第五十九話 世界の外にある春
翌日、私は朝から妙に落ち着かなかった。
何をしていても、手元が少し浮いている。
水を汲みに行けば、桶を持ったまま庭の道で立ち止まる。
香草を束ねれば、同じ紐を何度も結び直す。
灰色の布玉を仕上げようとしても、針目が一つ飛んでいることに気づき、ほどいて縫い直す。
いつもの私なら、もう少し落ち着いていたはずだ。
けれど、今日ばかりは仕方がなかった。
ヴィルヘルムが来る。
しかも、今日は長くいられるように調整すると言った。
――明後日は、朝ごはんも食べて行ってほしいです。
自分で言った言葉を思い出し、私は一人で頬を熱くした。
私が言ったのだ。
他の誰でもない。
この口で。
あの人に向かって。
明後日の朝食。
つまり、今夜をここで過ごしてほしいという意味だ。
思い出すたびに、机に額を打ちつけたくなる。
けれど、後悔はしていなかった。
恥ずかしい。
でも、後悔はしていない。
私は鍋を磨きながら、小さく息を吐いた。
今日は、少しまともな夕食を作りたい。
豆と干し肉を柔らかく煮る。
根菜を少し刻む。
香草を細かくする。
パンは町で買っておいたものがある。
果物は、まだ少し残っている。
そこまで特別なものではない。
それでも、今の私にできる精一杯だった。
私は棚から器を二つ出した。
二つ。
もう迷わない。
この家に、彼の分の器がある。
それだけで胸が熱くなる。
茶器も二つ。
皿も二つ。
匙も二つ。
それらを机に並べると、森の家が少しだけ別の場所のように見えた。
一人で生きるための家ではなく。
二人で過ごすための家。
ほんの短い時間だけでも。
私はその光景を見つめた。
胸の奥が甘く痛む。
これは、いつか片づけるものだ。
いつか、二つ並べた器を一つに戻す日が来る。
そう分かっている。
けれど今日は、考えない。
考えないと決めた。
私は机の上に小さな布を敷き、香草袋を一つ置いた。
昨夕、ヴィルヘルムが言った。
――今夜は、薬草袋を抱きしめて眠ってしまいそうです。
その言葉が胸に残っている。
だから、彼用に一つ作った。
仕事としてではない。
売り物でもない。
彼のためだけの香草袋。
薄緑の布。
中には少し甘さのある香草を多めに入れた。
鈴はつけなかった。
眠る時に邪魔にならないように。
けれど、紐の端には小さな刺繍を入れた。
小さな葉、細い茎、不揃いな双葉の形。
ほとんど目立たない。
彼だけが気づけばいい。
……いや、気づかなくてもいい。
私が彼のために作った。
それだけでよかった。
夕方が近づくにつれ、森の色が濃くなっていく。
私は何度も玄関へ向かいかけ、そのたびに戻った。
待っていると思われるのは恥ずかしい。
でも、待っている。
とても。
どうしようもなく。
やがて、蹄の音がした。
胸が跳ねる。
今度は聞き間違いではない。
確かに、森の道から近づいてくる音。
私は立ち上がった。
扉へ向かう。
けれど、すぐには開けない。
少し待つ。
ほんの少しだけ。
待っていたことが分かりすぎないように。
扉が叩かれた。
「レベッカ。」
その声だけで、胸の奥がほどけた。
私は扉を開けた。
夕方の光の中に、ヴィルヘルムが立っていた。
昨日よりは整っている。
けれど、少しだけ急いで来たのだと分かる。
髪の端が風に乱れ、外套にも小さな葉が一枚付いていた。
それでも、私を見るとすぐに表情がやわらいだ。
「こんばんは、ヴィルヘルム。」
名前で呼ぶと、彼はまた一瞬だけ動きを止めた。
もう何度も呼んでいるのに。
まだ慣れていない。
その反応が、私はたまらなく好きだった。
「こんばんは、レベッカ。」
彼も私の名を呼ぶ。
敬称のない名前。
それだけで、体の奥が温かくなる。
「お待ちしていました。」
言ってから、少しだけ顔が熱くなる。
でも、今日は引かない。
ヴィルヘルムは息を止めた。
「……はい。」
「はい?」
「来て、よかったです。」
真面目にそう言うから、私は笑ってしまった。
「まだ玄関ですよ。」
「はい。」
「中へどうぞ。」
「失礼します。」
彼は家の中へ入った。
その動きが、以前よりも自然になっている。
敷居を越えることに、もう過剰な緊張はない。
けれど、雑にはならない。
私の家へ入る時、彼はいつも少しだけ丁寧になる。
それが嬉しかった。
台所へ案内すると、彼は机の上を見て少しだけ目を見開いた。
二人分の器。
湯気の立つ鍋。
小さな香草袋。
「夕食を用意しました。」
「ありがとうございます。」
「大したものではありません。」
「あなたの料理は、大したものです。」
「褒めすぎです。」
「足りません。」
私は手を止めた。
ヴィルヘルムは真面目な顔だった。
「もっと褒めるべきだと思っています。」
「食べる前から?」
「はい。」
「それは、さすがに信用できません。」
「では、食べた後にもう一度言います。」
私は笑った。
この人は、本当に真面目に甘いことを言う。
たぶん本人には、あまり自覚がない。
それがいけない。
「では、食べた後にお願いします。」
「はい。」
私たちは向かい合って座った。
豆と干し肉と根菜の煮込み。
香草を浮かべた薄いスープ。
パン。
干した果物を少し。
素朴な食卓。
けれど、ヴィルヘルムはいつものように丁寧に食べた。
一口ずつ、きちんと味わうように。
まるで、王宮の晩餐よりも大切な料理であるかのように。
「美味しいです。」
彼は言った。
「本当に?」
「はい。」
「もう一度褒める約束でしたね。」
「はい。とても美味しいです。温かくて、落ち着きます。香草の量も良い。豆と肉も柔らかい。パンにも合います。」
「細かいですね。」
「褒め足りないので。」
私は思わず頬を押さえた。
「もう十分です。」
「まだあります。」
「本当に十分です。」
「では、後で。」
「後で?」
彼はそこで、少しだけ言葉に詰まった。
自分で言ってから意味に気づいたのだろう。
――後で。
――今夜は、帰らない。
その事実が、二人の間に静かに置かれた。
ヴィルヘルムの耳が赤くなる。
私も顔が熱くなる。
けれど、今日は目を逸らさなかった。
「後で、ですね。」
私が言うと、彼は匙を持ったまま固まった。
「レベッカ。」
「はい。」
「あなたは。」
「はい。」
「昨日から、少し。」
「少し?」
「……私を困らせることを、覚えました。」
「嫌ですか。」
「……嫌なはずが、ありません。」
いつもの答え。
でも、声は低くて、少し掠れている。
その声を聞くだけで、胸の奥が熱くなる。
私は匙を置き、少しだけ彼を見つめた。
「では、困ってください。」
ヴィルヘルムは、完全に言葉を失った。
私も、自分で言って少し驚いた。
けれど、もう戻さない。
今の私は、彼を愛したい。
彼に愛されたい。
彼を困らせたい。
彼を笑わせたい。
彼を赤くしたい。
彼に、私しか見えない時間を作りたい。
その全部が、今の私の望みだった。
夕食が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
森の家の窓に、夜の色が張りついている。
私は皿を片づけようと立ち上がった。
すると、ヴィルヘルムもすぐに立つ。
「手伝います。」
「今日はお客様です。」
「一昨日から、それは少し違う気がします。」
私は手を止めた。
ヴィルヘルムも止まった。
また、彼は自分の言葉に後から気づいた顔をしている。
私は笑った。
「では、何ですか。」
「……恋人、です。」
低い声。
真面目な顔。
耳は赤い。
私は胸の奥を押さえたくなった。
「そうですね。」
私はそっと彼の袖をつまんだ。
「恋人なら、手伝ってください。」
「はい。」
彼は嬉しそうに頷いた。
皿を洗うだけの時間が、なぜこんなに甘いのだろう。
隣に立つ。
手が触れる。
湯気が上がる。
布巾を受け取る。
それだけで、二人とも少しぎこちなくなる。
ヴィルヘルムは皿を丁寧に拭いた。
丁寧すぎるほど丁寧に。
「割れませんよ。」
「念のためです。」
「皿にも礼儀正しいのですね。」
「あなたの皿ですから。」
まただ。
また、そういうことを真顔で言う。
私は目を伏せた。
「あなたは、不意打ちが多いです。」
「そうでしょうか?」
「そうです。」
「あなたの方が多いと思います。」
「私が?」
「はい。」
ヴィルヘルムは布巾を畳みながら、こちらを見た。
「名前を呼ばれるだけで、私はだいぶ困っています。」
「ヴィルヘルム。」
試しに呼ぶ。
彼は目を閉じた。
「……ほら。」
私は笑った。
「かわいい。」
「それは。」
「頼もしくて、可愛いです。」
「……まだ言うのですか。」
「何度でも言います。」
ヴィルヘルムは困ったように眉を寄せた。
けれど、その顔は少し嬉しそうだった。
最初は不本意だと言っていたのに。
もしかしたら、少しずつ慣れてきたのかもしれない。
いや、慣れたというより、期待しているようにも見える。
私はそっと近づいた。
「もっと言ってほしいですか?」
彼が動きを止めた。
「……それは。」
「はい。」
「言うべきではない気がします。」
「でも?」
ヴィルヘルムは視線を逸らした。
「……嫌では、ありません。」
あまりに可愛くて、私は彼の胸元に額をつけた。
笑いを堪えきれなかった。
「あなたは本当に。」
「何ですか。」
「ずるいです。」
「それは、私の台詞です。」
彼の腕が、そっと私の背に回る。
慎重に。
でも、以前より確かに近く。
私はその腕の中に入った。
彼の胸の音が聞こえる。
速い。
少しだけ。
そのことが嬉しかった。
ヴィルヘルムも私と同じように、落ち着かないのだ。
冷静な顔をしていても。
王子であっても。
王太子候補であっても。
今は、私を抱きしめるだけで心臓が速くなる人なのだ。
「今日は。」
彼が低く言った。
「はい。」
「本当に、いてもよいのですか。」
「はい。」
「無理をしていませんか。」
「していません。」
「後悔しませんか。」
「しません。」
私は顔を上げた。
彼の青い目が、夜の灯りの中で揺れている。
「私は、あなたにいてほしいです。」
ヴィルヘルムの腕に力が入った。
今度は、はっきりと。
それでも、痛くはない。
「私も。」
彼の声は少し震えていた。
「ここにいたい。」
その言葉で、胸が満ちた。
私は背伸びをして、彼に口づけた。
最初は静かな口づけだった。
確かめるように。
もう一度、彼がここにいるのだと、自分に言い聞かせるように。
けれど、離れる前に、ヴィルヘルムの手が私の背を引き寄せた。
ほんの少し。
それだけで、唇がまた重なる。
二度目は、少し長かった。
彼の吐息が近い。
私の指が、彼の服を握る。
整った襟。
かっちりと留められた釦。
いつも通りの、隙のない服。
その下にある彼の熱だけが、隠しようもなく私に伝わってくる。
ヴィルヘルムの手が、私の背を支えたまま、ゆっくりと腰へ下りた。
ためらうように。
許しを求めるように。
それでも、触れずにはいられないように。
私は唇を重ねたまま、彼の首へ腕を回した。
その瞬間、ヴィルヘルムの呼吸が乱れた。
「レベッカ。」
口づけの合間に呼ばれた名が、低く熱を帯びている。
その声だけで、膝から力が抜けそうになる。
私は彼に身を預けた。
そのまま寝台の方へ倒れ込むように一歩下がる。
けれど、ヴィルヘルムは慌てて私を支えた。
力強く。
でも、決して乱暴ではなく。
「危ない。」
「大丈夫です。」
「大丈夫ではありません。」
「支えてくださったでしょう。」
「そういう問題では。」
彼は途中で言葉を失った。
私が笑ったからだ。
彼の首に腕を回したまま、笑った。
ヴィルヘルムは本当に困った顔をした。
困って、赤くなって、それでも嬉しそうで。
私はその顔が好きだった。
彼は私を抱き上げるように支え、ゆっくりと寝台へ下ろした。
壊れ物を扱うように。
けれど、その指先にはもう、隠しきれない焦りが滲んでいた。
私が彼を見上げると、ヴィルヘルムは一度だけ深く息を吸った。
それから、まるで決意したように自分の襟元へ手をかける。
いつものかっちりとした服。
礼儀と身分と責務をまとった服。
それを、彼は少し不器用に、けれど焦るように外していった。
釦を一つ。
また一つ。
指が少しだけもつれる。
それがあまりにも彼らしくなくて、私は息を呑んだ。
完璧な王子の仮面が、私の前でほどけていく。
外套が椅子にかけられる。
上着が落ちる。
白いシャツの襟元が開く。
そこから覗いた首筋。
鎖骨。
薄い灯りに照らされた肌。
私は思わず、言葉を忘れた。
彼は綺麗な人だとは思っていた。
美しい人だと、ずっと思っていた。
けれど、それは違った。
美しいだけではない。
静かな服の下には、男らしくしっかりと鍛えられた線があった。
余分なもののない肩。
剣を握る逞しい腕。
長い旅と、十年の耐える日々と、王子としてではなく一人の人間として生き抜いてきた時間が、骨と筋肉の形になってそこにあった。
白く、冷たい彫像のようでいて。
けれど、触れればきっと熱い。
強くて。
美しくて。
少し痛ましいほどに、彼そのものだった。
「……レベッカ。」
ヴィルヘルムが低く呼んだ。
私が見つめすぎたせいだろう。
彼の耳がまた赤い。
「そんなに見ないでください。」
「見ます。」
「レベッカ。」
「だって、綺麗です。」
言った瞬間、彼が完全に固まった。
「綺麗?」
「はい。」
私はゆっくり起き上がり、彼へ手を伸ばした。
「とても綺麗です。強くて、綺麗で、少しだけ苦しそうで。」
指先が、彼の開いた襟元に触れる。
ヴィルヘルムの喉がわずかに動いた。
「あなたらしい。」
彼の目が揺れた。
私はその揺れごと、彼が愛しかった。
たまらなく。
どうしようもなく。
「こちらへ来て。」
囁くと、彼はもう逆らわなかった。
寝台が小さく軋む。
彼の影が私に重なる。
口づけが降りてくる。
今度は、ためらいよりも熱が勝っていた。
それでも彼は、最後のところで必ず私の表情を確かめる。
苦しくないか。
怖くないか。
嫌ではないか。
その目が、何度も問う。
私はそのたびに、彼の首へ腕を回した。
答えの代わりに、唇を重ねた。
夜は、静かに深くなっていった。
森の家の灯りは、遅くまで消えなかった。
外では鳥除けの鈴が夜風に揺れる。
香草の匂いが、部屋の中に淡く漂っていた。
その匂いも。
彼の熱も。
私の名を呼ぶ声も。
全部が混ざって、何も考えられなくなる。
未来も。
王都も。
冬も。
暮らしを畳むことも。
全部、遠くなる。
彼だけが近い。
彼の腕だけが、私の世界を満たしていく。
私はその夜、何度も彼の名を呼んだ。
そして、そのたびに彼は、私を失うことなど少しも考えていない声で、私の名を呼び返した。
どれほど時間が経ったのか、分からなかった。
気づいた時には、森の家の灯りは落とされ、部屋は夜の淡い影に包まれていた。
私は彼の腕の中で、自分の呼吸が少しずつ整っていくのを感じていた。
何度も名前を呼ばれた。
何度も、名前を呼んだ。
ただそれだけで、胸の奥の穴が少し埋まる気がした。
けれど、埋まったそばからまた空いていく。
もっと。
もっと。
まだ足りない。
そんな自分に、少しだけ怖くなる。
それでも、私は彼の胸に頬を寄せた。
ヴィルヘルムは、私を抱きしめたまま髪を撫でていた。
眠る気配がない。
「眠らないのですか?」
私が小さく聞くと、彼は少しだけ動いた。
「眠るのが惜しいです。」
「明日もお仕事でしょう。」
「……はい。」
「眠ってください。」
「あなたは?」
「私は、あなたが眠ったら眠ります。」
「では、眠れません。」
「なぜですか?」
「あなたを、見ていたいので。」
胸が痛いほど熱くなる。
「……そういうことを、言う人でしたか?」
「最近、少し自制がききません……。」
「それは困りましたね。」
「困っています。」
「嫌ですか?」
「嫌なはずがありません。」
私は笑った。
彼も少し笑った。
暗い部屋の中で、二人の笑い声は小さく重なった。
それは、あまりにも穏やかで。
あまりにも幸せで。
私は泣きそうになった。
泣かない。
今は泣かない。
私は彼の胸に額を押しつけた。
「今が、一番幸せです。」
言葉が、自然に出た。
ヴィルヘルムの腕が、わずかに強くなる。
「私もです。」
彼は言った。
「今までで、一番幸せです。」
長い冬の後に、初めて春を見たような声だった。
私は目を閉じた。
そう。
あなたにとっては、春なのね。
長い孤独の後に来た、初めての春。
――でも、私にとっては。
私はその先を考えなかった。
考えない。
今は。
私は彼の服を握った。
「では、眠りましょう。」
「……はい。」
「明日の朝食を食べていただかないといけませんから。」
ヴィルヘルムが少しだけ息を詰めた。
まだその言葉に反応する。
可愛い。
「楽しみにしています。」
「簡単なものですよ。」
「あなたが作るなら、十分です。」
「また褒めすぎです。」
「足りません。」
そのやり取りを最後に、彼はようやく目を閉じた。
それでも腕は私を抱いたまま。
苦しくないように、少しだけ力を緩めて。
眠っていても、きっとそうなのだろう。
この人は、私を傷つけまいとする。
私は彼の胸の音を聞きながら、目を閉じた。
外では、森が夜風に揺れている。
冬の気配はきっとすぐそこまで来ている。
それでも、この狭い寝台の中だけは温かかった。
まるで、世界の外にある小さな春のように。
私はその春に、身を寄せた。
朝になれば、また少しだけ暮らしを畳む。
でも今は。
今だけは。
この人の腕の中で、何も知らないふりをして眠る。
そう決めて、私は深く息を吸った。
香草の匂いと、彼の温度が、胸の奥に満ちていく。
その夜、私は久しぶりに、夢を見なかった。




