表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/75

第六十七話 終演へ向かう舞台

 冬は、さらに深くなった。


 雪は毎日降るわけではない。

 けれど、一度白くなった地面は、なかなか元の色に戻らなくなっていた。


 森の道は踏み固められ、ところどころ凍り、馬の蹄の跡だけが黒く残る。


 畑には、もう何もない。

 土は固く、畝の形も崩れ、春に立てた柵は雪と風で傾いたままだった。


 鳥除けの鈴は、ずいぶん前に取り外した。

 もう鳥に食べられるものなど何もないから。


 風が吹いても、畑は鳴らない。

 ただ白く、静かに、そこにあるだけだった。


 裁縫道具も同じだった。

 針箱は閉じられたまま、机の端に置かれている。


 糸は減ったまま。

 布も足されない。

 鈴も補充されない。


 ローレンスの店へ最後にまとまった納品をしたのがいつだったか、もう思い出すのに少し時間がかかる。


 ――仕事を減らします。

 ――冬支度がありますから。


 そう告げた。


 誰も強くは止めなかった。


 初めての冬だから。

 恋人ができたから。

 少し疲れが出たのだろうから。


 きっと、そんなふうに受け取られたのだろう。

 そうであってほしかった。


 森の家の外側は、少しずつ崩れていった。


 畑。

 柵。

 物置の隅。

 庭の道具。

 干し場。


 何もかもが、手を入れられないまま冬に沈んでいく。


 けれど、家の中だけは違った。


 炉の周りは、いつも整えられている。

 椅子は二つ。

 茶器も二つ。


 寝台の布は、必ず綺麗に直す。

 灰青の布は椅子の背にかけ、木の櫛は机の上に置く。


 ヴィルヘルムが来る日は、湯を沸かし、果実湯を作り、温かい料理を用意する。


 彼が冷えた手を差し出せば、私はそれを包む。

 彼がただいまと言えば、私はお帰りなさいと返す。


 ここだけは、きれいにしておかなければならない。


 この家の中だけは。

 彼が見る場所だけは。

 彼が触れる場所だけは。


 私たちの物語が、永遠に幸せなまま続いているように見える場所でなければならなかった。


 それは暮らしではなかった。

 生活でもなかった。


 開演を待つ舞台だった。


 ヴィルヘルムのために整えられた、小さな舞台。

 たった一人の観客であり、たった一人の共演者である彼のために。


 私は毎日、その舞台の上に立つ。


 彼がいない時間は、止まったオルゴール人形のようだった。


 火を見ている。

 湯気を見ている。

 窓の外の白い庭を見ている。


 何かをするわけでもない。

 何かを考えるわけでもない。


 ただ、次に彼が来る時間まで、ねじの切れた人形のように座っている。


 けれど、蹄の音が聞こえると、私は息を吹き返す。


 立ち上がる。

 髪を整える。

 火を強める。

 湯を温める。

 笑う。


 彼が扉を叩く前に開ける。

 そして、何も知らない顔をして言う。


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 そうすれば、彼は幸せそうに笑う。

 その笑顔を見るたびに、私は自分が正しく演じられていることを知る。


 まだ大丈夫。

 まだ崩れていない。

 まだ、この舞台は続けられる。


 終演まで。


 あと少しだけ。



 その日、マーサが久しぶりに森の家へやって来た。


 昼前だった。

 空は曇っていたが、雪は降っていなかった。


 私は炉の前に座り、木の櫛を手に取っていた。

 梳くほどの長さでもない髪に、何度も櫛を通す。


 ――ヴィルヘルムがくれた櫛。


 春にはもう少し伸びていますね、と言って贈られた。


 その春には、私はここにいない。


 分かっているのに、櫛を置けなかった。


 扉を叩く音がした。


 一瞬、胸が跳ねる。

 けれど、蹄の音は聞こえなかった。


 ヴィルヘルムではない。


 私は櫛を机に置き、扉へ向かった。

 開けると、マーサが立っていた。


 厚い外套を着て、腕に籠をかけている。

 頬は寒さで赤くなっていた。


「久しぶりだね、レベッカ。」


「マーサ。」


 私は微笑んだ。


「寒かったでしょう。中へどうぞ。」


「ああ。少しだけ寄らせてもらうよ。」


 マーサはそう言って家の中へ入った。


 その目が、すぐに部屋の中を見た。


 炉。

 机。

 椅子。

 整えられた寝台。

 二つの茶器。

 灰青の布。

 木の櫛。


 そして、閉じられた針箱。


 マーサは何も言わなかった。

 けれど、ほんの一瞬だけ足を止めた。


 私はそれに気づいた。


 気づいてしまった。


「お茶を淹れますね。」


「いや、そんなに長居はしないよ。」


「せっかく来てくださったのに。」


「本当に、顔を見に来ただけさ。」


 マーサは笑った。

 いつもの笑み。


 少し乱暴で、温かくて、遠慮のない笑み。


 けれど、その奥に何かがあるのが分かる。


 不安。

 戸惑い。

 警戒。


 彼女は家の中を見て、何かを感じたのだろう。


 私は炉に湯をかけた。

 手順は自然だった。


 湯を温め、茶葉を取る。

 湯飲みを二つ並べる。

 客人に茶を出す。


 ただ、それだけ。


 けれど、マーサの視線が私の手元に留まっているのが分かった。


 私は失敗していない。

 手は震えていない。

 声も乱れていない。

 笑みも、いつも通り。


 だからこそ、彼女は気づいたのかもしれない。


 私は茶を淹れ、机に置いた。


「どうぞ。」


「……ありがとう。」


 マーサは椅子に座った。


 以前なら、彼女はもっと遠慮なく家の中を見て回った。

 畑の話をし、干し草の置き方を直し、薪の積み方に小言を言った。


 今日は何も言わない。

 ただ、炉の前に座り、茶器を手で包んでいる。


 沈黙が落ちた。


「……最近、町へ来ないね。」


 マーサが言った。


「ええ。寒いですから。」


「ローレンスのところにも、あまり行っていないそうじゃないか。」


「冬の間は、仕事を減らすことにしました。」


「畑も、もう見ていないんだろう。」


「冬ですもの。今植えるものはありません。」


「柵が曲がっていたよ。」


「春になったら直します。」


 私は答えた。

 自分でも驚くほど、滑らかだった。


 何も引っかからない。

 何も乱れない。


 マーサは私を見ていた。


 私は微笑んでいる。


 ちゃんと。

 穏やかに。

 何もおかしくない顔で。


「レベッカ。」


 マーサの声が、少し低くなった。


「本当に、春になったら直すつもりかい。」


 その言葉に、私は器を置いた。

 ことり、と小さな音がした。


「もちろんです。」


「本当に?」


「ええ。」


 マーサは黙った。

 その目が、私を探っている。


 彼女は生活を知っている人だ。


 畑を見れば、その家の人間が暮らす気でいるかどうか分かる。

 針箱を見れば、その人間が何かを作り続ける気でいるかどうか分かる。

 台所を見れば、誰のために料理をしているのか分かる。


 きっと、彼女には見えている。


 この家が、暮らしの場ではなくなっていること。

 外側は荒れ、内側だけが不自然に整っていること。


 私が、ここを生活の場所としてではなく、彼を迎えるための舞台として維持していること。


「これは。」


 マーサは、ゆっくりと言った。


「……暮らしじゃないね。」


 胸の奥が、わずかに冷えた。

 けれど顔には出さない。


「何のことですか。」


「ここは、あんたが生きていく場所の顔をしていない。」


 マーサは、湯飲みから手を離した。


「きれいにしている。暖かくしている。椅子も、器もある。けどね、レベッカ。暮らしってのは、それだけじゃないんだよ。」


 私は黙っていた。


「畑が荒れる。道具が眠る。針箱が閉じる。春になったらと言いながら、春のための支度を何もしていない。」


 彼女の声は震えていなかった。

 けれど、いつもの軽さは消えていた。


「ここは、誰かを迎えるためだけに整えられた場所みたいだ。」


 私は静かに微笑んだ。


「ヴィルヘルムが来ますから。」


「ああ。」


 マーサは頷いた。


「そうだろうね。」


 その目に、悲しみが浮かんだ。


「だから余計に怖いんだよ。」


「怖い?」


「あんたが、あの方が来る時だけ生きているように見える。」


 胸が、一瞬だけ止まった。


「そんなことはありません。」


「あるよ。」


 マーサの声が強くなった。


「あんたは自分では上手くやっているつもりなんだろう。笑って、茶を出して、普通に話しているつもりなんだろう。でもね、レベッカ。あんたは今、普通すぎる。」


「普通すぎる?」


「そうさ。」


 マーサは私を見据えた。


「人は、少しは乱れるもんだ。疲れたら不機嫌になる。寒ければ愚痴る。畑が荒れれば焦る。仕事が止まれば不安になる。恋人が来るなら浮かれる。来ないなら寂しがる。そういうものが、今のあんたには見えない。」


 私は何も言わなかった。


「舞台の上の人形みたいだ。」


 その言葉で、胸の奥が静かになった。


 ――人形。


 そう。

 きっとその通りだ。


 ヴィルヘルムが来る時だけ、ねじが巻かれる。

 火が入り、音楽が流れ、私は踊る。


 彼が去れば、音楽は止まる。

 私は動かない。


 次の開演まで。


「何があったんだい。」


 マーサは言った。

 それは問いではなかった。


 踏み込む声だった。


 お節介な老婦人の声ではない。

 一人の人間として、私を引き戻そうとする声だった。


「レベッカ、あたしはね、あんたの身分だとか、あの方とのことだとか、そういう難しいことは分からないよ。けれど、暮らしが壊れていくのは分かる。人が、自分の明日を見なくなるのも分かる。」


「マーサ。」


「聞いておくれ。」


 彼女は私の言葉を遮った。


「恋はいい。幸せなら、それでいい。けど、あんた自身が消えていくような恋なら、それは幸せとは違うよ。」


 その瞬間だった。


 私の中で、何かがすんと冷えた。


 音が消える。

 火の音も。

 雪解けの雫も。

 マーサの息遣いも。


 全部、遠くなった。


 私は微笑みを消した。

 顔から、表情が落ちるのが分かった。


 マーサが息を呑んだ。


「それ以上は、不要です。」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


 先ほどまでの柔らかな声ではない。

 森の家のレベッカでもない。

 ローレンスの店で香草袋を並べていた女でもない。


 公爵令嬢として、長年磨き上げられた声。


 拒絶の声。


「レベッカ。」


「あなたには、とても感謝しています。」


 私はゆっくりと言った。


「この家に来たばかりの頃、何も知らない私に、多くを教えてくださいました。畑のことも、火のことも、冬支度も。あなたがいてくださらなければ、私はもっと早くに困っていたでしょう。」


 マーサは言葉を失っていた。


 私は続けた。


「ですが、私の生き方に踏み込む権利までは差し上げていません。」


 静寂。


 マーサの顔色が変わった。


 驚き。

 痛み。

 それから、ほんのわずかな恐れ。


 私はそれを見た。

 見てしまった。


 そして、止まらなかった。


「ご心配はありがたく受け取ります。けれど、これ以上の詮索はお控えください。」


 私は立ち上がった。


 自然に背筋が伸びる。

 顎が上がる。

 視線が下りる。


 ああ。

 私はまだ、この姿を覚えている。


 公爵家の娘として。

 社交界の華として。


 誰よりも正しく、誰よりも隙なく、誰にも踏み込ませないために磨いてきた姿。


 マーサが初めて見る、私の本来の仮面。


 いや。

 仮面ではないのかもしれない。


 これもまた、私なのだ。


「マーサ。」


 私は彼女の名を呼んだ。


「あなたは善意でおっしゃっているのでしょう。けれど、善意は許可なく人の内側へ踏み込む免状ではありません。」


 マーサの手が、茶器のそばで止まっていた。


 彼女は私を見上げている。

 さっきまで、心配そうに私を見ていた目が、今は少し違っていた。


 そこには、初めて理解した者の目があった。


 この娘は、ただの傷ついた年若い娘ではない。

 高位貴族として育ち、社交界で立ち、言葉と視線で人を退かせてきた者なのだと。


 彼女はそれを、いやでも知ったのだろう。

 そして同時に、悟ったのだと思う。


 ――私がこうなった以上、彼女の言葉はもう届かないと。


 マーサは、ゆっくり息を吐いた。


「……そうかい。」


 その声は、小さかった。


「分かったよ。」


 私は何も言わなかった。


 言えば、さらに傷つける。

 言わなくても、もう十分に傷つけている。


 マーサは立ち上がった。

 籠を腕にかける。


 持ってきてくれたものだろう。

 おそらく、根菜か、干し肉か、冬の薬草か。


 けれど彼女は、それを机に置かなかった。


「邪魔をしたね。」


「いいえ。」


「体だけは、冷やさないようにしな。」


 いつもの小言。

 けれど、その声にはもう、踏み込む力はなかった。


 私は小さく頷いた。


「ありがとうございます。」


 マーサは扉へ向かった。

 その背中を見て、胸の奥が痛んだ。


 悪い人ではない。

 ずっとそうだった。

 彼女は、ただ心配してくれた。

 私を、引き戻そうとしてくれた。


 でも、もう遅い。


 私は舞台を降りると決めた。

 降りる者が、舞台裏に他人を入れるわけにはいかない。


 マーサは扉の前で、一度だけ振り返った。


 何か言いたそうだった。

 けれど、言わなかった。


 きっと彼女はもう、自分の役を理解したのだ。


 お節介で親切な近所に住む婦人。

 森の家に来た女を支え、教え、叱り、見守る役。


 その役は、ここで終わりなのだと。


「レベッカ。」


「はい。」


「あんたが何を選んでも。」


 マーサはそこで少しだけ言葉を詰まらせた。


「……せめて、寒いところで眠るんじゃないよ。」


 私は一瞬、息が止まりそうになった。


 何かを察している。

 けれど、何も言わない。


 それが、彼女の最後の踏み込みだった。


「はい。」


 私は答えた。


「気をつけます。」


 マーサは小さく頷き、扉を開けた。

 冷たい空気が入る。


 彼女は外へ出ていった。


 扉が閉まる。


 家の中に、静けさが戻った。


 私はしばらくその場に立っていた。

 それから、ゆっくり椅子に座る。


 机の上には、器が二つ。


 一つは私のもの。

 一つはマーサのもの。


 ヴィルヘルムのものではない茶器が置かれていることに、奇妙な違和感を覚えた。


 私はマーサの器を片づけた。

 洗い、拭き、棚へ戻す。


 そして、ヴィルヘルムの茶器を出した。


 いつもの場所へ置く。


 それでようやく、舞台が元に戻った気がした。


 私は炉の火を見た。

 もうすぐ、ヴィルヘルムが来る。


 ねじが巻かれる。

 音楽が流れる。

 私はまた、笑う。


 しばらくして、遠くで蹄の音がした。


 その瞬間、胸の奥に光が灯る。


 私は扉へ向かった。

 終演へ向かう舞台の幕が、静かに上がる。


 そして私は、いつものように微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ