第六十四話 雪の日の櫛
私がこの家へ来てから、もう十か月が経っていた。
冬は、さらに深まっている。
比較的暖かいこの地でも、朝になると、庭や森の小道がうっすらと雪に覆われる日が増えた。
深く積もるほどではない。
けれど、屋根の端や畑の土、森の枝先に薄く残った白は、夜の冷え込みが確かに強くなっていることを教えてくれる。
そんな雪の中でも、私の恋人は律儀に公爵領館とこの家を行き来していた。
この頃には、彼の寝台は公爵領館と森の家とで、半分ずつ分け合われているようなものだった。
馬から降りる彼の鼻先や頬が寒さで赤く染まっているのを見るたび、申し訳ないと思う。
思うのに、私はもう、彼を帰せなくなっていた。
畑には、ずいぶん前から何も植わっていない。
鳥除けの鈴も、もう取り外した。
春に立てた柵は、雪の重みで一部が折れ、少し曲がっている。
それでも、それを気にする者は誰もいなかった。
足されることのない裁縫道具の中身と同じように。
減ったままの布。
しまわれたままの糸。
補充されない鈴。
空いたままの籠。
すべては、暴かれることなくそこにあった。
ただただ、舞台の終演を待つ小道具のように。
それなのに、家の中だけは温かかった。
火がある。
湯気がある。
二人分の器がある。
灰青の布は、椅子の背に畳んでかけてある。
ヴィルヘルムが選んでくれた布。
私はまだ、針を入れられないでいた。
肩掛けにすることも、寝台の布に縫い足すことも、外套の裏地にすることもできない。
ただ時々、手に取って、指先で撫でる。
受け取ってばかりだと思う。
市場の焼き菓子。
灰青の布。
冬の果物。
公爵領館から持ってきた薬草。
私が寒くないようにと、厚手の靴下まで。
ヴィルヘルムは、何かにつけて私へ物を持ってくるようになった。
贈り物というほど大げさではない。
必要だから。
似合うと思ったから。
あなたが好きそうだったから。
そう言って、彼は当然のように差し出す。
そのたびに、私は嬉しくなる。
胸が温かくなる。
そして、そのすぐ後に苦しくなる。
私も何かを返したかった。
彼のために何かを作りたかった。
香草袋でもいい。
手袋の紐でもいい。
剣帯の内側に忍ばせる小さな布でもいい。
けれど、作れなかった。
これ以上、私のものを残してはいけない。
これから取り残される彼のことを思うと、どうしても手が止まった。
ただでさえ、この家には私の痕跡が多すぎる。
茶器。
皿。
寝台。
裁縫道具。
香草の匂い。
彼が手伝って積んだ薪。
彼が褒めてくれた料理の記憶。
私が笑った場所。
私が名前を呼んだ声。
それらはきっと、私が消えた後、彼を傷つける。
だから、増やしてはいけない。
そう思うのに。
私は彼からもらったものを手放せない。
何一つ捨てられない。
自分だけが、彼の痕跡を抱えて行こうとしている。
なんて勝手なのだろう。
なんて卑怯なのだろう。
その日、空は朝から低かった。
昼になっても日差しは弱く、森の奥は薄い灰色に沈んでいる。
雪は降っていない。
けれど、空気の中には雪の匂いがあった。
私は火のそばで、何も縫わないまま久しぶりに針箱を開けていた。
針。
糸。
小さな鈴。
布の切れ端。
以前なら、この箱を開けるだけで、次に作るものを考えた。
誰のために。
どんな色で。
どんな音で。
どんな使い方をしてもらおうか。
そんなことを考えるのが、少し楽しかった。
今は、何も浮かばない。
浮かべないようにしているのかもしれない。
私は針箱の蓋を閉めた。
その時、遠くで蹄の音が聞こえた。
胸が反応する。
体が、先に動く。
私は立ち上がり、扉へ向かった。
開けると、冷たい空気が一気に流れ込む。
森の道の向こうから、ヴィルヘルムが来るのが見えた。
ノクスの息は白い。
馬の脚が薄い雪を踏むたびに、湿った音がした。
ヴィルヘルムは馬から降りると、いつものように手綱を整えた。
鼻先が赤い。
頬も、耳も、冷えて赤くなっている。
その姿を見ただけで、胸が痛んだ。
「ただいま、レベッカ。」
彼は言った。
こんな雪の日でも。
こんな冷えた道を来ても。
私を見ると、やはり表情を緩める。
「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」
私は答え、すぐに彼の手を取った。
「冷えすぎです。」
「少しだけです。」
「少しではありません。」
「道はそれほど悪くありませんでした。」
「そういう問題ではありません。」
私は彼を家の中へ引き入れた。
扉を閉める。
外の冷気が遮られ、家の中の火の温度が戻ってくる。
ヴィルヘルムは外套を脱ごうとしたが、指先が少しぎこちなかった。
私は手袋を外し、彼の指を両手で包んだ。
冷たい。
本当に冷たい。
「今日は来なくてもよかったのに。」
思わず言ってしまった。
ヴィルヘルムは私を見る。
「来たかったので。」
「でも。」
「あなたに会いたかった。」
それ以上、何も言えなくなる。
彼は、こういうことを当たり前のように言うようになった。
最初は言葉に詰まっていたのに。
最近は、恥じても、赤くなっても、言う。
そして私は、それに弱い。
どうしようもなく弱い。
「……火のそばへ。」
私は小さく言った。
「はい。」
ヴィルヘルムを椅子に座らせ、温かい果実湯を出した。
干した果物を煮出し、蜂蜜を少し落としたものだ。
湯気が立つ。
彼は両手で茶器を包み、しばらくその温かさに目を伏せていた。
「美味しいです。」
「まだ飲んでいませんよ。」
「匂いで分かります。」
「信用できません。」
「では、飲んでからもう一度言います。」
彼は一口飲み、少しだけ目元を緩めた。
「美味しいです。」
「ありがとうございます。」
「体が温まります。」
「それならよかったです。」
そう答えながら、私は彼の頬を見ていた。
赤みは少し戻っている。
けれど、目元には疲れがある。
公爵領館と森の家を行き来し、仕事を詰め込み、夜を私と過ごし、朝になればまた責務へ戻る。
若く、体力があるとはいえ、無理をしていないはずがない。
「眠れているのですか?」
私が聞くと、ヴィルヘルムは茶器を持つ手を止めた。
「眠っています。」
「どこで?」
「ここで。」
あまりに真面目に言うので、私は言葉を失った。
彼は続ける。
「公爵領館では、眠る時間が少し短いだけです。」
「それを眠れているとは言いません。」
「ここで眠る日は、よく眠れます。」
「……そういう返し方はずるいです。」
「事実です。」
私はため息をついた。
責めたいのに、責められない。
心配なのに、帰ってほしくない。
自分が彼を疲れさせていると分かっていて、それでも待ってしまう。
彼が来てくれると、嬉しくて仕方がない。
私は自分の身勝手さに、時々ぞっとする。
それでも、彼の手を離せない。
ヴィルヘルムは茶器を机に置き、私を見た。
「レベッカ。」
「はい。」
「今日は、あなたに渡したいものがあります。」
胸が小さく跳ねた。
また。
また、彼は何かをくれる。
「……またですか。」
声に、少しだけ苦さが混じったかもしれない。
ヴィルヘルムは瞬きをした。
「嫌でしたか?」
「嫌ではありません。」
「では。」
「嬉しいです。とても。」
私は正直に言った。
「だから、困るのです。」
ヴィルヘルムは黙った。
私は笑おうとした。
上手く笑えたかは分からない。
「私は、あなたから受け取ってばかりです。」
「私は、渡したいだけです。」
「それが、困るのです。」
「なぜ?」
彼の声は穏やかだった。
本当に分からないのだ。
彼にとって、私に何かを渡すことは自然なのだろう。
必要だと思ったから。
似合うと思ったから。
喜ぶと思ったから。
ただ、それだけ。
けれど、私は違う。
私は受け取るたびに、足枷が増える。
彼に残す傷も、きっと共に増えている。
「私からは、何も返せていません。」
私は言った。
嘘ではない。
本当の理由の、半分だけ。
ヴィルヘルムは少しだけ眉を寄せた。
「返してもらうために渡しているのではありません。」
「分かっています。」
「それに。」
彼は私の手を取った。
冷えていたはずの指先は、もう温かくなっている。
「私は、十分すぎるほど受け取っています。」
「何をですか?」
「あなたとの時間を。」
胸が痛んだ。
「戻る場所を。」
彼は知らない。
「名前を呼ぶ声を。」
私を、信じている。
「私を待っていてくださることを。」
やめて。
そう言いそうになった。
それ以上言われたら、全部壊れてしまう気がした。
でも、私は笑った。
笑うしかなかった。
「あなたは、言葉まで贈り物にしますね。」
「そうでしょうか?」
「そうです。」
「なら、受け取ってください。」
ヴィルヘルムは真面目に言った。
私は負けた。
いつも、こうして負ける。
「……見せてください。」
私が言うと、彼は椅子に掛けていた外套の内側から、小さな包みを取り出した。
布に包まれた細長いもの。
派手な包みではない。
けれど、彼が自分で丁寧に包んだのだと分かる。
「あなたに。」
私は受け取った。
包みは軽い。
指先で布をほどく。
中から出てきたのは、小さな櫛だった。
木で作られた美しく上品な櫛。
色は深い栗色。
持ち手には、小さな銀の葉が埋め込まれている。
とても静かで、丁寧なものだった。
私は息を止めた。
「櫛。」
「はい。」
「私の髪は、まだ短いのに。」
「伸びています。」
ヴィルヘルムは言った。
静かに。
迷いなく。
「少しずつ。」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
伸びている。
少しずつ。
自分で切り落とすことを決めた。
公爵令嬢としての自分を捨てた日。
あの日からしばらく、鏡を見るたびに胸が痛んだ。
短くなった髪を見るたびに、自分が悪女として追放されたことを思い出した。
公爵令嬢だった私。
完璧であることを求められた私。
長い髪を結い上げ、誰にも隙を見せないように背筋を伸ばしていた私。
それが、全部切り落とされたようだった。
けれど、ヴィルヘルムは今の髪を見ている。
失った長さではなく。
伸びている今を。
少しずつ先へ進んでいるものとして。
「今はまだ、使いにくいかもしれません。」
彼は少しだけ早口になった。
「けれど、これから伸びた時に。無理に長くしろという意味ではありません。ただ、あなたが望むなら――」
「ヴィルヘルム。」
「はい。」
「ありがとうございます。」
それ以上、うまく言えなかった。
私は櫛を両手で包んだ。
木の感触は冷たくない。
手の中で、少しずつ私の温度に馴染んでいく。
銀の葉が、火の光を受けて小さく光った。
「綺麗です。」
「あなたに似合うと思いました。」
「また責任重大でしたか。」
「かなり。」
彼は真面目に頷いた。
私は少しだけ笑った。
笑ったら、涙が出そうになった。
受け取ってしまった。
また、受け取ってしまった。
これから髪が伸びる私のためのものを。
彼の未来の中にいる私のためのものを。
ここで春を迎える私を、彼は疑っていない。
そのことが、嬉しくて、苦しい。
「使ってもいいですか。」
私は聞いた。
「もちろんです。」
「今。」
「今?」
「はい。」
私は小さな鏡を取り、炉のそばへ座った。
まだ肩に届くか届かないかの髪。
長いとは言えない。
けれど、確かに伸びている。
私は櫛を通そうとして、少し迷った。
すると、ヴィルヘルムが静かに言った。
「私が、してもよろしいですか。」
鏡越しに彼を見る。
彼は少し緊張していた。
まるで、剣を持つ時よりも慎重な顔だ。
私は頷いた。
「お願いします。」
ヴィルヘルムは私の後ろに座り、櫛を受け取った。
髪に触れる前に、一度だけ手を止める。
「痛ければ、すぐに言ってください。」
「はい。」
「引っかかったら。」
「言います。」
「無理は。」
「しません。」
私は少し笑った。
「大丈夫です。」
ヴィルヘルムは眉を寄せた。
「その言葉の、信用は?」
「今日はもう信用してください。」
彼は少しだけ迷い、それから小さく笑った。
「では、少しだけ。」
櫛が、髪に触れた。
ゆっくり。
慎重に。
短い髪を、少しずつ梳いていく。
引っかからないように。
痛くないように。
彼は一度も急がなかった。
私は鏡の中で、その顔を見ていた。
真剣で。
優しくて。
少しだけ苦しそうで。
胸が詰まる。
髪を梳かれるというだけのことが、こんなに苦しいなんて知らなかった。
私が過去に捨てたもの。
捨て去ったと思ったもの。
それを今、彼が丁寧に整えてくれている。
短くなった髪を、みっともないとも、哀れとも言わず。
伸びています、と。
少しずつ、と。
未来を見るように。
「レベッカ。」
「はい。」
「綺麗です。」
櫛を持つ手が止まる。
私は鏡の中の彼を見た。
ヴィルヘルムはまっすぐ私を見ていた。
「髪も。あなたも。」
胸が震えた。
「……あなたの方が。」
「今日は、あなたが言われる日です。」
以前、私が言った言葉を返された。
私は言葉を失い、それから小さく笑った。
「ずるいです。」
「あなたに学びました。」
彼はそう言って、もう一度、丁寧に髪を梳いた。
私は目を伏せた。
泣きそうだった。
けれど、泣いたら彼が心配する。
だから、微笑む。
いつものように。
大丈夫なふりをする。
いや。
今この瞬間だけは幸せなのだから、それでいい。
「この櫛。」
私は小さく言った。
「大切にします。」
ヴィルヘルムの手が止まった。
「はい。」
「持っていても、いいですか。」
「もちろんです。あなたのものです。」
――あなたのもの。
その言葉が、また胸に刺さった。
私はこの櫛を、きっと持って行くのだろう。
彼の知らない場所へ。
彼を置いて。
彼がくれた未来の道具を、未来から逃げる私が持って行く。
なんて残酷なのだろう。
でも、置いていけない。
どうしても。
「ありがとうございます。」
私はもう一度言った。
ヴィルヘルムは、櫛を机に置き、それから後ろから私を抱きしめた。
強くはない。
けれど、確かに離さない腕だった。
私はその腕に手を重ねる。
火が鳴る。
窓の外には、薄い雪。
畑には何もない。
柵は曲がり、鈴は外され、裁縫道具は眠っている。
外の世界は、少しずつ終わりへ向かっている。
けれど、この腕の中だけは温かい。
温かすぎて、息が苦しい。
「今年の春には。」
ヴィルヘルムが言いかけた。
私は息を止めた。
――春。
その言葉は怖い。
私には、もう春は来ない。
そう思っているのに。
彼は言葉を選ぶように少し黙り、それから静かに続けた。
「もう少し、髪が伸びていますね。」
それは、とても小さな未来だった。
大きな約束ではない。
結婚でも、王都でも、公爵領でも、名誉でもない。
ただ、春には髪が少し伸びている。
それだけ。
それだけなのに、私は壊れそうになった。
「そうですね。」
私は答えた。
声は震えなかった。
「春には、もう少し。」
ヴィルヘルムの腕が、少しだけ強くなる。
「その時も、私が梳いてよいですか。」
ああ。
どうして。
どうして、そんなことを聞くのだろう。
守れない約束はしない人なのに。
それでも、これは彼にとって守れる未来なのだ。
彼は信じている。
春になっても、私はここにいると。
髪が伸びた私の後ろに座り、この櫛で梳くのだと。
私は静かに目を閉じた。
「はい。」
嘘をついた。
けれど、どうしても否定できなかった。
「お願いします。」
ヴィルヘルムは、安心したように息を吐いた。
私は彼の腕の中で、静かにその音を聞いていた。
受け取ってばかり。
何も返せないまま。
何も残せないまま。
それでも私は、彼の温度だけを貪るように抱きしめている。
この人を幸せにしたい。
この人を傷つけたくない。
この人の未来から、私という傷を取り除きたい。
そう願いながら。
私はこの人がくれるものを、ひとつ残らず抱えて逃げようとしている。
矛盾だらけだ。
愛などと呼ぶには、あまりにも身勝手だ。
けれど、私はもう止まれなかった。
窓の外で、雪がまた少し降り始めた。
細かい白が、静かに森へ落ちていく。
ヴィルヘルムは私の髪に頬を寄せた。
「温かいですね。」
「火のそばですから。」
「あなたがいるからです。」
私は笑った。
泣かないように。
「……また、そういうことを。」
「事実です。」
「では、今日はその事実に甘えます。」
「……はい。」
「帰らないでください。」
言葉は、もう自然に出た。
ヴィルヘルムは少しも驚かなかった。
ただ、私を抱く腕を強める。
「帰りません。」
「明日の朝まで。」
「はい。」
「その後は。」
私はそこで言葉を止めた。
その後。
その先。
春。
髪。
櫛。
どれも、今の私には怖い。
ヴィルヘルムは、私の止まった言葉を急かさなかった。
ただ静かに、私の髪にもう一度口づけた。
「その後は、また明日考えましょう。」
守れる範囲の約束。
私は小さく頷いた。
「はい。」
また明日。
彼がくれる、短い未来。
私はそれにすがる。
そして、その短い未来を積み重ねながら、少しずつ終わりへ近づいていく。
火は静かに燃えていた。
机の上には、木の櫛。
椅子の背には、灰青の布。
窓の外には、雪。
森の家の中だけが温かい。
まるで、冬の中に取り残された小さな春のように。
私はその春を抱きしめるように、ヴィルヘルムの腕に身を預けた。
春が来る前に、自分がこの家を出ていくことを知りながら。




