第六十九話 春を待たない人
王子の生誕祭まで、一か月を少し切っていた。
その日が来れば、第一王子と侯爵令嬢の婚礼が行われる。
その日が来れば、私が断罪されてから一年になる。
その日が来れば、私を監視するという名目も終わる。
――そして、その日が来る前に、私はこの家を出ていく。
そう決めてから、日々は少しだけ形を変えた。
外の世界は、相変わらず冬だった。
雪は降ったり止んだりを繰り返し、森の道は朝になると白く凍る。
畑は眠っている。
柵は曲がったまま。
物置の隅には、使われなくなった籠と農具が寄せられている。
私はそれを直さない。
――直す必要がないから。
春のための支度はしない。
――春をここで迎えるつもりがないから。
その代わり、家の中だけは、ますます整っていった。
ヴィルヘルムの茶器。
彼が座る椅子。
灰青の布。
木の櫛。
寝台の端。
炉のそば。
彼が触れるものは、すべて乱れないようにした。
彼が来るたび、この家は幸せな場所でなければならない。
外がどれほど荒れていても。
私がどれほど空っぽでも。
彼の目に映る私は、彼を愛し、彼に愛され、今を幸せに生きている女でなければならない。
それが、私にできる最後のことだった。
けれど、舞台の裏側では、少しずつ片づけが進んでいた。
使わない布を畳む。
古い糸をまとめる。
針を油紙に包む。
小さな鈴を袋へ入れる。
売れるもの。
置いていくもの。
持っていくもの。
燃やすもの。
一つずつ分けていく。
不思議なほど手は迷わなかった。
最初にこの家へ来た時、私は何も持っていなかった。
ならば、出ていく時も多くを持つべきではない。
灰青の布は、迷った。
木の櫛も、迷った。
けれど、櫛だけは小さな布に包んで、手元の箱に入れた。
あの人が、春にはもう少し髪が伸びていますね、と言った櫛。
春を迎えない私が持っていくには、あまりにも残酷なもの。
――それでも、置いていけなかった。
灰青の布は、椅子の背に掛けたままにした。
あの色は、この家に残す。
彼が選んだ冬の色。
彼が私に似合うと言った色。
そして、一年前の私にはありえなかった冬の幸福の色。
上品な手触りは、終演後の舞台に残された、重い幕布のようだと思った。
寝台の下には、もう一つ、小さな箱があった。
ヴィルヘルムが買い戻してくれた、装飾具の入った箱だ。
私が最初に手放したもの。
元公爵令嬢だった私の欠片。
彼が、取り戻そうとしてくれたもの。
私は時折、その箱を出して蓋を開ける。
銀の細工は、今も美しい。
耳元で揺れていたはずの細工も、手首に触れていたはずの鎖も、首元を彩る藍色の輝きも、何も変わっていない。
変わったのは、私だけだ。
それを見るたびに、私は少しだけ不思議な気持ちになる。
彼は、私から奪われたものを取り戻そうとしてくれた。
けれど、私はもう、それを身につけていた私には戻れない。
だから、この箱は持っていかない。
これは、彼が取り戻した過去だ。
私がこれから持っていくものではない。
その日、私は久しぶりに町へ降りた。
ヴィルヘルムには言っていない。
言わずとも、あとで護衛の者から彼の耳に入るのだろうけれど。
それでも、私の口からは言いたくなかった。
冬の町は、以前より少し色が少なかった。
店先には干し肉や根菜、厚手の布、薪束が並んでいる。
人々は肩をすくめ、息を白くしながら歩いていた。
それでも町は生きている。
花屋の奥さんが客と値段を言い合っている。
薬草売りのエダが、手袋をしたまま干し葉を量っている。
材木屋の主人が荷を運んでいる。
懐かしい。
そう思った。
けれど、その懐かしさは、もう自分のものではないような気がした。
私は通りを歩きながら、町の様子を目に入れていった。
市場の端には、乗合馬車の札が立っている。
隣町へ向かう馬車は、昼過ぎと夕刻前に一本ずつ。
春祭りの準備が近づいているせいか、普段より旅人の姿が多い。
厚手の外套。
深いフード。
荷を背負う者。
籠を抱える女。
誰もが、自分の用事で忙しい。
誰か一人の顔など、すぐに人の流れへ紛れるだろう。
宿屋と食堂が一体になった店の前を通る。
昼時で、扉の奥から人の声と湯気があふれていた。
商人らしい男たち。
旅の夫婦。
荷運びの若者。
店員が盆を持って忙しそうに動いている。
奥には階段が見えた。
その横に、裏へ続く通路もある。
私は立ち止まらない。
ただ、歩きながら見ただけ。
表から入って、奥へ抜ける道がある。
混んでいる時間なら、少しの間、人の目は途切れる。
私はそのことだけを心に留めた。
それから、ローレンスの店へ向かった。
扉を開けると、茶葉の香りがした。
乾いた草と木箱と紙の匂い。
何度も来た場所。
私の作ったものが初めて人の目に触れた場所。
けれど棚を見ると、胸は静かだった。
私の香草袋は、以前よりずいぶん少ない。
茶布も、鈴飾りも、残っているものだけが並んでいる。
補充されない棚。
減るだけの棚。
それは、私の暮らしそのもののようだった。
「いらっしゃい。」
帳簿を見ていたローレンスが顔を上げた。
私を見て、少しだけ目を細める。
「久しぶりだね、レベッカ。」
「ご無沙汰しております。」
「寒い中、よく来たね。」
「今日は、少しお願いがあって。」
ローレンスは帳簿を閉じた。
表情はいつも通りだった。
穏やかで、少しだけ人をからかうような顔。
けれど、その目は静かに私を見ている。
マーサとは違う。
ローレンスは、踏み込む前に測る人だ。
情報を扱う人。
言葉の端と沈黙の重さを読む人。
私はその前に立ち、微笑んだ。
「冬の間、こちらに置いていただいている品を、一度引き上げようと思います。」
ローレンスはすぐには答えなかった。
「全部かい。」
「はい。」
「売れ残りというほど残ってはいないけどね。」
「それでも、棚を空けてしまっているでしょう。」
「棚代は払ってもらっているよ。」
「それも含めて、一度整理したいのです。」
ローレンスは私を見た。
「春になれば、また作れるんじゃないかな。」
「春になってから、また考えます。」
嘘ではない。
春になってから考える。
ただ、その春を、この町で迎えるつもりがないだけだ。
ローレンスは指先で帳簿の端を軽く叩いた。
「畑も、針仕事も、全部冬休みかい。」
「初めての冬でしたから。」
「……便利な言葉だ。」
「ええ。私もそう思います。」
私がそう答えると、ローレンスはわずかに眉を上げた。
私は笑っていた。
自然に。
穏やかに。
何の不安もないように。
「棚を片づけても構いませんか。」
「……もちろん。君の品だ。」
「ありがとうございます。」
私は持ってきた布袋を広げた。
棚に並んでいるものを、一つずつ取る。
灰色の香草袋。
薄緑の香草袋。
茶葉包みの布。
古道具屋の老人が気に入った、掠れた音の鈴飾りの残り。
手に取るたび、少しだけ過去の自分が浮かぶ。
色を迷った私。
鈴の音を確かめた私。
売れるかどうか不安だった私。
ローレンスに褒められて、ほんの少し嬉しかった私。
どれも遠い。
遠いのに、手の中の布はまだ温かみを持っていた。
「もったいないね。」
ローレンスが言った。
「どれも、悪くなかった。」
「ありがとうございます。」
「君は、自分で思っているより、手がいい。」
「お世辞ですか。」
「商売人は、売れないものにお世辞を言わない。」
「では、嬉しく受け取ります。」
私は淡々と袋へ品物を入れた。
ローレンスはその様子を見ていた。
「レベッカ。」
「はい。」
「何か、急ぐ理由があるのかい。」
手が止まりそうになった。
けれど止めなかった。
「冬の間に片づけておく方が、春に動きやすいでしょう。」
「春に動くんだね。」
「ええ。」
「どこへ。」
私は香草袋を布袋へ入れた。
「それは、春になってから考えます。」
ローレンスは黙った。
店の外で、誰かが笑う声がした。
乾物屋の奥さんだろうか。
町の音。
暮らしの音。
私はそれを聞きながら、最後の茶布を取った。
「君は、今とても自然だ。」
ローレンスが言った。
私は顔を上げる。
「そうですか。」
「ああ。自然すぎるくらいに。」
マーサと同じことを言うのだと思った。
けれど、ローレンスの声は違った。
責めるのではない。
踏み込むのでもない。
ただ、記録するように言う声だった。
「商売を始めたばかりの頃の君は、もっと不自然だったよ。」
「不自然?」
「何でも自分で納得しようとしていた。棚代も、売れ行きも、町の人の反応も。失敗しないように、間違えないように、一つ一つ確かめていた。」
「未熟でしたから。」
「そうかもしれない。けど、生きていた。」
胸の奥が静かに冷えた。
「今の君は、綺麗に整いすぎている。」
ローレンスは穏やかに続けた。
「まるで、もう帳尻が合っている人みたいだ。」
私は笑った。
「帳面は、合っている方が良いでしょう。」
「そうだね。」
ローレンスも笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「でも、生きている人間の帳面は、少しくらい合わない方が自然だよ。」
「商売人らしくないお言葉ですね。」
「商売人だから分かるのさ。人は、必要のないものまで買う。今すぐ使わないものを取っておく。損をすると分かっていても、手放せないものがある。」
ローレンスの視線が、私の布袋に落ちた。
「君は今、手放し方が綺麗すぎる。」
私は布袋の口を結んだ。
「褒め言葉として受け取っておきます。」
「レベッカ。」
「はい。」
「ヴィルヘルム殿下には、このことを。」
「冬の間、仕事を減らすことはお伝えしています。」
「全部引き上げることは。」
「細かい商売のことまで、ご心配をかける必要はありません。」
「なるほど。」
ローレンスは帳簿に目を落とした。
そして、何かを書きつける。
「では、棚代は今月分まで。残りの売上は、ここにまとめてある。」
彼は小さな袋を取り出した。
硬貨の音がする。
私は受け取った。
以前なら、売上を受け取るたびに、少し誇らしかった。
自分で作ったものが誰かに買われた。
自分の手が、少しだけ暮らしを動かした。
そんな気がした。
今は、ただ旅のための重さに思えた。
「ありがとうございます。」
私は小袋を鞄へ入れ、それからもう一つ、別の袋を取り出した。
ローレンスの目がわずかに動いた。
「それは?」
「家賃です。」
「家賃?」
「はい。春までの分を、先にお渡ししておこうと思いまして。」
ローレンスは、しばらく私を見た。
「春まで。」
「雪で町まで降りられないこともありますから。お手数をおかけする前に、まとめておいた方が良いかと。」
「律儀だね。」
「未払いがあると落ち着かないだけです。」
私は家賃の入った袋を机に置いた。
ローレンスはそれをすぐには取らなかった。
「春まで払うということは、春まではいるということかな。」
「そのつもりです。」
「そのつもり。」
彼は言葉を繰り返した。
「うん。受け取っておくよ。」
そう言って、ようやく袋を取った。
責めも、追及もしない。
ただ、受け取る。
その態度が、かえって胸に刺さった。
「また始める時は、持っておいで。」
「はい。」
「春でも、夏でも。」
「はい。」
返事だけをする。
未来の形は語らない。
ローレンスは、その空白に気づいただろう。
けれど、何も言わなかった。
ただ、店の奥から紙袋を一つ持ってきた。
「これは?」
「茶葉だよ。香りの強くないもの。冬の終わりに飲むといい。」
「代金は。」
「売上から引いておいた。」
「そうですか。」
私は受け取った。
施しではない形にしてくれたのだと分かった。
ありがたかった。
優しい人だ。
ローレンスも。
マーサも。
みんな、悪い人ではない。
だからこそ、私はこの町に残れない。
「レベッカ。」
店を出ようとした時、ローレンスが呼んだ。
「はい。」
「君は、君が思っているよりずっと立派な人だ」
ローレンスは私をただまっすぐ見つめていた。
「大切に思ってるのは、殿下だけじゃない。もっと周りを頼りにしていい。」
「今でも頼りにしています。」
ローレンスは、私の言葉を否定しなかった。
ぐっとこらえるように下を向いて、再び上げた顔にはいつもの食えない笑みがあった。
そして、明るく言った。
「なら、せめて道に迷わないように。」
胸の奥が痛んだ。
マーサも、似たようなことを言った。
――寒いところで眠るんじゃないよ。
ローレンスは、道に迷わないようにと言う。
みんな、私がどこかへ行くことを知らないふりで知っている。
止められないことも、分かっている。
「気をつけます。」
私はそう答えた。
そして店を出た。
町の空気は冷たかった。
布袋は思ったより重い。
売上の入った小袋も、茶葉の紙袋も、腕に食い込む。
私は通りを歩きながら、もう一度だけ町を見た。
一年、何度も私を助けてくれた町。
私が少しだけ暮らしの真似をした町。
――ありがとう。
声には出さなかった。
出せば、何かが崩れる気がした。
森の家へ戻る頃には、空が暗くなり始めていた。
ヴィルヘルムが来るまで、あまり時間がない。
私は布袋を物置の奥へ入れた。
ローレンスから引き上げた品物は、まとめて箱に入れる。
針箱のそばに置くと、そこだけが過去の墓標のように見えた。
私はしばらくそれを見ていた。
それから、蓋を閉めた。
笑う。
大丈夫。
大丈夫。
演じきれる。
外では、雪が降り始めていた。
細かく、静かに。
やがて、遠くで蹄の音がした。
胸の奥に、光が戻る。
ねじが巻かれる。
音楽が始まる。
私は扉へ向かった。
開ける前に、一度だけ深く息を吸う。
そして、いつものように微笑んだ。
「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」
彼は雪の向こうで、幸せそうに笑った。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
私は一瞬だけ、自分が何を手放そうとしているのか分からなくなった。




