第六十三話 灰青の冬布
翌日、私は朝から何度も窓の外を見ていた。
――明日は、朝までいてください。
そう私が言うと、彼は静かに頷いた。
――必ず。
守れる範囲の約束。
彼がくれる約束は、いつもそうだ。
明日。
今日。
次に会う時。
その先へは、踏み込まない。
踏み込めない。
けれど今の私には、それで十分だった。
いや。
十分だと思うことにしていた。
私は台所に立ち、鍋の中を確認した。
今日は朝のうちに、町へ降りていく行商人から、小ぶりの鶏肉を一つ買っておいた。
鶏肉は塩を擦り込んでから、鍋で表面を軽く焼いた。
じゅ、と脂が音を立てる。
そこへ刻んだ玉ねぎに似た香味野菜を入れると、台所いっぱいに甘い匂いが広がった。
さらに蕪と小さな芋、白豆、きのこを加え、ゆっくり煮込む。
仕上げに少しだけ山羊乳を入れると、鍋の中はやわらかな白色に変わった。
刻んだ香草を落とすと、湯気の中に青い香りが立つ。
火のそばで温めるパン。
薄く焼いた芋。
蜂蜜を少し塗った焼き林檎。
干し果物も、小皿に少し。
いつもより少しだけ、食卓が賑やかだった。
朝までいる。
その言葉を思い出すだけで、手元が少し危うくなる。
鍋の蓋を置く音が、思ったより大きく響いた。
「……落ち着きなさい、レベッカ。」
声に出して言う。
誰もいない家の中で、自分の声だけが少し間抜けに聞こえた。
けれど、落ち着けるわけがない。
彼が来る。
今日は帰らない。
夜を越えて、朝まで。
昨日だって、何度もそういう夜を過ごしてきたはずなのに。
それでも毎回、胸が騒ぐ。
慣れない。
慣れたくない。
この落ち着かなさも、恥ずかしさも、待つ時間の苦しさも、全部覚えておきたい。
彼を待っていた時間。
彼のために火を起こした時間。
彼のために器を並べた時間。
いつか、何もなくなってしまった時に、それだけでも私の中に残るように。
私は棚から茶器を二つ出した。
それから、ふと手を止める。
もう、迷わない。
彼の分を出すことに、少しの迷いもない。
それが嬉しくて、怖い。
この家には、彼の居場所ができてしまった。
椅子も。
器も。
寝台の片側も。
火のそばの席も。
全部、彼が使う場所になってしまった。
彼がいない日は、そこだけがぽっかり空く。
私は茶器を机に置いた。
こんなふうに、暮らしの中に彼を入れてしまって。
私は本当に、ちゃんと出ていけるのだろうか。
その問いが胸に浮かびかけた瞬間、私は鍋へ向き直った。
考えない。
今日は、考えない。
今日は彼が来る日なのだから。
昼を少し過ぎた頃、外から人の声がした。
馬の蹄の音ではない。
扉を開けると、町の少年が小さな包みを持って立っていた。
「ローレンスさんからです。」
「ローレンスから?」
「はい。冬布の生地だって。頼まれてた分だそうです。」
胸が少し跳ねた。
頼んでいない。
けれど、すぐに分かった。
ヴィルヘルムだ。
昨日、市場で見た淡い灰青の布。
私に似合うと言っていた色。
あなたが選んできてください、と言った。
本当に選んだのだ。
私は少年に礼を言い、包みを受け取った。
扉を閉め、台所の机でそっと開く。
中には、柔らかい冬布が入っていた。
厚手すぎず、けれど暖かそうで上品な織り。
色は、淡い灰青。
冬の朝の空のような。
雪が降る前の雲のような。
冷たく見えるのに、手に取るとやわらかい。
私は布に指を滑らせた。
綺麗。
本当に、綺麗だった。
その下に、小さな紙片が入っていた。
短い文字。
ヴィルヘルムの筆跡だった。
『あなたに似合うと思いました。違っていたら、私の責任です。』
私は思わず笑った。
真面目。
布を選ぶだけでも責任重大だと言った人。
その真面目さが愛しい。
胸が温かくなって、すぐに少し苦しくなる。
彼は、私の未来の冬を想像している。
この布で私が何かを作ることを想像している。
外套の裏地か。
肩掛けか。
窓辺で針を持つ私か。
冬を越す私か。
その冬の先に、当然のように自分もいると、たぶん思っている。
私は布を抱きしめた。
柔らかい。
温かい。
彼が選んだ色。
彼が、私を思い浮かべて選んだもの。
たったそれだけで、胸の奥が震える。
「……だめね。」
小さく呟いた。
嬉しい。
嬉しくて、どうしようもない。
その嬉しさが、痛い。
私は布をそっと畳み直した。
これは使えない。
少なくとも、すぐには。
切ることができない。
針を入れることができない。
彼が選んでくれたこの形のまま、しばらく置いておきたかった。
夕方が近づくにつれ、空は低く暗くなった。
今日は雲が厚い。
雪にはならないだろうが、夜にはかなり冷えそうだった。
私は火を少し強くした。
鍋を火の端へ寄せる。
寝台には厚手の布をもう一枚重ねた。
その上に、さっきの灰青の布を置く。
見せたい。
でも少し恥ずかしい。
あなたが選んだ布を、私はこんなふうに大事にしています。
そう言うようで。
でも、見せたい。
彼がどんな顔をするか、見たい。
蹄の音がした。
私はすぐに立ち上がる。
もう待っていたことを隠すつもりはない。
扉を開けると、冷えた外気とともにヴィルヘルムが立っていた。
頬が少し赤い。
寒さと、急いできたせいだろう。
彼は私を見ると、いつものように表情を緩めた。
「ただいま、レベッカ。」
「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」
その言葉は、もう私たちの間で小さな儀式になっている。
彼は外套を脱ぎながら、少しだけ私の顔を窺った。
「届きましたか。」
「はい。」
「色は。」
「とても綺麗です。」
ヴィルヘルムの肩から、わずかに力が抜けた。
本気で心配していたらしい。
「よかった。」
「本当に、責任重大だったのですね。」
「あなたのものですから。」
「布です。」
「あなたの布です。」
真面目な顔で言う。
私は笑ってしまった。
「見ますか。」
「よろしければ。」
私は寝台の方へ彼を案内した。
灰青の布は、厚手の布の上に広げてある。
火の光と、窓の外の暮れかけた光が重なり、淡い色が少し銀色に見えた。
ヴィルヘルムはそれを見て、一瞬だけ黙った。
「使ってくださったのですか?」
「まだ使っていません。」
「でも、そこに。」
「見ていたかったのです。」
私は少しだけ目を伏せた。
「あなたが選んでくださった色ですから。」
ヴィルヘルムが息を止めた。
その沈黙だけで、彼がどれほど嬉しがっているか分かった。
私は布の端に触れる。
「切るのが、もったいなくて。」
「布は使うものでは?」
「そうですね。」
「ですが。」
ヴィルヘルムは少し迷い、それから言った。
「……あなたがそう思ってくださるなら、そのままでも構いません。」
「それでは布屋さんに申し訳ないですね。」
「では、私がまた買います。」
「また?」
「はい。使う分と、取っておく分を。」
あまりに真面目に言うので、私は目を丸くした。
それから笑ってしまった。
「あなたは本当に。」
「何ですか。」
「私を甘やかしますね。」
「足りません。」
「足りています。」
「足りません。」
いつものやり取り。
でも今日は、その言葉が少し違って聞こえた。
足りない。
私もそう思っている。
どれだけもらっても、足りない。
布も。
言葉も。
手も。
時間も。
朝までいてくれる夜も。
全部、全部、足りない。
私は布を畳もうとして、ふと彼がこちらを見ていることに気づいた。
「何ですか?」
「少し、肩に当ててもよろしいですか。」
「私に?」
「はい。選んだ色が、本当に合っているか確かめたいので。」
「責任重大ですものね。」
「はい。」
真面目に頷くので、私は笑ってしまった。
けれど、ヴィルヘルムが灰青の布を手に取り、私の肩へそっとかけた瞬間、笑いは少しだけ止まった。
布は思ったより温かかった。
淡い灰青が、火の光を受けてやわらかく沈む。
ヴィルヘルムは私を見たまま、しばらく動かなかった。
「どうですか。」
私が尋ねると、彼は一拍遅れて瞬きをした。
「……綺麗です。とても。」
あまりにもまっすぐな声だった。
私は息を止めた。
「布が?」
「あなたが。」
今度こそ、言葉が出なかった。
ヴィルヘルムは自分が何を言ったのかに気づき、少しだけ耳を赤くした。
けれど、目は逸らさなかった。
「その色は、あなたに似合います。静かで、少し冷たくも見えるのに、触れるととても温かい。強くて、けれどもやわらかい。」
「……褒めすぎです。」
「足りません。」
いつもの言葉。
けれど、その目があまりに真剣で、私は胸の奥をぎゅっと掴まれたようになった。
綺麗。
そう言われたのは、いつ以来だろう。
身分を失い、髪を切り、悪女として舞台を降ろされた私を。
この人は、まだ綺麗だと言う。
私は思わず視線を落とした。
「あなたの方こそ。」
「私?」
「あなたの方が、ずっと綺麗です。」
ヴィルヘルムが固まった。
私は布の端を握りしめながら、小さく笑った。
「でも、今日は私が言われたことにしておきます。」
ヴィルヘルムはしばらく何も言えないようだった。
それから、私の肩にかかった布の端を整えた。
その指先がとても丁寧で、まるで私ごと大切に扱われているようで、胸が詰まる。
「レベッカ。」
「はい。」
「……可愛いです。」
不意打ちだった。
私は顔を上げた。
ヴィルヘルムは今度こそ、はっきり赤くなった。
でも、逃げなかった。
「綺麗で、可愛い。」
「……もう十分です。」
「足りません。」
「足りています。」
「本当に足りません。」
彼は真面目だった。
あまりにも真面目で、私は笑いそうになって、泣きそうにもなった。
私は布の端を軽く握ったまま、彼を見つめた。
「あなたは、不意打ちが多いです。」
「……あなたに言われたくありません。」
「私が?」
「はい。」
「何かしましたか。」
ヴィルヘルムは黙った。
それから、低く言った。
「存在が。」
私は言葉を失った。
今度は私が動けない。
ヴィルヘルムは、少しだけ困ったように目を伏せる。
「出会った時から……あなたがいるだけで、私は、いつもかなり困っています。」
八年前。
薔薇の咲く王宮の庭園で出会った美しい少年を思い出す。
あの時から。
胸が熱くなった。
嬉しい。
苦しい。
どうしようもなく、幸せだ。
私は布を肩にかけたまま、そっと彼へ近づいた。
「では、もっと困ってください。」
ヴィルヘルムの喉がわずかに動いた。
けれど、そこで鍋が小さく音を立てた。
私ははっとして台所を振り返る。
「夕食が。」
「手伝います。」
「まず食べましょう。今日は、いつもより少しだけ頑張ったのです。」
「楽しみです。」
私は灰青の布を丁寧に畳み、椅子の背にかけた。
台所へ戻ると、鶏肉と根菜の白い煮込みは、ちょうどよい具合になっていた。
山羊乳を入れた白い汁に、焼いた鶏肉の旨みが溶けている。
蕪はやわらかく、芋はほろりと崩れ、白豆は丸くふっくらしていた。
きのこからは深い香りが出ている。
最後に香草を少し散らすと、白い湯気の中に緑が映えた。
私は椀によそい、火のそばの机に置いた。
温めたパン。
薄く焼いた芋。
蜂蜜を塗った焼き林檎。
小皿の干し果物。
それらを並べると、小さな森の家の食卓が、少しだけ祝日のように見えた。
「今日は、いつもより豪華ですね。」
ヴィルヘルムが椀を受け取りながら言った。
「あなたが朝までいてくださる日ですから。」
そう言ってから、私は自分の言葉に少しだけ頬を熱くした。
ヴィルヘルムは匙を持つ手を止めた。
「……それは、料理の話ですか。」
「料理の話です。」
「本当に?」
「今は。」
ヴィルヘルムは目を伏せた。
耳が赤い。
私は笑いそうになるのを堪えた。
「冷めますよ。」
「はい。」
彼は一口食べた。
それから、ゆっくり目を伏せる。
「美味しいです。」
「本当に?」
「はい。鶏肉が柔らかい。蕪もよく合っています。山羊乳の香りも強すぎない。香草が少し入っているのも良いです。」
「細かいですね。」
「褒め足りないので。」
「料理のことですか。」
「今は。」
今度は私が固まった。
ヴィルヘルムは、何事もない顔で煮込みをもう一口食べている。
この人は。
本当に、最近、変わった。
甘い。
真面目なのに甘い。
真面目だからこそ、余計に甘い。
「王宮の料理より?」
少し意地悪く聞くと、彼は匙を置いた。
「比べるものではありません。」
「逃げましたね。」
「いいえ。」
彼は真面目に私を見る。
「王宮の料理は、美味しいものです。けれど、ここで食べるものは、帰ってきたと感じます。」
胸が詰まった。
帰ってきた。
彼はまた、そう言った。
私の家に。
私のところに。
「それは。」
私は言葉を探した。
「料理の味ではなく、場所の問題ではありませんか。」
「はい。」
「では、私の料理は。」
「好きです。」
即答だった。
私は黙った。
「レベッカ?」
「……不意打ちが多いです。」
「質問に答えました。」
「答え方の問題です。」
「間違えましたか?」
「間違えてはいません。」
「なら、よかった。」
本当に安心したように言う。
私は笑ってしまう。
笑いながら、胸が痛くなる。
彼は、私の料理が好きだと言う。
この家を、帰る場所のように言う。
私が用意した茶器を使い、私が並べた皿で食べ、私の火のそばで手を温める。
私は彼のためだけに、その全部を用意している。
幸せだ。
どうしようもなく幸せだ。
だから、怖い。
食事の後、ヴィルヘルムは皿を片づけるのを手伝った。
手つきはもう随分慣れている。
ただ、私が横に立つと、時々手元が乱れる。
「慣れたのではありませんか。」
「皿には慣れました。」
「では、何に慣れていないのですか。」
「あなたが近くにいることに。」
私は布巾を落としそうになった。
ヴィルヘルムは自分で言ってから、少しだけ目を伏せる。
「……これも、言うべきではありませんでしたか。」
「いえ。」
私は布巾を握り直した。
「もっと言ってください。」
今度は彼が布巾を落としそうになった。
私は笑う。
彼は困ったようにこちらを見る。
「あなたは、少し前より確実に強くなりました。」
「昨日も似たようなことを言われました。」
「毎日思っています。」
「では、毎日言ってください。」
「レベッカ。」
「駄目ですか?」
「いいえ。」
低い声。
いつもの答え。
けれど、その奥に含まれる熱は、もう隠しきれていない。
私は彼の袖をそっとつまんだ。
「今日は、帰りませんよね?」
「帰りません。」
「本当に?」
「はい。」
「朝まで?」
「朝まで。」
胸の奥が、ほどけた。
その約束だけで、今夜の空気が変わる。
帰る支度をしなくていい。
外套を羽織る時間を恐れなくていい。
蹄の音が遠ざかるのを聞かなくていい。
彼がここにいる。
朝まで。
私は彼の袖をつまんだまま、少しだけ俯いた。
「嬉しいです。」
ヴィルヘルムは何も言わなかった。
ただ、私の手に自分の手を重ねた。
それから、ゆっくりと指を絡める。
「私もです。」
その声は、とても静かだった。
「本当は、毎回そうしたい。」
胸が鳴った。
私は顔を上げる。
ヴィルヘルムは火の光の中で、少し苦しそうに笑った。
「ですが、そうすると、私はたぶん戻れなくなります。」
「どこへ?」
「外へ。」
私は息を止めた。
彼は続ける。
「書類も、会議も、王都からの使者も、公爵の忠告も。全部、ここから離れる理由になります。必要なものだと分かっているのに、最近は少し恨めしく思うことがあります。」
「ヴィルヘルム。」
「あなたのせいではありません。」
「でも。」
「私が、ここにいたいだけです。」
私が彼に言った言葉と同じだった。
胸が痛む。
彼もまた、家の中の冬に絡め取られている。
私だけではない。
私が彼にすがっているように、彼もまた私にすがり始めている。
それが嬉しい。
それが怖い。
「では。」
私は彼の手を引いた。
「今夜だけは、外のことを忘れてください。」
ヴィルヘルムの目が揺れる。
「……いいのですか?」
「はい。」
「あなたが、そう望むなら――」
「私が望んでいます。」
はっきり言った。
ヴィルヘルムは、まるでその言葉に許されたように息を吐いた。
そして、私の手を取ったまま、灰青の布を置いた寝台の方へ視線を向けた。
「布を。」
「はい?」
「皺になります。」
私は一瞬意味が分からなかった。
それから、寝台の上に広げた灰青の布を思い出す。
思わず笑ってしまった。
「こんな時まで布の心配ですか。」
「大切にされていたので。」
「大切です。」
「なら。」
「では、避けましょう。」
私は布を手に取り、丁寧に畳んだ。
畳みながら、ふと思いつく。
私は灰青の布をヴィルヘルムの肩にふわりとかけた。
彼が瞬きをする。
「レベッカ?」
「似合うかと思って。」
「これは、あなたの布では。」
「今だけです。」
淡い灰青は、彼の金髪にも青い目にもよく合った。
冷たい冬の色なのに、火の光を受けるとやわらかい。
私は少し離れて彼を見た。
美しい。
思わず、言葉を失うほどに。
ヴィルヘルムは居心地悪そうに布の端を持つ。
「やはり似合いませんか。」
「似合いすぎます。」
私が言うと、彼は固まった。
「それは……。」
「これは困ってしまいますね。」
「……なぜですか?」
「見惚れてしまいます。」
ヴィルヘルムの顔が赤くなる。
灰青の布を肩にかけたまま、彼は本当に困った顔をした。
でも、逃げない。
逃げられない。
私は一歩近づいた。
「綺麗です。」
「また。」
「何度でも言います。」
私は布の端を掴み、少しだけ引いた。
彼が身を屈める。
唇が近づく。
「今日は、この色ごと覚えておきます。」
ヴィルヘルムの目がわずかに揺れた。
「覚えておく?」
「はい。」
「なぜ、そのような言い方を。」
しまった。
ほんの少しだけ、言葉が滑った。
私はすぐに笑った。
「あなたが選んでくださった色ですから。」
彼はまだ少し私を見ていた。
けれど、私が背伸びをして口づけると、問いはそこで消えた。
消えてくれた。
彼の手が私の腰に回る。
灰青の布が、二人の間で少しずれる。
火の光。
冬の夜。
淡い布の色。
彼の息。
私はその全部を、本当に覚えようとした。
いつかこの色を見た時、今日の彼を思い出せるように。
彼が私を見つめていた目を。
困って、赤くなって、それでも嬉しそうに私の名を呼んだ声を。
全部。
全部。
「レベッカ。」
彼の声が低い。
「はい。」
「今夜は。」
そこで言葉が途切れた。
彼はまだ、時々こうして言葉に詰まる。
欲しいと言うことに。
触れたいと言うことに。
私を求めることに。
その慎重さが愛しくて、もどかしい。
私は灰青の布を彼の肩から外し、そっと椅子の背にかけた。
「今夜は、朝まででしょう。」
「はい。」
「なら、急がなくていいです。」
ヴィルヘルムの喉が動く。
「……そう言われる方が、困ります。」
「困ってください。」
「あなたは本当に。」
「はい?」
「私をどうしたいのですか。」
私は彼を見上げた。
答えは、すぐそこにあった。
けれど、全部は言えない。
あなたを私に刻んでほしい。
私の中に、あなたを残してほしい。
別れる日が来ても、消えないくらいに。
そんなことは、言えない。
だから私は笑った。
「幸せにしたいのです。」
ヴィルヘルムの表情が、ゆっくりと変わった。
驚き。
喜び。
切なさにも似た、何か。
彼は私を抱き寄せた。
「もう、十分すぎるほど。」
「足りません。」
今度は私が言った。
ヴィルヘルムが目を見開く。
私は彼の胸に額を寄せた。
「……あなたに関することは、足りたことがありません。」
いつも彼が私にくれる言葉。
彼は黙った。
そして、私を抱く腕を強くした。
その夜、灰青の布は椅子の背で静かに揺れていた。
火の光を受けて、淡く、やわらかく。
私は何度もその色を見た。
彼の肩にかかっていた色。
私の肩にかけられた色。
彼が私のために選んだ色。
冬の中で、二人だけが見つけた小さな色。
夜が更けても、外の風は止まなかった。
けれど、森の家の中は温かかった。
火と、布と、彼の温度。
そして、朝まで続く約束。
そのすべてに包まれて、私は目を閉じた。
今だけは。
この夜だけは。
何も失わない人のように、彼の腕の中で眠った。




