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第五十四話 聞いてしまった名前

 翌朝、私は少し遅く目を覚ました。

 珍しいことだった。


 最近は、ヴィルヘルムが来るかもしれないと思うだけで、早く目が覚めてしまうことが多かった。


 けれど今日は、寝台の中に少しだけ長くいた。

 怠けたかったわけではない。


 昨日の余韻が、まだ体の中に残っていたのだ。


 ――お帰りなさい。

 ――ただいま戻りました。


 名前のない約束。


 ――明日も来てくださいますか。

 ――来ます。


 短い言葉ばかりなのに、思い出すたび胸が温かくなる。

 私は布団を少し引き上げ、目を閉じた。


「……浮かれているわ。」


 自分で言う。

 否定できない。

 私は、かなり浮かれている。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 以前なら、浮かれる自分を叱っただろう。


 期待してはいけない。

 信じすぎてはいけない。

 望めば失う。

 喜べば奪われる。


 そうやって何度も自分を押さえつけた。


 けれど今は、少しだけ違う。


 好きでいてもいい。

 望んでもいい。

 喜んでもいい。


 昨日よりも自然に、そう思えた。


 私は起き上がり、顔を洗った。


 台所へ行くと、天井近くの香草が乾き始めている。


 ヴィルヘルムが結んだ束もある。

 最初の二つはやはり少し不格好だが、それすら今は可愛らしく見えた。


 私はその束にそっと触れる。


 香りが立つ。

 青くて、少し甘い。


 枕元に置いている。


 ――夜に少し香りがした方が、眠りやすかったので。


 昨日のヴィルヘルムの声を思い出し、私は両手で頬を覆いそうになった。


 枕元。

 また思い出してしまう。

 私の作った香草袋が、彼の眠る場所のそばにある。


 それは鈴飾りとは違う嬉しさだった。


 手綱袋の鈴は、外の世界へ一緒に行くもの。

 香草袋は、彼が一人で目を閉じる場所のそばにあるもの。


 考えれば考えるほど落ち着かない。


「……仕事をしましょう。」


 こういう時は、手を動かすに限る。

 私は机に座り、注文分の香草袋を作り始めた。


 灰色を二つ。

 薄緑を一つ。

 くすんだ赤を一つ。


 縫い目を整える。

 糸を引く。

 鈴を選ぶ。


 音を確かめる。

 りん。

 控えめで、優しい音。


 この音なら、宿屋の客室に置いても邪魔にならない。

 乾物屋の戸棚でも、うるさすぎない。


 古道具屋の老人が欲しがるような掠れた音とは違うが、これはこれで良い音だ。


 昼前まで作業を続け、私は香草袋を布に包んだ。

 今日はローレンスの店へ納品に行く。


 ヴィルヘルムは午後に来ると言っていた。

 だから、昼過ぎまでには戻れるようにすればいい。


 ……そう思うだけで、少し急ぎたくなる。


 私は鞄を持ち、戸締まりを確認してから森の家を出た。


 道は穏やかだった。

 昨日、二人で歩いた道。

 ただ一緒にいるためだけに歩いた道。


 私はその場所に差しかかると、少しだけ足を緩めた。


 ――あなたが戻ってくる道でもあります。


 そんなことを言った。

 今思い出しても、顔が熱くなる。


 どうしてあんなことを言えたのだろう。

 ……でも、言ってよかった。


 ヴィルヘルムは、忘れません、と言ってくれた。


 忘れられるはずがありません、と。


 私は胸に手を当てた。


 大丈夫。

 今日はちゃんと納品をして、帰って、午後にはまた会える。

 明日も来ると言ってくれた。


 名前のない約束。

 それで十分。



 町へ着くと、ローレンスの店はいつもより少し落ち着いていた。


 昼前だからだろう。

 客の姿はまばらで、店先には茶葉の香りが漂っている。


「こんにちは。」


「いらっしゃい、レベッカ。」


 ローレンスは帳簿を書いていた。

 私を見ると、いつもの穏やかな顔で笑う。


「香草袋かい。」


「はい。追加分です。」


 私は包みを開き、薄緑、灰色、くすんだ赤の香草袋を並べた。

 ローレンスは一つずつ手に取って確認する。


「いいね。くすんだ赤も悪くない。宿屋向きだ。」


「少し華やかすぎるかと思いましたが。」


「客室ならこれくらいでもいい。女将が喜ぶよ。」


「よかったです。」


 私は胸を撫で下ろした。

 ローレンスは棚の一角を空け、そこに新しい香草袋を並べる。


 森の家の鈴。

 茶葉包みの布。

 香草袋。


 棚がまた少し賑やかになる。


「棚代、そろそろ本当に計算しないといけないね。」


「はい。よろしくお願いします。」


「嫌がらないのかい。」


「商売ですから。」


 私がそう答えると、ローレンスは少しだけ驚いた顔をした。

 それから、嬉しそうに笑った。


「いいね。そういう返事、好きだよ。」


「ありがとうございます。」


「じゃあ、月末にまとめよう。売上から少し引く形でいいかい。」


「はい。」


 私は帳面を開き、棚代の項目を書き足した。


「あと古道具屋のおじいさんから、もう少し掠れた音の鈴を、と昨日頼まれまして。」


「またかい。」


「はい。それで、幾つか探してみたんですが。」


 いくつか持ってきていた鈴を取り出し、ローレンスと共に音を確認する。

 掠れた音、というのもなかなか難しい。


「今日殿下さん来るんだろう?意見を聞いてみてからでもいいかもしれないね。」


 ローレンスがにやりと笑った。

 胸がどきっと跳ねる。


 先日の「共同制作」という言葉が脳内に浮かび上がった。


「……そうですね。」


 そう返した時だった。


 店の中に、誰かが入ってくる音がした。


 振り向くと、見知らぬ男が立っていた。


 旅人にしては身なりが整っている。

 商人にしては、荷が少ない。

 貴族の使いにしては、目立たない。


 けれど、ただの客ではないことだけはすぐに分かった。


 男は私を見るなり、一瞬だけ表情を固まらせた。


 ほんの一瞬。

 けれど、確かに。


 私の胸に、小さな引っかかりが生まれた。


 ローレンスが、それを消すように明るい声を出した。


「ああ、悪い、忘れてたよ。引っ越し先の件だよな。」


 あまりに明るい声だった。

 いつものローレンスより、少しだけ大きい。


 少しだけ、わざとらしい。


 男はすぐに表情を戻し、軽く頭を下げた。


「ええ。急ぎではありませんが。」


「レベッカ、すまない。ちょっと相談を受けてたことを忘れててな。」


「いえ。私の用事はもう済みましたので。」


「棚代の計算はまた明日でもいいかい。」


「もちろんです。」


 私は小さく頷いた。


 引っ越し先。

 ローレンスは小売だけでなく、不動産の仕事もしている。


 家や倉庫の仲介。

 空き家の管理。

 商人の引っ越しの世話。


 公爵領の町では、そうした細かな仕事をいくつも兼ねる者がいると聞いた。


 ローレンスもその一人なのだろう。


「じゃあ、少し奥で話そうかね。」


 ローレンスは男を店の奥へ案内した。

 奥の扉が閉まる。


 私は店先に一人残された。


 少しの引っかかりはあった。

 男が私を見た時の、一瞬の表情。

 ローレンスの、わざとらしいほど明るい声。


 けれど、詮索することではない。

 私には関係のない話だ。

 引っ越し先の相談。

 ローレンスはもともと忙しい。


 それなのに、私は毎日のように店へ来ている。

 納品だ、注文だ、棚だ、帳面だと、何かと時間を取らせている。

 ……大丈夫なのだろうか。


 私は棚の上の香草袋をもう一度整え、店を出た。



 通りへ出ると、昼の光が少し眩しかった。


 乾物屋の奥さんが店先で客と話している。

 薬草売りのエダが、干した葉を籠へ移している。

 古道具屋の老人は、今日も椅子に座ってうとうとしていた。


 町はいつも通りだ。


 私は歩きながら、ふと別のことを思い出した。


「……家賃。」


 足が止まる。

 そうだ。

 もうすぐ、あの家を借りて半年になる。


 最初に契約した際に半年分は払った。

 ただ、その先については支払い日も支払い方法も決めていなかった。


 私はどうすればいいのだろう。

 ローレンスに相談しなければならない。


 棚代どころではない。

 次の家賃。


 今の収入でまた半年分払えるのか。

 払えないなら、月払いにできるのか。


 森の家。

 私の場所。


 胸が急に不安になる。


 けれど、今日はローレンスは忙しい。

 引っ越しの相談客も来ている。


 明日。

 明日は絶対に相談しよう。


 そう決めて、私は鞄の紐を握り直した。


 その時だった。


「あ。」


 私は小さく声を出した。


 店に、忘れ物をした。

 古道具屋の老人に頼まれていた、掠れた音の鈴の見本。


 さきほど棚の端に出して、そのまま置いてきてしまった。

 今日持ち帰って、家で色布と合わせるつもりだったのに。


 どうしよう。


 ローレンスは奥で客と話している。

 でも、見本を取るだけならすぐ済む。


 棚の端にまだあるはずだ。

 声をかけるほどでもない。


 私は少し迷ったが、結局、店へ引き返した。


 扉は開いていた。

 客は誰もいない。


 ローレンスと男は、まだ奥にいるようだった。


 私は足音を立てないように中へ入り、棚の端へ向かった。


 あった。

 灰色の布の横に、小さな古鈴が置かれている。


 私はそれをそっと手に取った。


 忘れ物を回収するだけ。

 すぐ帰ればいい。


 そう思った、その時だった。


「レベッカのことはどうするつもりだ!」


 奥から、ローレンスの声がした。


 私は息を止めた。


 聞いたことのない声だった。


 いつもの穏やかで、少しからかうような声ではない。

 低く、荒く、怒りが滲んだ声。


 しかも、その中に私の名前があった。


 レベッカ。

 私のこと。


 体が緊張する。


 聞いてはいけない。


 そう思った。


 すぐに店を出なければならない。


 けれど、足が動かなかった。

 胸の奥で、何かが嫌な音を立てる。


 私は古鈴を握ったまま、店の奥の扉へ一歩近づいた。


 もう一度、聞こえた。


 今度は、あの男の声だった。


「分からない。けれども、王太子にはヴィルヘルム殿下をと。貴族院でも承認済みとのことだ。」


 世界が止まった。


 王太子。

 ヴィルヘルム殿下。

 貴族院でも承認済み。


 言葉が、ばらばらに頭へ落ちてくる。


 意味を結ぶ前に、体が冷えた。


 奥で、ローレンスが息を呑む気配がした。


「……クラウス様はなんと?」


 クラウス。

 公爵の名だ。


 現エルヴァルト公爵。


 私をこの領に置いた人。

 ヴィルヘルムを支え、今も公爵領の中枢にいる人。


 男の声が続く。


「すでに調整に入られている。恐らく王室は、第二王子ヘンリック殿下を次期公爵として再指名されるのではないかとのことだ。」


 次期公爵。

 ヘンリック殿下。


 ヴィルヘルムではなく。

 公爵家は、別の人が継ぐ。


 ――ヴィルヘルムが王太子になるから。


 そこまで理解した瞬間、足元が崩れたような気がした。


 私は扉から離れた。


 これ以上は聞けない。

 聞いてはいけない。


 ローレンスと男の会話は続いているようだった。


 けれど、もう私の耳には届かなかった。


 まるで水の中にいるようだった。


 音が遠い。

 すべてが歪む。


 私は震える足で、それでも何とか静かに店を出た。


 古鈴を握ったまま。


 鞄の中に入れることすら忘れて。


 通りへ出る。


 町はいつも通りだった。


 パン屋の奥さんが客と話している。

 花屋の娘が籠を持って店の奥へ入っていく。

 親子連れが露店の品を見ている。


 誰も何も変わっていない。


 私だけが、知ってしまった。


 私だけが、変わってしまった。


 ――ああ。

 ――私は、なんと愚かだったのだろう。


 失望。

 怒り。

 悲しみ。

 絶望。


 吐きそうなくらいの激情の波に飲み込まれて、最初に胸に浮かんだのは、この言葉だった。


 ――浅はか。


 そうだ。

 私は、浅はかだった。


 ヴィルヘルムが三か月で戻ってきた。

 だから、王太子には選ばれなかったのだと勝手に思った。


 これからも会えるのだと信じた。


 明日も、明後日も、その先も。

 森の家の道を戻ってきてくれるのだと。

 名前のない約束で十分だと。


 けれど、違った。


 ――王太子にはヴィルヘルム殿下を。

 ――貴族院でも承認済み。


 ヴィルヘルムは王太子になる。

 そのために、次期公爵には別の人が立つ。


 つまり、最初から私の見ていた未来は間違っていた。


 ――いや、違う。

 ――私は、違う未来を見たくなくて、わざと自分を騙したのだ。


 これまでなら。

 これまでの私なら、こんな浅慮に陥らなかった。


 王族が帰還式典を終え、王都から戻る。

 何もなかったはずがない。

 何かが決まったから戻れたのだと考えるべきだった。


 彼が何も言わないことの意味を、もっと疑うべきだった。


 それなのに。


 ――私は、私の夢見る未来に溺れていた。


「うそつき。」


 声が漏れた。


 すぐに、違う、と心の中で打ち消す。


 彼は嘘は言っていない。

 何も言わなかっただけだ。

 彼は守れない約束はしない。


 そう。


 だから私は、明日の約束しかもらえない。


 この先もきっと。


 明日も来ます。

 また明日。

 名前のない約束。


 その先に名前を与えなかったのは、与えられなかったからだ。


 ヴィルヘルムは知っていた。

 言えなかったのかもしれない。

 言いたかったのかもしれない。


 でも、言わなかった。


 言えない場所に、彼はいる。

 言ってはいけない立場に、私はいる。


「結局、私は異物なのね。」


 この世界の。


 足が森の道へ向かう。

 自分で歩いている感覚が薄い。


 町の音が遠ざかっていく。

 木々の影が、道に落ちている。


 この世界は私を拒絶する。


 努力も。

 決意も。

 期待も。


 私の力の及ばないところで砕かれる。


 何度も。

 何度も。


 私は、どこへ行っても異物なのだ。


 ただ母の愛を求めた幼子だった頃も。

 痛みに耐えるために、努力し続けるしかなかった頃も。

 完璧であることが当たり前になってしまった時も。


 そして今。


 森の家で暮らし、畑を育て、鈴を縫い、町の人に名前を呼ばれるようになっても。


 私は、この物語の中心には入れない。


 誰も悪くない。

 ローレンスも悪くない。

 公爵も悪くない。

 きっとヴィルヘルムも悪くない。


 ただ、私が異物だからだ。


 ヴィルヘルムはきっと無茶をするだろう。


 これまでのように。

 今のように。

 これからも。

 私が私であるせいで。


 平然とした顔をして。

 無理をして。

 自分を犠牲にしながらでも、私に何かを与えようとするのだろう。


 分かっている。

 もう、十分すぎるほど分かっている。


 あの人だもの。


 仕事を夜に回して、四時間馬を走らせ、毎日私の家へ来た人。

 王都へ行く前に、何も言えないまま不在を告げた人。

 戻ってきて、何も言えないまま、また明日と約束した人。

 私の笑顔が必要だと言った人。


 あの人は、きっと止まらない。


 国も、立場も、未来も、全部抱え込んで。


 それでも、私のために手を伸ばそうとする。


 そんなことをさせてはいけない。


 こんな時でも動き続ける思考が、本当の最適解を示している。


 私は何度もそれを消した。

 違う答えを求めた。

 あり得ない未来を探した。


 再計算を押し続けるように。


 何度も。

 何度も。


 でも、もう分かりきっていた。


 ――私と彼に、未来の約束はない。


 彼はあるべき場所に戻る。


 王太子として。

 この国の未来として。


 私は。

 私は、どうすればいい。


 森の道は静かだった。


 昨日は、好きだと思った道。

 彼が戻ってくる道だと言った道。


 今日は、その道が遠い。

 足元がひどく頼りない。


 私は古鈴を握りしめたまま歩いた。

 掌の中で、小さな金属が痛い。


 けれど、その痛みがなければ、自分が歩いていることすら分からなくなりそうだった。


 森の家が見えてきた。


 小さな家。

 畑。

 鳥除けの鈴。

 窓辺。

 私の暮らし。


 ここに来てから、私は少しずつ立ち上がった。

 そう思っていた。


 ここが私の場所になったと、信じていた。


 けれど。


「……舞台を、降りないといけないのね。」


 声が、自分のものではないように聞こえた。


 断罪は、悪人の悲劇をもって、その物語を閉じる。


 例外は、ないのだ。


 悪女は消える。


 王子の物語に残ってはいけない。


 ましてや、この国の王太子になる人の隣になど。


 立てるはずがない。


 私は玄関の前で立ち止まった。

 扉に手をかける。


 けれど、すぐには開けられなかった。


 中には、二つの茶器がある。

 朝、何気なく出しておいたものだ。


 彼が来たら、お茶を出そうと思って。


 今日も来てくれると信じて。


 私はその扉の前で、しばらく動けなかった。

 鳥除けの鈴が、風に揺れる。


 ちりん。


 昨日は、名前のない約束に返事をするように聞こえた音。


 今日は、ひどく遠く聞こえた。


 私はようやく扉を開け、家の中に入った。

 台所には、やはり器が二つ並んでいた。


 一つを片づけることもできない。

 二つのままにしておくことも苦しい。


 私はその前に立ち尽くした。


 午後の光が、台所の床に落ちている。

 天井の香草が静かに揺れる。


 ヴィルヘルムが結んだ束。

 私が褒めた束。


 ――上手です。

 ――もう一度、言ってください。


 あの時の彼の顔が浮かぶ。


 胸が痛い。


 好きだ。

 愛している。


 だから、苦しい。


 王太子になるから苦しいのではない。

 何も言ってくれなかったから苦しいのでもない。


 きっと、それだけではない。


 彼が大きすぎる場所へ戻っていく人だと、今さら思い知らされたことが苦しい。

 その隣に、自分が立てるはずもないと分かってしまったことが苦しい。


 でも、それでもまだ、彼が来るのを待ってしまっていることが、一番苦しかった。


 私は椅子に座った。

 古鈴を机の上に置く。


 小さな鈴は、かすかに揺れて、掠れた音を立てた。


 味のある音。

 古道具屋の老人が欲しがっていた音。


 私はそれを見つめた。


 涙は、まだ出なかった。


 出る前に、胸の奥で凍ってしまったようだった。


 どれくらい、時がたったのだろう。

 外で、遠く蹄の音がした気がした。


 聞き間違いかもしれない。

 でも、体が反応してしまう。


 胸が痛む。


 来てほしい。

 来ないでほしい。


 会いたい。

 でも顔を見たら泣いてしまうかもしれない。


 それでも。


 私は椅子から立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 扉の前で、足が止まる。


 蹄の音は、まだ遠い。


 私は扉に手を当てたまま、目を閉じた。


 名前のない約束。

 昨日は、それで十分だった。


 でも今日、その名前のなさが、急に怖くなった。


 ――約束に名前がないなら。

 ――私は、何を信じればいいのだろう。


 外で、鳥除けの鈴が鳴った。


 その音に重なるように、蹄の音が近づいてきた。

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