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第六十二話 家の中の冬

 炉開きの日を過ぎると、冬は遠慮をやめたように近づいてきた。


 朝、窓を開けると、空気の冷たさが頬を刺す。

 庭の草には白い霜が降り、畑の土は少し硬くなった。

 森の木々はほとんど葉を落とし、枝の向こうには高い空が広がっている。


 少し前まで色づいた葉で賑やかだった森は、今では骨組みだけになった舞台のようだった。


 私は窓辺に立ち、しばらくその景色を見ていた。


 ――寒い。

 けれど、火を入れた家の中は温かい。


 台所には、乾かした香草が吊るしてある。

 壁際には薪。

 窓の隙間には厚手の布。

 畑道具は端に寄せ、籠も重ねてある。


 冬支度は、思っていたより順調に進んだ。


 あまりにも、順調に。


 針仕事も、畑仕事も、町へ降りる回数も、少しずつ減っている。

 外から見れば、自然なことだろう。


 寒くなったから。

 初めての冬だから。

 無理をしないため。


 そう言えば、誰も強くは言わない。

 私自身も、そう言い聞かせている。


 けれど本当は、分かっていた。

 私は、外へ出たくないのだ。


 外には、人の目がある。

 問いかけがある。

 私が少しずつ手放しているものが、形を持って並んでいる。


 家の中にいれば、私の世界は小さく済む。


 火。

 鍋。

 茶器。

 寝台。

 香草。


 そして、ヴィルヘルム。


 それだけでよかった。


 それだけが、よかった。



 その日、ヴィルヘルムは昼過ぎに来た。


 いつもより早い。


 森の道から蹄の音が聞こえた時、私は台所で豆を煮ていた。

 窓の外を見ると、冬の光の中でアルクの白い息が見えた。


 私は扉へ向かう。

 叩かれる前に開けると、ヴィルヘルムは少し驚き、それから困ったように笑った。


「また、待っていましたか?」


「はい。」


 私はもう、否定しない。


「待っていました。」


 ヴィルヘルムの耳が赤くなった。

 寒さのせいだけではない。


 それを見ると、胸の奥が少しだけ甘くなる。


「ただいま、レベッカ。」


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 彼は外套を脱ぎ、玄関の脇にかけた。

 外の冷気をまとっていた体が、家の温度に少しずつ馴染んでいく。


 私は彼の手袋に目を留めた。


「手が冷えていませんか。」


「少し。」


「では、こちらへ。」


 私は彼の手袋を外させ、両手で包んだ。


 以前なら、彼が私の手を温めてくれた。

 今は、私が彼の手を温めることもある。


 ヴィルヘルムは最初、それにひどく戸惑った。

 けれど最近は、少しだけ素直に手を預けるようになった。


 指先は冷たい。

 けれど、手のひらはすぐに温まる。


「今日は早いのですね。」


「午後の予定が一つ空きました。」


「それで、こちらに?」


「はい。」


「お休みになればよかったのに。」


「休みに来ました。」


 真面目な顔で言う。

 私は彼の手を包んだまま、少しだけ首を傾げた。


「ここで?」


「ここで。」


「休めますか。」


 ヴィルヘルムは私を見た。

 ほんの少しだけ、答えに迷った顔をした。


 その迷いが、何を意味しているのか、もう分かってしまう。


 私は笑った。


「場合によりますか。」


 ヴィルヘルムが一瞬で赤くなった。


「クラウス公爵と似たようなことを言いますね。」


「公爵様も同じことを?」


「……少し。」


「何と答えたのですか。」


 ヴィルヘルムは視線を逸らした。


「忘れました。」


「嘘が下手ですね。」


「あなたの前では、特に。」


 胸が鳴った。

 さらりと、そういうことを言う。


 最近の彼は、本当に甘い。

 甘くなったというより、抑えるのを諦め始めたのかもしれない。


 私は彼の手を握り直した。


「では、今日は休んでください。」


「はい。」


「火のそばで。」


「はい。」


「私のそばで。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 言葉を失う顔。


 私はその顔が好きだ。

 自分だけが見られる顔だと思うと、胸がひどく満たされる。


「……はい。」


 少し遅れて、彼は答えた。

 低い声だった。


 私は満足して、彼を台所へ招いた。


 鍋には、豆と根菜が静かに煮えている。

 香草を少し入れたので、家の中には柔らかな匂いが広がっていた。


 ヴィルヘルムは椅子に座ると、しばらく火を見ていた。


「最近、町へ降りることが減りましたね。」


 不意に、彼が言った。


 私は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。

 前なら、もっと胸が跳ねたかもしれない。


 でも今は、表情を動かさないことにも慣れてしまった。


「寒くなりましたから。」


「はい。」


「冬支度もありますし。」


「はい。」


「それに、あなたが来てくださる日は、家のことを整えたいのです。」


 嘘ではない。

 嘘ではない言葉だけを選んで、並べる。


 ヴィルヘルムは、少しだけ黙った。


「市場で、新しい冬布が出ていました。」


「そうなのですね。」


「あなたに似合いそうな色もありました。」


「どんな色ですか。」


「淡い灰青です。」


「綺麗そうですね。」


「今度、一緒に見に行きませんか。」


 私は鍋の蓋を閉めた。

 かたり、と小さな音がした。


 ヴィルヘルムと並んで、冬布を見る。


 きっと楽しい。

 きっと、幸せだ。


 でも、その道の途中にはローレンスの店がある。

 私の棚がある。

 私が少しずつ置いていくものがある。


 彼に見せたくないものがある。


 私は振り返り、できるだけ自然に笑った。


「今度ではなく、あなたが選んできてください。」


 ヴィルヘルムが目を瞬いた。


「私が?」


「はい。」


「私が選んでよいのですか?」


「あなたが私に似合うと思う色を、見てみたいです。」


 彼の表情が変わった。

 少し困って、少し嬉しそうで、かなり真剣になった顔。


「……責任重大ですね。」


「布を選ぶだけですよ。」


「あなたのものを選ぶのですから、重大です。」


「では、真剣にお願いします。」


「もちろんです。」


 ヴィルヘルムは本気で頷いた。

 私はその顔を見て、胸が痛くなった。


 彼は、外へ出たがらない私を、まだ深くは疑わない。

 むしろ、自分に選ばせてくれることを喜んでいる。


 私が彼の好みを知りたがっているのだと思っている。


 間違いではない。

 でも、それだけではない。


 私は火のそばへ行き、彼の隣に座った。


「市場より、ここがいいです。」


 ヴィルヘルムは私を見る。


「家の中が?」


「はい。」


「なぜ?」


 彼は穏やかに尋ねた。


 責めていない。

 けれど、知りたがっている。


 だから私は、彼の手を取った。

 指先を絡める。


 それだけで、ヴィルヘルムの喉がわずかに動いた。


「外では、こうできませんから。」


「……レベッカ。」


「あなたの手を取るのも、名前を呼ぶのも、肩に寄りかかるのも、人目があると少し難しいでしょう。」


「……そうですね。」


「でも、ここではできます。」


 私は彼の肩に頬を寄せた。


「だから、ここがいいのです。」


 ヴィルヘルムはしばらく何も言わなかった。

 けれど、彼の手が私の手を握り返す。


 ゆっくりと。

 確かめるように。


「私は。」


 彼は小さく言った。


「あなたを、外の世界から閉じ込めたいわけではありません。」


 胸が、静かに痛んだ。


 優しい人。

 本当に、優しい人。


 そして、やはり少し気づいている。


 完全には気づかない。

 けれど、何かが以前と違うことは感じている。


 私は顔を上げた。


「閉じ込められているとは思っていません。」


「本当に?」


「はい。」


 私は笑った。


「私が、自分であなたのそばにいたいだけです。」


 ヴィルヘルムの目が揺れた。

 その言葉は、彼にとって甘すぎたのだろう。


 私の本当の理由の一部でしかないのに。

 彼はそれを、私の愛の証として受け取る。


 そのことが、嬉しくて、苦しい。


「……それなら。」


 彼は低く言った。


「私も、ここにいたい。」


 私は微笑んだ。


「では、いてください。」


「はい。」


「今日は、昼間から。」


 ヴィルヘルムの動きが止まった。

 私は指を絡めたまま、彼を見上げた。


「どうしましたか。」


「昼間から、とは。」


「休みに来たのでしょう?」


「はい。」


「なら、休んでください。」


「火のそばで、ですか?」


「最初は。」


「……最初は。」


 彼はその言葉を繰り返した。

 自分の声が少し掠れたことに気づいたのだろう。


 目を伏せる。

 首筋が赤い。


「……レベッカ。」


「はい。」


「最近のあなたは。」


「はい。」


「私を、かなり甘やかしているようで。」


「はい。」


「同時に、かなり困らせます。」


「嫌ですか。」


「嫌なはずがありません。」


 いつもの答え。

 けれど今日は、その後に彼は小さく息を吐いた。


「ただ。」


「ただ?」


「外へ出るより、ここで二人きりを望んでくださるのは、嬉しいのですが。」


「はい。」


「嬉しすぎて、判断が鈍ります。」


 私は瞬きをした。


 彼は真面目だった。

 真面目に、自分の危うさを申告している。


「判断?」


「はい。」


「何の?」


 ヴィルヘルムは明らかに言いづらそうにした。

 私は少し身を乗り出した。


「言えないことですか。」


「……近いです。」


「近い?」


「言うべきではないことです。」


「また、言えないことを考えたのですか。」


 彼は目を閉じた。

 かなり困っている。


 私は笑ってしまった。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「かわいい。」


「それで済ませてはいけない気がします。」


「済ませましょう。」


「あなたは。」


「はい。」


「本当に、最近、少しずるい。」


「少しですか。」


「かなり。」


 彼の声は低かった。

 私は彼の手を引いた。


「では、かなり困ってください。」


 ヴィルヘルムは私を見た。

 火の光が彼の目に揺れている。


 昼間なのに、家の中は冬の曇り空のせいで少し薄暗い。


 外は寒い。

 窓の向こうには、葉を落とした森。


 けれど火のそばは温かく、彼の手も温かい。

 私はその手を自分の頬に触れさせた。


 ヴィルヘルムの呼吸が止まる。


「レベッカ。」


「はい。」


「私は、休みに来たはずなのですが。」


「はい。」


「休める気がしません。」


「場合によるのでしょう?」


 彼は一瞬黙った。

 それから、低く笑った。


 珍しい笑い方だった。

 少し諦めて、少し熱を帯びていて、いつもの冷静な彼とは違う。


「……あなたには勝てません。」


「勝とうとしていたのですか?」


「最初から、負けている気はしていました。」


 胸が、甘く締めつけられる。

 私は彼の首に腕を回した。


「では、負けてください。」


 ヴィルヘルムの腕が、私の背へ回る。

 以前より自然に。


 けれど相変わらず、最後の一線では私の表情を確かめる。

 私はその目に答えるように、彼へ口づけた。


 昼間の口づけは、夜とは少し違った。


 窓の向こうにはまだ灰色の光がある。

 火の音も、鍋の匂いも、外を通る風の音も、全部がはっきりしている。


 それなのに、彼の唇に触れた瞬間、世界はすぐに狭くなった。

 ヴィルヘルムの手が、私を支える。


 私の指が、彼の襟元を掴む。

 彼は少しだけ息を乱し、それでも私を急かさない。


 私は、その慎重さすらもどかしくなった。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「今日は、ゆっくり休む日ですよね。」


「……はい。」


「では、寝台で休みましょう。」


 彼は完全に固まった。

 私は笑う。


 彼は、もう十分に私を知っているはずなのに。

 それでも、こういう時はまだ狼狽える。


「昼間から?」


「昼間から。」


「レベッカ。」


「嫌ですか?」


「いいえ。」


 答えは即座だった。

 けれど、彼はその後、額を伏せた。


「私は、あなたに対して、少し。」


「少し?」


「……自制心が足りなくなっています。」


「足りなくていいです。」


「よくありません。」


「私がいいと言っています。」


 ヴィルヘルムは私を見た。

 青い目が揺れている。


 嬉しさ。

 戸惑い。

 欲。


 それから、私を大切にしたいという、いつもの痛いほどの優しさ。


 私はその全部が好きだった。


「私は、あなたに触れてほしいのです。」


 そう言うと、彼の顔から言葉が消えた。


 沈黙。

 火の音。

 鍋の煮える音。

 私の心臓の音。


 ヴィルヘルムはゆっくりと私の手を取った。

 そして、まるで誓うように、その指先に口づけた。


「では。」


 低い声。


「触れます。」


 その言葉だけで、私は目を閉じたくなった。

 彼に抱き上げられるようにして、寝台へ運ばれる。


 外はまだ昼なのに、家の中の影は深かった。

 私は彼の首に腕を回し、彼の髪に指を入れた。


 少し乱れた金髪。

 王宮で完璧に整えられている時とは違う、私だけが知る柔らかさ。


 彼は私をそっと下ろした。

 それから一度、ためらうように私を見た。


 私は笑った。


「休むのでしょう?」


 ヴィルヘルムは、少しだけ困ったように笑った。


「はい。」


「では、こちらへ。」


 彼が身を屈める。

 私はその頬に触れた。


 唇が重なる。


 冬の昼の光が、窓の隙間から細く差している。

 夜ならば、闇がいろいろなものを隠してくれる。

 けれど昼の光は、遠慮がなかった。


 伏せた睫毛。

 熱を帯びた耳。

 開いた襟元から覗く首筋。

 息をするたびに動く喉。


 かっちりとした服の下に隠されていた逞しい肩の線。


 それらが、薄い光の中で、夜よりもはっきりと見えた。


 私は思わず、彼の胸元に視線を落とした。

 ヴィルヘルムが気づく。


「……レベッカ。」


「はい。」


「見ています。」


「見ていますね。」


「昼間です。」


「はい。」


「暗くありません。」


「よく見えますね。」


 言ってから、自分でもひどいことを言ったと思った。


 ヴィルヘルムは完全に固まった。

 耳どころか、頬まで赤い。


 けれど、逃げない。

 逃げずに、私を見ている。


 私はそっと彼の襟元に指をかけた。


「いいですか。」


 彼は息を詰めた。

 けれど、すぐに頷いた。


「はい。」


 釦を一つ外す。

 布が少し緩む。


 昼の光が、そこへ落ちる。

 首筋から鎖骨へかけての線。


 白い肌。

 けれど、ただ白いだけではない。


 薄い服の下に隠れていた、鍛えられた体の形。

 剣を握り、生き延び、耐え抜いてきた人の強さ。


 余分なもののない肩。

 引き締まった逞しい腕。


 礼儀正しく整えられた服の下に、こんなにも確かな熱と力があったのだと、昼の光は容赦なく教えてくる。


 私は息を呑んだ。


 美しい。

 夜に見た時も、そう思った。


 けれど、昼の光の中では違った。


 影に溶ける美しさではない。

 隠れられない美しさだった。


 少し恥じるように伏せた目も。

 私の視線に耐えようとする喉の動きも。

 熱を逃がしきれずに赤くなった耳も。


 全部が、どうしようもなく愛しかった。


「綺麗です。」


 私は呟いた。

 ヴィルヘルムの呼吸が止まった。


「また、それを。」


「何度でも言います。」


「私は、綺麗と言われるような。」


「強くて、綺麗です。」


 私は彼の胸元に触れた。


 ほんの少し。

 指先だけで。


 それだけで、ヴィルヘルムの体がわずかに強張る。


「そして、少しだけ痛ましい。」


 彼の目が揺れた。


「あなたの体には、あなたが生きてきた時間があるのですね。」


「レベッカ。」


「私は、それも好きです。」


 彼は何も言えなかった。

 私は彼の首に腕を回し、引き寄せた。


 唇が重なる。

 今度は、彼の方から深くなった。


 遠慮が薄れ、慎重さの奥にあった熱が少しずつ表へ出てくる。

 それでも、彼は乱暴にはならない。


 私を見て、触れて、また確かめる。

 昼の光の中で、彼の表情が何度も変わる。


 苦しそうに。

 嬉しそうに。

 恥じるように。


 それでも、どうしようもなく私を求めるように。


 私はそのすべてを見たかった。

 見て、覚えておきたかった。


 別れの日に、何も残っていないなんて耐えられないから。


 彼の手が、私の背を支える。


 腰へ触れ、そこで一度止まる。

 私が頷くと、彼の指先から迷いが少しだけ消えた。


 薄い昼光の中で、私たちは夜よりも多くを見てしまう。


 隠しきれない熱も。

 赤くなる顔も。

 乱れる息も。

 名前を呼ぶ時の表情も。


 私はその全部を、体に刻むように彼を抱きしめた。


 外では冬の風が枝を揺らしている。

 鍋の匂いが、まだ台所から漂っている。

 火は静かに燃えている。


 それなのに、世界の中心は寝台の上だけになっていった。


 現実が遠くなる。


 町も。

 棚も。

 畑も。

 閉じていく暮らしも。


 全部、彼の熱の向こうへ消えていく。


 それがよかった。

 それが、ほしかった。


 しばらくして、火の勢いが少し弱くなった頃、私は彼の腕の中で目を開けた。


 昼だったはずなのに、部屋の中は夕方のように暗い。


 冬の日は短い。

 少し目を閉じただけで、時間が溶けてしまう。


 ヴィルヘルムは私の髪を撫でていた。


 眠ってはいない。

 相変わらず、眠るのが惜しいという顔をしている。


「……休めましたか?」


 私が聞くと、彼は少し考えた。


「……休息ではない気がします。」


「では、何ですか?」


「生き返りました。」


 胸が、痛いほど熱くなった。


「大げさです。」


「……本当です。」


「あなたは、何でも真面目に言いすぎです。」


「あなたに関することは、すべて真面目になります。」


 私は彼の胸に頬を寄せた。


 心臓の音が聞こえる。

 落ち着いているようで、まだ少し速い。


 その音を覚えておきたいと思った。


 手の温度も。

 腕の重さも。

 声も。

 私を呼ぶ息の混じった音も。


 全部。

 全部、私の中に刻んでおきたい。


「レベッカ。」


「はい。」


「寒くありませんか?」


「寒くありません。」


「本当に?」


「あなたがいますから。」


 ヴィルヘルムは、少しだけ息を止めた。

 それから、私を抱く腕をゆっくり強める。


「なら、ずっといます。」


 私は目を閉じた。


 ずっと。

 その言葉は、やはり痛い。


 彼にとってのずっとは、私にとってのずっととは、きっと違う。

 それでも今は、否定しなかった。


「はい。」


 私は小さく答えた。


「今だけは、ずっといてください。」


 ヴィルヘルムはその言葉に何かを感じたのか、少しだけ身じろぎした。

 けれど、私がすぐに彼の胸に顔を埋めると、何も言わなかった。


 その代わり、額に口づけが落ちてくる。


 優しい。

 優しすぎる。


 だから私は、また彼の服を握った。


 余計なことを考えないように。

 彼だけを感じるように。


 夕方、鍋は少し煮詰まっていた。

 私は慌てて起き上がり、ヴィルヘルムは本気で申し訳なさそうにした。


「鍋が……。」


「焦げてはいません。」


「ですが。」


「あなたのせいではありません。」


「私のせいでは?」


「……では、少しだけ。」


 ヴィルヘルムが黙った。

 耳が赤い。


 私は笑ってしまった。


「責任を取って、食べてください。」


「はい。」


「全部。」


「はい。」


 彼は真面目に頷いた。


 煮込みは少し濃くなっていた。

 けれど、それも悪くなかった。


 火のそばで二人で食べる。

 昼間から寝台で過ごしたことを、互いに思い出さないふりをしながら。


 でも、指が触れるたびに、ヴィルヘルムは少しだけ赤くなる。

 私も、少しだけ胸が跳ねる。


 恋人になってからしばらく経つのに、私たちはまだ慣れない。

 慣れないまま、少しずつ深くなっていく。


 それが、どうしようもなく幸せだった。



 夕食を終えた後、ヴィルヘルムは珍しく窓の外を見た。


 森の道は、もう暗い。


「本当は、明日の朝までいたいのですが。」


 彼が言った。

 私は手を止めた。


「今日は帰るのですか?」


「はい。明朝、どうしても外せない会議があります。」


「そうですか。」


 声は、ちゃんと出た。

 けれど、胸の奥が冷えた。


 帰る。

 今日は帰る。


 そう聞いただけで、家の温度が少し下がったように感じる。


 私は笑おうとした。

 ちゃんと見送らなければならない。


 彼は昼から来てくれた。

 十分すぎるほど一緒にいてくれた。

 これ以上望んではいけない。


 そう思った。


 思ったのに。


「帰らないで。」


 言葉が、勝手にこぼれた。

 自分でも驚いた。


 ヴィルヘルムが振り返る。

 その顔を見た瞬間、私はもう取り繕えなかった。


「……すみません。」


 私はすぐに言った。


「困らせるつもりでは。」


 ヴィルヘルムは私の前まで来た。

 静かに膝をつき、私の手を取る。


「困ってはいません。」


「でも。」


「嬉しいです。」


 彼は言った。

 あまりにも真っ直ぐに。


「あなたが、帰らないでと言ってくださることが。」


 胸が締めつけられた。

 ヴィルヘルムは、私の手に額を寄せる。


「……ただ、今日は戻らなければなりません。」


「分かっています。」


「明日の夜には、来ます。」


「本当に?」


「はい。」


「無理をしていませんか。」


「少し。」


 珍しく、彼は正直に言った。

 私は目を見開いた。


 彼は小さく笑う。


「でも、したい無理です。」


「それは、よくありません。」


「あなたに会いたいので。」


 何も言えなくなった。

 彼は時々、こういうずるい言葉を言う。


 私は彼の手を握り返した。


「では、明日。」


「はい。」


「明日は、帰らないでください。」


 言ってしまった。

 ヴィルヘルムの目が揺れる。


 私はもう、引かなかった。


「明日は、朝までいてください。」


 彼はしばらく私を見ていた。

 それから、静かに頷いた。


「必ず。」


 守れる範囲の約束。

 けれど今夜の私には、それがすべてだった。


 玄関で見送る時、外の冷気が流れ込んだ。

 ヴィルヘルムは外套を羽織り、手早く手袋をはめる。


 私はその指先を見ていた。


 さっきまで、私に触れていた手。

 私を抱いていた腕。


 それがまた外の世界へ戻っていく。


「レベッカ。」


「はい。」


「明日、来ます。」


「はい。」


「だから。」


 彼は少しだけ言葉を探した。


「今夜は、火のそばで眠ってください。冷やさないように。」


 いつもの彼らしい言葉。


 心配。

 確認。

 優しさ。


 私は笑った。


「分かりました。」


「本当に?」


「はい。」


「大丈夫という言葉は?」


「今日は言いません。」


「賢明です。」


 私は笑いながら、彼に近づいた。

 そして、外套越しに抱きしめた。


「気をつけて。」


「はい。」


「また明日。」


「はい。」


 彼は私の額に口づけた。

 それから、名残惜しそうに離れ、馬へ向かう。


 蹄の音が遠ざかる。


 私は扉の前で、その音を聞いていた。


 聞こえなくなるまで。

 聞こえなくなっても、しばらく。


 やがて扉を閉める。


 家の中は、急に広くなった。


 火はまだ燃えている。

 鍋の匂いも残っている。

 寝台の布も乱れている。


 そこに、彼がいた痕跡はたくさんある。


 それなのに、彼がいないだけで、世界は空っぽになる。


 私は火の前へ戻り、膝を抱えた。


 明日。

 明日、彼は来る。

 明日は、帰らないと言ってくれた。


 それだけを繰り返す。

 それだけで、夜を越えようとする。


 外では、冬の風が森を鳴らしていた。


 家の中の火は温かい。

 けれど、私はもう知っている。


 本当に私を温めるものは、火ではない。


 私は膝に顔を埋め、彼の名前を心の中で呼んだ。


 明日まで。

 ただ、明日まで。


 それだけを頼りに、私は目を閉じた。

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