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第六十一話 炉開きの祝日

 この国には、本格的な冬を迎える前に『炉を開く日』という祝日があるらしい。


 秋の終わりに収穫したものを家族で囲み、冬を越すための火を初めて正式に入れる日。


 家々では、根菜や豆を煮る。

 干し肉やきのこを焼く。

 香草を練り込んだパンを割り、温めた果実酒を小さな杯に注ぐ。

 子どもたちは火のそばで騒ぎ、大人たちは今年の収穫と、これから来る長い冬の話をする。


 家族の祝日。


 そんなふうに、マーサが教えてくれた。


「だから、あんたも何か温かいものを食べな。」


 数日前、マーサはそう言って、根菜を少し置いていった。


「一人でも火は開ける。家ってのは、誰かが火を入れて、食べて、眠れば、それだけでちゃんと家になるんだよ。」


 その時の私は、曖昧に笑って頷いた。


 一人でも。


 そう言われたのに、私はすぐにヴィルヘルムの顔を思い浮かべていた。


 炉開きの日。

 家族で過ごす日。

 ならば私には関係がない。


 そう思うべきだったのかもしれない。


 けれど、もう私は、そう思えなかった。


 彼が来る。

 そう分かっているだけで、朝から家の中の空気が違っていた。


 私はいつもより丁寧に火を起こした。

 薪を選び、乾いた細枝を下に置き、少しずつ炎を育てる。


 火は最初、頼りなく揺れた。

 けれど、やがて薪に移り、ぱち、と小さく音を立てる。


 冬を迎える火。

 今年の冬を越すための火。


 私はその前にしばらく座り、手をかざした。

 指先が温まっていく。


 森の家で迎える初めての冬。


 かつての私なら、家族の祝日など聞くだけで胸が沈んだだろう。

 幼少期の思い出。


 公爵家の大広間。

 整えられた食卓。

 母の視線。

 父の沈黙。

 義務として並べられた料理。

 苦しくても悲しくても、微笑みを絶やしてはいけない場所。


 温かい料理があっても、温かい場所ではなかった。


 今、この小さな家には豪華な食器もない。

 銀の燭台もない。

 給仕もいない。


 けれど、火は本当に温かい。

 鍋の前には今日使う予定の食材が置いてある。

 机には二人分の皿がある。


 それで十分だった。


 いや。

 十分すぎるほどだった。


 昼前に、ヴィルヘルムから使いが来た。


 ――今日は少し早めに来られるかもしれない。

 ――もしよければ、町の市場へ一緒に行かないか。


 炉開きの日は、市場に冬前の品が並ぶ。

 干し果物、きのこ、香草入りのパン、蜜を塗った焼き菓子。

 若い恋人たちもよく出歩くのだと、使いの青年は少しだけ笑って言った。


 私はその伝言を聞いて、一瞬だけ迷った。


 市場。

 人の多い場所。

 ローレンスの店。

 私の棚。

 減らした仕事。

 補充されない品々。


 それをヴィルヘルムに見られるかもしれない。


 ローレンスの目を見るかもしれない。

 マーサに会うかもしれない。

 町の人たちに、以前より私が来なくなったことを何気なく言われるかもしれない。


 私は微笑んで、使いに返事を託した。


 今日は市場ではなく、森の家で過ごしたい。

 祝日の料理は、家で作って待っています。


 そう伝えてください、と。


 使いが去った後、私はしばらく扉の前に立っていた。


 風が冷たい。

 森の葉はもう半分以上落ちている。


 市場へ行けば、楽しかったかもしれない。


 ヴィルヘルムと並んで、冬の品を見る。

 彼が干し果物を選ぶ顔を見る。

 焼き菓子を買うか迷う私に、彼が全部買えばいいと言って、私が呆れる。

 私の歩幅を気にしながら歩く彼の横顔を、こっそり見上げる。


 恋人らしい祝日。


 きっと、楽しかった。


 でも、行けない。

 行きたくない。


 市場には、私が閉じていくものがある。

 私の暮らしが、少しずつ薄くなっている証拠がある。


 ヴィルヘルムにそれを見せたくなかった。


 私は扉を閉めた。

 それから、鍋の火を見た。


 家の中でなら、二人きりでいられる。


 誰にも見られない。

 誰にも問われない。


 私がどれだけ仕事を減らしたかも、どれだけ町へ行かなくなったかも、彼には見えない。

 ただ、私が彼を待っていることだけが見える。


 ――もう、それでいい。


 そう思う自分が、少しだけ怖かった。

 けれど、もう止められなかった。



 午後、私は祝日の料理の準備をした。


 豆を柔らかく煮る。

 根菜を厚めに切る。

 干し肉は少しだけ。


 きのこはマーサにもらったものを細かく刻んだ。

 鶏肉を大きめに切って、きのこと一緒にバターで炒める。


 香草入りのパンは、昨夜焼いておいた。

 あまり膨らまなかったけれど、香りは悪くない。


 小さな鍋に果実酒を入れ、少しだけ蜂蜜を足す。

 温めすぎないように、火の端へ置いた。


 甘い香りが立つ。

 炉開きの日。

 家族の祝日。


 その言葉を考えるたびに、胸の奥が少しだけ疼く。


 私はこの世界で家族と言える存在を持つことができなかった。


 母は、私を管理する存在として厳しく躾けた。

 父は、母の死後私を遠ざけ、結局見捨てた。


 家族として祝うべき日も、幼少期でさえ儀式でしかなかった。


 けれど今、私は二人分の皿を並べている。


 火を囲むために。

 彼と食べるために。


 この時間が本当の家族ではないとしても。

 恋人としての時間にすぎないとしても。


 今の私には、それで十分だった。



 夕方になり、森の道から蹄の音が聞こえた。


 私は、もう扉の前にいた。


 待っていた。

 隠さずに。


 蹄の音が止まる。

 馬が鼻を鳴らす。

 それから、足音。


 扉が叩かれる前に、私は開けた。


 ヴィルヘルムが、少し驚いた顔をした。

 冷えた外気と、市場の甘い香りをわずかにまとった彼の手には、小さな包みがあった。


「ただいま、レベッカ。」


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 その言葉を交わすだけで、今日が祝日になる。

 ヴィルヘルムは私の顔を見て、少しだけ安心したように微笑んだ。


「市場へ行かなくて、本当によかったのですか。」


「はい。」


「炉開きの市は、賑やかだと聞きました。」


「そうでしょうね。」


「見たいものはありませんでしたか?」


 私は少しだけ首を傾げた。


「あります。」


 ヴィルヘルムの眉がわずかに動く。


「なら。」


「でも、一番見たいものは、ここに来ました。」


 ヴィルヘルムは固まった。

 包みを持った手が、そのまま止まる。


 私は笑った。


「中へどうぞ。外は冷えます。」


「……はい。」


 返事が少し遅い。

 耳が赤い。


 私はその赤さを見て、胸の奥が温かくなった。


 家に入ると、ヴィルヘルムはすぐに鍋の匂いに気づいた。


「良い匂いがします。」


「炉開きの料理です。といっても、簡単なものですが。」


「手伝えますか。」


「もうほとんどできています。」


「では、何か。」


 彼は少し考えた。


「薪を足します。」


「助かります。」


 ヴィルヘルムは外套を脱ぎ、炉のそばへ向かった。

 その動きが、この家に馴染んでいる。


 薪の置き場も、火ばさみの場所も、もう分かっている。


 初めて来た頃は、何もかもに許可を求めるようだったのに。

 今は自然に火の前に膝をつき、薪を足し、炎を見ている。


 その広い背中を見て、胸がきゅっとなった。


 この人は、私の家にいる。

 私の火を見ている。

 私の作った食事の匂いの中にいる。


 それだけで、私は満たされそうになる。


「レベッカ。」


「はい。」


「火は、これくらいで?」


「はい。上手です。」


 ヴィルヘルムは一瞬だけこちらを見た。


「もう一度。」


「上手です。」


「ありがとうございます。」


 真面目に礼を言う。

 私は思わず笑った。


「褒められるのが好きになりましたね。」


「あなたに褒められるのは、好きです。」


 今度は私が固まった。

 ヴィルヘルムは、薪を足しながら何事もない顔をしている。


 この人は、本当に。


 最近、甘い言葉を普通に言う。

 普通に言って、私を困らせる。


「……そういうことを言う人でしたか。」


「最近、少し。」


「少し?」


「……自制が、効きません。」


 低く言われて、私は顔が熱くなった。


 火のせいではない。

 きっと。


 私は鍋を見るふりをした。


 夕食は、炉の前で食べることにした。

 机を少し寄せ、椅子も火に近づける。


 椀には、豆と根菜の煮込み。

 大皿に鶏肉ときのこの炒め物。

 小皿には香草入りのパン。


 そして小さく切った干し果物。

 温めた果実酒。


 決して豪華ではない。

 けれど、火のそばで食べると、不思議と豊かな食卓に見えた。


 ヴィルヘルムは椀を手に取り、しばらく湯気を見ていた。


「どうしましたか。」


「いえ。」


「冷めますよ。」


「はい。」


 彼は一口食べた。

 目を伏せる。


「美味しいです。」


「本当に?」


「はい。」


「祝日だから、少し特別に感じるだけでは。」


「違います。」


「火のそばだから?」


「それもありますが、違います。」


「では?」


 ヴィルヘルムは椀を見つめたまま言った。


「あなたが、私のために作ってくれたからです。」


 胸が、強く鳴った。

 火がぱち、と音を立てる。


 私は匙を握ったまま、少し動けなかった。


「……褒めすぎです。」


「足りません。」


「またそれですか。」


「本当です。」


 彼は顔を上げる。

 火の光が、青い目の中で揺れていた。


「王宮の炉開きは、確かに豪華です。大広間に火が入り、料理も山ほど並び、楽師も呼ばれます。けれど、私は今の方が良い。」


「本当に?」


「はい。」


 迷いのない声だった。


「ここが良いです。」


 私は目を伏せた。


 泣きそうだった。

 でも泣いてはいけない。


 今日は、祝日なのだ。

 私は笑って、パンを彼の皿へ少し押しやった。


「では、もっと食べてください。」


「はい。」


「王宮より良いのなら、残せませんね。」


「残しません。」


「無理はしないでください。」


「無理ではありません。」


「その言葉の信用は?」


「まだ下がっていますか?」


「かなり。」


 ヴィルヘルムは少し笑った。

 その笑顔が、火の光に照らされて柔らかい。


 私はそれだけで、もう十分だと思った。


 十分。

 そう思ったのに、すぐにもっと欲しくなる。


 彼の声。

 手。

 視線。

 温度。


 明日も。

 明後日も。

 もっと。


 もっと。


 そんなふうに求めてしまう自分が、怖くもあり、幸せでもあった。


 食事の後、ヴィルヘルムが持ってきた包みを机の上に置いた。


「市場で買ったのですか?」


「はい。少しだけ寄れました。」


「私が行かなかったから?」


「あなたが家で待っていると思うと、長居はできませんでした。」


「それは、市場の方に失礼ですね。」


「そうかもしれません。」


 彼は真面目に頷いた。

 私は笑う。


 包みを開くと、小さな焼き菓子が入っていた。


 蜜が塗られ、表面に砕いた木の実が散っている。

 炉開きの日に若い恋人たちが買うものだと、以前マーサが言っていた気がする。


 私はそれを見て、少しだけ頬が熱くなった。


「これは?」


「市場で、勧められました。」


「誰にですか?」


「菓子屋の主人に。」


「何と?」


 ヴィルヘルムは少しだけ視線を逸らした。


「……恋人に持っていくなら、これだと。」


 私は口元を押さえた。


「それで買ったのですか。」


「はい。」


「断らなかったのですね。」


「……断る理由がありません。」


「恋人に持っていくから?」


「はい。」


 真顔だった。

 私は笑ってしまった。


 可愛い。

 本当に、どうしようもなく可愛い。


 私は焼き菓子を一つ手に取った。

 小さく割って、半分をヴィルヘルムの口元へ差し出す。


「では、恋人らしく分けましょう。」


 ヴィルヘルムは固まった。


「このまま?」


「嫌ですか。」


「嫌なはずがありません。」


「では、どうぞ。」


 彼は少しだけ躊躇してから、私の指先に触れないように菓子を受け取ろうとした。


 私はわざと、少し指先を近づけた。


 唇に触れる。

 ほんの少し。


 ヴィルヘルムの動きが止まる。


「レベッカ。」


「はい。」


「あなたは、祝日だからといって。」


「はい。」


「少し、いつもより。」


「いつもより?」


「……可愛いです。」


 今度は私が黙った。

 心臓が、変な音を立てた気がした。


 ヴィルヘルムは言ってから、自分で驚いたような顔をする。

 それから、少しだけ慌てた。


「いえ、いつも可愛いのですが。」


「ヴィルヘルム。」


「今日は、その。」


「もう十分です。」


「足りません。」


「足りています。」


「足りません。」


 私は笑ってしまった。


 彼は真剣だ。

 あまりにも真剣で、こちらが照れてしまう。


「では。」


 私は焼き菓子の残り半分を自分で食べた。


 甘い。

 蜜の香りが口の中に広がる。


「美味しいです。」


「よかった。」


「ありがとうございます。」


「また買ってきます。」


「町で?」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。

 ヴィルヘルムは気づかなかったように微笑む。


「あなたが家で待っていてくださるなら。」


 私はその顔を見つめた。


 彼は、私が家にいることを喜んでいる。

 二人きりを望んでいることを、愛されている証だと思っている。


 それは間違いではない。

 でも、全部ではない。


 私が町へ行かない理由を、彼は知らない。

 知らないまま、幸せそうに笑っている。


 胸の奥が、少しだけ苦しくなった。

 私はその苦しさを隠すように、彼へ身を寄せた。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「今日は、火のそばにいてください。」


「はい。」


「ずっと。」


「はい。」


 彼は何も疑わず、私の肩を抱いた。


 火がぱちぱちと鳴る。

 外では風が窓を叩く。


 森の家の中は温かい。


 火の温かさ。

 料理の匂い。

 甘い焼き菓子。

 彼の腕。


 私はその全部を、体に刻むように目を閉じた。


 炉開きの日。

 家族で火を囲む日。


 私には家族はいない。

 けれど、今夜だけは、この火の前で彼と並んでいる。


 それだけで、私はこの先も生きていける気がした。



 どれくらいそうしていただろう。

 やがて、ヴィルヘルムが少しだけ身じろぎした。


「……レベッカ。」


「はい。」


「町へ、行きたくありませんでしたか。」


 胸が、静かに止まった。


 彼の声は穏やかだった。


 責めるものではない。

 ただ、少し気になったのだろう。


 私は目を開けずに答えた。


「行きたくありませんでした。」


「本当に?」


「はい。」


「なぜ?」


 私は少しだけ顔を上げた。

 彼の目を見る。


 嘘はつかない。

 でも、全部は言わない。


「市場では、こうしていられませんから。」


 ヴィルヘルムが息を止めた。

 私は彼の胸に指先を置いた。


「手を繋ぐのも、人目を気にするでしょう。名前を呼ぶのも、少し小さな声になるでしょう。抱きしめてほしくても、言えません。」


「レベッカ。」


「だから、家がいいのです。」


 私は笑った。

 甘く。

 少しだけ、困らせるように。


「あなたと二人きりでいたいのです。」


 ヴィルヘルムは何も言えなくなった。

 耳が赤くなる。


 それでも、どこか嬉しそうだった。


 彼は私が町を避けた理由を、恋人らしい甘えとして受け取った。

 そして、たぶん自分の中に浮かんだ何かを恥じている。


 その顔を見て、私は少しだけ理解してしまう。


 彼は今、何を想像したのだろう。

 外ではできないこと。

 家ならできること。


 私が最近、何度も彼を寝所へ誘うこと。


 そこまで考えたのだろうか。


 ヴィルヘルムは目を逸らした。

 首筋まで赤い。


「……あなたを、そのように考えるのは、よくない。」


 小さく呟いた。

 私は瞬きをした。


「どのように?」


「言えません。」


「言えないことを考えたのですか。」


「……はい。」


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「かわいい。」


 彼は額に手を当てた。


「その反応も、よくありません。」


「嫌ですか。」


「嫌なはずが、ありません。」


 私は笑った。

 でも、その笑いの奥で、胸が少しだけ軋んだ。


 彼は、やはり気づかない。


 気づかなくていい。

 気づかないで。


 私は彼の首へ腕を回した。


「では、言えないことを考えた責任を取ってください。」


 ヴィルヘルムが完全に固まった。


「責任。」


「はい。」


「それは。」


「火のそばでは、やっぱり寒いです。」


「……寝台へ?」


「言わせるのですか。」


 今度こそ、彼は言葉を失った。

 私は彼の頬に口づけた。


「今日は炉開きですから。」


「それは、理由になるのでしょうか。」


「なります。」


「本当に?」


「私の家では、なります。」


 ヴィルヘルムはしばらく私を見つめた。


 困ったように。

 嬉しそうに。


 そして、どうしようもなく愛しそうに。


「では。」


 彼は低く言った。


「この家のしきたりに従います。」


 私は笑った。


 火は静かに燃えていた。

 外は冷たい。

 冬は、もうすでに森を包んでいる。


 けれど、彼が私を抱き上げるようにして立ち上がった時、私の世界には彼の温度しかなかった。


 寝台へ向かう短い距離が、妙に長く感じた。

 私は彼の首に腕を回し、耳元で囁く。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「今が、一番幸せです。」


 彼の腕が、少しだけ強くなる。


「私もです。」


 声が低い。

 熱を帯びている。


「今が、一番幸せです。」


 その言葉を聞きながら、私は目を閉じた。

 炉の火が、部屋の隅で揺れている。


 ぱち、と薪が鳴る。


 家族の祝日。

 恋人の夜。


 私の冬の前の、小さな春。


 私はその春を、全身で抱きしめた。

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