第五十七話 秋風とマーサ
ヴィルヘルムが帰ってからも、しばらく私はぼうっと部屋の中で立ち尽くしていた。
蹄の音は、もう聞こえない。
森の道の向こうへ消えていった音は、いつもなら名残惜しく胸に残った。
けれど今日は、音が消えた後の静けさの方が大きかった。
私は窓を開けた。
静かな室内に森の音と風が吹き込む。
秋は、いつの間にか森にやってきていた。
木々の葉は、もうゆっくりと染まり始めている。
黄色。
赤茶。
まだ少し残る深い緑。
重なり合った葉は、枝にたわわに蓄えられているように見えた。
春でも夏でもない。
もう、ここへ来て半年が経った。
三つ目の季節を、すでに迎えている。
ごう、と風が吹いた。
森が一斉に鳴る。
葉がこすれ合い、雨のような音を立てた。
その音の中で、何枚もの木の葉が枝を離れた。
空中でくるりと舞い、風に攫われていく。
庭の鳥除けの鈴が鳴った。
澄んだ音のはずだった。
それなのに、今日は少し乾いて聞こえる。
風がまた吹いた。
私の髪が頬にかかった。
少し伸びた髪。
それでも、まだ肩に触れるか触れないかくらいの短い髪。
ここに来てすぐに切り落とした髪は、まだ全く元には戻っていない。
秋の朝の少し肌寒さをはらんだ風が、その短い髪を弄ぶ。
――冷たい。
私は手で髪を押さえた。
昨日までなら、風の冷たさに冬支度のことを考えただろう。
薪。
保存食。
畑の整理。
厚手の布。
屋根の隙間。
この家で初めて迎える冬のことを。
でも今は、ただただ風の冷たさを身に感じるだけだった。
家の中には、二つの茶器がある。
机には、彼が使った皿がある。
寝台には、まだ彼の温度が残っている気がする。
そこだけが、きっと世界の中で唯一温かい。
私は窓を閉めた。
木枠が、ぱたんと軽い音を立てる。
その音で、ようやく自分が一人に戻ったのだと分かった。
私は台所へ戻った。
片づけをしなければならない。
茶器を洗い、皿を拭き、鍋を片づける。
畑も見なければならない。
仕事もある。
香草も乾き具合を確認して、鈴の見本も、古道具屋の老人の注文用に布を合わせなければならない。
やることは、いくらでもあった。
けれども私は椅子に座った。
机の上の茶器をぼんやり見遣る。
一つは私のもの。
一つはヴィルヘルムのもの。
同じものなのに、違って見える。
私は手を伸ばしかけて、止めた。
片づける気になれなかった。
しばらく、ただ座っていた。
外の風の音だけが聞こえる。
森が鳴る。
葉が散る。
鈴が鳴る。
どこか涼しく、どこか物悲しい音。
その音は、昨日までの暮らしの音ではなく、舞台裏で誰かが合図を出している音のように聞こえた。
次の場面へ。
次の場面へ。
そう急かすように。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、外から足音がした。
馬ではない。
人の足音。
少し重く、けれど迷いのない足取り。
私は顔を上げた。
マーサだ。
いつものように、籠を持って来てくれたのだろう。
私は立ち上がった。
扉を開ける前に、深く息を吸う。
笑う。
自然に。
いつものように。
……いや、いつもより少しだけ、幸せそうに。
そう、見えなえればならない。
私は扉を開けた。
「おや、起きてたかい。」
マーサはそう言って、籠を持ち上げた。
中には固めのパンと、乾かした豆、厚手の布切れが入っている。
「冬に向けて、少し布を持ってきたよ。窓の隙間に詰めるのに使える。」
「ありがとうございます。助かります。」
私は微笑んだ。
マーサは私の顔をじっと見た。
いつものように。
人の顔を読む人の目。
「何だい?」
「何がですか。」
「顔が違うね。」
私は一瞬だけ息を止めた。
けれど、すぐに目を伏せ、少し照れたように笑った。
「……分かりますか。」
「分かるよ。私は何年人の顔を見てきたと思ってるんだい。」
「そうですね。」
私は扉を広く開けた。
「中へどうぞ。」
マーサは少しだけ眉を上げた。
私は彼女を台所へ案内した。
机の上には、まだ茶器が二つある。
皿も二人分。
マーサはそれを見た。
何も言わなかった。
私はその沈黙を、少しだけ観察した。
以前の私なら、気づかなかったかもしれない。
あるいは、気づいても意味を考えなかったかもしれない。
でも今は、見えた。
マーサの視線が茶器に触れた一瞬。
ほんの少しだけ、表情が変わった。
驚きではない。
困惑でもない。
もっと深いところの、硬さ。
胸の奥で、何かが冷たく笑った。
ああ。
そう。
マーサも知っている。
ヴィルヘルムが王太子になることを。
この先、私がどういう立場になるのかを。
恐らく、私より先に。
私は椅子を引いた。
「座ってください。」
「いや、その前に片づけを。」
「後でします。」
そう言って、私は自分も座った。
マーサは少し不思議そうにしながらも、向かいに腰を下ろした。
「何かあったのかい。」
いつもの声だった。
心配そうで、少しぶっきらぼうで、温かい。
その温かさが、今は少しだけ痛かった。
私は手を膝の上で重ねた。
そして、少しだけ視線を落とした。
「ヴィルヘルムと。」
名前を呼ぶ。
殿下ではなく。
マーサの目がわずかに動いた。
「恋仲に、なりました。」
言った瞬間、頬が熱くなる。
それは嘘ではない。
恥ずかしいのも本当だ。
嬉しいのも本当だ。
私は、できるだけ自然に、少しだけ幸せそうに笑った。
「私が、気持ちを伝えました。彼も、同じだと。」
マーサの表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
ほんの一瞬。
すぐに戻った。
けれど、私は見た。
見えてしまった。
昨日までの私なら、見逃していただろう。
この森の家に来たばかりの私は、生まれたての雛のようだった。
見るものすべてが新しかった。
火を起こすこと。
水を汲むこと。
畑に芽が出ること。
町の人に名前を呼ばれること。
商品が一つ売れること。
誰かが親切にしてくれること。
全部が、本物だと思えた。
全部、自分が得た初めての世界なのだと思った。
私が築いた暮らし。
私が手にした場所。
私を受け入れてくれた人たち。
そう信じたかった。
信じていた。
無防備だった。
けれど、昨日、ローレンスの店で聞いてしまった。
ローレンスは公爵家側の人間だ。
完全な家臣ではないのかもしれない。
けれど、情報網の一部であり、協力者であり、私を守るよう命じられている人。
マーサも、おそらくそうだ。
少なくとも、何も知らない善意の隣人ではない。
町の人々の中にも、何人かはいるのだろう。
公爵に頼まれた者。
ヴィルヘルムに頼まれた者。
私が気づかないように、さりげなく配置されたもの。
針仕事。
棚。
注文。
畑。
小さな市。
思えば、おかしいことはいくつもあった。
いくら針仕事が丁寧だからといって、私は正式なお針子ではない。
店で何年も修行した人たちに比べれば、私の腕など赤子のようなものだろう。
売っている品だって、生活に不可欠なものではない。
鈴飾り。
茶布。
香草袋。
素朴で、ありきたりの、小さなもの。
それなのに、町の人たちは優しかった。
ローレンスは棚をくれた。
マーサは畑を教えた。
エダは香草を教えた。
乾物屋の奥さんは注文をくれた。
古道具屋の老人は、味のある音などと言って、面白がってくれた。
私は、自分という人間が築いたものだと思っていた。
違う。
違った。
少なくとも、最初から純粋な実力だけで始まったものではない。
元公爵令嬢として。
ヴィルヘルムが守ろうとした女として。
公爵家の庇護の下にある者として。
与えられた舞台だった。
私の暮らしは、所詮おままごとだったのだ。
胸の奥で、冷たいものが笑う。
――馬鹿ね、レベッカ。
――あなた、本当に信じていたの。
でも、その冷笑は長く続かなかった。
――お門違いだ。
すぐに、もう一人の自分が告げる。
マーサを責めるのは違う。
ローレンスを責めるのも違う。
彼らは役目を果たしただけだ。
しかも、恐らく善意もあった。
最初は命じられたからでも。
少なくとも、マーサの粥も、畑の助言も、熱を出した日の手も、全部が嘘だったわけではない。
私はそこまで愚かではない。
ならば、責めるべきは誰か。
誰でもない。
あるいは、私だ。
信じたかった私。
与えられた舞台を、本物の世界だと思い込んだ私。
無防備に喜んだ私。
でも、それでいい。
もう分かったのだから。
舞台なら、舞台として使えばいいだけだ。
私はマーサを見た。
彼女はまだ、何と言うべきか迷っているようだった。
「……そうかい。」
ようやく、マーサは言った。
声が少し硬い。
でも、すぐに笑おうとした。
「よかったじゃないか。」
「はい。」
私は微笑んだ。
「とても幸せです。」
マーサの顔に、一瞬、痛みのようなものが浮かんだ。
私はそれを見逃さなかった。
ああ。
やはり、悪い人ではないのだわ。
胸の奥で、少しだけ申し訳なさが広がる。
私は今、彼女を試した。
わざと幸せそうに告げて、反応を見た。
マーサがどこまで知っているか。
私の未来をどう見ているか。
それを確かめた。
こんなことをする自分を、少しだけ嫌だと思う。
けれど、もう見えないふりはできない。
私は元公爵令嬢だ。
人の表情を読み、間を読み、声の変化を拾うことを叩き込まれてきた。
相手の弱みを探し、場の空気を整え、笑顔の下で計算することを知っている。
断罪され、森の家で暮らし、土に触れ、鈴を縫い、忘れたつもりになっていただけ。
仮面は、まだここにあった。
私は、取り戻してしまったのだ。
「マーサさん。」
「何だい。」
「冬に向けて、畑を少し整理しようと思います。」
マーサは瞬きをした。
「畑を?」
「はい。初めての冬越しですし、あれもこれもと欲張るより、今あるものを守る方が良いと思いました。」
「まあ、それはそうだけどね。」
「香草も、乾かす分はもう十分あります。根菜も、全部育てようとせず、残すものを絞ります。」
「急だね。」
「昨日、考えたのです。」
嘘ではない。
昨日、すべてが変わった。
だから考えた。
畑も、仕事も、暮らしも。
全部、少しずつ畳んでいく。
不自然ではないように。
誰にも悟られないように。
冬支度という名で。
「それと、仕事も少し減らそうと思います。」
マーサの顔が、今度こそはっきりと変わった。
「仕事を?」
「はい。」
「せっかく増えてきたのに?」
「はい。でも、初めての冬ですから。家の隙間も直さないといけませんし、薪も確認したいです。保存食のことも教えていただきたいですし。」
「それは……まあ、そうだけど。」
「今、無理をして体調を崩したら、ヴィルヘルムにも心配をかけてしまいます。」
名前を出す。
甘く。
少し恥ずかしそうに。
マーサの目が揺れた。
私は微笑む。
「今は、できるだけ彼との時間を大切にしたいのです。」
マーサは黙った。
彼女の中で、いくつもの言葉が動いているのが分かった。
止めるべきか。
見守るべきか。
王太子の件を知っている者として、何を言えるのか。
何を言ってはいけないのか。
恋を知ったばかりの十九歳の娘に、どこまで踏み込めるのか。
彼女は迷っている。
そして、その迷いが、私には手に取るように見えた。
マーサは深く息を吐いた。
「……そうだね。」
言った。
「それが、いいかもしれない。」
私は少しだけ目を伏せた。
冷たい笑みが、胸の奥に浮かぶ。
やはり。
止めない。
止められない。
彼女もまた、今だけでも私を幸せにしてやりたいと思っているのだろう。
あるいは、どう言えばいいか分からないのだろう。
気の毒に。
そう思ってしまった自分に、また少し嫌気が差した。
マーサが気の毒なのか。
私が気の毒なのか。
それとも、何も知らないヴィルヘルムが気の毒なのか。
私自身、もう、よく分からない。
「それで。」
私は顔を上げた。
「これからは、そんなに頻繁に来ていただかなくても大丈夫です。」
マーサが、はっとしたようにこちらを見る。
「何を言ってるんだい。」
「もちろん、困った時は相談します。でも、私ももう少し自分でやってみたいのです。」
「レベッカ。」
「それに。」
私は少しだけ頬を染めるように笑った。
「何かあれば、ヴィルヘルムに頼ります。」
マーサの表情が、揺れた。
「彼と、今はできるだけ長くいたいのです。」
言葉にすると、胸が本当に痛んだ。
本当だ。
それは嘘ではない。
私はヴィルヘルムといたい。
できるだけ長く。
できるだけ多く。
彼の声を聞き、彼に触れ、彼に愛されたい。
でも、その裏に隠した意味はマーサには見えない。
いや、少しは見えているのかもしれない。
だから彼女は、そんな顔をしているのだ。
悲しいような。
痛いような。
何かを言いかけて、飲み込んだような顔。
彼女は慌てて表情を整えた。
「そうだね。」
声が少し掠れていた。
「恋仲になったばかりなら、まあ、そういうものかもしれないね。」
「はい。」
「でも、無理はしないんだよ。」
「しません。」
「本当に?」
「はい。」
私は穏やかに答えた。
「大丈夫です。」
その言葉を、ヴィルヘルムなら信用しなかっただろう。
――大丈夫という言葉の信用が下がっています。
そう言って、眉を寄せただろう。
でもマーサは、今日はそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
「じゃあ、畑は後で見ようかね。」
「今日は大丈夫です。」
「本当に?」
「はい。整理する分は、自分で決めてからご相談します。」
「……そうかい。」
マーサは立ち上がった。
籠から布切れと豆を出して、台所の端に置く。
「これ、置いておくよ。」
「ありがとうございます。」
「窓の隙間は、早めに詰めな。」
「はい。」
「薪も、足りないなら言うんだよ。」
「はい。」
「それから。」
マーサは私を見た。
何かを言いたそうだった。
けれど、言えなかった。
私は静かに待つ。
マーサは結局、小さく首を振った。
「……いや。何でもない。」
「はい。」
「また来るよ。」
「はい。でも、無理なさらないでください。」
「それはこっちの台詞だよ。」
いつもの言葉。
いつもの調子。
でも、もう同じには聞こえない。
マーサは扉へ向かった。
私は見送るために立ち上がる。
玄関先で、秋風が入ってきた。
マーサは外へ出る前に、少しだけ振り返った。
「レベッカ。」
「はい。」
「幸せなら。」
そこで言葉が止まった。
彼女の目が、少しだけ悲しかった。
「……大事にしな。」
私は微笑んだ。
「はい。」
大事にする。
大事にするわ。
終わるまで。
なくなるまで。
全部、私の中に刻みつける。
マーサはそれ以上何も言わず、森の道へ歩いていった。
籠を片腕にかけた背中が、秋風の中で少し小さく見えた。
私は扉の前で、その背中を見送った。
悪い人ではない。
改めて、そう思った。
試すようなことをして、ごめんなさい。
心の中で小さく謝る。
けれど、もう何も知らなかった私には戻れない。
扉を閉める。
台所へ戻る。
二つの茶器はまだそのままだ。
マーサが持ってきた布切れが、窓辺に置かれている。
豆の袋もある。
冬支度。
畑の整理。
仕事を減らす。
マーサに言ったことは、すべて自然だった。
誰にも怪しまれない。
初めての冬。
恋人になったばかり。
少し浮かれて、少し暮らしを整えるだけ。
きっとそれだけに見える。
私は椅子に座った。
手を膝の上に置く。
家の中が、急に広く感じた。
さっきまでヴィルヘルムがいたのに。
ついさっきまで、彼の声がここにあったのに。
今は、何もない。
風の音。
香草の匂い。
鈴の音。
それだけ。
――空虚だ。
胸の中が、からっぽになったようだった。
けれど、その空白の中央に、一つだけ強く残っているものがある。
――ヴィルヘルム。
――会いたい。
そう思った瞬間、息が苦しくなった。
今朝、帰ったばかりなのに。
まだ昼にもなっていないのに。
もう、会いたい。
彼は今、何をしているのだろう。
いつもの完璧な顔で、仕事をしているのだろうか。
私に会いに来るために、急いで書類を片づけているのだろうか。
それとも、昨夜のことを思い出して、ふと顔を赤くしているのだろうか。
――周りに、何かあったのかと聞かれているのかしら。
そう考えたら、胸が少しだけ温かくなった。
でも、またすぐに苦しくなる。
会いたい。
会って抱きしめたい。
彼の腕の中に入りたい。
何も考えられなくしてほしい。
現実も。
未来も。
王都も。
公爵も。
マーサも。
ローレンスも。
全部、見えなくしてほしい。
ただ、彼を感じていたい。
私の愛する人。
私を愛する人。
そして。
――近い未来に、私をかつて愛した人になる人。
その言葉が胸に浮かんだ瞬間、息が止まった。
痛い。
でも、もう消さない。
これは私が選んだ舞台だ。
私は机に突っ伏すようにして、目を閉じた。
秋の風は、また森を鳴らしている。
葉が散る音がする。
まるで雨のように。
泣けない私の代わりに、溢れ零れる涙のように。
私は目を閉じたまま、彼の名前を呼んだ。
声には出さずに。
何度も。
何度も。
ヴィルヘルム。
ヴィルヘルム。
早く、会いたい。
そう思う自分を、私はもう止めなかった。




