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第五十六話 朝の恋人

 最初に目を覚ましたのは、私ではなかった。


 寝台のすぐそばで、布がかすかに擦れる音がした。

 それから、誰かが息を殺すような気配。


 私はまだ目を閉じたまま、その気配を聞いていた。


 動こうとしている。

 そっと。


 私を起こさないように。

 慎重に。


 まるで床板の軋み一つにも謝りそうなほど、丁寧に。

 その気配だけで、誰なのか分かった。


 ヴィルヘルムだ。


 彼が、起きようとしている。


 私は薄く目を開けた。


 朝の光はまだ弱い。

 窓の隙間から入る白い光が、部屋の中を淡く照らしている。


 寝台の端に、ヴィルヘルムが座っていた。


 上着をまだ羽織っていない。

 淡い金髪は少し乱れている。


 いつもの静かで隙のない王子ではない。

 寝起きの、少しぼんやりした青年の背中だった。


 それだけで、胸がきゅっとなった。


 昨夜のことを思い出す。


 彼の声。

 彼の腕。

 私の名前を呼んだ唇。


 私は慌てて布団を引き上げた。


 顔が熱い。

 自分で望んだことなのに。

 自分から彼を引き止めたのに。


 朝になると、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。


 ヴィルヘルムはまだ私が起きたことに気づいていない。


 彼は少し身を屈め、床に落ちていたシャツを拾おうとしていた。

 その動きすら、なぜか慎重だった。


 私は思わず、声をかけた。


「……帰るのですか。」


 ヴィルヘルムの肩が跳ねた。

 かなり跳ねた。


 彼は振り返り、私と目が合った瞬間、完全に固まった。


「起こしてしまいましたか。」


 声が低い。

 少し掠れている。


 朝の声。

 ……また、心臓に悪いものを知ってしまった。


「いいえ。」


 私は布団を胸元まで引き上げたまま答えた。


「物音がしただけです。」


「すみません。」


「謝るほどの音ではありませんでした。」


「ですが。」


「ヴィルヘルム。」


 名前で呼んだ。

 それだけで、彼の言葉が止まった。


 分かりやすい。

 本当に分かりやすい。


 昨日までなら、私はそれを見て自分も慌てていたかもしれない。


 でも今日は、少し違った。

 私は、彼がこうして動揺するのを見たいと思ってしまった。


 好きな人が、自分の言葉に揺れる。

 それがこんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。


 私は布団の中で少しだけ身を起こした。


「おはようございます、ヴィルヘルム。」


 彼は息を止めた。

 そして、ゆっくりと目を伏せた。


「……おはようございます、レベッカ。」


 敬称がない。


 ただ、レベッカ。


 その響きが胸の奥に落ちて、私は一瞬、言葉を失った。


 ……ずるい。

 名前を呼んだのは私の方なのに。

 呼び返されると、こんなにも苦しい。


 私は平静を装うため、少しだけ首を傾げた。


「もう一度、呼んでくださいますか。」


 言ってから、自分でも驚いた。


 大胆すぎる。

 けれど、引かなかった。


 昨夜、決めたのだ。


 幕が下りるまで、私はこの人を愛しきる。

 悲劇になるかもしれない時間を、私の意志で喜劇に変える。


 ならば、恥ずかしがってばかりではもったいない。


 ヴィルヘルムは、私を見たまま固まっていた。


「もう一度、ですか。」


「はい。」


「……レベッカ。」


 低い声だった。

 けれど、どこか大切なものを扱うような響きだった。


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「はい。」


 私は答えた。

 ただ名前を呼ばれただけで、こんなに満たされる。


 今だけ。

 そう思うと、少しだけ痛い。


 でも、その痛みを飲み込んで、私は笑った。


「良い朝ですね。」


 ヴィルヘルムは、一瞬だけ目を見開いた。

 それから、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「はい。」


 彼は小さく答えた。


「とても。」


 その返事に、私は胸が熱くなった。


 彼はきっと、何も知らない。

 私が何を聞いたのか。

 昨日の午後、ローレンスの店で何を知ってしまったのか。


 それを、彼は知らない。


 知らないまま、私が自分を受け入れ、愛を返したのだと思っている。

 愛が通じたのだと。


 きっと、そう信じている。


 それでいい。

 今は、それでいい。


 私は絶対に悟られない。

 この人に、余計な苦しみを与えない。


 彼が最後まで何とかできると思っているなら、今だけは、その夢を壊さない。


 私は布団を押さえながら、彼の手元を見た。


「ずいぶん早く起きるのですね。」


「少し早めに戻ろうかと。」


「私を起こさずに?」


「はい。」


「ひどいです。」


 ヴィルヘルムが明らかに狼狽した。


「ひどい?」


「朝の挨拶もしないで帰るつもりだったのでしょう。」


「それは。」


「昨日、帰らないでくださいと言った人間を、朝になったら置いていくのですね。」


「置いていくつもりでは。」


 彼が本気で困っている。


 その様子が、可愛い。

 可愛くて、少し胸が痛い。


 私は布団の中で小さく笑った。


「冗談です。」


 ヴィルヘルムは、ほっとしたような、まだ困っているような顔をした。


「冗談。」


「はい。」


「……心臓に悪いです。」


「それは困りました。」


「困っている顔ではありません。」


「顔に出ましたか。」


「少し。」


 そんな会話ができることが、夢のようだった。


 昨日までとは、もう違う。


 私たちは同じ部屋で朝を迎えた。

 名前を呼び合った。

 冗談を言い合っている。


 恋人のように。

 ……いや、もう恋人なのだろうか。


 そう考えた瞬間、私はまた顔が熱くなった。

 ヴィルヘルムも同じようなことを考えたのか、急に視線を逸らした。


 私はその反応を見て、少しだけ勇気が湧いた。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「こちらを見ないのですか。」


「……今は、見るべきではないかと。」


「どうして?」


「あなたが、まだ。」


 彼はそこで言葉を切った。

 その視線が、布団を握る私の手元に少しだけ落ち、すぐに逸らされる。


 私は一瞬で意味を理解して、耳まで熱くなった。


 でも、逃げない。

 逃げないと決めた。


「昨夜は、見たのに。」


 小さく言うと、ヴィルヘルムは完全に動きを止めた。

 耳どころか、首まで赤い。


「レベッカ。」


 少し咎めるような声。

 でも、弱い。

 全然怖くない。


「はい。」


「そういうことを、朝から言われると。」


「困りますか?」


「困ります。」


「嫌ですか?」


「嫌なはずがありません。」


 即答だった。

 私は笑ってしまった。


 本当に、素直な人。

 誠実すぎる人。


 この人を、私は愛している。

 そう思うだけで、胸が苦しくなる。


 私は布団を押さえながら、そっと立ち上がろうとした。

 けれど、シーツが肩から滑りそうになり、慌てて座り直す。


 ヴィルヘルムはさらに顔を逸らした。


「見ていません。」


「まだ何も言っていません。」


「言われる前に。」


「本当に律儀ですね。」


「律儀で済む問題ではありません。」


 私は今度こそ耐えきれず、声を出して笑った。

 朝の森の家に、私の笑い声が落ちる。


 ヴィルヘルムは少し驚いたようにこちらを見た。

 そして、すぐに表情を和らげる。


 ああ。

 この顔。


 私が笑うと、彼は本当に嬉しそうにする。

 その顔を見るたび、私は自分に言い聞かせる。


 笑おう。

 この人の前では笑おう。


 たとえ心の奥に別れの支度を隠していても。

 この人が安心して、幸せそうにしていられるように。


 私は、できるだけ笑っていよう。


「着替えます。」


 私は言った。


「はい。」


「見ないでください。」


「見ません。」


「絶対に?」


「絶対に。」


「少しも?」


「レベッカ。」


 また困った声。

 私は笑いながら布団を引き寄せた。


「はい、信じます。」


 ヴィルヘルムは、また少しだけ動きを止めた。


 ――信じます。


 その言葉に、彼は弱い。

 私はそれを知ってしまった。


 彼は背を向けたまま、微動だにしない。

 本当に見ない。


 これほどまでに律儀だと、からかったこちらが悪い気がしてくる。

 私は急いで身支度を整えた。


 髪はひどく乱れていた。

 手櫛で梳くが、どうにもまとまらない。


 首筋に、昨夜の記憶が残っているような気がして、私はまた顔が熱くなる。


 今さらだ。

 本当に今さら。


 着替え終えてから、私は鏡の代わりに水桶を覗き込んだ。


 水面に映る顔は、少し赤い。

 でも、ひどい顔ではない。


 むしろ、今までで一番、女の顔をしているような気がした。

 私は慌てて水面から目を逸らした。


「もう大丈夫です。」


 そう言うと、ヴィルヘルムはゆっくり振り返った。

 そして、また黙った。


「何ですか。」


「いえ。」


「髪が変ですか。」


「違います。」


「では?」


 ヴィルヘルムは、少しだけ言葉を探した。


「朝に、あなたがいることが。」


「はい。」


「まだ、夢のようで。」


 胸が詰まった。


 夢。

 そうだ。


 これは夢のようだ。


 けれど、私にとっては期限つきの夢。

 いつか覚めると分かっている夢。


 それでも、今は。


「夢ではありません。」


 私は言った。


 そして、一歩近づいた。

 彼の袖を、そっと掴む。


「私はここにいます。」


 ヴィルヘルムの目が揺れた。


 昨日なら、ここで私は照れて手を離したかもしれない。

 でも今日は離さなかった。


「朝食を作りましょう。」


「はい。」


「その前に。」


 私は少しだけ背伸びした。

 ヴィルヘルムが固まる。


 私は彼の頬に、軽く唇を触れさせた。


「おはようの分です。」


 彼は、完全に赤くなった。

 声も出ないらしい。


 私は満足した。

 これくらいは許されてもいいだろう。


 昨日、私は未来を失った。

 なら今朝くらい、彼を赤くしてもいいはずだ。


 台所へ行くと、二つの茶器がそのまま置かれていた。


 私はそれを見て、一瞬だけ息を止めた。

 昨日の痛みが、胸の奥に少しだけ蘇る。


 片づけられなかった二つの器。

 彼を待つことしかできなかった自分。


 でも今朝は違う。

 この茶器は、二人で使うものだ。


 私は何事もなかったように湯を沸かし始めた。


「パンがあります。豆の煮たものも少し。香草を入れたスープも作れます。」


「手伝います。」


「では、水をお願いします。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは水桶を持ち上げた。

 その動きは静かで、自然だった。


 昨日よりも、この家の中に少し馴染んでいる。


 私の台所に、彼がいる。

 朝の光の中で。

 少し乱れた髪のまま。


 それを見るだけで、胸の奥が温かくなる。


 私は鍋を火にかけ、豆を温める。

 香草を少し刻む。


 ヴィルヘルムは隣に立った。


 近い。

 昨夜を越えた後の距離は、昨日までとは少し違う。

 肩が触れそうになるだけで、全身が落ち着かない。


 それは私だけではないらしく、ヴィルヘルムもやけに慎重だった。


 水桶を置く。

 皿を取る。

 布巾を畳む。


 その一つ一つが、少しぎこちない。


「緊張していますか。」


 私が聞くと、彼は布巾を持ったまま止まった。


「……しています。」


「正直ですね。」


「嘘をつく理由がありません。」


「では、私も緊張しています。」


 ヴィルヘルムがこちらを見る。

 少し驚いた顔だった。


「あなたも?」


「はい。」


「そうは見えません。」


「見えないようにしています。」


 私は香草を刻みながら、少しだけ笑った。


「今朝は、私があなたを困らせる日です。」


「……そのようですね。」


「嫌ですか。」


「嫌なはずがありません。」


「そればかりですね。」


「事実です。」


 また真面目に答える。

 私は、胸がくすぐったくなった。


 鍋から湯気が上がる。

 豆と香草の匂いが台所に広がる。


 私は棚の皿を取ろうとして、わざとではない。

 本当にわざとではない。


 少しだけ、ヴィルヘルムの腕に触れた。


 彼の呼吸が止まった。

 ……やっぱり、分かりやすい。


「すみません。」


「……大丈夫です。」


「大丈夫という言葉の信用が下がっています。」


 そう言うと、ヴィルヘルムがこちらを見た。

 それから、少しだけ笑った。


「それは、私の言葉です。」


「借りました。」


「返していただけますか?」


「しばらく借ります。」


「では、貸します。」


 こんなやり取りが、たまらなく幸せだった。


 鍋の湯気。

 朝の光。

 狭い台所。

 隣にいる恋人。


 ただそれだけ。

 それだけのことが、人生で一番贅沢なもののように思えた。


 朝食は簡単だった。


 温めた豆。

 薄く切ったパン。

 香草を少し散らしたスープ。


 特別な料理ではない。

 でも、二人で向かい合って食べると、特別になる。


 ヴィルヘルムはスープを一口飲み、静かに目を伏せた。


「美味しいです。」


「本当ですか。」


「はい。」


「朝だから、何でも美味しく感じるのでは?」


「違います。」


「眠かったからでは?」


「違います。」


「私が作ったから、気を遣っているのでは?」


「違います。」


 あまりに真剣に否定するので、私は笑ってしまった。


「あなたは本当に真面目ですね。」


「真面目なのは悪いことではありません。」


「はい。悪くありません。」


 私は彼を見つめた。


「とても可愛いです。」


 ヴィルヘルムが、スプーンを落としかけた。

 器に当たり、小さく音が鳴る。


 私は口元を押さえた。


「すみません。」


「……可愛い。」


「はい。」


「私が?」


「はい。」


 ヴィルヘルムは耳まで赤くなった。

 朝からこんなに赤くしてしまって、本当に申し訳ない。


 でも、やめる気はなかった。


「不本意です。」


「不本意なのですか。」


「あなたには、もっと。」


「もっと?」


「頼もしいと思われたい。」


 低い声だった。

 少し拗ねたようにも聞こえた。


 私は胸を押さえたくなった。


 どうしよう。

 本当にどうしよう。


 この人は、どれだけ可愛いのだろう。


「頼もしいですよ。」


 私は言った。


「あなたは、とても頼もしいです。私が困っている時、いつも助けてくれました。熱を出した時も、畑のことも、屋根のことも。あなたが来てくれると、私は安心します。」


 ヴィルヘルムの表情が、少しだけ真面目になる。


 私は続けた。


「でも、可愛いです。」


 彼はまた固まった。


「両方です。」


「両方。」


「はい。頼もしくて、可愛いです。」


 ヴィルヘルムは額に手を当てた。


「……朝から、これは。」


「これは?」


「……忍耐訓練のようです。」


 私はとうとう声を出して笑った。


 ヴィルヘルムは本当に困った顔をしている。

 その顔を見ていると、胸の奥が温かくて、痛くて、泣きたくなる。


 覚えておこう。


 この朝を。

 この人の赤くなった顔を。


 頼もしくて可愛いと言った時の、困ったような表情を。


 全部。

 全部、私のものにしておこう。


 朝食を終える頃、日差しは少し高くなっていた。

 ヴィルヘルムは、名残惜しそうに茶器を置いた。


 帰らなければならない時間なのだろう。

 それは聞かなくても分かった。


 彼が何かを確認したわけではない。

 ただ、空気が少し変わった。


 柔らかい恋人の顔から、静かな責務の顔へ戻ろうとしている。

 私はそれを見て、胸が少し痛んだ。


 行かないで。

 そう言いたい。


 でも、言わない。


 昨夜は引き止めた。

 今日は送り出す。


 それが、私が決めた舞台だ。


「そろそろですね。」


 私が言うと、ヴィルヘルムは申し訳なさそうに目を伏せた。


「はい。」


「お仕事に遅れたら困りますものね。」


「……すみません。」


「謝らないでください。」


 私は笑った。


「本当は、もう少し引き止めたいです。」


 ヴィルヘルムが顔を上げる。

 私はその目を見て、続けた。


「でも、困らせる恋人にはなりたくありません。」


 恋人。


 言った。

 言ってしまった。


 ヴィルヘルムは、今朝一番というほど固まった。

 目を見開き、少しだけ唇を開いて、何も言えなくなっている。


 その顔を見て、私は胸が痛むほど嬉しくなった。


「違いましたか?」


 少し意地悪に聞く。

 ヴィルヘルムは、ようやく息を吸った。


「違いません。」


「では、恋人ですね。」


「……はい。」


「返事が遅いです。」


「すみません。」


「謝るところではありません。」


「では、もう一度。」


 ヴィルヘルムは姿勢を正した。

 どうしてそこで姿勢を正すのか。


 私は笑いそうになる。


 彼は、真剣そのものの顔で言った。


「恋人です。」


 胸が、きゅうっと締めつけられた。


 恋人。

 名前のない約束に、名前がついた。


 ほんの短い間だけかもしれない。

 未来には続かない名前かもしれない。


 それでも今、彼の口から確かに聞いた。


 私は、その言葉を胸にしまった。


 大切に。

 誰にも見つからないところへ。


「はい。」


 私は微笑んだ。


「では、恋人として、笑って見送ります。」


 ヴィルヘルムは、何かを言いかけた。

 けれど、言葉にできなかったようだった。


 その代わり、そっと私の手を取った。

 手袋をしていない手。


 温かい。

 昨日まで、触れるたびに許可を求めていた手。

 今も慎重だけれど、少しだけ近い。


 私はその手を握り返した。

 玄関へ向かう。


 外ではアルクが待っていた。

 朝の光の中、馬が静かに鼻を鳴らす。


 ヴィルヘルムは手綱を取る前に、私を見た。


「行ってきます。」


 その言葉が胸に落ちた。


 お帰りなさい。

 ただいま。


 行ってらっしゃい。

 行ってきます。


 まるで暮らしの言葉だ。


 名前のある未来の中で交わされるはずの言葉。

 でも、今の私たちには、今日の分だけあればいい。


 私は一歩近づいた。

 ヴィルヘルムが少し身を屈める。


 何をされるか、もう分かっているのだろう。

 それでも耳が赤い。


 私は背伸びをして、彼の頬に口づけた。


「行ってらっしゃい、ヴィルヘルム。」


 彼は完全に赤くなった。

 言葉を失っている。


 私は、それが嬉しくてたまらなかった。


「レベッカ。」


 ようやく彼が私の名を呼んだ。

 声が少し掠れている。


「はい。」


「……帰ってきます。」


 私は笑った。


「お帰りを、お待ちしています。」


 ヴィルヘルムの表情が、また揺れた。

 嬉しそうで、苦しそうで、幸せそうだった。


 彼は何かもっと言いたそうにした。

 でも、言葉にはしなかった。


 いつものように。


 ――守れない約束はしない人だから。


 私はそれを見て、胸の奥の痛みを笑顔の奥に隠した。


 ヴィルヘルムは馬に乗った。

 森の道へ進む前に、もう一度こちらを見る。


 私は玄関先で手を振った。

 彼は一瞬だけ驚いた顔をして、それからぎこちなく手を上げた。


 可愛い。

 本当に。


 どうしようもなく可愛い。


 蹄の音が遠ざかる。

 私はその音が聞こえなくなるまで、玄関先に立っていた。


 やがて森の道が静かになる。


 私は扉を閉めた。

 台所へ戻る。


 二つの茶器。

 二人分の皿。

 少しだけ残ったスープ。

 天井の香草。

 少し乱れた寝台。


 全部が、さっきまで彼がいたことを示している。


 私は机に手をつき、ゆっくり息を吐いた。


 幸せだった。

 苦しいほど。


 そして、これからもきっと幸せになる。


 私が、そうする。

 幕が下りるまで。

 私はこの人を愛しきる。


 悲劇だと言われても。

 愚かだと言われても。

 悪女らしいと言われても。


 構わない。


 私の舞台の観客は、私一人だけだ。

 ならば、せめて私は笑ってやる。


 泣きながらでも。

 傷つきながらでも。


 この幸福を、喜劇として演じ切ってやる。


 私は茶器を手に取った。

 片づける前に、もう一度だけ、彼が使った方を見つめる。


 ――恋人。


 彼がそう言った。

 その響きを、胸の奥で何度も繰り返す。


 そして、小さく呟いた。


「お帰りを、お待ちしています。」


 誰もいない台所で、その言葉は静かに響いた。


 外では、鳥除けの鈴が鳴っている。


 それは、昨日までとは違う音に聞こえた。


 まるで、幕の奥で次の場面を待つ、小さな合図のようだった。

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