第六十八話 盤上
公爵領館には、冬の静けさはなかった。
森の家に降る雪が音を奪うのだとすれば、領館に降る雪は、人の足音をいっそう際立たせる。
廊下を行き交う靴音。
扉の開閉。
低く交わされる声。
封蝋を割る音。
紙を広げる音。
暖炉の火が鳴る音さえ、この館ではどこか緊迫して聞こえた。
ヴィルヘルムは、地図の前に立っていた。
机の上には、国境沿いの街の名が書き込まれた地図が広げられている。
赤い駒。
黒い駒。
細い銀の針。
封の切られた報告書。
商会の印が写された紙片。
密輸経路の推測。
不自然に増えた荷馬車の記録。
国境を越えて流れ込んだ難民の数。
その中に紛れた武器と、禁止薬物。
小競り合いの報告は、以前より明らかに増えていた。
エルセリア国内の混乱は、もう対岸の火ではない。
港湾貴族の資金難。
王室への不満。
借財を踏み倒された貴族たちの焦り。
地方で起こる暴動。
王都から遠い港町の不穏。
そして、その混乱に乗じて金を作ろうとする者たち。
エルセリアの一部貴族が、アインシュヴァルド国内の反王族派や、隣国と近い商人たちへ接触している可能性は高かった。
混乱は、金になる。
不安は、武器になる。
そして国境は、それらを運ぶ。
ヴィルヘルムは地図の上に置いた黒い駒を、一つ動かした。
国境沿いの街。
そこから街道を北へ。
さらに鉱山都市の手前で、赤い駒とぶつかる。
想定される動き。
遅い。
見えすぎている。
ならば、これは囮かもしれない。
彼は別の銀の針を取り、港から伸びる細い線上に置いた。
こちらの方が厄介だ。
商会を使われると、表向きはただの荷だ。
冬の物資。
毛織物。
塩漬け肉。
薬草。
油。
その下に何を隠すかで、街は簡単に変わる。
報告書の文字を追う。
王都から届いた書簡。
王太子就任に向けた調整。
第一王子の婚礼に合わせた儀礼の再編。
国境の警備増強。
各領への根回し。
水面下で進む反王族派の炙り出し。
そして、彼女には絶対に知らせてはならない用意。
机の上にあるものは、すべて繋がっていた。
本来なら別々に扱うべき問題が、一つの盤上に置かれている。
王太子。
国境。
婚礼。
領内警備。
隣国の内乱。
王家の威信。
レベッカ。
最後の名だけは、紙に書かれていない。
けれど、ヴィルヘルムの中では、すべての中心にあった。
森の家。
炉の火。
灰青の布。
木の櫛。
自分を待っていると言った声。
指先に触れる温度。
彼女が笑うたび、ヴィルヘルムは、今度こそ必ず守るのだと思う。
これまで奪われたものを、すべて同じ形で返すことはできない。
――それでも、できうる限り。
彼女の名誉も、居場所も、未来も。
すべて整える。
そのためには、一手も誤れない。
ヴィルヘルムは、銀の針をもう一本地図に刺した。
次の手。
そして、その次。
駒はすでに動いている。
あとは詰みに向かわせるだけだった。
「殿下。」
扉の外から声がした。
「エルヴァルト公爵がお見えです。」
「お通ししてください。」
ヴィルヘルムは地図から目を離さずに答えた。
間もなく扉が開き、クラウス・エルヴァルト公爵が入ってきた。
雪の湿り気をわずかにまとった外套。
厳しい目。
老いを感じさせない背筋。
公爵は一礼し、部屋の中へ進む。
「お忙しいところ失礼いたします、殿下。」
「構いません。ちょうど、国境の報告を見ていました。」
「その件でございます。」
公爵の声は低かった。
ヴィルヘルムはようやく顔を上げた。
「また動きがありましたか。」
「はい。港から南の商会に入った荷の一部が消えています。表向きは乾燥薬草でしたが、帳簿と重量が合いません。」
「経由地は。」
「二つ。どちらも、エルセリア寄りの商人と繋がりがあります。」
「護衛は。」
「増やしております。ですが、商人の荷に紛れたものを全て止めれば、かえって領内の不満を煽ります。」
「分かっています。」
ヴィルヘルムは、地図上の銀の針を動かした。
「止める場所は国境ではなく、内側にしましょう。相手に入ったと思わせてから、受け手ごと押さえる方がよい。」
公爵は地図を見た。
「囮を使われる可能性は。」
「あります。むしろ、本命は別でしょう。」
「殿下もそうお考えですか。」
「はい。」
ヴィルヘルムは淡々と答えた。
「目に見える密輸は、こちらの注意を国境沿いに固定するためのものでしょう。本命は、王太子就任と婚礼の儀に合わせた王都周辺の混乱です。」
「同感です。」
「ならば、港と街道と王都の三箇所を同時に見ます。」
「人手が足りません。」
「足りるように動かします。」
即答だった。
公爵は眉をわずかに動かした。
「殿下。」
「はい。」
「その動かす人手の中に、レベッカ嬢の周辺警備は含まれておりますか。」
部屋の空気が、わずかに変わった。
ヴィルヘルムは地図から手を離した。
「もちろんです。」
「では、改めて申し上げます。レベッカ嬢を、一時的にでも公爵領館へ移すべきです。」
その声は、静かだった。
けれど、強かった。
「森の家は、穏やかに暮らすためにはよい場所です。ですが、今の局面で守り抜くための場所ではありません。」
「人員は配置しています。」
「足りません。」
公爵は丁寧に、しかし容赦なく言った。
「家の周囲に人を置いても、森道は長い。物資の出入りも少ない。火急の際には医師も遅れる。何より、殿下ご自身が通うことで、あの場所の重要性を周囲に示し続けておられます。」
ヴィルヘルムは黙って聞いていた。
「冬の療養という名目でもよろしい。近辺が不穏だとだけ告げてもよろしい。公爵領館でなくとも、近隣の離れを用意します。令嬢に真実をお伝えする必要はございません。」
「いいえ。」
ヴィルヘルムの答えは短かった。
公爵は一瞬、言葉を止めた。
「殿下。」
「彼女に不自然な名目を与えるつもりはありません。」
「しかし。」
「彼女は聡い方です。」
ヴィルヘルムの声は変わらない。
冷静で、静かで、整っている。
「冬の療養。近辺の不穏。公爵領館の離れ。どの名目であっても、彼女は違和感に気づきます。気づけば、考える。考えれば、辿り着く。彼女には、何も知らせません。気取らせもしません。」
「ならば、なおさら今のうちに。」
「いいえ。」
再び、同じ答え。
公爵の表情がわずかに硬くなった。
「殿下は、あの方を森の家に置いたまま、全てを制御できるとお考えですか。」
「できます。」
「それは危うございます。」
「危うくはありません。手は打っています。」
「殿下。」
公爵は一歩、地図へ近づいた。
「失礼を承知で申し上げます。」
「どうぞ。」
「これは、オペラでもチェスでもありません。」
ヴィルヘルムの目が、ほんのわずかに細くなった。
公爵は続けた。
「決まった結末も、絶対的な勝利も存在しないのです。始まりも、また終わりもない。人の心は、盤上の駒のようには動きません。」
沈黙。
暖炉の火が鳴った。
「あなたのこれまでが今のあなたを作ったように、彼女にも、あなたの知らない彼女がいるのです。」
公爵の声は、さらに低くなった。
「殿下。あなたは、それを理解していない。」
その言葉は、刃のように部屋へ落ちた。
普通の者なら、怒るかもしれない。
反論するかもしれない。
声を荒げるかもしれない。
けれどヴィルヘルムは、ただ静かに公爵を見た。
表情は変わらない。
美しいほど整った顔に、感情はほとんど浮かんでいなかった。
「ご忠告、感謝いたします。」
彼は言った。
「ですが、彼女のことは、私が最も理解しています。」
公爵の目がわずかに揺れた。
「これまでも。」
ヴィルヘルムは静かに続けた。
「これからも。」
穏やかな声だった。
礼儀も失われていない。
それなのに、公爵はその言葉の奥に、暗いものを見た。
若い恋人の自惚れではない。
浮かれた青年の盲目でもない。
もっと深い。
もっと長い。
十年におよぶ敵地で耐え続けた日々を救ったもの。
幾重もの後悔。
取り戻したと思った温度。
それらが、ヴィルヘルムの内側で絡み合い、固く、暗く、鋭い核になっている。
公爵は、初めてその深さを見た気がした。
考えていたよりも、ずっと。
ヴィルヘルムの内面は、深く、暗く、歪んでいる。
「……殿下。」
公爵の声に、わずかな揺れが混じった。
ヴィルヘルムは、それを聞き逃さなかった。
青い目が、静かに公爵を見る。
そして、薄く笑った。
「ご心配には及びません。」
その微笑みは、穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって冷たかった。
「私と彼女の勝利には、この国の安寧が必要ですから。」
公爵は、返す言葉を失った。
国を軽んじているわけではない。
ヴィルヘルムは、国を守ろうとしている。
国境の混乱を抑え、王太子就任を整え、反王族派を封じ、隣国の内情を混乱させ、囮であり始まりとなる隣国の婚礼の儀の舞台を整えさせる。
その判断は正確だった。
その手腕も、恐らく誰より優れている。
問題は、中心だった。
彼の盤上の中心にあるのは、国ではない。
王でもない。
民でもない。
レベッカだ。
そして、その隣に立つ自分自身だ。
――国の平安さえ、彼女との未来へ至るための条件の一つとして盤上に置かれている。
公爵は、その事実に冷たいものを覚えた。
だが同時に、何も言えなかった。
今この国際情勢の中で、ヴィルヘルムの才は必要だった。
彼の読みも、行動力も、冷静さも。
王太子となる者として、あまりにも優秀だった。
優秀すぎた。
だからこそ、危うい。
「殿下。」
公爵は、慎重に言った。
「それでも、私は申し上げます。レベッカ嬢を一人の人間としてご覧ください。守るべき姫でも、取り戻すべき名誉でも、勝利の証でもなく。」
ヴィルヘルムは静かに公爵を見た。
「私は、彼女を誰より一人の人間として見ています。」
「本当に、そうでございましょうか。」
その問いに、ヴィルヘルムは答えなかった。
答える必要がないと思ったのかもしれない。
あるいは、答えれば何かが崩れると、どこかで知っていたのかもしれない。
沈黙の後、ヴィルヘルムは地図へ視線を戻した。
「南の商会には、こちらの者を入れます。港側は泳がせてください。王都への経路は、二重に監視を。国境の難民受け入れは止めない。止めれば、エルセリア側に口実を与えます。」
「……承知、いたしました。」
「反王族派と接触している商人の名簿を、明朝までに。」
「手配いたします。」
「それから、森の家周辺の人員は今の倍に。ですが、彼女の視界には入れないように。」
公爵は、わずかに目を伏せた。
「かしこまりました。」
「彼女に不安を与えないことが最優先です。」
「……はい。」
公爵は深く一礼した。
「では、失礼いたします。」
「公爵。」
呼び止められ、公爵は足を止めた。
「はい。」
「彼女に、何か伝えることがあれば、必ず私を通してください。」
声は穏やかだった。
けれど、それは命令だった。
「承知しております。」
公爵はそう答えた。
扉が閉まる。
部屋に、再び紙と火の音だけが残った。
ヴィルヘルムはしばらく、閉じた扉を見ていた。
公爵は正しい。
そのことは分かっている。
人の心は盤上の駒ではない。
絶対的な勝利など存在しない。
決まった結末などない。
分かっている。
それでも、勝たなければならない。
敗北は許されない。
彼女が二度と冷たい場所で一人泣かないために。
彼女が、自分の隣で笑える未来を得るために。
ヴィルヘルムは再び地図へ向き直った。
赤い駒を動かす。
黒い駒を下げる。
銀の針を刺し直す。
一手。
また一手。
盤面は複雑だった。
けれど、道はある。
必ずある。
レベッカは森の家で待っている。
自分を愛していると言った。
待っていますと笑った。
朝、髪に触れてくれた。
夜、自分の名を呼んだ。
あれが偽りであるはずがない。
偽りであるはずがなかった。
ヴィルヘルムは、手元の駒を静かに置いた。
――詰みまでは、あと少し。
そう信じていた。




