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第六十六話 監視役の終わり

 雪は、翌朝には止んでいた。


 森の枝先に残った白は、朝の光を受けて、少しずつほどけていく。


 屋根の端から雫が落ちた。

 ぽたり。

 ぽたり。


 その音を聞きながら、私は寝台の中で目を開けていた。


 ヴィルヘルムは、まだ眠っている。


 昨夜、彼はずいぶん遅くまで起きていた。

 エルセリアの冬の話をした後、私が泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれた。


 それからも、私はなかなか眠れなかった。

 彼も眠らなかった。


 何を話すでもなく、火が弱くなっていく音を聞きながら、ただ身を寄せ合っていた。


 今、彼は私のすぐ隣で、静かな寝息を立てている。


 いつもより少しだけ幼く見える顔。

 額に落ちた金髪。

 閉じた瞼。


 眠っている時だけは、彼が王族であることも、次の王太子として選ばれた人であることも、少しだけ遠くなる。


 彼は先日十九歳になったばかりだった。

 王族として生まれ、あらゆるものを背負わされ、これからも背負っていかねばならない王子。


 でも今だけはただの十九歳の青年だ。


 私の恋人。

 私の愛する人。


 ――そして、近い未来に、私が置いていく人。


 私はそっと手を伸ばし、彼の髪に触れた。


 柔らかい。

 冷たい冬の朝なのに、彼の髪は指先に温かい。


 昨夜の言葉が、胸の奥でまだ響いていた。


 ――あなたのために、生きていたかった。


 その言葉は、私の中に深く沈んでいる。


 重くて、温かくて、痛い。


 私はこの人に、何を返せるのだろう。


 何も返せない。

 何も残せない。

 それどころか、これから彼を傷つけることしかできない。


 それでも、今だけは。

 今だけは、彼の髪を撫でることを許してほしかった。


 ヴィルヘルムの瞼が、ゆっくりと動いた。


「……レベッカ。」


 寝起きの声は、少し掠れていた。


「もう起きていたのですか。」


「私もさっき起きたばかりです。」


 彼は目を開け、私を見た。


 しばらく、何も言わない。

 ただ見つめる。


 その視線があまりに柔らかくて、胸が苦しくなる。


「おはようございます。」


 私が言うと、彼はほんの少し微笑んだ。


「おはようございます、レベッカ。」


 朝の挨拶。

 ただそれだけのことなのに。


 その言葉をあともう何度も聞けるわけではないと思うと、胸が痛んだ。


 彼は私の手に気づき、そっと指を絡めた。


「朝から、私の髪で遊んでいたのですか。」


「はい。」


「それは、光栄ですね。」


「怒らないのですか。」


「怒る理由がありません。」


「では、明日もします。」


 ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。


「明日も、ここにいたくなります。」


 胸が鳴った。

 何気ない言葉。


 けれど、私にはもう、何気なく受け取ることができない。


 明日。

 明後日。

 その先。


 彼が普通に口にする未来の一つ一つが、私の胸に小さな傷をつけていく。


 私は笑って、彼の額にかかった髪をそっと払った。


「では、今日は朝食を食べていってください。」


「はい。」


「しっかりと。」


「はい。」


「眠そうな顔のまま会議に出ると、公爵様に叱られますよ。」


 ヴィルヘルムは少しだけ眉を動かした。


「……すでに叱られています。」


「でしょうね。」


「否定してくださらないのですか。」


「できません。」


 彼は困ったように笑った。

 その顔が愛しくて、私はまた胸が痛くなった。


 火を起こし直し、朝食を作った。


 昨日のうちに焼いておいた薄いパンを温め、卵を焼く。

 雪の日に残しておいた鶏肉の細切れを、きのこと一緒に炒めて香草を散らした。

 小さな芋は半分に切って、表面が少し焦げるくらいまで焼く。

 果実湯には蜂蜜を少し。


 豪華ではない。

 けれど、二人で食べるには十分だった。


 ヴィルヘルムは椅子に座り、まだ少し眠そうにしている。


 そんな彼を見るのは珍しい。


「今日は、少しぼんやりしていますね。」


「あなたが……。」


「私が?」


「その。昨夜、泣かせてしまったので……。」


 彼は果実湯を手に取り、湯気の向こうで目を伏せた。


「……あの後、眠れるわけがありません。」


「心配させましたか?」


「心配は、いつもしています。」


「いつも?」


「はい。」


「それは困りますね。」


「私はもう諦めました。」


「何をですか。」


「あなたを心配しない自分になることを。」


 何でもないように言う。

 けれど、それはとても彼らしい愛の言葉だった。


 私は皿を彼の前に置いた。


 焼いた芋の香ばしい匂いが立つ。

 鶏肉ときのこは、火のそばで少し濃い色になっていた。

 ヴィルヘルムはそれを一口食べ、目元を緩めた。


「美味しいです。」


「今朝は早いですね。」


「言い忘れる前に。」


「忘れることがあるのですか。」


「ありません。」


「では、なぜ。」


「言いたかったので。」


 その素直さに、私は少しだけ笑った。


 朝の食卓は穏やかだった。


 雪が溶ける音。

 火の音。

 皿と匙が触れる小さな音。


 ヴィルヘルムが果実湯を飲むたび、湯気が彼の顔を少し隠す。

 その向こうで、彼の目が穏やかに細められる。


 この光景を、私はまた覚えようとした。


 芋の焦げた匂い。

 卵の黄色。

 彼の眠そうな顔。

 私の作った料理を丁寧に食べる手。


 全部。


 全部、あとで私を苦しめる宝物になる。



 昼前、ヴィルヘルムは一度公爵領館へ戻った。


 会議があるのだと言った。


 けれど、その日の夜にはまた来ると約束した。


「本当に戻ってくるのですか。」


「はい。」


「道が凍ります。」


「気をつけます。」


「お仕事は?」


「終わらせます。」


「公爵様は?」


「……説得します。」


 私は思わず笑った。


「そこだけ少し弱いですね。」


「公爵は強敵です。」


「でしょうね。」


 ヴィルヘルムは外套を羽織りながら、少しだけ名残惜しそうにこちらを見た。


「夜には――。」


「待っています。」


 私がそう言うと、彼は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、とても嬉しそうに表情を緩めた。


「必ず戻ります。」


 彼はそう言って、森の道へ戻っていった。



 夕方止んでいた雪がまた降り始める頃、彼は本当に戻ってきた。


 風は冷たく、深く息をすれば肺が凍りそうだった。

 彼の頬はまた少し赤く、手袋の上からでも指先が冷えているのが分かった。


 私は何も言わずに彼を中へ入れ、手袋を外させ、両手で包む。


「今日は、温かいものを先に飲んでください。」


「はい。」


「返事が素直ですね。」


「……寒さに負けました。」


「では、私にも素直になってください。」


 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「私は、あなたにはいつも素直なつもりです。」


「そうでしょうか。」


「足りませんか?」


 彼が少しだけ首を傾げる。

 私はその顔を見て、胸の奥が熱くなった。


「今日は足ります。」


「……今日は。」


「明日は分かりません。」


「では、明日も努力します。」


 彼は真面目にそう言った。

 その真面目さが愛しくて、私は彼の冷えた指先に息を吹きかけた。


 ヴィルヘルムの動きが止まる。


「レベッカ。」


「温めているだけです。」


「分かっています。」


「顔が赤いですよ。」


「寒さのせいです。」


「そういうことにしておきます。」


 彼は少し困ったように目を伏せた。

 その表情が、どうしようもなく可愛らしかった。


 夕食は簡単にした。


 昼のうちに仕込んでおいた白い煮込みに、焼いたパン。

 干し肉と根菜を薄く切って焼いたもの。

 雪の日に残った焼き林檎を温め直したもの。


 ヴィルヘルムはいつものように、一つ一つ丁寧に食べた。


 食事の後、私たちは言葉少なに火のそばにいた。

 昨夜のことが、まだ二人の間に残っていた。


 重い沈黙ではない。

 けれど、いつものように軽く笑うには、少しだけ深すぎる沈黙だった。


 だから私は、彼の手を取った。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「今日は、何も考えたくありません。」


 彼の目が揺れる。


「レベッカ。」


「昨日は、たくさん考えました。」


「はい。」


「だから今日は、何も考えない日にしましょう。」


 私は少しだけ笑った。


「何も考えず、あなたのことだけ感じたいです。」


 ヴィルヘルムは言葉を失った。

 それから、ゆっくりと私の手を握り返す。


「……それを言われて、冷静でいられるほど、私はできた人間ではありません。」


「冷静でいてほしいとは言っていません。」


 彼の喉が小さく動いた。

 私は彼に近づいた。

 彼はもう止めなかった。


 ただ、私の顔を確かめるように見て、それから静かに口づけた。


 その夜の口づけは、最初はとても優しかった。

 昨夜、私が泣いたからだろう。

 彼は私を壊れ物のように扱った。


 髪に触れ、頬に触れ、肩を抱く腕にも、いつも以上に気遣いがあった。

 私はそれが嬉しくて、苦しくて、少しだけもどかしかった。


 優しくされると、現実を思い出してしまう。

 この人が私をどれほど大切にしているかを思い出してしまう。


 だから、私は彼の襟元を掴んだ。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「もっと、私を見てください。」


 彼の喉が動いた。


「見ています。」


「もっと。」


 彼は息を止めた。

 それから、少しだけ苦しそうに笑った。


「あなたに、それを言われる日が来るとは思いませんでした。」


「私もです。」


 私は彼の首に腕を回す。


「でも、もっと。」


 ヴィルヘルムの腕に力がこもる。

 その夜、私は彼を何度も求めた。


 甘く。

 少し強引に。


 彼が驚き、困り、赤くなり、それでも最後には私を抱きしめる、その一つ一つを確かめるように。


 現実を遠ざけるために。

 未来を見ないために。


 彼の熱だけで、自分の中を満たしてしまいたくて。



 夜が深くなった頃、私たちは寝台の上で寄り添っていた。


 火は細く残っている。


 窓の外は暗い。

 雪の白さだけが、夜の底にうっすらと浮かんでいた。


 ヴィルヘルムは私を抱いたまま、少し息を整えていた。

 いつもの冷静さは薄れ、髪は少し乱れ、頬にはまだ熱が残っている。


 その顔があまりに愛しくて、私は彼の胸に指先を滑らせた。


「そういえば。」


 私は、できるだけ軽い声で言った。


「私の監視業務は、まだ続いているのですか。」


 ヴィルヘルムの体が、ほんの一瞬だけ固まった。


 それは本当に短い反応だった。

 けれど、今の私は見逃さない。


「監視、ですか。」


「ええ。」


 私は彼の胸に指先で小さな円を描いた。


 戯れるように。

 わざとらしく拗ねるように。


「最初は、カイエン殿下と侯爵令嬢の結婚式が開かれるまでの一年間、私を監視するというお話だったでしょう?」


「それは。」


 彼は言葉に詰まった。


 私は笑った。

 軽く。

 何でもない冗談のように。


「分かっています。もう、ただの理由付けでしょう。そもそも、今の私に利用価値なんてありませんもの。」


「レベッカ。」


「結婚式は予定通り開かれるのですか?」


 ヴィルヘルムは黙った。


 言っていいのか。

 言うべきではないのか。


 その一瞬の迷いが、彼の喉に引っかかる。


 けれど、私があまりにも何気ない顔で見上げていたからだろう。


 彼は、油断した。


「……はい。王子の生誕祭に合わせて行われる予定です。」


 王子の生誕祭。


 その言葉が、静かに胸の奥へ落ちた。


 あの日だ。

 私が断罪された日。


 あの日から、一年。


 あと、二か月もない。


 ――私が、この人を手放すまで。


 頭の奥だけが、ひどく冷たく冴えていく。


 けれど私は笑った。


「では、監視業務はあと二か月で任務終了ですね。」


 ヴィルヘルムは何か言おうとした。

 けれど、言葉にならなかった。


 隠していることが多すぎるのだ。


 言いたいことも。

 言えないことも。

 彼の喉をふさいでいる。


 私はその口を、塞ぐように口づけた。


 軽く。

 それから、もう少し深く。


「今では、私の方が監視役ですね。」


「レベッカ?」


「あなたのこと、ずっと見つめているもの。隙がないか、ずっと伺っているのです。」


 私は、にやりと笑った。


「隙あり。」


 そう言って、彼の胸を押した。


 ヴィルヘルムは油断していたのか、あっさり寝台へ背を預ける。

 その表情が驚きに染まり、すぐに赤くなった。


「レベッカ、さっき。」


「止めますか。」


 私が尋ねると、ヴィルヘルムは一瞬、息を詰めた。

 それから、低く言った。


「……止められると思いますか。」


 その声が思いのほか熱を帯びていて、私は笑いそうになった。


「いいえ。」


「分かっていて、聞いたのですね。」


「はい。」


「あなたは、本当に。」


「意地悪ですか。」


「それだけでは足りません。」


「では?」


「危険です。」


 ヴィルヘルムは眉を寄せた。

 けれど、その目は少しも私を拒んでいなかった。


「あなたは、平気な顔で無理をする。」


「それは、あなたもでしょう。」


「私は今、あなたの話をしています。」


「では、今日は私の好きにさせてください。」


 彼は完全に言葉を失った。

 私は彼の上から顔を覗き込み、わざと少し首を傾げる。


「ヴィルヘルム。そんなに可愛い顔をなさると、心配になりますね。」


「心配されるのは、私ですか。」


「ええ。いたずらしたくなってしまいます。」


「……私は、あなたが怖いです。」


 ヴィルヘルムは低く言った。

 けれど、その目はとても甘かった。


「美しくて、綺麗で、可愛くて。優しいのに、時々ひどく意地悪で。……私は女神か、小悪魔を恋人にしてしまったのでしょうか。」


 私は笑った。


 笑えた。


 胸の奥が凍っているのに。


「でも、こういうのもお好きでしょう。」


「ええ。」


 彼は観念したように息を吐いた。


「本当に、私は私という人間に自信が持てなくなってきました。」


「大丈夫です。」


 私は彼の頬に触れた。


「あなたは最高です。もっと自信を持ってください。」


 ヴィルヘルムは、困ったように、泣きそうなほど幸せそうに笑った。


「あなたにそう言われると、本当に信じてしまいそうになる。」


「信じてください。」


 私はもう一度、彼に口づけた。


 考えたくなかった。


 王子の生誕祭。

 断罪の日。

 あと二か月もない未来。


 その全部を、彼の体温の向こうへ押し流したかった。


 だから私は、彼の名を呼んだ。


 何度も。

 何度も。


 この人を手放す日までに、私の中の空白をすべて彼で満たしてしまえるように。


 夜は、さらに深くなっていった。


 火はいつの間にか、ほとんど消えかけていた。


 ヴィルヘルムは私を抱きしめたまま、眠っていなかった。

 私も、眠れなかった。


 彼の胸に頬を寄せ、目を閉じる。


 温かい。

 優しい。

 愛しい。


 だからこそ、私はその奥で、静かに数える。


 あと二か月もない。


 王子の生誕祭。

 断罪の日。

 第一王子と侯爵令嬢の婚礼。


 ――そして、私がこの人の前から消える日。


 ヴィルヘルムは、私の髪に唇を寄せた。


「レベッカ。」


「はい。」


「明日は休んでください。」


「あなたがいてくださるなら。」


 ヴィルヘルムは返事をしなかった。

 ただ、困ったように私の髪に口づけた。


 それだけで、答えは十分だった。


 私は笑った。

 泣きそうになりながら。


 彼は何も知らない。


 私が知ってしまった期限も。

 私が冷めた頭でそれを数えていることも。


 ――私が今、彼の腕の中で別れの日を確かめていることも。


 何も知らない。


 だから、彼は私を抱きしめる。


 明日も、明後日も、その先も、きっと続くと信じて。


 私はその腕に身を預けた。


 今だけは。

 あと少しだけは。


 何も知らないふりをしていたかった。


 雪が溶ける朝が来るまで。


 彼の温度だけを信じていたかった。

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