第五十三話 名前のない約束
香草袋がまた売れた。
今度は宿屋の女将だった。
薄緑の紐のものを二つ。
客室の窓辺と、上等な寝具をしまう戸棚に置きたいと言っていた。
「香りが強すぎないのがいいね。客の好みを邪魔しない。でも、扉を開けると少しだけいい匂いがする。」
そう言って、女将は袋を指先で軽く揺らした。
りん。
控えめな音が鳴る。
「この音もいい。夜中にうるさくない。」
「ありがとうございます。」
私は頭を下げた。
嬉しかった。
商品が売れること。
使い道を考えて選んでもらえること。
私が作ったものが、誰かの暮らしの中に入り込んでいくこと。
それが、胸の奥を温かくした。
ローレンスの店の窓辺には、森の家の鈴と茶布、香草袋が並んでいる。
最初は小さな木箱一つだった棚が、今は横に少し広がった。
ローレンスが古い板を一枚足してくれたのだ。
「これくらいなら、追加料金は取らないよ。売れたら棚代込みで少しずつ返してもらう。」
つまり、実質的には棚代を取られるらしい。
ただ、それすらも商売として扱われている気がして、私は少し嬉しかった。
同情ではない。
慈善でもない。
商品が売れるから、棚が広がった。
そのことが嬉しかった。
私は店の隅で、売れた香草袋の数を帳面に書いた。
薄緑、二つ。
購入者、宿屋の女将。
用途、客室窓辺、寝具戸棚。
そこまで書いて、ふと手が止まる。
用途まで書く癖がついたのは、ヴィルヘルムの影響だ。
――用途を分けては。
あの一言から、私は商品をただ作るだけではなく、どこで使われるかまで考えるようになった。
窓辺。
棚。
手綱袋。
衣類箱。
子どもの荷袋。
客室。
誰かの暮らしの中の、小さな場所。
そして、その中にひっそりと鳴る鈴。
そう思うと、また何かを作りたくなる。
ローレンスが帳簿を閉じながら言った。
「順調だね。」
「はい。ありがたいです。」
「そのうち、森の家の鈴じゃなくて、森の家の店になりそうだ。」
「店など、とても……。」
「分からないよ。最初は皆そう言う。」
「私はまだ、ローレンスさんの店の棚をお借りしているだけです。」
「その棚が大きくなっていくのが商売だよ。」
私は窓辺の棚を見た。
たしかに、少し大きくなった。
まだ小さい。
けれど、最初よりは広い。
私の暮らしと同じだ。
最初は、ただ生きるだけで精一杯だった。
今は、少し先のことを考えている。
次に何を作るか。
どんな布を仕入れるか。
香草はどれだけ乾かすか。
鈴は何個必要か。
ヴィルヘルムに何を話すか。
そこまで考えて、私は帳面の上で指を止めた。
今日も来ると言っていた。
森の家に戻れば、たぶん来る。
そのことを思うだけで、胸が少し軽くなる。
ローレンスがこちらを見た。
「何かいいことでも?」
「香草袋が売れましたので。」
「それだけ?」
「それだけです。」
「ふうん。」
まったく信じていない顔だった。
私は帳面を閉じ、そっと鞄にしまった。
店を出る時、ローレンスが言った。
「今日は一人かい。」
「はい。」
「殿下さんは?」
「森の家に来ると仰っていました。」
「そうかい。じゃあ、急がないとね。」
「……急いではいません。」
「顔は急いでるよ。」
私は言葉に詰まった。
ローレンスは楽しそうに笑っている。
「そんな顔をされると、店主としては追い返すしかないね。」
「追い返す?」
「ああ。早く帰りな。待つ人が、もう来てるかもしれないだろう?」
「待つ人では。」
「はいはい。そういうことにしておこう。」
私は反論を諦めた。
最近、この町の人たちは少し意地が悪い。
いや、昔からなのかもしれない。
私が気づくようになっただけで。
「気をつけて帰りな。」
「はい。」
私は小さく頭を下げて、店を出た。
町の通りは、午後の光で少し眠たげだった。
乾物屋の奥さんが荷を並べ、薬草売りのエダが店先で葉を干している。
古道具屋の老人は、今日も椅子に座っていた。
私を見ると、杖の先で窓辺の鈴を指した。
「灰色の音、今度はもう少し掠れたのを頼むよ。」
「探してみます。」
「急がんでいい。味のある音は、待つもんだ。」
「分かりました。」
私は笑って答えた。
以前なら、変わった注文だと困っていただろう。
でも今は、少し楽しい。
味のある音。
掠れた鈴。
それを探すのも、私の仕事になっている。
町を出て、森の道へ入る。
今日は風が穏やかだった。
少しずつ色づきだした木々の葉が、静かに揺れている。
私は鞄を抱え直し、少しゆっくり歩いた。
急いで帰る理由はある。
ヴィルヘルムが来るかもしれない。
いや、来る。
そう信じている。
だから早く帰りたい。
……でも同時に、少しだけこの道を歩きながら気持ちを整えたかった。
最近の私は、彼の前で変だ。
すぐに顔が熱くなる。
言わなくてもいいことを言う。
心配します、などと言ってしまう。
嬉しいです、と言ってしまう。
明日も来てくださると嬉しいです、とまで言ってしまった。
そして、そのたびにヴィルヘルムが固まる。
驚く。
少し赤くなる。
それを見ると、また胸が鳴る。
まるで、見つけてはいけない秘密を見つけてしまったようだ。
けれど、その秘密は怖くない。
むしろ、もっと見たいと思ってしまう。
私は足元の小石を避けながら、小さく呟いた。
「……好きになってもいい。」
昨日、自分に言った言葉。
マーサに言ってもらった言葉。
望んでもいい。
喜んでもいい。
そう思うと、少しだけ世界が広がった。
森の家が見えてきた。
庭の鳥除けの鈴が鳴っている。
その音に混じって、別の音が聞こえた。
――蹄の音。
私は顔を上げた。
森の家の前に、黒馬がいた。
今日はノクスだった。
庭の脇で静かに草を食んでいる。
ということは、ヴィルヘルムはもう来ている。
私は足を少し速めた。
玄関の前に、彼が立っていた。
濃紺の服。
少し整えた髪。
いつもの静かな青い目。
「お帰りなさい。」
彼が言った。
私は足を止めた。
――お帰りなさい。
その言葉を、今度は彼が言った。
この家の前で。
私に。
私はしばらく返事ができなかった。
彼も、自分が言ったことに気づいたのか、少しだけ目を伏せた。
「……すみません。先に来てしまいましたので。」
「いえ。」
私は首を振った。
胸の奥が、じんと温かい。
「ただいま戻りました。」
そう答えると、ヴィルヘルムが顔を上げた。
青い目が、わずかに揺れる。
昨日の彼も、こんな気持ちだったのだろうか。
お帰りなさいと言って、戻りましたと答えられた時。
私は少し笑った。
「不思議ですね。」
「何がでしょう。」
「この家で、お帰りなさいと言われるのは。」
ヴィルヘルムは一瞬黙った。
「……嫌でしたか。」
「いいえ。」
私はすぐに答えた。
「嬉しかったです。」
言ってしまった。
けれど、今日は後悔しなかった。
ヴィルヘルムは完全に動きを止めた。
本当に、この人は分かりやすくなった。
いや、以前から分かりやすかったのかもしれない。
私が見ようとしていなかっただけで。
彼は少しだけ視線を落とした。
「……それなら、よかった。」
声が低い。
少し嬉しそうで、少し困っている。
私はその声を聞いただけで、胸がいっぱいになった。
「香草袋、売れました。」
私は鞄を持ち上げた。
「宿屋の女将さんが薄緑を二つ。客室と寝具戸棚に置くそうです。」
「それは、よい使い方だと思います。」
「古道具屋のおじいさんからは、灰色で掠れた音を探してほしいと。」
「難しい注文ですね。」
「はい。でも、少し楽しいです。」
私は玄関を開けた。
「よろしければ、中でお話ししても?」
言ってから、少しだけ緊張した。
でも、昨日よりは自然に言えた。
ヴィルヘルムは一拍だけ遅れた。
その一拍にも、もう慣れてきた。
彼が戸惑っているのだと分かる。
嫌なのではない。
むしろ、嬉しいから慎重になっている。
そう思えるようになった。
「失礼します。」
ヴィルヘルムは静かに中へ入った。
台所の椅子に座る動きも、昨日より少し自然だ。
私は湯を沸かした。
茶葉は、乾物屋の奥さんからもらったものを少しだけ使う。
茶器を二つ出す。
もう、二つ出すことに迷わなかった。
それに気づいて、また少し胸が熱くなる。
以前は、二つ出しかけて慌てて戻していたのに。
今は、当たり前のように二つ並べている。
この変化が、恥ずかしくて、嬉しい。
器を置くと、ヴィルヘルムが静かに礼を言った。
「ありがとうございます。」
「今日は、お茶だけです。」
「十分です。」
「昼食はありません。」
「少し残念です。」
私は手を止めた。
ヴィルヘルムも止まった。
言った本人が、自分の言葉に驚いているようだった。
私はじっと彼を見る。
「残念なのですか。」
「……はい。」
「私の昼食が?」
「はい。」
「香草の味見ではなく?」
「はい。」
素直に認めた。
私は胸の奥がふわりと浮くのを感じた。
「そうですか。」
「……はい。」
「では、また作ります。」
言えた。
とても自然に。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「よろしいのですか。」
「私が作りたいので。」
また言ってしまった。
でも、もう止められなかった。
今日は、嬉しいことを嬉しいと言う日なのかもしれない。
ヴィルヘルムは茶器を持ったまま、少しだけ視線を伏せた。
「……楽しみに、しています。」
その声に、また胸が鳴る。
私は椅子に座り、帳面を開いた。
今日の売上。
注文。
香草の残り。
鈴の在庫。
ヴィルヘルムはそれを静かに見ていた。
「帳面が、以前より細かくなりました。」
「用途まで書くようになりました。」
「良いと思います。」
「あなたの案です。」
「少しだけです。」
「いいえ。助かっています。」
私は彼を見た。
「ありがとうございます。」
ヴィルヘルムはまた一拍遅れた。
そして、目を伏せた。
「……どういたしまして。」
その返事が、少しぎこちない。
私は笑いそうになった。
でも笑わなかった。
代わりに、帳面の余白に小さく書いた。
宿屋、薄緑二つ。
古道具屋、灰色、掠れた音。
ローレンス、棚拡張。
ヴィルヘルム案、継続。
そこまで書いてから、はっとした。
また名前を書いている。
しかも目の前で。
私は慌てて手で隠そうとした。
だが、ヴィルヘルムはすでに見ていた。
「私の名前が。」
静かな声。
私は顔が熱くなる。
「仕事の記録です。」
「はい。」
「案をいただいたので。」
「はい。」
「それだけです。」
「はい。」
返事が早い。
でも、彼の耳が少し赤い。
私はそれを見てしまった。
……心臓に悪い。
「……見ないでください。」
「すみません。」
「謝らなくても。」
「嬉しかった、ので。」
もう、だめだった。
私は帳面を閉じた。
「そういうことを言われると、困ります。」
「……嬉しくなってしまうから?」
昨日の言葉を覚えている。
私は目を見開いた。
ヴィルヘルムは言ってから、自分でも驚いたように少しだけ唇を引き結んだ。
たぶん、からかうつもりはなかったのだ。
ただ、言葉が出てしまった。
私は少しの間、彼を見た。
それから、小さく頷いた。
「……はい。」
今度は彼が固まった。
「……そう、ですか。」
「はい。」
「……それは。」
「はい。」
「……私も、困ります。」
昨日と同じような言葉。
けれど、今日は少し違った。
私たちは、同じところで困っている。
そのことが分かってしまった。
おかしくて。
恥ずかしくて。
嬉しくて。
私は茶器に視線を落とした。
台所に静かな時間が流れた。
外では鳥除けの鈴が鳴っている。
天井の香草は、風に揺れてかすかに擦れる音を立てた。
ふと、私は思い出したように顔を上げた。
「そういえば。」
「はい。」
「香草袋は、どこに置かれましたか?」
聞いてから、少しだけ後悔した。
押しつけがましかっただろうか。
けれど、ヴィルヘルムは茶器に視線を落とし、少し間を置いて答えた。
「……枕元に。」
「枕元?」
「……はい。」
思いがけない答えに、私は瞬きをした。
「衣装箱や机ではなく?」
「最初は、執務机の引き出しに入れるつもりでした。」
「はい。」
「ですが、夜に少し香りがした方が、眠りやすかったので。」
そこまで言って、ヴィルヘルムはほんの少し視線を逸らした。
「……言い訳のようですが。」
私は言葉を失った。
枕元。
夜。
眠りやすい。
私の作った香草袋が、この人の眠る場所のそばにある。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
手綱袋につけられた鈴とは、少し違う。
あれは、外の世界へ連れていってもらうものだった。
馬と一緒に道を行き、王都まで行き、また森の家へ戻ってきたもの。
でも香草袋は違う。
部屋の中。
夜。
眠る前の静かな時間。
彼が一人になる場所。
そこに、私の作ったものがある。
それは嬉しくて、恥ずかしくて、少し落ち着かなかった。
「言い訳では、ないと思います。」
ようやくそう答えると、ヴィルヘルムは少しだけこちらを見た。
「そうでしょうか。」
「はい。香草袋は、そういう使い方もするものですから。」
「では、正しい使い方です。」
「……はい。」
本当は、それ以上うまく言えなかった。
嬉しい。
恥ずかしい。
そして、少しだけ胸が苦しい。
私の作ったものが、彼の眠りのそばにある。
その事実だけで、台所の空気が少し甘くなったような気がした。
しばらくして、ヴィルヘルムが言った。
「少し、歩きませんか。」
私は顔を上げた。
「歩く?」
「はい。森の道を。無理のない範囲で。」
「どこかへ行くのですか?」
「いいえ。」
彼は少しだけ言いにくそうにした。
「ただ、もう少し一緒にいたいと思いました。」
胸が、ぎゅっと鳴った。
言葉が出ない。
この人は、また。
またそんなことを言う。
私は茶器を両手で包んだ。
「……はい。」
声が小さくなった。
「歩きたいです。」
ヴィルヘルムの目が、ほんの少し和らいだ。
私たちは森の家を出た。
ノクスは庭の脇で休ませたままにしておく。
遠くへ行くわけではない。
森の道を少し歩くだけ。
けれど、二人で目的もなく歩くのは初めてかもしれない。
町へ行くためでもない。
畑を見るためでもない。
仕事の用事でもない。
ただ、一緒にいるために歩く。
それが、少し不思議だった。
道には午後の光が差していた。
木漏れ日が、地面に小さな模様を作っている。
ヴィルヘルムは私の少し横を歩いた。
以前のように斜め後ろではない。
隣。
その距離に気づいて、私は少しだけ息を止めた。
近い。
でも、嫌ではない。
むしろ、この距離が嬉しい。
「この道も。」
私は言った。
「はい。」
「前は、少し怖かったのです。」
「森の道が?」
「……知らない道でしたし、一人で歩くには心細くて。」
「今は?」
「今は、好きです。」
言ってから、少しだけ笑った。
「町へ続いていますし、家へ帰る道でもありますから。」
ヴィルヘルムは静かに聞いていた。
「それに。」
私は足元を見ながら続けた。
「あなたが戻ってくる道でもあります。」
言った瞬間、自分の声が少し震えた。
踏み込みすぎただろうか。
けれど、言いたかった。
ヴィルヘルムは立ち止まった。
私も止まる。
森の道の真ん中で、二人は向かい合う形になった。
彼の青い目が、私を見ている。
真剣で。
少し苦しそうで。
でも、とても優しい。
「レベッカ嬢。」
「はい。」
「私は。」
彼が何かを言いかけた。
心臓が大きく鳴る。
私は息を止めた。
彼の言葉を待つ。
けれど、ヴィルヘルムは最後まで言わなかった。
唇を一度閉じ、ゆっくり息を吐く。
「私は、この道を戻る場所として覚えています。」
告白ではない。
でも、それに近い何かだった。
「王都にいても。」
彼は低く言った。
「この道を思い出していました。」
私は何も言えなかった。
王都にいても。
三か月の間。
彼も、この道を思い出していた。
私が毎夕、蹄の音を探していたように。
彼も、戻る道を思い出していた。
そう思うと、胸の奥が熱くなった。
「では。」
私はやっと声を出した。
「忘れないでください。」
「はい。」
「この道を。」
「はい。」
「森の家を。」
「はい。」
「……私のことも。」
最後は、ほとんど息のような声だった。
言ってから、恥ずかしさで逃げ出したくなった。
でも、足は動かなかった。
ヴィルヘルムの表情が変わる。
驚き。
喜び。
そして、何かを堪えるような切実さ。
「忘れません。」
彼は言った。
「忘れられるはずがありません。」
胸が詰まった。
それ以上聞いたら、泣いてしまいそうだった。
私は視線を逸らし、小さく笑った。
「約束が増えますね。」
「はい。」
「名前のない約束ばかり。」
「名前のない?」
「はい。明日も来るとか、また昼食を食べるとか、この道を忘れないとか。」
私は森の道を見た。
「どれも、何という約束なのか分かりません。」
恋人の約束ではない。
婚約でもない。
主従でも、監視でも、礼儀でもない。
名前がない。
でも、確かにそこにある。
ヴィルヘルムは少しだけ考えた。
「名前がなくても、守ります。」
彼らしい言葉だった。
真面目で、不器用で。
でも、私には十分すぎるほど嬉しい言葉。
「はい。」
私は頷いた。
「私も、守ります。」
何を。
明日を。
この道を。
彼を好きでいる気持ちを。
まだ名前のない何かを。
それら全部を。
帰り道、私たちはまた並んで歩いた。
手はつながなかった。
触れもしなかった。
けれど、前よりずっと近かった。
森の家に戻る頃、夕方の光が庭に落ちていた。
ノクスが静かに顔を上げる。
ヴィルヘルムは手綱を取り、馬の首を撫でた。
私は玄関先で彼を見上げる。
「明日も、来てくださいますか。」
聞く必要などないのかもしれない。
でも、聞きたかった。
彼の口から聞きたかった。
ヴィルヘルムはまっすぐこちらを見た。
「来ます。」
短い答え。
それだけで、胸がほどける。
「では、明日。」
「はい。明日。」
彼は馬に乗り、森の道へ戻っていった。
薄緑の鈴が揺れる。
私は彼を見送った後も、しばらく玄関先に立っていた。
名前のない約束。
でも、それで十分だった。
明日も会える。
また話せる。
また笑える。
それだけで、今の私は幸せだった。
扉を開け、台所へ戻る。
茶器は二つ。
帳面には、彼の名前。
天井には、ふたりで干した香草。
私の暮らしの中に、彼がいる。
そのことを、私はもう否定しなかった。
「……好きでいても、いい。」
小さく呟く。
今日は、その言葉が昨日よりもずっと自然に聞こえた。
外では、鳥除けの鈴が鳴った。
名前のない約束に、返事をするように。




