表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/66

第五十五話 愛しています

 蹄の音が、近づいてくる。


 いつもなら、その音を聞くだけで胸が少し弾んだ。


 森の道を越えて、彼が来る。

 今日も来てくれる。

 その事実だけで、昨日までの私は少し笑えた。


 けれど今日は、音が近づくほどに胸の奥が痛んだ。


 来てほしい。

 来ないでほしい。


 会いたい。

 でも会えば、何もなかった頃には戻れない。


 私は扉に手を当てたまま、目を閉じていた。


 台所には、二つの茶器。

 机の上には、掠れた音の古鈴。

 天井には、彼が結んだ香草の束。


 昨日までは、すべてが幸せの証のように見えた。


 ……今は、すべてが痛い。


 蹄の音が止まった。

 馬が小さく鼻を鳴らす。


 そのあと、いつものように、控えめな足音が玄関へ近づいてきた。


 扉が叩かれる。


「レベッカ嬢。」


 ヴィルヘルムの声。


 私は息を吸った。

 返事をしなければ。


 いつも通りに。

 いつも通り。


 その言葉が、ひどく遠い。


「……はい。」


 ようやく返事をして、扉を開けた。

 そこに、ヴィルヘルムが立っていた。


 濃紺の服。

 淡い金髪。

 静かな青い目。


 いつもと同じはずなのに、今日はあまりにも遠く見えた。


「こんにちは。」


 ヴィルヘルムが言った。

 私は微笑もうとした。


 けれど、うまくいかなかった。


「こんにちは。」


 声も、少し掠れていた。

 ヴィルヘルムの表情がすぐに変わった。


 ほんのわずか。

 けれど、彼は見逃さない。


「顔色が悪いです。」


 いつもの言葉。


 以前なら、また確認ですか、と返していたかもしれない。

 大丈夫です、と少しむっとして言ったかもしれない。


 でも今日は、その心配さえ胸に刺さった。


 心配しないで。

 優しくしないで。


 そんなふうに思う自分が嫌だった。


「少し、疲れただけです。」


「町へ行かれたのですか。」


「はい。」


「何かありましたか。」


 何か。

 ありましたか。


 私は彼を見た。

 何を言えばいいのだろう。


 王太子になられるのですね。

 なぜ私に話してくださらなかったのですか。

 私は、あなたにとって何なのですか。


 その言葉が、一斉に胸の奥からせり上がってくる。


 けれど、どれも口にできなかった。


 分かっている。

 話せないのだ。

 彼は、話せない。


 守れない約束をできる人ではない。

 言葉に責任を持つ人だから。


 だから、私には明日の約束しかくれなかった。


 明日も来ます。

 また明日。


 その先は、言わなかった。

 言えなかった。


「何もありません。」


 私は言った。


 嘘だ。

 でも、これ以上何を言えばいいのか分からなかった。


 ヴィルヘルムは、私をじっと見た。


「何もなかった顔ではありません。」


「顔の話は、皆さんお好きですね。」


「レベッカ嬢。」


 声が少し低くなる。


 心配している。

 本当に。

 そのことが、痛いほど分かる。


 私は扉から少し身を引いた。


「中へ、どうぞ。」


 ヴィルヘルムは一瞬だけためらった。

 私の様子がおかしいと分かっているのだろう。


 けれど、拒まれなかったことに安堵したようにも見えた。


「失礼します。」


 彼は家の中へ入った。

 台所へ向かう。


 昨日よりも、私の足取りは重い。

 ヴィルヘルムはそれに気づいている。


 気づいているのに、余計なことは言わなかった。


 台所に入ると、二つの茶器が目に入った。

 朝、何気なく出しておいたもの。

 彼が来たら、お茶を出そうと思っていたもの。


 名前のない約束を信じていたもの。


 ヴィルヘルムも、それに気づいた。

 けれど、何も言わなかった。


 私は湯を沸かそうとした。

 手が少し震えて、火打ち石をうまく扱えない。


 ヴィルヘルムが一歩動く気配がした。


「代わります。」


「大丈夫です。」


「震えています。」


「大丈夫です。」


「大丈夫ではありません。」


 その言葉に、胸の奥で何かがきしんだ。


 大丈夫ではない。

 その通りだ。


 私は、全然大丈夫ではない。

 でも、どう大丈夫ではないのか、あなたには言えない。


 あなたに言わせたいわけでもない。


 私は火打ち石を置いた。


「すみません。少し、座ります。」


「はい。」


 私は椅子に座った。

 ヴィルヘルムは向かいには座らず、少し離れたところに立ったままだった。


 いつでも手を伸ばせる距離。

 でも、私が嫌がればすぐ離れられる距離。


 その距離の取り方さえ、優しい。

 苦しい。


「町で、香草袋が売れました。」


 私は言った。

 何か普通の話をしなければと思った。


「宿屋の女将さんが、薄緑を二つ。乾物屋さんも、また灰色を一つ。」


「それは、良かった。」


「はい。」


「古道具屋の老人の注文は?」


「掠れた音の鈴を、確認して持ち帰りました。」


 机の上の古鈴を見る。


 小さな鈴。

 掠れた音。

 りん、と鳴った時の寂しい響き。


 まるで、今の私のようだった。


「良い音ですか。」


「たぶん。」


「たぶん?」


「今日は、よく分かりません。」


 言ってしまった。

 ヴィルヘルムの目が、静かに揺れる。


「何があったのですか。」


 また、聞かれた。

 私は唇を噛んだ。


 ――なぜ話してくださらないのですか。


 言葉が浮かぶ。

 でも、すぐに消す。


 話せないのだ。

 あなたは、話せない。


 私のことをどう思っているのですか。

 それも浮かぶ。


 でも、言えない。


 彼は誠実な人だから。

 未来を約束できないなら、言えない。

 守れないものは、差し出せない。


 それが、ヴィルヘルムだ。


 ――私を愛していますか。


 答えがほしい。


 でも、そんなことを聞いてどうするのだろう。


 愛していると言わせたいのか。

 言わせて、縛りたいのか。

 言えない彼を責めたいのか。


 ――違う。


 私は、彼を非難したいわけではない。

 彼に縋りたいわけでもない。

 できない約束をさせたいわけでもない。

 国より私を選んでほしいわけでもない。

 王太子にならないでほしいわけでもない。


 あなたのせいで苦しいと、責めたいわけでもない。


 じゃあ、何が残るの。

 何を言いたいの。

 何を望んでいるの。


 たくさんの言葉が胸の中で砕けていく。


 非難も。

 問いも。

 願いも。

 未来も。

 約束も。


 砕けて、消えて、最後に残ったのは、たった一つだった。


「愛しています。」


 声が出ていた。

 自分でも驚くほど静かな声だった。


 ヴィルヘルムの息が止まった。

 台所が、音を失った。


 外で鳥除けの鈴が鳴っているはずなのに、それすら遠い。


 私は立ち上がった。

 足元が少し頼りない。

 それでも、彼へ近づいた。


 ヴィルヘルムは動かなかった。

 動けなかったのかもしれない。


 青い目が、私を見ている。

 驚きと、信じられないというような揺らぎ。


 その目が、あまりにも綺麗だった。


 私は手を伸ばした。

 彼の胸元の布を、そっと掴む。


 ずっと遠いと思っていた人。

 本当は、こんなにも近くにいる。


「レベッカ嬢。」


 彼が低く呼んだ。

 私は、その顔を引き寄せた。


 そして、口づけた。


 触れた瞬間、彼の体が強くこわばった。

 あまりに驚いたのだろう。


 唇が触れている。

 それだけのことなのに、胸が痛いほど熱くなる。


 私は目を閉じた。


 怖い。

 苦しい。


 でも、愛している。


 彼を愛したかった。


 そして、愛されたかった。


 その願いだけが、今の私のすべてだった。


 離れようとした時、ヴィルヘルムの手が、私の肩の近くで止まった。

 触れていいのか迷うように。


 いつものように。

 こんな時でも。


 私は笑いそうになった。

 泣きそうにもなった。


「触れてください。」


 私は小さく言った。

 ヴィルヘルムの表情が、崩れた。


 初めて見る顔だった。

 冷静さも、沈黙も、王族らしい抑制も、すべてが一瞬だけ剥がれ落ちたような顔。


 彼はゆっくり私に触れた。

 肩を支え、背へ腕を回す。


 その手が、少し震えていた。


「レベッカ。」


 敬称なしで呼ばれた。

 胸が震えた。


「今の言葉を、もう一度。」


 声が低かった。

 必死だった。


 私は彼を見上げた。

 涙が出そうだった。


 でも、まだ泣かない。


「愛しています。」


 言った。

 今度は、はっきりと。


 ヴィルヘルムの目が、苦しそうに揺れた。

 そして、次の瞬間、彼は私を強く抱きしめた。


「私もです。」


 耳元で、彼の声が震えた。


「ずっと、あなたを愛していました。」


 ずっと。


 その言葉が、胸に落ちた。


 熱い。

 嬉しい。

 痛い。


 ああ。

 愛されていた。


 私は、愛されていた。


 その喜びは、眩しいほどだった。


 けれど同時に、何かが静かに終わる音がした。


 未来。

 きっと、私が夢見た未来。


 森の家で、明日も、明後日も、その先も彼を待つ未来。

 王太子ではない彼と、名前のある約束をする未来。


 それは、今この瞬間に消えた。


 消えたのに、私は幸せだった。

 幸せで、悲しくて、嬉しくて、苦しくて、息ができない。


 涙が、ようやく溢れた。

 ヴィルヘルムが慌てて体を離そうとする。


「泣いている。」


「離れないでください。」


 私が言うと、彼は動きを止めた。


「ですが。」


「離れないで。」


 もう一度言った。

 彼は私を見た。


 心配と、喜びと、戸惑いが混ざった顔。

 いつもの冷静なヴィルヘルムではない。


 十八歳の、恋をしている青年の顔だった。


 私に愛を返されて、幸せで、でもどうしていいか分からない顔。


 その顔が、たまらなく愛おしかった。


「今日は。」


 私は彼の服を握った。


「今日は、帰らないでください。」


 ヴィルヘルムの喉が、わずかに動いた。


「レベッカ。」


「あなたがほしい。」


 言った瞬間、自分の頬が熱くなった。


 けれど、引かなかった。

 もう、引かない。


 未来を求めない代わりに、今だけは求める。


 誰にも許されなくても。

 この世界に拒まれても。


 私は今、彼を求める。


 ヴィルヘルムは息を詰めた。

 それから、慎重に、苦しそうに言った。


「本当に、よいのですか。」


「はい。」


「後悔しませんか。」


「しません。」


「私は。」


 彼は一度、目を閉じた。


「私は、あなたを大切にしたい。」


「はい。」


「傷つけたくない。」


「知っています。」


「だから。」


「だから、帰らないで。」


 私は彼を抱きしめた。

 彼の胸に顔を埋める。


「お願い。」


 その言葉で、彼の抑制が揺らいだのが分かった。

 ヴィルヘルムは、私の背に回した腕に少しだけ力を込めた。


「愛しています。」


 彼が言った。


「あなたを、ずっと。」


 もう一度、唇が重なった。


 今度は、私からではなかった。


 彼からだった。


 それでも、触れ方は痛いほど慎重だった。


 壊れ物に触れるように。

 祈るように。

 確かめるように。


 私はその慎重さごと、彼を受け止めた。



 森の家の灯りは、夕暮れを過ぎても消えなかった。


 台所の茶器は二つ並んだまま。

 天井の香草は、夜風にかすかに揺れた。

 鳥除けの鈴が、外で小さく鳴っている。



 月が昇る頃、森の家は静かになった。


 私は、ふと目を開けた。


 部屋は薄い月明かりに満ちていた。

 窓の隙間から差し込む光が、床と壁を淡く照らしている。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 それから、すぐに思い出した。


 息が止まりそうになる。


 私は寝台の上にいた。


 寝台。

 いつも一人で眠っていた場所。


 今は、隣にヴィルヘルムがいる。


 私は少し身じろぎした。

 シーツが肩から滑る。


 何も身につけていない肌に夜気が触れて、私は一気に顔が熱くなった。


 思い出す。


 彼の手。

 彼の声。

 何度も名前を呼ばれたこと。

 私も、彼の名前を呼んだこと。


 ヴィルヘルム。


 殿下ではなく。


 ヴィルヘルム。


 私は両手で顔を覆いたくなった。

 けれど、動けなかった。


 ヴィルヘルムが、私を抱きしめていたからだ。


 守るように。

 でも、苦しくならないように。


 腕は私の背に回っているのに、力は少しだけ緩められている。


 私が寝返りを打てる余地も残してある。


 眠っているのに。


 こんな時まで、彼は私を気遣っている。


 私は思わず、苦笑した。


「……本当に、あなたは。」


 小さく呟く。


 ヴィルヘルムは眠っていた。


 月明かりに照らされた顔は、いつもより幼く見える。


 十八歳。

 私より一つ年下の青年。


 王太子になる人。

 この国の未来を背負う人。


 けれど今、私の隣で眠っている彼は、少し疲れた青年に見えた。


 目元に薄い影がある。

 ここへ来るために、今日もきっと無理をしたのだろう。


 王都から戻っても、公爵領の仕事も、王太子の準備も、私には言えない何かも、全部抱えたまま。


 それでも彼は、森の家へ来た。


 私のために。

 片道二時間馬を走らせて。

 明日の約束を守るために。


 胸が痛くなる。


 愛しい。

 どうしようもなく愛しい。


 私はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。


 起こさないように。


 月明かりの中、彼の睫毛が影を落としている。


 美しい人。

 でも、美しいだけではない。


 不器用で。

 負けず嫌いで。

 言葉が足りなくて。

 それでも誠実で。


 眠っていても、私を苦しくさせないように抱く人。


 ――この人を、私は愛している。


 はっきりと、思った。


 そして同時に、はっきりと分かった。


 結末は、変わらない。

 彼は王太子になる。

 私は、彼の隣に立つべき人間ではない。


 彼がどれほど無茶をしても、どれほど手を伸ばしても、この世界はきっと簡単には許さない。


 だから、いつか私はこの舞台を降りなければならない。


 でも。


 それまでの間を、悲劇にするか喜劇にするか。


 それを選ぶのは、私だ。


 私は、ゆっくり息を吐いた。

 涙はもう出なかった。


 胸の奥に、熱いものが残っている。

 痛みではなく。

 決意に近い何か。


 私ならできる。


 世界中のすべてがそれを不幸だと、悲劇だと呼んでも。

 私は喜劇として演じてやる。


 悪人の演者の心中なんて、どうせ誰も気にしやしない。


 ならば、私の舞台の観客は私一人だけだ。


 踊りたいだけ、踊ればいい。

 笑いたいだけ、笑えばいい。

 愛したいだけ、愛せばいい。


 どうせ幕は下りる。

 どうせ悪女は退場する。


 ならば、その瞬間まで、私は自分の足で舞台を踏む。


 いつものように。

 振り切って、走り抜ければいいのだ。


 私はヴィルヘルムの胸元へ、そっと額を寄せた。


 彼の心臓の音が聞こえる。


 静かで、規則正しい音。

 生きている音。

 愛している人の音。


「……ヴィルヘルム。」


 小さく呼んだ。


 彼は眠ったまま、わずかに私を抱く腕を強めた。

 胸が痛いほど温かくなる。


 私は目を閉じた。


 今だけは。

 今だけは、彼の腕の中にいてもいい。


 未来のない約束でもいい。

 名前のない幸福でもいい。


 私は、私の意志でここにいる。


 外では、鳥除けの鈴が夜風に鳴っていた。


 その音はもう、遠くなかった。


 まるで幕が上がる合図のように、森の家の夜に小さく響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ