第五十二話 好きになってもいい
香草を干し始めてから、森の家の台所は少しだけ匂いが変わった。
朝、扉を開けると、まず青い香りがする。
土の匂いでも、薪の匂いでも、豆を煮る匂いでもない。
乾き始めた香草の、少し甘く、少しすっとする匂い。
天井近くに吊るした束は、日ごとに色を変えていった。
鮮やかだった葉は、少しずつ落ち着いた緑になり、指で触れると軽く音を立てるようになった。
その中には、私が結んだ束と、ヴィルヘルムが結んだ束がある。
最初の二つは少し不格好だった。
茎が強く締まりすぎて、葉が少し潰れている。
それでも捨てる気にはなれなかった。
料理用に使うつもりで、台所の隅に分けてある。
見るたびに、思い出してしまう。
――練習すればできます。
――もう一度、言ってください。
思い出すたび、私は一人で勝手に動揺する。
香草の束ひとつでこんなに落ち着かなくなるのだから、恋というものは本当に不便だ。
けれど、不便なのに、嫌ではない。
……そこが一番困る。
その日、私は朝から香草袋の追加分を作っていた。
灰色の紐を四つ。
薄緑の紐を三つ。
それから試しに、くすんだ赤の紐を一つ。
宿屋の女将が、客室用なら少し明るいものも欲しいと言っていたからだ。
香草袋は、鈴飾りよりも縫う距離が短い。
その分、中に入れる香草の量や、紐の締め具合が難しい。
香りが強すぎてもいけない。
弱すぎても意味がない。
袋を振った時に、鈴がうるさすぎてもいけない。
けれど、まったく鳴らないと森の家の鈴らしくない。
「ほどほど。」
私は小さく呟いた。
ほどほどが大事。
香草にも。
鈴にも。
距離にも。
……距離にも。
思考が勝手にそちらへ行き、私は針を止めた。
昨日、ヴィルヘルムは家の中に入った。
台所の椅子に座った。
香草を束ねた。
私が高い梁へ紐を張ろうとしてぐらついた時、支えてくれた。
背中に回った腕。
近い距離。
驚いたような声。
手袋越しの手。
――少し、惜しいです。
……そう言った彼の顔。
私は針を持ったまま、机に額をつけたくなった。
どれもこれも、思い出すと心臓に悪い。
けれど、思い出したくないわけではない。
むしろ、気づくと何度も取り出している。
小さな宝石を、誰にも見えないところでこっそり眺めるように。
昨日の一つ一つを、心の中で何度も並べ直している。
「……私は、本当にどうしてしまったのかしら。」
答えは分かっている。
――好きなのだ。
――ヴィルヘルムが。
面倒な知り合いでも、監視役でも、ただの第三王子でもなく。
ヴィルヘルムという一人の人が。
そう認めたはずなのに、いざその気持ちが日々の中で形を持ちはじめると、私は毎回新しく驚いてしまう。
声を聞くだけで嬉しい。
来ると分かっているだけで、朝から台所を整えてしまう。
同じ机に座ると、匙を持つ指まで気になる。
笑うと胸が苦しくなる。
ほんの少し照れると、十八歳の年下の青年なのだと思い出して、たまらなく可愛く見える。
そして、そのすぐあとに、やはり背が高くて、綺麗で、ひどくかっこよく見えてしまう。
感情が忙しい。
忙しすぎる。
……王妃教育では、こんな心の扱い方は習わなかった。
私は小さく息を吐き、針を進めた。
昼前、マーサが来た。
籠には卵と、少し曲がった胡瓜のような野菜が入っている。
「香草袋、進んでるかい。」
「はい。追加分を作っています。」
「売れてるねえ。」
「ありがたいです。」
「嬉しい顔だ。」
「はい。嬉しいです。」
素直に答えると、マーサが少し目を丸くした。
「おや。」
「何ですか。」
「否定しなくなったね。」
私は針を止めた。
言われてみれば、そうかもしれない。
以前なら、まだ分かりません、とか、偶然です、とか、必要な分だけです、とか、何かしら言い訳していた気がする。
でも今は、嬉しいものは嬉しいと言える。
少しだけ。
「……そうですね。」
「いいことだよ。」
マーサは椅子に腰を下ろし、天井の香草を見上げた。
「これは殿下さんと干したんだろ。」
「はい。」
「よく結べてるじゃないか。」
「最後の方は。」
「最初の方は?」
「少し潰れています。」
「まあ、最初はそんなもんだ。」
マーサは台所の隅に分けてある料理用の束を見つけて、にやりとした。
「これかい、殿下さんの。」
「はい。」
「殿下さんにも苦手なことがあるんだねえ。」
「そうなのです。」
私は思わず身を乗り出した。
「でも、練習したらすぐ上手になりました。負けず嫌いなのだと思います。難しいですね、と言った時は少し悔しそうで、それが、その。」
言いかけて、はっとした。
マーサがにやにやしている。
しまった。
話しすぎた。
「何だい、その先は。」
「何でもありません。」
「可愛かった?」
私は針を落とした。
「マーサさん。」
「当たりかい。」
「違います。」
「顔が当たりって言ってる。」
「顔の話は禁止です。」
「禁止されても見えるものは見える。」
私は針を拾い、布に視線を戻した。
顔が熱い。
マーサはしばらく笑っていたが、やがて少しだけ声を柔らかくした。
「好きな人の意外なところを見るのは、楽しいもんだよ。」
私は手を止めた。
――好きな人。
何度も自分の中では認めた言葉なのに、人の口から聞くと急に胸に響く。
「……はい。」
私は小さく答えた。
マーサは少し驚いたように私を見た。
からかいの顔ではなくなった。
「認めるんだね。」
「もう、否定しきれません。」
「そうかい。」
「はい。」
私は香草袋を見つめた。
「好きなのだと思います。」
言った。
声は小さかった。
けれど、はっきり言えた。
マーサは何も茶化さなかった。
ただ、静かに頷いた。
「いいじゃないか。」
「……いいのでしょうか。」
「誰かを好きになるのに、許可はいらないって言ったろ。」
「……待つことには、でした。」
「似たようなもんだよ。」
私は少し笑った。
マーサは何でも鍋や畑や暮らしで説明する。
けれど、その言葉はいつも、私の胸の奥の固いところを少しずつほどいてくれる。
「好きになっても、いいのでしょうか。」
私はもう一度、小さく聞いた。
誰に許しを求めているのか分からない。
それでも、聞きたかった。
マーサは少しだけ真面目な顔になった。
「いいんだよ。」
短い言葉だった。
けれど、胸にすとんと落ちた。
「誰かを好きになるのは、悪いことじゃない。望むのも、喜ぶのも、悪いことじゃない。」
「でも。」
「怖いのは分かるよ。」
私は黙った。
怖い。
そうだ。
嬉しいのと同じくらい、怖い。
好きになって、もし失ったら。
望んで、もし届かなかったら。
喜んで、もし奪われたら。
それなら最初から望まない方がいい。
そう思って生きてきた。
けれど今、私は望んでしまっている。
ヴィルヘルムに来てほしい。
明日も。
その先も。
私の作ったものを見てほしい。
食べてほしい。
笑ってほしい。
褒めてほしい。
名前を呼んでほしい。
隣にいてほしい。
望みが増えていく。
それが怖い。
……でも、嬉しい。
「好きになっても、いい。」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
マーサは頷いた。
「そうだよ。」
「望んでも、いい。」
「はい。」
「喜んでも。」
「……はい。」
涙が出そうになった。
泣くほどのことではない。
でも、誰かにそう言ってもらったのは、初めてだった気がした。
私は泣かなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
マーサは立ち上がった。
「さて、私は帰るよ。殿下さんが来る前にね。」
「なぜですか。」
「邪魔する趣味はないからね。」
「邪魔では。」
「邪魔だろ。」
「……。」
否定できなかった。
マーサは満足そうに笑い、籠を持って出ていった。
午後になると、ヴィルヘルムが来た。
今日はアルクだった。
額に丸い白斑のある黒馬。
ヴィルヘルムはいつものように馬を庭の脇に休ませ、玄関先へ来る。
私は台所の入口から顔を出した。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
挨拶を交わす。
それだけで嬉しい。
私はもう、その嬉しさを否定しなかった。
「香草袋の追加分を作っています。よろしければ、中で見ますか。」
言ってしまってから、少しだけ心臓が跳ねた。
中で。
以前なら、まず言わなかった言葉。
ヴィルヘルムの動きが一瞬止まった。
それから、少しだけ視線が揺れる。
昨日と同じ。
招かれることに、まだ慣れていない顔。
その顔が、また少し可愛らしく見えた。
「よろしいのですか。」
「はい。」
私は微笑んだ。
「私が招いています。」
昨日と同じ言葉。
ヴィルヘルムは、今度は昨日より少し早く頷いた。
「では、失礼します。」
それでも、家に入る時の足取りは慎重だった。
まるで神殿に入るようだ。
ただの森の家なのに。
私は少し笑いそうになり、堪えた。
台所の机には、香草袋が並んでいる。
追加注文の控え。
紐。
鈴。
乾かした香草。
ヴィルヘルムは椅子に座り、机の上を見た。
「増えましたね。」
「はい。ありがたいことに、追加注文がありました。」
「評判になっています。」
「少しだけ。」
「かなり。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
彼は灰色の香草袋を一つ手に取った。
「縫い目が、昨日より整っています。」
「昨日より?」
「はい。」
「よく分かりますね。」
「見ていましたので。」
――見ていましたので。
その言葉が妙に胸に響いた。
私は針を持つ手を止める。
「そんなに見ていたんですか?」
「はい。」
即答だった。
彼はそのあとで、自分が何を言ったのか気づいたように、少しだけ視線を落とした。
耳が、ほんの少し赤い。
まただ。
その小さな反応に、胸がくすぐられる。
「……私も。」
気づいた時には、言葉が出ていた。
ヴィルヘルムが顔を上げる。
「私も、見ていました。」
「何を?」
「昨日、香草を結ぶところを。」
言ってから、自分の顔が熱くなる。
けれど、今日は逃げなかった。
「最初は少し不器用でした。でも、すぐに上手になりました。」
ヴィルヘルムは固まった。
完全に。
やがて、低い声で言った。
「……昨日も褒めていただきました。」
「今日も褒めました。」
「……そう、ですか。」
「……はい。」
沈黙。
彼が少しだけ目を伏せる。
嬉しそうだ。
こんなに静かなのに、嬉しそうだと分かるようになってしまった。
私はそれが嬉しくて、少し困った。
「殿下は。」
そこまで言って、私は一度止まった。
殿下。
いつもの呼び方。
けれど、今日は少しだけ遠く感じた。
名前で呼ぶ勇気はない。
まだ、ない。
でも、心の中では何度も呼んでいる。
――ヴィルヘルム。
私は少し息を吸い、言い直した。
「ヴィルヘルム殿下は、褒められることに慣れていないのですか。」
名前を入れた。
殿下つきでも。
彼はまた一拍遅れた。
その一拍が、私の胸をぎゅっと掴む。
「……評価されることには、慣れています。」
「褒められることとは違うのですね。」
「違うと、思います。」
「そうですか。」
私は針を置き、彼を見た。
「では、慣れてください。」
自分で言ってから、驚いた。
まるで彼の言葉を返しているようだった。
――もっと慣れてください。
以前、彼が私にそう言った。
褒められることに。
今度は私が言っている。
ヴィルヘルムも、それを思い出したのかもしれない。
わずかに目を見開いた。
「……慣れるほど、褒めてくださるのですか?」
静かな声だった。
けれど、少しだけ期待が混じっているように聞こえた。
私は息を止めた。
まただ。
どうしてこの人は、時々こちらの心をまっすぐ突いてくるのだろう。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
私は針箱の蓋をそっと閉めた。
「……褒めるところがあれば。」
「努力します。」
「なぜそこで努力になるのですか?」
「褒められる理由を増やすために。」
真面目。
とても真面目。
けれど、その真面目さが可笑しくて、愛おしい。
私は思わず笑ってしまった。
「では、まず昨日より不格好でない香草の束を作るところからですね。」
「それは達成しました。」
「……確かに。」
「ほかには?」
「ほか?」
「褒められるところ、です。」
聞かれて、私は言葉に詰まった。
彼は本気なのだろうか。
それとも、少しだけ冗談なのだろうか。
分からない。
でも、青い目が静かにこちらを見ている。
私は視線を落とした。
褒められるところ。
たくさんある。
ありすぎる。
冷静なところ。
約束を守るところ。
馬を大事にするところ。
私の作ったものを丁寧に扱うところ。
不器用なくせに、言葉を選ぼうとしてくれるところ。
膝が汚れるのも気にせず畑を見るところ。
褒めると少し照れるところ。
笑うと、少しだけ年下に見えるところ。
全部言えるはずがない。
私は少しだけ考え、言った。
「約束を、守ってくださるところ。」
ヴィルヘルムの表情が静かになった。
「……約束。」
「……はい。三か月で戻ってきてくださいました。昨日も今日も、来ると言ったら来てくださいました。」
私は布の端を撫でた。
「それが、嬉しいです。」
台所が静かになる。
外で鳥の声がした。
ヴィルヘルムは、しばらく何も言わなかった。
私は少し不安になって顔を上げる。
彼は私を見ていた。
いつもの冷静な顔ではない。
苦しそう、というほどではない。
けれど、何かを大切に扱おうとしているような顔だった。
「これからも、守ります。」
低い声だった。
胸が熱くなる。
「はい。」
「できる限り。」
その言葉を、私は深く考えなかった。
ただ、誠実な言い方だと思った。
絶対、ではなく、できる限り。
彼らしい。
そう受け取った。
「では、私も。」
私は言った。
「私も、できる限り、素直に言うようにします。」
「何を?」
「……嬉しい時は、嬉しいと。」
ヴィルヘルムの指が、香草袋の上で止まる。
「今日も、来てくださって嬉しいです。」
言えた。
言ってしまった。
私は顔を上げられなかった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
マーサが言ってくれた。
喜んでもいい。
望んでもいい。
――好きになってもいい。
……だから、嬉しいと言ってもいいはずだ。
ヴィルヘルムは、しばらく黙っていた。
そして、とても静かに言った。
「私もです。」
その声が、胸の奥にまっすぐ届いた。
「私も、今日ここへ来られて嬉しい。」
もう無理だった。
私は顔を上げた。
青い目と目が合う。
まっすぐで、静かで、でもどこか切実な目。
心臓が大きく鳴った。
彼が何かを言いかける。
唇が少し動いた。
「レベッカ嬢。」
「はい。」
その声が、いつもより低かった。
近い。
同じ台所の机を挟んでいるだけなのに、ひどく近く感じる。
「あなたがここで笑っていることが。」
彼は一度言葉を切った。
言い慣れない言葉を、慎重に選ぶように。
「私には、必要です。」
息が止まった。
――必要。
――私が笑っていることが。
どう受け取ればいいのか分からない。
でも、胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
泣きそうになるくらい嬉しい。
けれど、同時に、あまりに重くて、少し怖い。
「……それは。」
私はやっと声を出した。
「とても、困る言葉です。」
ヴィルヘルムの目が揺れる。
「すみません。」
「違います。」
私は首を振った。
「嬉しくて、困ります。」
言った。
今度は、はっきりと。
ヴィルヘルムは目を伏せた。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなっている。
年下の男の子。
そんな言葉が、また頭に浮かぶ。
けれど、今の彼は同時に、どうしようもなくかっこよかった。
静かで、不器用で、真剣で。
私の笑顔が必要だと言った。
その言葉だけで、私はしばらく何もできなくなりそうだった。
やがて、外からマーサの声がした。
「レベッカ、いるかい。」
私はびくりと肩を震わせた。
ヴィルヘルムも、少しだけ背筋を伸ばす。
さっきまでの空気が、ふっと現実に戻った。
「は、はい。」
返事をすると、マーサが玄関先から顔を出した。
そして台所にいる私達を見て、にやりと笑った。
「おや。いいところだったかい。」
「違います。」
「違います。」
私とヴィルヘルムの声が重なった。
完全に。
マーサは満足そうに頷いた。
「そうかい。ならいい。」
「……何がいいのですか。」
「何でもないよ。」
マーサは籠から野菜を一つ取り出した。
「これ、置いておくよ。夕飯にしな。」
「ありがとうございます。」
「殿下さんも、あまり長居しすぎて仕事を溜めるんじゃないよ。」
「はい。」
「返事はいいんだよねえ。」
「……気をつけます。」
マーサは私を見る。
その目が、優しかった。
――好きになってもいい。
その言葉を思い出す。
私は小さく頷いた。
マーサはそれだけで何か分かったように、軽く手を振って帰っていった。
台所には、また二人だけが残った。
けれど、さっきと同じ空気には戻れなかった。
少し照れくさい。
少し可笑しい。
でも、温かい。
ヴィルヘルムは立ち上がった。
「今日は、そろそろ戻ります。」
「はい。」
本当は、少し残念だった。
でも、言わなかった。
代わりに、私は机の上の香草袋を一つ手に取った。
薄緑の紐。
小さな鈴。
まだ試作品に近いもの。
「これを。」
私は差し出した。
「香草袋ですか。」
「はい。昨日、香草を結ぶのを手伝ってくださいましたし、今日も見ていただいたので。」
「いただいてよろしいのですか?」
「はい。」
「買います。」
「これは、お礼です。」
「ですが。」
「お礼です。」
少し強く言うと、ヴィルヘルムは黙った。
それから、両手で受け取った。
「……ありがとうございます。」
「部屋に置いてください。香りが強すぎるようなら、中身を減らします。」
「大切にします。」
「使うものです。」
「使いながら、大切にします。」
また、そういうことを言う。
私は困ってしまう。
けれど今日は、その困り方が少し嬉しかった。
玄関先まで見送る。
アルクが庭の脇で待っていた。
ヴィルヘルムは香草袋を胸元の近くにしまった。
私が作ったものが、またひとつ彼の手元に増える。
そのことが、胸の奥をくすぐった。
「また明日、伺います。」
「はい。」
「売れ行きを聞かせてください。」
「はい。」
私は少しだけ迷った。
そして、言った。
「明日も、来てくださると嬉しいです。」
ヴィルヘルムの動きが止まった。
まただ。
その顔を見るのが、少し楽しくなっている自分がいる。
よくない。
……でも、やめられない。
彼はゆっくり私を見た。
「必ず。」
短い言葉。
でも、とても深い声だった。
「来ます。」
「はい。」
私は頷いた。
アルクが歩き出す。
森の道へ消えていく背中を見送りながら、私は胸に手を当てた。
好きになってもいい。
望んでもいい。
喜んでもいい。
今日、私は何度もそう思った。
そして、そのたびに、少しずつ怖さより嬉しさが勝っていった。
台所へ戻ると、机の上には作りかけの香草袋が並んでいる。
天井には、ふたりで干した香草。
私の暮らしの中に、彼が少しずつ増えていく。
それを怖いと思う気持ちは、まだ消えない。
でも。
「好きになっても、いい。」
私は小さく呟いた。
声にすると、少し震えた。
けれど、ちゃんと聞こえた。
自分の耳に。
自分の胸に。
外では鈴が鳴っている。
その音が、今日はまるで、いいんだよ、と答えてくれたように聞こえた。




