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第六十五話 長い冬のあとに

 その日、雪は夜になっても止まなかった。


 深く積もるほどではない。

 けれど、窓の外に見える森の輪郭は、いつもより少し白くぼやけていた。


 枝先に薄く積もった雪が、夜の中でかすかに光っている。


 音が少ない。

 風も弱い。

 雪が降る夜は、世界が厚い布で包まれたように静かになる。


 私は炉の前に座り、ヴィルヘルムは静かに私の隣に座っていた。

 いつもなら私を気遣い、私を求めるように向けられる視線が、今夜はただ炉の火を見つめていた。


「……眠いのですか。」


 私が聞くと、彼は顔を上げた。


「いいえ。」


「疲れていますか。」


「少し。」


 珍しく、素直な答えだった。


「では、寝ましょう。」


「……いえ。」


 彼は首を横に振った。


「もう少しだけ……このままで。」


 ヴィルヘルムの整った横顔は、火の光でやわらかく照らされていた。

 私はぼんやりとそれを見つめていた。


「雪の夜は、静かですね。」


 唐突に彼が言った。


 うとうとと微睡んでいた思考が、ふっと浮上する。


「エルセリアの冬は、もっと静かでした。」


 解けていた意識が急浮上する。


 彼がエルセリアにいた頃について話をすることは、これまでほとんどなかった。


 私も、聞かなかった。

 いや、聞けなかった。


 彼が語らないことには、語れない理由があるのだと知っていたから。


 でも彼は今夜、その記憶を私に開こうとしていた。


 聞いてはならないと、頭のどこかで誰かが呟いた。


「……城の中庭も、早朝だけは真っ白で。人の足跡がつく前の雪は、見た目だけは本当に綺麗でした。」


 彼は少し笑った。

 けれど、その笑みには温度がなかった。


「寒さは、思考を削ります。」


 私は息を止めた。


 脳裏に、冬の回廊に一人佇む少年の姿が浮かんだ。


 言葉を選ぶ時の間。

 人の視線を読みすぎる癖。

 何かを差し出される前に、ほんの一瞬だけ相手の意図を測る目。

 触れる前に必ず許可を求めていた手。


「……何度か。」


 彼は、さも平然とした声で言った。


「もう、生きることを。もがくことを。諦めようかと思ったことがあります。」


 胸が、どくりと嫌な音を立てて脈打った。


 不可解に思うことは、今考えてみれば多くあった。


 捲った袖から見えた紫紺の跡。

 特定の貴族が出る舞踏会は避けていると告げて細めた瞳。

 口を付けたカップを、飲むふりだけして、そっと戻した手。


「死のうとした、という意味ではありません。」


 彼はすぐに続けた。

 私が息を止めたことに気づいたのだろう。


「ただ、もういいのではないかと。考えることをやめて、抵抗することをやめて、何を言うべきか、何を言わないべきかを選び続けることをやめてしまえば、楽になるのではないかと。」


 火が、ぱちりと鳴った。

 小さな音なのに、ひどく大きく聞こえた。


「そう思う夜がありました。」


 私は、彼の横顔を見た。


 彼と初めて出会った時のことを思い出した。


 目を疑うほど、美しい少年。

 けれどもその瞳は仄暗く揺れていた。


 警戒の感情さえ押し殺し、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた姿。

 けれども、どこか折れそうだと思ったことも。


「でも。」


 彼は小さく息を吐いた。


「そのたびに、あなたを思いました。」


 息が苦しくなる。


 この先を聞いてはいけない。

 いけないのに。


「もしあなたが涙を堪えられなくなった時。」


 ヴィルヘルムは、少しだけ目を伏せた。


「また、あの冷たい場所で一人泣くのかと考えたら、意地でも生きなければならないと思いました。」


「ヴィルヘルム、私は――」


 言葉にならない。

 

 あの日、私を隠すように立っていた少年。

 いまよりずっと細く、頼りない背中。


 一体いつから、彼は私に与えようとしていたのだろう。


 目の奥に、微かな熱が滲んだ。


「たとえ、あなたの涙を拭う立場にはなれなくても。」


 彼の声に、初めてかすかな苦さが混じった。


「せめて、あなたのために少し影を作ることくらいはできなければ、私はきっと後悔すると思ったのです。」


 その言葉は、重かった。

 けれど、押しつけるような重さではなかった。

 雪のように静かに積もる言葉だった。


 彼はためらいながらも、言葉を探しているようだった。


「あなたが知らなくても。」


 彼は続けた。


「私が何も言えなくても。」


 彼の目が、私を見ていた。


「あなたのために、生きていたかった。」


 目の奥が熱い。


 堪えようとしたが、無理だった。

 頬に雫が滑り落ちるのを感じた。


 ヴィルヘルムの表情が変わる。


「レベッカ、泣かせるつもりではありませんでした。」


「違う。違うの。」


 私は頭を振った。

 心の中でいくつもの声が浮かんでは消えていった。


「嬉しくて。」


「しかし。」


 聡い彼は、いつも隠そうとする私のことを見つけてしまう。


 でも、今だけは気付いてほしくなかった。


「嬉しいのです。」


 嘘ではなかった。


「嬉しいから。」


 私は笑おうとした。

 うまく笑えたかは分からない。


 胸が裂けそうだと思った。


 私はヴィルヘルムと出会った時には既にカイエンの婚約者だった。


 彼は一体どれだけの時間、言葉を呑み込んだのだろう。


 そして、私も。


「レベッカ。」


「はい。」


「どうか、泣かないでください。」


 彼は困ったように笑った。

 それから、私を抱き寄せる。


 強くはない。

 けれど、包み込むように。


 私はその胸に顔を埋めた。


 彼は私のために生きたかったと言った。


 ――それが真実だと、私はもう知っている。


「あなたの涙の理由になるなら、私は自分のことさえ許せなくなります。」


 私は自分の判断が正しかったことを、また認めざるを得なかった。


 彼は私を守るためなら、自分の立場も、名誉も、未来も、すべて差し出すだろう。


 私はきっとそれに耐えられない。


 だから。

 だからこそ。


 私が、先に舞台を降りなければならない。


「レベッカ。」


 ヴィルヘルムが、私の髪に頬を寄せた。


「愛しています。」


 祈りにも似た、切実な言葉だった。


 私はもうすぐ、この人の未来を守るために、この人の前から消える。


 それがどれほど身勝手で、残酷で、傲慢な選択なのか、分かっている。


 分かっていても、もう他の答えを選べなかった。


 私は震えながら彼を抱きしめた。

 彼は安心したように吐息し、甘える幼子のように、私の髪に頬を滑らせた。


 彼の腕の中は、息が苦しくなるほど温かい。


 私はその温度を覚えようとした。


 この声を。

 この腕を。

 私を抱く力の優しさを。


 全部、忘れないように。


 外では、雪が静かに降り続いていた。


 白く。

 静かに。

 何もかもを覆い隠すように。


 炉の火はまだ燃えている。

 森の家の中だけが、ひどく温かい。


 私はその温かさに縋りながら、彼の胸に顔を埋めた。


 ――わたしは、この人を置いていく。


 舞台は終演に向かって、最終曲を奏で始めていた。

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