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第六十話 晩秋の恋人たち

 晩秋の森は、日に日に軽くなっていった。


 あれほど枝にたわわに重なっていた葉は、風が吹くたびに一枚、また一枚と離れていく。


 黄色も赤茶も、少し前までは空を埋めるほど賑やかだった。

 けれど今は、枝の向こうに見える空の方が広い。


 森は、冬に向けて少しずつ余分なものを手放している。


 私の暮らしも、それに似ていた。


 畑の香草は刈り取った。

 乾かした分は束にして、台所の天井近くに吊るしてある。

 根菜の畝は半分ほど残し、育ちの悪いものは早めに抜いた。


 鳥除けの鈴は、まだ鳴る。

 けれど、夏の終わりや秋の初めのような賑やかさはない。


 ちりん。

 風が吹いた時だけ、思い出したように鳴る。


 仕事も、少しずつ減らした。


 茶布は、追加注文されていたものだけを納めた。

 香草袋は、薄緑と灰色だけ少し作ることにした。

 古道具屋の老人に頼まれた掠れた音の鈴飾りは仕上げたが、そのあと新しい注文は受けなかった。


 ローレンスは何も言わなかった。

 マーサも、強くは止めなかった。


 初めての冬だから。

 体を冷やすといけないから。

 恋仲になったばかりだから。

 少し浮かれても仕方がないから。


 理由はいくつもあった。


 誰もが、そのどれかの理由を選んでくれた。

 私も、静かに笑って頷いた。


 森の家の中は、少しずつ静かになっていった。

 机の上に積まれていた布は減り、糸の束も片づけた。

 畑用の籠は壁際へ寄せた。


 窓の隙間には、マーサのくれた厚手の布を詰めた。

 薪は、小屋の端に積み直した。


 暮らしは整っている。

 整っているように見える。


 けれど、私の一日は、以前よりもずっと空白が多くなった。


 ヴィルヘルムが来ない日は、私はよく窓辺に座っていた。


 針を持つこともある。

 帳面を開くこともある。

 畑へ出ることもある。


 けれど、何か手を動かすためではなかった。


 針を持ったまま、気づけば外を見ている。

 畑に出たまま、根菜の葉を眺めている。

 帳面を開いたまま、同じ数字の上に視線を置いている。


 時間が、薄く伸びていく。


 その中で、三日に一度だけ、世界が濃くなった。


 蹄の音が聞こえる日。

 彼が来る日。


 ヴィルヘルムは、三日に一度は森の家に泊まるようになっていた。


 最初は一週間に一度だった。

 それから五日に一度になり、今は三日に一度。


 無理をしているのではないかと聞くと、彼はいつも同じように答えた。


「問題ありません。」


 問題がない顔ではない。

 そう言いたくなる日もあった。


 けれど、言わなかった。

 彼は言われたところで、きっと控えめに笑って首を横に振るだけだ。


 そしてまた、書類も会議も調整も恐らくすべてを片づけて、森の道を馬で走る。


 ヴィルヘルムは、責任から逃げる人ではない。

 逃げないどころか、私に会う時間を作るために、以前よりもずっと多くのものを背負っているのだろう。


 それでも彼は、私の前では疲れた顔をあまり見せない。


 玄関先で馬を降り、私を見る。

 その瞬間だけ、表情がほどける。


 私はその顔が好きだった。


 王子ではなく。

 王太子候補でもなく。

 誰かの期待や国の未来を背負う人でもなく。


 ただ、私のところへ帰ってきた人の顔。


 彼は最近、扉を開けると少しだけ困ったように微笑む。


「ただいま、レベッカ。」


 最初にそう言った時、私はしばらく返事ができなかった。


 ――ただいま。


 その言葉は、あまりにも暮らしの言葉だった。

 あまりにも、私が欲しかったものだった。


 だから私は、次からは迷わず返すことにした。


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 そう言うたび、彼の耳が少し赤くなる。

 一か月経っても、まだ赤くなる。


 それが可愛くて、愛しくて、胸が痛くなる。



 その夜も、彼は日が暮れる少し前に来た。


 森の葉はかなり落ちて、道の上に乾いた色を重ねている。

 黒馬の蹄が落ち葉を踏む音は、以前よりも軽かった。


 私は扉を開けて待っていた。

 待っていたことを隠すのは、もうやめた。


 彼が来る日は、待つ。

 それでいい。


「ただいま、レベッカ。」


 ヴィルヘルムが言った。


 外套の肩に、また枯れ葉が一枚ついている。

 私は手を伸ばして、それを取った。


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 彼はほんの少し目を伏せた。

 その顔が、また照れている。


「まだ慣れませんか?」


「……慣れたいとは、思っています。」


「思っているだけですか?」


「……努力はしています。」


「では、もう一度。」


「何をですか?」


「ただいま、を。」


 ヴィルヘルムは息を詰めた。


 それから、少しだけ恨めしそうに私を見る。

 でも、すぐに諦めたように目を細めた。


「ただいま。」


「お帰りなさい。」


 私は笑った。

 彼も笑った。


 それだけのやり取りが、胸の奥に灯をともす。


 彼の腕を取り、暖かい家の中に入る。


 鍋には、根菜と鶏肉の煮込み。

 机には、二人分の皿。

 茶器も二つ。


 それはもう特別ではなくなっていた。

 二人分を出すことに、手が迷わなくなった。


 それが嬉しくて、怖かった。


「寒くなりましたね。」


 私は椀に煮込みをよそいながら言った。


「はい。領館より、このあたりの方が風が冷たい。」


「森だからでしょうか?」


「おそらく。」


「では、今夜は温かくして眠らないといけませんね。」


 ヴィルヘルムの手が止まった。

 私は何食わぬ顔で匙を置く。


「何ですか?」


「いえ。」


「何か想像しましたか?」


「レベッカ。」


「はい。」


「……あなたは、一か月前より確実に強くなりました。」


「強く?」


「私を困らせる力が。」


 私は笑った。


「嫌ですか?」


「嫌なはずが、ありません。」


 もう、決まり文句のようになっている。

 けれど、彼は毎回本気で言う。


 そのたびに、私の胸は少しだけ熱くなる。



 食事を終えると、彼は皿を拭くのを手伝った。

 最初の頃はぎこちなかった手つきも、だいぶ慣れてきた。


 それでも、私の皿だけは相変わらず丁寧すぎる。


「皿は王族ではありませんよ。」


「分かっています。」


「では、なぜそんなに慎重なのですか。」


「あなたの皿だからです。」


「またそういうことを。」


「事実です。」


 真面目な顔で言われる。

 私は思わず視線を逸らした。


 彼は以前よりも、甘い言葉を言うようになった。

 けれど相変わらず自覚は薄い。


 それどころか、本人としては正確に事実を述べているだけのつもりなのだろう。

 ……だからこそ、余計にたちが悪い。


 皿を片づけ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 風が窓の隙間を鳴らす。

 布を詰めた隙間からも、細い冷気は入ってくる。


 私は手を擦った。

 それを見て、ヴィルヘルムがすぐに私の手を取った。


 以前なら、触れます、と言っただろう。

 今は言わない。

 私が、もう言わなくていいと言ったからだ。


 彼は私の手を両手で包む。


 手袋を外した手。

 少し冷たい。

 でも、すぐに温かくなる。


「冷えています。」


「あなたの手も冷たいです。」


「私のことはいいです。」


「よくありません。」


 私は彼の手を握り返した。


「私の恋人ですから。」


 ヴィルヘルムが静かに息を止める。


 恋人。

 この言葉にも、彼はまだ弱い。


 一か月経っても、まだ少し顔が赤くなる。


 でも最近は、ただ固まるだけではない。

 赤くなりながら、嬉しそうにする。

 もっと言ってほしい、と目が言っている時すらある。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「かわいい。」


 彼は目を伏せた。


「……最近、それを待っている自分がいます。」


 小さな声だった。

 私は胸を撃ち抜かれたような気持ちになった。


「待っていたのですか?」


「認めたくは、ありません。」


「でも?」


「……待って、いました。」


 あまりにも素直だった。

 私は彼の手を握ったまま笑う。


「では、何度でも言います。」


「それは。」


「頼もしくて、可愛いです。」


 ヴィルヘルムは額を少し伏せた。

 けれど、口元がほんの少し緩んでいる。


 その顔が、たまらなく愛おしい。


 私は彼の胸に額を寄せた。

 彼は自然に私を抱き寄せる。


 もう、腕の位置に迷わない。

 けれど、力加減は相変わらず慎重だ。


 私が苦しくないように。

 逃げたければ逃げられるように。


 そういう抱き方をする。


 私が逃げるはずなどないのに。

 逃げるとしたら、もっと別の形でなのに。


 そう思って、胸が少しだけ痛んだ。


 でも、顔は上げない。

 彼の胸に頬をつけたまま、私は目を閉じた。

 彼の心臓の音が聞こえる。


 少し速い。

 私のせいだと思うと、嬉しくなる。


 そんな自分が、少し怖くなる。


「レベッカ。」


「はい。」


「今が、一番幸せです。」


 先に言ったのは、彼だった。


 私は目を開けた。

 胸の奥が、静かに震える。


 ――今が、一番幸せ。


 それは私が何度も思い、何度も言ってきた言葉だった。


 でも、彼の口から聞くと、違う痛みがあった。


「私もです。」


 私は答えた。

 声は震えなかった。


「今が、一番幸せです。」


 ヴィルヘルムは私を抱く腕に少しだけ力を込めた。


「なら、もっと幸せにします。」


 彼は言った。

 当然のように。

 疑いもなく。


 明日も、明後日も、その先も、ずっと幸せが続くと信じている声だった。


 私は顔を上げ、彼を見た。


「十分です。」


「足りません。」


「あなたは、何でも足りないと言いますね。」


「あなたに関することは、足りたことがありません。」


 胸が苦しくなる。


 甘い。

 あまりにも甘い。


 私は笑って、彼の頬に触れた。


「では、今夜はここにいてください。」


「はい。」


「明日の朝まで。」


「……はい。」


「その先は、また明日考えましょう。」


 ヴィルヘルムは少しだけ不思議そうにした。

 けれど、すぐに柔らかく笑った。


「はい。明日、考えましょう。」


 明日。


 彼がくれる約束。

 守れる範囲の約束。


 私はその言葉に頷き、彼の首に腕を回した。

 彼の唇が降りてくる。


 その夜、森の家には、いつもより長く灯りがともっていた。


 窓の外で、落ち葉が風に追われていく。


 鈴が鳴る。


 冬は、もうすぐそこまで来ていた。


 それでも、彼の腕の中だけは、春のように温かかった。



      ◇



 冬に向けて、夜は日に日に長くなっていく。


 月が高く昇り始めた頃、エルヴァルト公爵邸の執務室にも、まだ明かりが残っていた。


 ヴィルヘルムは、事務官から手渡された公文書に静かに目を通していた。


 机の上には書類が積まれている。


 王都からの報告書。

 貴族院の議事録。

 隣国エルセリアの動向をまとめた密書。

 名誉裁判に関する下準備。


 そして、レベッカに関する報告。


 クラウス・エルヴァルト公爵は、そのうちの一枚を指で軽く叩いた。


「殿下。」


 向かいに座るヴィルヘルムは、顔を上げた。


 その表情は静かだった。

 先ほどまで膨大な文書を処理していたとは思えないほど、乱れがない。


 けれど、クラウスには分かった。


 目元に疲労がある。

 頬の線が少し鋭い。

 睡眠が足りていない。


 それでも、この第三王子は自分の体調など問題にしないだろう。


「少し、慎重になられた方がよろしい。」


 クラウスが言うと、ヴィルヘルムはわずかに眉を動かした。


「何についてでしょうか。」


「すべてについてです。」


 クラウスは椅子の背にもたれた。


「王太子就任に向けた調整。エルセリアへの牽制。レベッカ嬢の名誉裁判。公爵領の引き継ぎ。そして、森の家への通い方。」


 最後の言葉で、ヴィルヘルムの目が少しだけ冷えた。


 クラウスは内心で息を吐く。


 分かりやすい。

 ……いや、分かりやすくなった。


 以前のヴィルヘルムなら、この程度で表情を動かさなかった。


 十年を敵国で過ごした王子。

 幼い頃から感情を隠すことを強いられ、沈黙の中で情報を拾い、相手の意図を読むことに長けた青年。


 その彼が、令嬢の名を挟むだけでわずかに反応する。


 危うい。

 だが、同時に人間らしい。


 クラウスはそう思った。


「必要な調整は進んでいます。」


 ヴィルヘルムは静かに言った。


「王太子就任の準備も、名誉裁判の根回しも、滞りはありません。エルセリアについても、必要な牽制のみに留め、第一王子と侯爵令嬢の婚礼が行われるまでは静観する方針で一致しています。」


「そこは疑っておりません。」


「では。」


「問題は、そこではありません。」


 クラウスは報告書を一枚持ち上げた。


「あなたご自身と、レベッカ嬢です。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 その沈黙が、答えだった。


 クラウスは続ける。


「彼女は意図して仕事を減らしている。鈴飾り、茶布、香草袋。畑もかなり整理された。マーサの訪問頻度も減った。町へ降りる回数も少ない。」


「冬支度でしょう。」


 ヴィルヘルムは即答した。


「初めての冬です。無理をしないよう、彼女自身が調整している。」


「本当に、それだけだと?」


「彼女は、自分で暮らしを整えられるようになっています。」


「ええ。それはそうでしょう。」


 クラウスは頷いた。


「だが、以前の彼女なら、仕事を減らすにしても、もう少し未練を見せたはずです。」


 ヴィルヘルムの表情が、ほんの少し硬くなる。


「ローレンスの報告ですか。」


「ローレンスも、マーサも、同じような違和感を覚えています。」


「彼らは心配しすぎです。」


「あなたも、以前はそうでした。」


 ヴィルヘルムは返事をしなかった。


 クラウスは、静かに彼を見た。


 この青年は有能だ。

 王の見立て通り、三人の王子の中で最も強靭で、最も冷静で、最も現実を見る力がある。


 敵国に十年置かれ、折れなかった。

 ただ耐えただけではない。


 情報を集め、情勢を読み、この国が優位に立つための材料を送り続けた。

 帰還後は、公爵領の実務を驚くほど早く吸収した。


 人を見る目もある。

 交渉もできる。

 必要なら詭弁も使う。

 相手の弱みを見つけるのも早い。


 確かに、次期王にふさわしい。

 ふさわしいが。


 今の彼は、十八歳の青年でもあった。


 初めて、望んだものに手が届いた青年。

 長い冬の果てに、ようやく春を得たと思っている青年。


 その幸福が、彼の目を曇らせている。


「殿下。」


 クラウスは少し声を低くした。


「レベッカ嬢は、あなたが王太子に選ばれることを知りません。」


「はい。」


 ヴィルヘルムの声は硬かった。


「まだ話せません。」


「それは分かっています。だが、彼女が知らないまま、あなたが距離を詰め続けることの危うさも分かっておられるはずです。」


「私は彼女を欺いているわけではありません。」


「隠してはいる。」


 ヴィルヘルムの目が細くなった。


「必要な沈黙です。」


「それも分かっています。」


 クラウスは椅子から身を乗り出した。


「しかし、必要な沈黙は時に、人を深く傷つける。」


 ヴィルヘルムはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと言った。


「彼女は私を愛しています。」


 クラウスは目を伏せた。


 その言葉は静かだった。

 けれど、奥に隠しきれない幸福があった。


「私も、彼女を愛しています。」


 ヴィルヘルムは続けた。


「名誉裁判も、隣国への対応も、王太子就任後の立場も、私が必ず整えます。時間はかかる。傷つけもした。けれど、最後には彼女を私の隣へ戻します。」


「殿下。」


「彼女は、私との時間を望んでくれています。」


 その声に、若さがあった。

 有能ゆえの傲慢があった。

 自分なら最後に盤面を整えられるという確信があった。


 クラウスは、それを美しいとも、危ういとも思った。


「彼女は森の家で立ち直りました。暮らしを得た。人との繋がりも得た。そして今、私を受け入れてくれた。ならば、残る問題は外側だけです。」


「外側だけ。」


「はい。制度、裁判、隣国、王室。それらは私が処理します。」


 クラウスは思わず、深く息を吐いた。


 傲慢だ。

 だが、その傲慢を支えるだけの力がこの青年にはある。


 だから余計に厄介だった。


 できない者の傲慢なら止めやすい。

 だが、ヴィルヘルムは実際に多くを成し遂げてきた。

 敵国での十年も。

 帰還後も。不可能に見えた調整を通し、貴族院の反対派を黙らせ、兄王たちにも認めさせた。


 彼の盤面は、現時点では確かに整っている。


 ――しかし人の心だけは、盤上の駒ではない。


 クラウスはそう言いたかった。

 だが、言葉にすれば、この青年はさらに頑なになるだろう。


「殿下。」


 クラウスは静かに言った。


「あなたは、レベッカ嬢をよく見ているようで、見たいものだけを見ているのかもしれません。」


 ヴィルヘルムの瞳が冷えた。


「それは、どういう意味ですか。」


「忠告です。」


「彼女を疑えと?」


「いいえ。ご自身を疑えと。」


 沈黙が落ちた。

 執務室の灯りが、書類の影を長く伸ばしている。


 ヴィルヘルムはしばらくクラウスを見ていた。

 それから、静かに立ち上がった。


「忠告は受け取ります。」


「聞き入れるとは言わないのですね。」


「必要なものは聞き入れます。」


「相変わらず、都合のいい返事だ。」


「公爵に学びました。」


 クラウスは苦笑した。

 この程度の皮肉を返せるなら、まだ理性はある。


 だが、その理性があの令嬢の前でどれだけ保つのかは分からない。


「今夜も行かれるのですか。」


「はい。」


「三日前にも泊まられた。」


「仕事は終えています。」


「体は一つです。」


「承知しています。」


「本当に?」


「問題ありません。」


 クラウスは額に手を当てた。


「殿下、その表情で“問題ありません”と言われても、説得力がございません。」


 ヴィルヘルムはわずかに目を逸らした。

 それが答えだった。


 クラウスは呆れと心配を半分ずつ混ぜて、深く息を吐いた。


「せめて、休める時は休みなさい。」


「森の家で休んでいます。」


「それは休息ですか。」


 ヴィルヘルムは、ほんの少しだけ黙った。

 それから、珍しく目元を赤くした。


「……場合によります。」


「聞かなかったことにします。」


 クラウスは即座に言った。

 ヴィルヘルムも咳払いをした。


 その様子に、クラウスは一瞬だけ、この青年が本当に十八歳なのだと思い出した。


 重すぎる責務と、長すぎる孤独と、あまりにも早く身につけた冷静さの下に、年相応の恋をする若者がいる。


 その若者を、止めるべきなのか。

 それとも、今だけでも息をさせるべきなのか。


 答えは出なかった。


 ヴィルヘルムは外套を手に取った。

 執務室の扉へ向かう。


 その背中は、王太子候補のものだった。

 真っ直ぐで、迷いがなく、背負うものの重さに潰れない背中。


 だが、扉を開ける直前、彼はほんの少し振り返った。


「公爵。」


「何でしょう。」


「彼女は、また笑うようになりました。」


 クラウスは黙った。


「私の前で。」


 それは、報告ではなかった。

 誇りのような、祈りのような、どうしようもなく幸福な告白だった。


 クラウスは、何も言えなかった。


 ヴィルヘルムは一礼し、執務室を出ていった。


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。


 クラウスはしばらく、その扉を見つめていた。


「……だからこそ、危ういのだがな。」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 机の上には、令嬢に関する報告書が残っている。


 仕事量の調整。

 畑の整理。

 マーサの訪問減少。

 ローレンスの違和感。

 そして、ヴィルヘルムとの関係の変化。


 クラウスはその紙を手に取り、もう一度読み返した。


 どの変化も、単独では自然だった。


 冬支度。

 恋人になったばかりの浮かれ。

 体調管理。

 初めての暮らしの調整。


 自然だ。

 自然すぎるほどに。


 だからこそ、嫌な予感がした。


 けれど、今それを確信に変える材料はない。


 ヴィルヘルムは動くだろう。


 レベッカのために。

 国のために。

 そしておそらく、自分の幸福のためにも。


 若い王子は、すべてを手に入れられると信じている。

 それだけの力を持っているから。


 クラウスは窓の外を見た。


 公爵邸の庭にも、枯れ葉が積もっている。


 冬が来る。

 その前に、何かが決定的に変わる気がした。



    ◇



 公爵邸を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。


 ヴィルヘルムは外套を羽織り、アルクの手綱を取った。

 冷えた夜気が頬を刺す。


 森の家までは、馬を走らせても一刻ほどかかる。

 それでも彼の足取りに迷いはなかった。


 公爵の忠告も、机に残した書類も、王都から届く重い報告も、すべて背後へ置いていくように、彼は夜の道へ出た。


 森へ近づくにつれ、風はさらに冷たくなる。

 道の端には落ち葉が積もり、馬の蹄がそれを踏むたび、乾いた音が闇に散った。


 そして、森の家に蹄の音が届く頃。



 レベッカは、火の前で彼を待っていた。


 今日は遅くなると聞いていた。

 ならば、夕食は軽めの方がいいだろうか。


 ――後のことを考えるなら、その方がよいのかもしれない。


 そこまで考えて、私は自分の考えの意味に気づき、頬を染めた。


「……何を考えているのかしら。」


 小さく呟いて、鍋の蓋を少しずらす。

 中では、根菜と干し肉の煮込みが静かに湯気を立てている。


 茶器は二つ。

 寝台には、厚手の布を一枚足してある。


 外で、蹄の音がした。


 私は立ち上がった。

 扉を開ける。

 冷たい夜気が流れ込む。


 その向こうに、ヴィルヘルムが立っていた。

 公爵邸の空気をまとったまま。


 それでも、私を見るとすぐに、その空気を脱ぐように表情を緩める。


「ただいま、レベッカ。」


 私は微笑んだ。


「お帰りなさい、ヴィルヘルム。」


 彼の目が、安堵に溶ける。

 その顔を見るたび、私は思う。


 今だけは。

 今だけは、この人の帰る場所でいたい。


 私は彼の手を取り、家の中へ招いた。


 扉が閉まる。

 夜風の音が遠ざかる。

 森の家の中だけが、温かかった。


 冬の前の、短い春のように。

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