第五十八話 冬支度という名の片づけ
ローレンスの店の前まで来て、私は一度足を止めた。
扉の向こうには、いつもの茶葉の香りがある。
森の家の鈴を並べた小さな棚がある。
少し前の私なら、その棚を見るだけで胸が弾んだ。
今日は新しい香草袋が売れるだろうか。
茶布の注文は増えるだろうか。
古道具屋の老人は、あの掠れた鈴を気に入るだろうか。
そんなことを考えながら、少し背筋を伸ばして店に入った。
けれど今日は違った。
鞄の中には、香草袋が二つだけ入っている。
本当は四つ作る予定だった。
作れなかったわけではない。
針を持つ手が止まったわけでもない。
作らなかったのだ。
これから少しずつ、減らしていくために。
冬支度。
その言葉は便利だった。
畑を整理する理由にもなる。
仕事を減らす理由にもなる。
町へ降りる回数を減らす理由にもなる。
誰にも責められない。
誰にも怪しまれない。
初めて迎える冬なのだから。
私は鞄の紐を握り直し、扉に手をかけた。
「いらっしゃい、レベッカ。」
店に入ると、ローレンスが帳簿から顔を上げた。
いつもの笑顔だった。
穏やかで、少し人をからかうような目。
一昨日、奥の部屋で怒りを滲ませていた人と同じ人物とは思えないほど、いつも通りだった。
「こんにちは。」
私は頭を下げた。
「香草袋を持ってきました。」
「ああ、助かるよ。宿屋の女将がまた見に来ると言っていた。」
ローレンスは立ち上がり、棚の前へ来た。
私は鞄から包みを出し、薄緑と灰色の香草袋を二つ並べる。
ローレンスの手が、ほんの少し止まった。
「今日は二つかい。」
「はい。」
「珍しいね。」
「これから少し、仕事量を減らそうと思っています。」
言った瞬間、店の中の空気がわずかに変わった。
ローレンスは、香草袋を手に取ったまま私を見る。
「減らす?」
「はい。」
私は棚の端にある値札を少し直した。
手は落ち着いている。
声も、たぶん揺れていない。
「初めての冬を迎えますので、家のことを整えたいのです。窓の隙間や薪、保存食のこともありますし、畑も整理しなければなりません。」
「マーサさんに言われたのかい。」
「いえ。私が考えました。」
ローレンスは黙った。
その沈黙が、短いのに長く感じた。
彼は違和感を覚えている。
それは当然だ。
ついこの間まで、私は少しでも仕事を増やしたがっていた。
注文を覚え、帳面をつけ、売れた数を数えては喜んでいた。
次の市にも出たいと言った。
棚が広がったことを、宝物のように感じていた。
その私が急に、減らすと言う。
冬支度に向けて少しだけ。
理由は正当で一般的だ。
けれど、これまでの私なら選ばない、自然な選択。
その不自然でないこと自体が、不自然に見えるのだろう。
ローレンスの目が、私の顔を読む。
私は少し困ったように笑った。
「……それに、少し浮かれているのかもしれません。」
「浮かれている?」
「ヴィルヘルムと、恋仲になりました。」
ローレンスの表情が変わった。
ほんの一瞬。
昨日のマーサと同じように。
驚きよりも先に、硬さが走った。
やはり。
そう思う。
そして、思った自分に少しだけ嫌気が差す。
また試している。
けれど、もう見えないふりはできなかった。
ローレンスは一拍置いてから、すぐにいつもの顔に戻した。
「そうかい。」
「はい。」
「それは、おめでとうと言うところかな?」
「ありがとうございます。」
私は少しだけ頬を染めるように笑った。
けれど、それは演技だけではなかった。
ヴィルヘルムと恋人になったこと。
彼に愛していると言われたこと。
私が彼の名前を呼べること。
それは本当に嬉しい。
誰に何を与えられた舞台だとしても、そこだけは本物だった。
「私から伝えました。」
ローレンスが目を瞬いた。
「それはまた。」
「意外ですか?」
「……少し、ね。」
「私も、実は少し意外でした。」
私は笑った。
「でも、伝えたかったのです。」
ローレンスはしばらく黙っていた。
その沈黙の中に、いくつもの感情が動いているのが見えた。
驚き。
心配。
痛み。
それから、ほんの少しの諦め。
この人も知っている。
私とヴィルヘルムの先に、どんな困難と未来が待ち受けているのか。
いや、知っているどころではない。
一昨日、私は聞いたではないか。
――レベッカのことはどうするつもりだ。
ローレンスは、私のことをどうにかしようとしてくれていたのだ。
私は静かに息を吸った。
「ですから、しばらくは少し、彼との時間も大切にしたいと思っています。」
「なるほど。」
「仕事は完全にやめるわけではありません。ですが、注文を受けすぎるのは控えたいのです。」
「……それは構わないよ。無理に作るものじゃない。」
「ありがとうございます。」
「でも……本当にいいのかい?」
ローレンスの声が少しだけ低くなった。
「せっかく客がついてきたところだ。棚も少し広がった。冬支度はもちろん大事だけど、完全に流れを止めると、また始めるのに時間がかかる。」
正論だった。
商人としての正論。
そして恐らく、私を心配する人としての言葉。
私は頷いた。
「分かっています。」
「なら。」
「でも、今は減らします。」
はっきり言った。
ローレンスの目が少しだけ細くなる。
私はその目を正面から受け止めた。
柔らかく。
穏やかに。
けれど、退かない顔で。
「初めての冬で体調を崩せば、結局ご迷惑をおかけします。熱を出した時のようなことも、もう避けたいのです。」
これは本当だ。
あの日、ヴィルヘルムが来てくれた。
あの日から、すべてが近づいた。
けれど、もう同じ失敗をするつもりはない。
「今できることを絞るのも、暮らしの一部だと思います。」
ローレンスは黙った。
私の言葉に不自然なところはない。
むしろ、成長したようにすら聞こえるだろう。
欲張らない。
冬に備える。
体調を考える。
恋人との時間も大切にする。
十九歳の娘としても、森の家で初めて冬を迎える者としても、納得できる話だ。
だからこそ、止めにくい。
ローレンスは小さく息を吐いた。
「分かった。」
言った。
「注文はしばらく控えめにしておく。棚も今ある分をゆっくり売ればいい。」
「ありがとうございます。」
「ただ、完全に閉じる必要はないよ。作りたくなったら作ればいい。」
「はい。」
ローレンスは帳簿を開いた。
「あと、家賃の支払いのことをお伺いしたくて。」
「家賃?」
ローレンスは少し驚いたように私を見た。
「そろそろ半年になりますので。」
「あ、ああ。そうだったね。」
ローレンスは思い出したように苦笑した。
それから、少しだけ声を落とす。
「そうだね、もう半年か。次の分については、管理側と確認しておくよ。」
「はい。」
「こちらから聞くべきだったね。すまなかった。」
「いえ、今の収入で足りるでしょうか。」
「すぐに追い出されるような話ではない。」
すぐに。
その言葉に、少しだけ胸が動いた。
すぐには。
でも、いつかは。
私は穏やかに頷いた。
「分かりました。金額が分かったら教えてください。」
「ああ。」
ローレンスは少し笑った。
でも、その笑みの奥に、また痛みがある。
彼は知っている。
私がどれだけ自分で立とうとしていたかを。
だからこそ、今の私の変化に違和感を覚えている。
それでも、まだ深く踏み込まない。
「レベッカ。」
「はい。」
「……無理はしていないかい。」
私は微笑んだ。
「していません。」
「本当に?」
「はい。」
ローレンスはじっと私を見た。
マーサよりも、少し鋭い目だった。
商人の目。
情報を扱う者の目。
けれど、私はその目から逃げなかった。
「今、とても幸せです。」
言った。
嘘ではない。
この言葉だけは、絶対に嘘ではない。
ローレンスの表情がわずかに揺れた。
そこにあるのは、疑いではなく、哀れみでもなく、もっと複雑なものだった。
幸せなら止めにくい。
幸せだと言う者から、その時間を奪う言葉を、誰が言えるだろう。
「そうかい。」
ローレンスは静かに言った。
「なら、いい。」
よくない。
きっと、よくない。
彼もそう思っている。
私もそう思っている。
それでも、この場ではそれ以上言えない。
私は棚を見た。
小さな鈴飾り。
茶布。
香草袋。
私の手で作ったもの。
私の暮らしの証だったもの。
それらが、少し遠く見えた。
私は鞄から古鈴を取り出した。
「昨日、見本を持ち帰っていました。古道具屋さんの注文用です。」
「そうだったね。」
「これは仕上げます。でも、その後は少し間を空けます。」
「分かった。ご老人には私からも言っておくよ。」
「急がないと仰っていましたから。」
「味のある音は待つもの、だったかな。」
「はい。」
私は少しだけ笑った。
ローレンスも笑う。
ほんの少しだけ、いつもの空気に戻った。
そのことに、少しだけ安心する。
けれど、すぐに思い出す。
もう、戻らない。
何も知らなかった頃には。
私は会釈をして、店を出ようとした。
その時、ローレンスが呼び止めた。
「レベッカ。」
「はい。」
「冬支度で必要なものがあれば、言いな。」
「ありがとうございます。」
「商売として、安くはしないけどね。」
「はい。商売ですから。」
そう答えると、ローレンスは少しだけ笑った。
「そうだ。商売だ。」
その言い方が、どこか優しかった。
私は店を出た。
通りには、昼前の光が差している。
乾物屋の奥さんが豆を量っている。
青果屋の息子さんが林檎を拭いている。
古道具屋の老人が、今日は目を開けて通りを眺めている。
いつもの町。
優しい町。
整えられた舞台かもしれない町。
でも、ここで笑ったことも、嬉しかったことも、全部が嘘だったわけではない。
それくらいは、もう認めていい。
森の道へ入ると、落ち葉が風に舞った。
鞄が軽い。
いつもよりずっと軽い。
納品した品は少なく、受けた注文も少ない。
これからは、もっと軽くしていく。
一つずつ。
暮らしを畳む。
誰にも気づかれないように。
私は森の家へ戻った。
扉を開けると、家の中は静かだった。
朝出る前に片づけた台所。
窓辺の布切れ。
天井の香草。
机の上の灰色の布。
小さな家。
私の場所。
私は鞄を置き、椅子に座った。
古鈴を取り出し、灰色の布の上に置く。
作るべきもの。
最後まで仕上げると決めたもの。
針を持つ。
糸を通す。
一針。
二針。
手は動いた。
けれど、心はどこかに行っていた。
ヴィルヘルム。
彼は今、何をしているのだろう。
仕事だろうか。
会議だろうか。
誰かに何かを問われ、いつもの静かな顔で答えているのだろうか。
それとも、ふと私のことを思い出して、また赤くなっているのだろうか。
その想像だけで、胸が少し甘くなる。
私は針を止めた。
――会いたい。
指先が布の上で止まる。
――会いたい。
ただ、それだけが強くなる。
私は縫いかけの布を見た。
灰色の布玉。
掠れた音の鈴。
たぶん、良いものになる。
でも、それを仕上げた時の喜びは、以前ほど大きくない気がした。
私は針を置いた。
少しだけ休むつもりだった。
椅子に座ったまま、窓の外を見る。
畑が見える。
香草の茎が風に揺れている。
少し整理しなければならない。
根菜も見なければ。
鳥除けの紐も少し緩んでいる。
やることはある。
いくらでもある。
でも、体が動かなかった。
私はただ、窓の外を見ていた。
夕方が近づくにつれ、森の色が深くなっていく。
今日は来ない。
たぶん、そうだ。
一昨日、ヴィルヘルムは予期せず森の家で夜を明かした。
昨日の朝、急いで戻っていった。
仕事が詰まっているに決まっている。
来られるはずがない。
分かっている。
分かっているのに、耳は森の道を探してしまう。
風の音。
葉の音。
鳥除けの鈴。
蹄の音はない。
私は自分に笑いそうになった。
――愚かね。
でも、いい。
愚かでいい。
私はもう、賢く幸せになる道を失った。
ならば、愚かに幸せを掴むしかない。
その時だった。
遠くで、馬の蹄の音がした。
私は顔を上げた。
聞き間違いかと思った。
けれど、音は確かに近づいてくる。
森の道から。
いつもの道から。
心臓が跳ねた。
私は立ち上がった。
椅子が床を擦る音がした。
玄関へ向かう。
扉を開けるより早く、蹄の音が家の前で止まった。
馬の鼻息。
手綱の音。
そして、控えめに扉が叩かれる。
「レベッカ。」
敬称のない声。
低く、少し急いだような声。
私は扉を開けた。
夕方の光の中に、ヴィルヘルムが立っていた。
少し息が上がっている。
髪も、いつもよりわずかに乱れている。
外套の肩には、森の葉が一枚ついていた。
疲れている。
それでも、私を見ると、明らかにほっとした顔をした。
「来てくださったのですね。」
声が少し震えた。
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を伏せた。
「顔だけでも見たくて。」
胸が、ぎゅっとなった。
その言葉は、あまりにも素直だった。
彼はすぐに付け足した。
「その、体調も、気になりましたので。」
言い訳のように。
照れ隠しのように。
私は笑った。
「そういうことにしておきます。」
ヴィルヘルムの耳が少し赤くなる。
――この人は本当に。
私はその赤さを見るだけで、胸が痛むほど幸せになる。
「中へどうぞ。」
「では、少しだけ。」
「はい。」
私は彼を台所へ招いた。
ほんの短い時間だと分かっていても、家の中に彼が入るだけで、空気が変わる。
それまで広く、空っぽに感じていた家が、一瞬で満ちる。
私は湯を沸かし、香草茶を出した。
ヴィルヘルムは椅子に座ったが、すぐに立たなければならない人の座り方だった。
背筋が少し硬い。
目元には疲労の影がある。
「お忙しかったのですね。」
「少し。」
「一昨日、帰れなかったですもんね。」
口に出してから、気付く。頬が熱くなった。
ヴィルヘルムも同じように固まった。
沈黙。
香草茶の湯気。
夕方の光。
私は視線を茶器に落とした。
「……すみません。」
彼が言った。
「謝ることですか?」
「……あなたを、困らせたかと。」
「困ってはいません。」
私は顔を上げた。
「困っていません。少し、恥ずかしいだけです。」
ヴィルヘルムは器を持つ手を止めた。
耳がまた赤い。
「レベッカ。」
「はい。」
「そのように、言われると。」
「困りますか?」
「困り、ます。」
「嫌ですか。」
「……嫌なはずがありません。」
このやり取りも、もう何度目だろう。
それでも、何度聞いても嬉しい。
私は笑った。
ヴィルヘルムは私の笑顔を見て、少しだけ表情を緩める。
それから、申し訳なさそうに言った。
「……今夜は、どうしても戻らなければなりません。」
来た。
分かっていた。
分かっていたのに、胸の奥が冷えた。
「はい。」
私は頷いた。
引き止めてはいけない。
彼は疲れている。
仕事もある。
責任もある。
来てくれただけでも、無理をしている。
分かっている。
それなのに。
――帰らないで。
言葉が、喉のすぐ下まで上がってきた。
今日は帰らないで。
もう少しだけいて。
抱きしめて。
何も考えられなくして。
その言葉を、私は飲み込んだ。
器を持つ手に、少し力が入る。
ヴィルヘルムがそれに気づいた。
「レベッカ。」
「はい。」
「……明日なら。」
私は顔を上げた。
彼は、少しだけ迷ったように言葉を選んでいた。
「もし、あなたが許してくださるなら、明日はもう少し長くいられるように調整します。」
胸が熱くなった。
彼は気づいたのだ。
私が引き止めたいと思ったことに。
けれど、その理由までは気づいていない。
寂しがっている。
恋人になったばかりだから、名残惜しがっている。
たぶん、そう受け取ったのだろう。
そして、それが嬉しくて、申し訳なくて、明日ならと差し出してくれている。
私は笑った。
「明日?」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
「無理は、しないでください。」
「無理ではありません。」
「その言葉の信用は。」
「下がっていますか?」
「かなり。」
ヴィルヘルムが少しだけ笑った。
疲れているのに。
それでも、笑った。
私はその笑顔を胸に刻む。
「では、明日は少しだけ長く。」
「はい。」
「少しだけ、ですよ?」
自分で言いながら、胸が痛んだ。
少しだけで済むだろうか。
明日、彼が来たら。
私は帰ってほしくないと言わずにいられるだろうか。
言わない自信が、もうなかった。
香草茶は、すぐに冷めていった。
ヴィルヘルムは本当に、長くはいられなかった。
茶器を置き、申し訳なさそうに立ち上がる。
私は玄関まで見送った。
外はもう、夕闇が混じり始めている。
馬が静かに待っていた。
ヴィルヘルムは手綱を取る前に、私の方を向いた。
「今日は、来られてよかった。」
「私もです。」
「明日、また来ます。」
「はい。」
「必ず。」
その言葉に、胸が少しだけ震えた。
――必ず。
明日の約束。
いつも彼がくれる、守れる範囲の約束。
私は微笑んだ。
「お待ちしています。」
ヴィルヘルムの目が、少しだけ柔らかくなる。
私は一歩近づいた。
彼は、また頬に口づけられると思ったのかもしれない。
少し照れたように、けれど嬉しそうに身を屈める。
その顔があまりにも愛しくて。
あまりにも、今ここにある幸福そのもののようで。
私は背伸びをして、彼の唇に口づけた。
触れた瞬間、ヴィルヘルムの息が止まった。
ほんの短い口づけのつもりだった。
けれど、離れようとした時、彼の手が私の背に回った。
強くはない。
けれど、明らかに引き止める手だった。
いつもの慎重さが、一瞬だけ剥がれていた。
私はその熱に、胸の奥が震えた。
夕方の冷たい風の中で、彼の腕だけが熱い。
「レベッカ。」
低い声。
その声に、私は危うく目を閉じそうになった。
彼の青い目は、いつもの静けさを失っていた。
少し苦しそうで、少し恨めしそうで、それ以上に、どうしようもなく私を欲しがっている目だった。
私は自分がしたことを、少し遅れて理解した。
顔が熱くなる。
けれど、引かなかった。
「こんなことをされると。」
私は小さく言った。
「帰れなくなりません?」
ヴィルヘルムが完全に固まった。
「……あなたが、したのですが。」
「はい。」
「レベッカ。」
「だから、帰ってください。」
「それは。」
「続きは、明日で。」
言ってしまった。
言った瞬間、自分でもひどいことを言っていると思った。
けれど、もう戻せない。
ヴィルヘルムは、盛大に狼狽えた。
言葉を探し、何度か口を開き、結局何も言えない。
耳まで赤くなっている。
私は笑った。
笑わずにはいられなかった。
可愛い。
頼もしくて。
誠実で。
冷静で。
それなのに、私の前ではこんな顔をする。
ヴィルヘルムは少し恨めしそうに私を見た。
でも、その目はすぐに揺らぐ。
恨めしさよりも、幸福の方が勝っている。
翻弄されていることすら、たまらなく嬉しいのだと、その目が語っていた。
彼は眩しそうに、愛おしそうに、私を見つめた。
その眼差しに気づいた瞬間、胸の奥が潰れそうになった。
私はもう一度、彼に近づいた。
今度は静かに。
からかうためではなく。
煽るためでもなく。
ただ、愛しくて。
彼の唇に、そっと口づけた。
ヴィルヘルムは今度こそ、動かなかった。
ただ受け止めるように、静かに私の背を支えた。
離れると、彼はしばらく目を伏せていた。
それから、低く言った。
「今夜は、薬草袋を抱きしめて眠ってしまいそうです。」
胸が痛んだ。
薬草袋。
私の作ったもの。
枕元に置いていると、少し照れながら教えてくれたもの。
彼の眠りのそばにあるもの。
私は今日、ローレンスに仕事を減らすと告げた。
そのことを、まだ彼に言えない。
森の家の鈴も。
茶布も。
香草袋も。
少しずつ、私の手から離していくつもりでいる。
そのくせ、彼は私の作った袋を抱きしめて眠ると言う。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
けれど、私はそれを掻き消すように明るく笑った。
「では、よく眠れるように、もっと香りのよいものを作らないといけませんね。」
「本当ですか?」
「ええ。」
嘘ではない。
作るなら、彼のために作りたい。
それだけは本当だ。
私は少しだけ首を傾げた。
「明後日は、朝ごはんも食べて行ってほしいです。」
ヴィルヘルムが、また固まった。
意味を理解したのだろう。
明後日の朝食。
つまり、明日の夜を越えた後の朝。
彼の顔が、先ほど以上に赤くなる。
「レベッカ。」
「はい。」
「あなたは。」
「はい。」
「……本当に、私を困らせるのが上手くなりました。」
「嫌ですか?」
「嫌なはずが、ありません。」
いつもの返事。
けれど、声は少し掠れていた。
私は笑った。
「では、明日。」
「はい。」
「明日、待っています。」
ヴィルヘルムは深く息を吸った。
それから、手綱を握る。
名残惜しそうに、もう一度私を見る。
「明日、必ず。」
「はい。」
彼は馬に乗り、森の道へ向かった。
蹄の音が遠ざかる。
私はその音を、最後まで聞いていた。
夕暮れは、もう夜の気配に染まりつつあった。
空の端に残る赤は薄く、森の影は深い。
私は扉の前に立ったまま、空を見上げた。
明日。
その一日だけが、今の私の世界だった。




