり前のように言うようになったのだろう。
そして、あと何度言えるのだろう。
ヴィルヘルムは家の中へ入ると、すぐに外套を脱ごうとした。
けれど、いつもより動きが少し急いている。
私はその手を取った。
「ずいぶん冷えています。」
「急ぎました。」
「また無理をしましたね。」
「少しだけです。」
彼はそう言って微笑んだ。
けれど、その笑みにはどこか苦さがあった。
私は気づいた。
何かある。
彼は言いにくいことを持ってきている。
でも私は、それを知らないふりで彼の手を包んだ。
「温かいものを飲んでください。」
「はい。」
炉のそばに座らせ、果実湯を出す。
湯気が彼の顔を少し隠した。
ヴィルヘルムは茶器を持ったまま、しばらく黙っていた。
私は向かいに座る。
「何か、ありましたか。」
こちらから聞くと、彼は少しだけ目を伏せた。
「すみません。」
謝罪から始まる言葉が、私は嫌いになりそうだった。
彼は悪くない。
いつもそうだ。
それでも彼は、何かを告げるたびに私へ謝る。
「急ぎ、王都へ戻らなければならなくなりました。」
音が遠くなった。
けれど、私は笑みを崩さなかった。
「王都へ。」
「はい。」
彼は湯飲みを置いた。
「本来なら、ここへ寄らず、そのまま出発するよう言われていました。ですが。」
「ですが?」
「あなたに、何も言わずに行くことはできませんでした。」
胸が痛い。
痛くて、嬉しい。
嬉しくて、苦しい。
「いつ出発されるのですか。」
「今夜、領館へ戻り次第。」
「そんなに急なのですね。」
「はい。」
彼は静かに頷いた。
多くは語らない。
けれど、何か大きなことが動いているのは分かった。
彼が言わないものたちが、彼の背後に影のように立っている。
「どのくらい。」
私は尋ねた。
「どのくらい、王都に?」
「数日で戻るつもりです。」
――つもり。
彼がそう言う時、それは確実ではないということだ。
「長引くかもしれないのですね。」
「できる限り、早く戻ります。」
ヴィルヘルムは私をまっすぐ見た。
「必ず。」
その言葉を聞いて、私は思った。
ああ。
この時が来てしまったのだ。
彼がいない間に、私は舞台を降りる。
――あまりにも、できすぎている。
まるで物語が、最後の幕へ向かって急いでいるようだった。
「待っています。」
私は言った。
ヴィルヘルムの目が、わずかに揺れた。
「レベッカ。」
「お帰りを、待っています。」
嘘ではない。
待ちたいと思っている。
本当は。
この家で。
炉の火を絶やさず。
彼の茶器を出して。
何度でも、お帰りなさいと言いたい。
けれど、それは選ばない。
選べない。
ヴィルヘルムは私の手を取り、指先に口づけた。
「ありがとうございます。」
「何をお礼されているのですか。」
「待っていてくださることを。」
私は笑った。
「恋人ですから。」
彼は息を止めた。
その言葉が嬉しかったのだろう。
そして私は、さらに笑う。
――笑え。
――もっと自然に。
――彼が安心するように。
「実は、明後日、マーサと町へ行く約束をしているのです。」
ヴィルヘルムが顔を上げた。
「町へ?」
「はい。ローレンスの店にも寄る予定です。春に向けて、少し仕事を再開しようかと思って。畑に撒く種も見たいですし。」
彼の表情に、はっきりと安堵が浮かんだ。
それを見た瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
彼は喜んでいる。
私が春を見ていると思って。
私が仕事を再開すると思って。
畑に種を撒くと思って。
この家で、彼と続く未来へ向かっているのだと思って。
「それは。」
ヴィルヘルムは少し言葉を探した。
「とても、良いことだと思います。」
「そうですか。」
「はい。」
彼の声は、本当に嬉しそうだった。
「無理をしない範囲であれば。あなたがまた何かを作るのは、きっと良いことです。」
「では、お土産に種を買ってきますね。」
「種を?」
「はい。春になったら、まず何を植えるか一緒に考えましょう。」
ヴィルヘルムの目が、柔らかくなる。
「一緒に?」
「一緒に。」
私は言った。
嘘を重ねる。
小さな未来の形を、彼の前に並べる。
春。
畑。
種。
一緒に。
全部、存在しない未来。
でも彼は、それを信じている。
嬉しそうに。
愛おしそうに。
「楽しみです。」
彼は言った。
私は頷く。
「私もです。」
その言葉だけは、ひどく苦かった。
夕食は、いつもより静かだった。
けれど、重くはなかった。
ヴィルヘルムは私の料理をいつものように丁寧に食べた。
鶏肉が柔らかいと言い、焼き林檎の蜂蜜が少し焦げたところが美味しいと言い、芋に散らした香草の量がちょうどいいと言った。
私は笑って、それを聞いた。
彼が褒めるたびに、その言葉を一つずつ胸にしまう。
この人は、私の作った料理を覚えていてくれるだろうか。
あるいは、思い出すたびに苦しむだろうか。
ならば、忘れてくれればいい。
忘れて。
忘れないで。
矛盾した願いが、胸の中で絡まっていく。
食事の後、彼は長く私を抱きしめた。
寝台ではなく、炉の前で。
出発まで、あまり時間はないのだろう。
それでも彼は、少しでも私に触れていたいようだった。
「本当は。」
彼が、私の髪に頬を寄せたまま言った。
「もう少し、ここにいたかった。」
「私もです。」
「すみません。」
「謝らないでください。」
「けれど。」
「あなたは、行かなければならないのでしょう。」
彼は答えなかった。
それが答えだった。
私は彼の胸に額を寄せた。
「……行ってください。」
その言葉を言うのに、どれほど力が必要だったか、彼は知らない。
「レベッカ。」
「帰ってきたら、たくさん甘やかしてください。」
ヴィルヘルムは一瞬、息を詰めた。
それから、少しだけ笑った。
「それは、私がする方ですか。」
「私もします。」
「では、急いで戻らないとなりませんね。」
「はい。」
私は顔を上げた。
「でも、無茶はしないでください。」
「努力します。」
「それは信用できない返事ですね。」
いつもと同じ笑顔、いつもと同じ軽口。いつも通りの私。
整いすぎているかしら。
ローレンスの言葉が胸に甦る。
けれど、ヴィルヘルムは、気付かずただ困ったように笑った。
「では、できるだけ慎重に無茶をします。」
「それもおかしいです。」
「あなたに早く会うためです。」
彼は真面目に言った。
私はもう笑うしかなかった。
泣かないために。
やがて、彼は立ち上がらなければならなくなった。
外套を羽織る。
手袋をつける。
剣帯を整える。
いつもの動作。
けれど今日は、すべてが別れの準備に見えた。
玄関の前で、ヴィルヘルムは何度も私を振り返った。
「レベッカ。」
「はい。」
「本当に、すぐ戻ります。」
「はい。」
「その間、無理をしないでください。」
「はい。」
「町へ行く時は、マーサと一緒に。」
「はい。」
「人の多い通りを使ってください。」
「はい。」
「何かあれば、ローレンスに。」
「はい。」
私は微笑んだ。
「ヴィルヘルム。」
「はい。」
「私としばらく会えないのが寂しくて、心配ばかりしていませんか。」
言った途端、彼が固まった。
そして、少しだけ目を伏せる。
「……寂しくないと、言えるほど器用ではありません。」
胸が、甘く痛んだ。
「それは私の台詞です。」
「あなたは、あまり寂しそうに見えません。」
拗ねたような声だった。
私は思わず瞬きをした。
この人は。
こんな時に。
こんな可愛いことを言う。
「もう。」
私は彼に近づき、両腕を回して抱きしめた。
「私だって、精一杯我慢しているのです。そんな可愛いことを言われたら、行かせられなくなります。」
ヴィルヘルムの腕が、私を抱き返す。
強く。
でも、壊さないように。
「行きたくありません。」
彼が小さく言った。
胸の奥が、崩れそうになった。
「……行ってください。」
「はい。」
「でも、早く帰ってきてください。」
「必ず。」
彼はそう言って、私の額に口づけた。
それから、頬に。
最後に、唇に。
短い口づけのはずだった。
けれど、離れがたくなったのはどちらだったのか分からない。
少しだけ深くなり、互いの息が乱れる。
彼が先に顔を離した。
「……これ以上は。」
「はい。」
「本当に、行けなくなります。」
「では、行かせません。」
私がわざとそう言うと、彼は困ったように笑った。
そして、何かを堪えるように目を伏せた。
「あなたを、この馬に乗せて連れ帰れたらいいのに。」
その言葉は、彼自身の口からこぼれ落ちたものだった。
言ってはいけない本音だったのかもしれない。
彼は動揺を殺すように眉を顰めた。
私も、一瞬だけ息を止めた。
――連れて行って。
そう言いそうになった。
今なら、まだ。
彼の馬に乗れば。
彼の腕の中にいれば。
私は何も考えなくていいのではないか。
――けれど、その未来を選べば、私は彼の傷になる。
だから、笑った。
わざと、少しだけ意地悪に。
「二時間も馬に揺られたら、しばらくあなたを困らせる元気が残らないかもしれません。」
ヴィルヘルムが完全に固まった。
それから、顔を真っ赤にする。
「レベッカ。」
「何ですか。」
「今、それを。」
「私は真面目に体力の心配をしています。」
「真面目な顔で言わないでください。」
「ヴィルヘルムこそ、そんな顔をなさらないでください。からかいたくなります。」
彼は片手で顔を覆った。
「あなたは、本当に。」
「はい。」
「私をどうしたいのですか。」
私は彼の手を取り、顔から下ろした。
そして、まっすぐ見上げる。
「あなたを想っています。」
ヴィルヘルムの表情が止まった。
「どこにいても。」
私は続けた。
「何をしていても。」
言葉を選ぶ。
慎重に。
不用意な約束はしない。
未来を匂わせすぎない。
けれど、彼が安心できるように。
「私は、あなたを想っています。」
ヴィルヘルムは、ゆっくりと息を吐いた。
「それだけで。」
彼は低く言った。
「私は、戻れます。」
私は微笑んだ。
どうか。
――戻らないで。
――戻ってきて。
心の中で、二つの願いがぶつかる。
でも口にしたのは、一つだけだった。
「行ってらっしゃい、ヴィルヘルム。」
彼は私を見つめた。
長く。
どこか眩しそうに。
その姿を目に焼き付けるように。
けれど、覚えようとしているのは私の方だった。
彼の目。
頬の赤み。
唇の熱。
私を置いていくことを惜しむ表情。
全部。
全部。
「行ってきます、レベッカ。」
彼はそう言って、ようやく扉を出た。
私は外まで見送った。
アルクの手綱を取り、彼が馬に乗る。
夜の空気が冷たい。
彼が振り返る。
私は微笑む。
彼も微笑む。
それから、馬が動き出す。
蹄の音が、森の道へ遠ざかっていく。
私は、その音が聞こえなくなるまで立っていた。
扉を閉める。
家の中に戻る。
炉の火がまだ燃えている。
彼の茶器には、少しだけ果実湯が残っていた。
私はそれを片づけられなかった。
しばらく、ただ見つめる。
「ああ。」
声が漏れた。
「終わってしまうのね。」
もう、幕は下り始めている。
◇
夜の闇に沈んだ森の入口は、静寂が耳に痛く感じるほど不自然に静まり返っていた。
「殿下。」
彼を待っていた配下の者が、静かに頭を下げる。
ヴィルヘルムは馬を降りずに告げた。
「明後日、レベッカが町へ出ます。」
ヴィルヘルムの声は、もういつもの冷静なものに戻っていた。
「マーサと一緒に、ローレンスの店へ寄るそうです。」
「承知いたしました。」
「一人、距離を置いて護衛を。彼女の視界には入らないように。町中では不用意に近づかないでください。」
「はい。」
「マーサがいるなら、必要以上に手を出さなくて構いません。ただし、不審な者が近づけば、速やかに排除を。」
「かしこまりました。」
ヴィルヘルムは森の方を一度だけ振り返った。
もう家は見えない。
けれど、そこにはレベッカがいる。
炉の火のそばで。
きっと、自分が戻るのを待っている。
春の種を選ぶことを考えながら。
彼はその光景を疑わなかった。
疑う理由がなかった。
「出発します。」
ヴィルヘルムは言った。
配下が道を開ける。
彼は馬腹を軽く蹴り、公爵領館へ向かって走り出した。
王都へ戻るために。
すべてを整えるために。
――彼女の待つ未来へ帰るために。




